第70話 月夜の開明
月の大きい夜だった。
アビゲイルは帝都宮殿の寝室にて、ベッドに横たわっていた。
寝るときはロイと別室である。アビゲイルは何度も不服を申し立てたが、ロイはついにそれを受け入れなかった。
代わりに寂しさを紛らわせたのは一匹の猫である。白く美しい毛並みが自慢の若猫で、アビゲイルは”シャーちゃん”と呼んでいた。
「シャーちゃん?」
アビゲイルが目を覚まし月明かりのみの部屋を見回しながらそう呼びかけた。
いつもはベッドの上でアビゲイルの側で丸くなって寝ているその猫がいない。
そればかりか部屋のどこにも姿がない。
しかし、
「にゃー」
と、どこからか猫の声が聞こえるのである。
アビゲイルは眠い目をこすりながらベッドから身を起こすと、冷たい風が頬をなでた。
窓が開いている。
「ええ〜、なんで?」
アビゲイルが首をかしげる。確かに閉めたはずなのに。
しかし猫の鳴き声はその窓の外から聞こえた。
アビゲイルの背ではその窓に届かず、外の様子は見えない。
だから仕方なくアビゲイルは扉を開けて部屋の外に出ると、シャーちゃんを探しに行くことにした。
真っ暗な夜の城内。ところどころロウソクの明かりが灯っている。
アビゲイルはやはり不思議に思った。いつもなら見張りや巡回の兵がいるはずなのに、この日はまったくその姿が無い。
そして妙に静かだった。
だから、
「にゃー」
というシャーちゃんの声が、はっきりと聞き取ることができた。
アビゲイルは寝室があった場所とは別棟にある塔の階段を昇った。この上には屋上庭園が広がっており、シャーちゃんの声はそこから聞こえてくるようだったのだ。
本当に月が綺麗。
やがて屋上庭園に出ると、アビゲイルは空を見上げてそう思った。
屋上庭園には様々な植物がある。
それは小さな花だけでなく、大きな樹植えられており、小さな森のようになっている。
城で退屈することの多いアビゲイルにとってそこは良い遊び場であった。
子猫の姿を探してアビゲイルはその森の中に足を踏み入れる。
「にゃー」
確かに聞こえる。そして、段々と近く。
アビゲイルはやがて足を止めた。ある記念碑の前だ。
かつてここがアミュール城と呼ばれていたころの建築物。なんて書かれているかはアビゲイルにとってどうでも良いことだが、猫の声はその裏から聞こえる。
そして、
「にゃー」
と次に聞こえたその声は猫の声ではなかった。
野太い男の声。
アビゲイルが身体をびくっとさせ硬直した瞬間、記念碑の裏から何かが飛び出した。
鎖。銀色に輝く細い鎖がアビゲイルの片足に巻き付き、その自由を奪ったのだ。
そして鎖の先。記念碑の裏から何者かの影がゆっくりと姿を現した。
それは薄汚れたコートを羽織った一人の男だった。
「にゃー、にゃー、にゃー。こんばんは、私は怪しいおじさんです」
「……誰!?」
アビゲイルは逃げようともがいたが、男がぐっと力を込めて鎖を握ると、苦痛で顔を歪めた。
男は月明かりの下でその顔を晒した。
彫りの深い、ニヤついた笑みが顔にこびりついた中年の男だ。
「おじさんは
”おじさん”はアビゲイルの自由を奪ったまま語り始めた。
「偉い人が”あれは魔女だ”と言えばその相手を捕まえて連れてくる。まあただの人さらいと何ら変わらない。でも儲かるんだよ。だから引き受けるんだが、あまり気分の良いものではないなあ。なにせ大抵の相手はただ娘だから。それが偉い人からの恨みを買ったか、あるいは単なる不運かで魔女とされてしまっただけというのがほとんどだからさ。なのでおじさんはあまり気分が乗らない。だ、か、ら」
おじさんはさらに強く鎖を引き寄せる。たまりかねたアビゲイルをは転倒し、小さく悲鳴を上げる。
そしておじさんはこう言った。
「こうして本物の”悪魔”を相手にするときは心底安心するよ。ああ今日は心を傷めずに済むって。
不審死、とはここ数年帝国領内で発生している行方不明事件、そして後日被害者が遺体で発見される出来事のことを言っているのだろう。
しかしそんなことはこのご時世日常茶飯事ともいえる。だからそれらに紛れるようにアビゲイルは”食事”をしてきた。
正直ここ数年はあまり気分の良い食事に出会えていなかった。
何故ならアビゲイルはグルメであるからだ。求めるのは良質な栄養を含み濃厚な旨味に満ち、口にすれば身体の奥底から歓喜の気持ちがこみ上げてくるような極上の魂。最近は以前であれば苦手だったピリリとした辛味も好きになってきた。成長と共に味覚も変化するのだとアビゲイルは実感している。
しかしそんな出会いには中々巡り会えないのが現実。かつてのヨハン・クリフトアスの味を、アビゲイルは何度も心に思い浮かべた。
それでも食事は続けた。うまくやっていたつもりであったが、気づいた者がいたということになる。
アビゲイルは心底うんざりとした。つまり帝国内で自分が食事をすることはまだ完全な自由ではないということだからだ。
質が悪い上に量も満足に食べられないなんて、私はまるでこの国の貧民以下ね。
そうため息をつきかけたアビゲイルを、男の鎖が引き寄せた。
その鎖に抗おうともがくが、この一見子どもでもちぎれそうな細い鎖はまったくほころぶ様子もなかった。
アビゲイルは驚いて「きゃっ」と小さく悲鳴をあげた。
おじさんはその様子を見て、当然だよという顔をした。
「無駄だよ。
退魔師は懐から小型の弩弓と、もう片方の手で一冊の本を取り出す。そして右手に持った弩弓の方をアビゲイルへ向けた。
「対悪魔用の弩弓だ。これで頭を射抜かれると大抵の悪魔は死ぬ。もちろん人間の方も死ぬが悪魔を殺せるのだから問題ない。しかし依頼主の好みがあってな、今回これは使用せず、代わりにこの対悪魔用経典で頭をぶん殴って娘の身体から貴様を追い払うことにする。本来は読み上げるのだが殴った方が効果が高い。まあ多少は身体が痛むが死には──」
おじさんがそう言ってにやついていたが、そこでようやく気づいた。
これまで怯えてこちらを見上げていたアビゲイルがいつの間にか真顔になっていることに。
そしておじさんは霊銀で作られた鎖を物ともせずに引きちぎり、実にすんなりと立ち上がった光景を目の当たりにした。
アビゲイルは白く綺麗な脚についた土埃を無言で払っている。
おじさんが呆然と口を開けてその様子を眺めていると、アビゲイルが服の汚れを払いながら言った。
「ねえ、悪魔っているのかな?」
「馬鹿な……なぜ動ける」
そしてアビゲイルはじっくりとおじさんの目を、その心を覗き込むように自身の黒く美しい瞳で見つめる。
やがて「ううん」と言って首を振った。
「……いるのね。その悪魔というのがこの世界の生物の一種であるかは別として、そういわれる存在は確かにいる。それはおじさんの魂を見ればわかる」
アビゲイルの口調はこれまでの少女らしいものではなくなっていて、大人の喋り方と何ら変わらない。
「おじさんは悪魔の姿を見たことはない。例えば神話の書物に描かれているような化け物としての悪魔の姿は。でも何かそういった異質な存在を感じ取れるというのは本当。子どものときはそれで随分と大変だったのね。そういった存在が人々を狂わせ破滅させていく様子を見て、何度も目をそらそうとした。でもできなくて。自分にしかできない仕事なら自分がやらなきゃって思っちゃって。だからこれまでひどい頭痛と悪夢に悩まされながらも、そういう存在と戦ってきたのね」
そして、考え込むようなポーズをとるとこう言った。
「評価するなら、うーん、星3ってところかな。でもすでに心が半分恐れに負けて腐ってるのよねえ……例えるならそのアルコールまみれの肝臓のような感じ? 最近ではましな方だけど、それでも口直しにするには微妙かなあ……」
「お前はいったい何なのだ……悪魔でないのだとしたら、いったい……」
アビゲイルはゆっくりと歩み出る。まるでおじさんへ与える恐怖を楽しむかのように。
おじさんは逃げれば良いのに、動くことができなかった。
「情報と違う……! ”触れられなければ大丈夫”なはずだ……!」
おじさんは自らの脚が動かせない理由が、恐怖によるものだとは考えていなかった。
事実身動きできないのは、恐れによるものではなく、目の前の少女の力によるものであった。
「たくさん食べたから。”私たち”は食べるほど成長するの。そして大きくなるほど力に目覚める。この程度は序の口、でも最近は食事の質もいまいちだったしね……。いつかあの子を食べるまで、私はもっともっと大きくならなきゃいけないの、アンダスタン?」
「化け物……」
その言葉を聞いた時、アビゲイルはぱぁっと目を輝かせた。
「そう、それ! 恐怖は極上のスパイス。それに私、やっぱり自分はその”悪魔”だと思うわ。だって、悪魔っていうのは人より強く、恐ろしく、皆の魂を喰らうのでしょう? でもだとしたら”あの子”は天使かしら、おじさんはどう思う?」
「来るな……来るな」
「……答えは”そいつも悪魔”。でもあの子はぶりっ子だから一見清楚系なのよねえ」
そしてアビゲイルはゆっくりおじさんの頬を撫でると、耳元で囁いた。
「ロイはこうなることも想定済みよ。あなたの”悪魔祓い”がうまくいけば最上。駄目なら私のおやつ。……まったくロイったら、だから最近妙に優しかったのね。でもショックだなあ、今までこういう手は使ってこなかったのに……」
「……陛下、申し訳──」
そうしてアビゲイルが食事を始める。
おじさんは悲鳴を上げようとしたが、目の前の悪魔の柔らかい唇で叫ぶ口を塞がれ、くぐもった声を上げるのがやっとだった。
アビゲイルは満足に程遠いまでも久々に食べがいのある食事に舌鼓を打ち、夢中になった。
だからその様子を一人の人物が眺めていたことまでは気が付かなかったのである。
ことの一部始終を眺めていたその人物は、今目の前で行われている出来事を見て目を見開いている。
そしてその脳でこう考えたのである。
だとすればあの皇帝はこの悪魔の傀儡に過ぎないのではないかということを。
この帝国は大陸に現れた新星ではなく、破滅の凶兆であったのだということを。
ならば己はなんと愚かであったのか。向くべき方角を誤っていたのだ。
そして己がとるべき道は、今明らかになった。
目撃者は高鳴る心臓の鼓動を感じながら、獲物を貪る悪魔の背を開明の心地でじっと眺めていたのである。
翌日。白猫のシャーちゃんははビゲイルの寝室に戻っていた。
いつもと変わらぬ宮殿の朝だった。
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