第68話 アイザック・アディンセル

「なあよう」


 ライルとヴィチコフの間に、突如としてグレボルト・カーマンの顔が現れた。


 この元傭兵隊長はすこぶる機嫌が悪いらしく、笑みをたたえながらも苛立ちを隠さない様子でヴィチコフに聞いた。ヴィチコフの襟元をその手に掴んで。


「飯はどうすんだよ。遠征、迅速に、ちゅーちゅーちゅーちゅーねずみみてえにさっきからよ。前のセラステレナとの戦のときだって飯を焼かれて俺たちゃ死ぬ思いをしたんだぜ。それを大陸北西の端まで遠征だって? どうやったって食い物が続かねえ。腹を空かせたまま敵地の中で孤立なんて絶対ごめんだぜ」


 その通り。ライルはこの遠征計画に未だ実現の目処が立っていない理由、すなわち補給線の確保の難しさについて思いを馳せた。下手をすればセラステレナ戦以上の惨状を招き、一気に帝都まで逆侵攻を受けることにもなりかねない。


 グレボルトは不満たらたらといった様子で「それに、だ」と続けた。


「北へ遠征するならおそらくロッドミンスターは兵を出せねえ。お前の言う通り南がきな臭いからな。だとすれば俺たちは敵より少数で敵地へ攻め入ることになる。やっていい戦いってのはな、一人の男が一人の男を殺せば勝てる戦までだ。それ以上でなければ勝てない戦なんてしちゃならねえ、絶対にだ」


 ヴィチコフはグレボルトの手を丁重に自身の襟元からどかせた。


 そして間近でがなりたてるグレボルトの口から自らの顔へ飛んだ唾を、ポケットから取り出したハンカチでゆっくりと拭った。


 そうしてから、静かに答えた。


「つるはし、鍬、斧、槌、鋸、牛馬が道を平らにならすためのすき。これらを装備した兵団を用意します」


「あん? 人夫か?」


「にに、人夫ではありません。道なきところへ道を作り、橋なき川へ橋をかけ、森を切り開く。建物がなければたちまちに建てる。いわば建築と工作のプロであり職人の集団。工兵団を作るのです」


「工兵団だと?」


「遠征で糧食がふ不足するのは、前線が補給拠点から次第に遠くなっていくからです。なならば補給拠点ごと作りながら侵攻していけばよいのです。その補給拠点は単なる物資の集積所だけではない。各地の商人へ開放し交易所としての機能も持たせるのです。そうすれば物資は自ずと集まる。それを作る工兵団に剣と鎧は不要。そうした道と建物、橋を作る戦いをする部隊を作るのです」


 それを聞いたグレボルトは、非常に微妙な顔をした。


 なぜかというと、ヴィチコフの言うことが意外と良いような気がしてしまい、それでも本当にそうなのかいまいち判断がつかなかったからである。


 だから振り返ってライルの顔でも見てどういう態度を取るべきか判断したいところだったが、それをしてしまうとなんだかこのねずみ男に負けたような気もして、できなかったのである。


「しし、しかし」


 と、ヴィチコフは微妙な顔のグレボルトに構わず、乱された襟元を正してから、まっすぐにもう一度グレボルトを見据え、はっきりとした口調でこう言った。


「主君に献策する策士は策をしくじった時に自ら死すもの。私の覚悟とはそういうものです。それなのにカーマン将軍。あなたは飯がなければ戦えない、敵より兵が少なければ戦いたくないと喚き散らす。たとえそれが戦の常識であり数多の将軍の本心、そして真実であったとしてもそれを腹に飲み込み使命に生きるのが男というもの。であるのにねずみの前で泣き言を散らすとは、将たる者にしてあまりに無様ではございませんか」


「て……めえ……」


 先程まで苛立ちながらもいつもの調子も保っていたグレボルトから血の気が失せた。


 右手は剣の柄にそえられており、今にもそれを引き抜こうとしている。


 ライルらその場に居合わせた百官がそれを止めようとした時、ヴィチコフの肩を背後から叩き語りかけた者がいた。


「ところで質問なのだが」


 ヴィチコフは振り返らずに男の次の言葉を待った。


「その工兵団は砲兵部隊を速やかに進撃させるためにも使えるな? 次回はあれを引きずって行こうと思っているんだ」


「……馬で牽引できる軽い砲であるならば、おお、おそらく」


「そうか、それともう一つ。アイザック・アディンセルに娘は? そう、たとえば十代半ばくらいの」


「か、髪も肌も白い、シェリーという名の美しい娘がひ一人」


「わかった。最後に一つ。なぜ君はそんなことまで知っている?」


「わ、私はアイザック・アディンセルをかつて部下に持っていた者です」


 ヴィチコフが突如言い放った言葉に、その場にいた者たちがざわめいた。


 であればヴィチコフという男は目下帝国最大の敵と共にいたことになる。そんな男が帝国の臣下の列に加わろうとしていたなんて。


 しかしヴィチコフに質問をしている男は動じない様子で、さらにその背中へ問いかける。


「それがなぜ帝国へ?」


 ヴィチコフがその問いに答えるまで、長い間があった。


 やがてその細い腕が震えだし、初めてこの男に表情が宿ったことを、正面にいたライルとグレーナーは目撃した。


 そしてヴィチコフは震える声でこう告白した。


「私はあの男に敗れたのです。そしてその正体を見抜けなかった。気づいたときには手遅れでした。共和国は今や地獄に進もうとしている。かつて多くの先人が血を流して勝ち取った自由を自ら手放そうとしている。全ては奴の企みによるもの。私が奴の本性を早くに見抜いてさえいれば、止めることができていれば……! 私は本来ならばすでに死んでいるべき人間……しかしこのままただ死ぬわけにはいかないのです」


 そしてヴィチコフは勢いよく振り返り、自らに問いかけた男の前で跪き、かすれた声で、しかし精一杯大きな声でこう叫んだ。


「ブラッドフォード陛下ぁ! なにとぞこの私に祖国を救う機会をお与えください。このレフ・ヴィチコフ、アイザック・アディンセルを始末するためなら全てを捧げまする……!」


 それは見事に洗練された臣下の礼の所作であり、ヴィチコフを取り囲むようにしてやり取りを聞いていた者たちからも感嘆の声が聞こえたほどだった。


 飯屋で隣を見れば皇帝がいる。そう言われるほど神出鬼没な皇帝、ロイ・ロジャー・ブラッドフォードは目の前で跪くヴィチコフに言葉をかけた。


「レフ。今日から二つの仕事を与える。一つは自らが言った工兵団を組織すること。前線には出なくていい。だが策士は策に死すと言った言葉は忘れるな。そして、もう一つは──」


 ロイはやや意地の悪そうな顔を浮かべて言った。


「以後この帝国人事院はレフ、君の統括の下に置くことにする。ライルとグレーナーは首だ」


「えっ」


 ライルとグレーナーが同時にそう声を上げた。


「ようやく本来の役目だけに戻れるということだよ」


 そうロイに言われて、「ああ……」と安堵したような、複雑な表情を二人は浮かべた。


 ロイはその場にいる百官を見渡して、こう宣言した。


「以後レフと会話する者は身分の上下に関わらず、自ら三歩の距離まで歩み寄るように。まあ、あえて言う必要もなし、か」


 以後レフ・ヴィチコフは帝国人材登用の厳格なる番人となり、工兵団の設立に邁進することになる。


「ああそれから」


 去り際にロイが思い出したように立ち止まり、言った。


「一次と二次選考でレフを通過させた役人を褒賞の上昇進させるように」


 ”皇帝はお前ん家の家具の位置まで見知っているぞ”


 そういう噂も帝都ではもちきりであった。


 

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