第67話 ねずみの告白
だからそんな帝国人事院の日々は実に波乱に満ちている。
ある男の選考のときの出来事である。
その男はひどく痩せ細ったねずみのような顔で、目だけは大きくギョロつかせた妙な雰囲気の男だった。
服も使い古した洋服を着ていたため、それだけでは一見ただの貧相な貧乏人のようにも思える。
しかしよく見るとその長年着込んだであろう洋服には、修繕の痕こそ見られるものの汚れはまったく無く、黒い髭と髪はよく整えられ、背筋は垂直かと思うくらいに天井へ伸びていた。
任官希望者は必ずしも富裕層ばかりではなかったが、それにしてもこうしたこの男の容貌は異彩を放っていた。
彼は選考の間に静かに入り、静かに一礼するとスタスタと狭い歩幅の速歩きで部屋の中央に立った。
そして前を見ながら何事か言ったのであるが、その場にいた誰にもそれを聞き取ることはできなかった。
「失礼、もう一度お願いできるか」
グレーナーが促すと、彼はもう一度何事か言った。
しかし聞き取ることができない。
「すまないが、聞き取ることができない。もう少し近くによってもらえるか」
そう促されると彼は大股に数歩歩み出て、ほとんどグレーナーたちの目の前のテーブルに密着するほど近くに立った。
そしてもう一度口を開いた。
「れ、れ、レフ・ヴィチコフともも、申します」
まず吃音症があるようである。しかしそれよりも極度の小声。それに喉が潰れているのではないかと思うほどのかすれ声でボソボソと話す。
そして自分の名を名乗ったっきり、このねずみ男は”挨拶”を始めることもなく黙り込んだのである。
グレーナーとライルは思わず顔を見合わせた。
そしてこの距離でも会話が難儀であると判断すると、二人ほぼ同時にテーブルへ身を乗り出し、このレフ・ヴィチコフという男に尋ねた。
「お名前から察するに北方のご出身のように思われるが、なぜ帝国へ?」
「ここ、皇帝陛下へ献策いたしたく」
ライルとグレーナーは再び顔を見合わせる。
ライルがコホンと小さく咳払いをするとこう返答をした。
「……それでは、陛下に代わって私たちがお伺いいたしましょう、ヴィチコフ殿」
「そそ、それでは」
相変わらず目だけギョロつかせながら無表情なこの男は、場の空気を一変させる一言を言い放った。
「一年以内に北へ遠征をなさいませ。さもなくば皇帝は亡き者となり、てて帝国は滅びましょう」
静寂が訪れた。小声ゆえテーブルに身を乗りだして聞いていたライルとグレーナーの顔が凍りつき、場を沈黙が支配する。
男の両脇にいた文官や武官たちは最前列にいた者たちを除き男の言葉を聞き取れなかったため、ライルたちの表情を見て不思議そうな顔を浮かべた。
「……どうして、そう思うのですか」
ライルがようやく口を開いた。その雰囲気は明らかにこれまでのものとは異なっており、場合によってはこの男を処罰しかねないほどの気配を孕んでいた。
やせ細ったねずみ男は、顔と同じく貧相な髭を指で撫でると、理由を話した。
「まま、まもなく”反帝国連盟”が動き出します」
反帝国連盟。ロイが皇帝を名乗り、帝国の建国を宣言するとまもなく立ち上がった諸国家連合体。
その旗手はセラステレナ教皇、オリヴァール三世であるが、実権は別の人物が握っている。
アイザック・アディンセル。大陸北西の端に位置するヤオメン共和国の若き共和国議長である。
その人柄と弁舌の才、そしてカリスマによって信奉者たちからは”太陽の子”とまで呼ばれている。
セラステレナ教皇オリヴァール三世ははじめこの若き才子を軽んじていた。
元よりヤオメン共和国はかつての王制を反乱を起こした民衆が打倒したことによって誕生した新興国家であり、このアイザック・アディンセルも元は奴隷だったという。
そのことが気に入らなかったのではないかと言われているが、実際はわからない。
ただいつの日からか教皇は手のひらを返したかのようにこの”太陽の子”を重用するようになったのだ。その様子は彼への傾倒、いや依存と言ってもよい状態であり、常に使者を共和国へ送りその判断を仰ぐ状態であるという。だからこの”反帝国連盟”の本当の盟主はやオメン共和国議長、アイザック・アディンセルであると認識は、誰もがもっているものだった。
この”太陽の子”が大陸の北端でいったい何を行っているのか、ライルとグレーナーな血まなこになって調べさせ、分析した。
しかし調べれば調べるほどライルらを苦悩させたのである。
何もしていない。この共和国議長は帝国が建国されてからこの三年間、わずかに一度教皇の元を訪れただけで何かをした形跡が何もないのだ。
そんなはずはない。事実大陸の北方各国は一国、また一国と反帝国を宣言し、軍備を増強、こちらの隙を常に伺っている。
何もしていないわけがない。これらの国家の連帯の裏には必ず奴がいる。しかしこの男は国元を離れず、日々の議長としての職務を淡々と行っているだけなのだ。
その様子を見た密偵はまるで”たぬきが昼寝をしているかのような無防備さ”と表現した。
であるならば奴は”教皇との手紙のやり取りだけで”この強力な連合体を誕生させたことになる。
事実だとすれば、敵は恐るべき人物である。
だからライルとグレーナーは憔悴し、消耗した。
彼らがここまで追い詰められ疲労しているのは全てこのアイザック・アディンセルの正体不明さによるものだったのだ。
だからこのねずみ男の口から「反帝国連盟」の言葉が出たとき、ライルとグレーナーははっきりと顔色を変えた。
そして彼の両脇に並んで座っていた者たちも、このただならぬ空気の変化が気になり、言葉を聞き取るため椅子から立ち上がってヴィチコフの近くに寄り始めた。
ライルは一瞬芽生えた心の動揺を鎮め、ヴィチコフに訊ねた。
「……反帝国連盟が動き出すとは、帝国に対して軍事侵攻と理解してよろしいですか?」
ヴィチコフは変わらず無表情のままそれに答える。
「そそ、そのとおりです。時期はおよそ一年後。その際の兵力はおそらく三十万以上。帝国にこの兵力の侵攻へ抗する術はありません。そそそればかりか、敵と交戦する前に皇帝陛下は味方の裏切りにより命を失うことなります。このままでは帝国はそうして滅びます」
このヴィチコフの発言は、いつの間にか彼を取り囲むように集まっていた聴衆である文官武官たちを驚愕させた。
いったい何の根拠があって、いやその前に不敬、不遜、すぐさま投獄されてもおかしくないほどの暴言ではないか。
ライルは聴衆に静まるよう手で制し、冷徹な目でヴィチコフをまっすぐ見据え、暗く静かな声でゆっくりと問うた。
「順番に尋ねたい。まずは敵兵力の根拠。現在の反帝国連盟の総兵力は多く見積もっても九万。これが三倍以上に膨れ上がるという根拠は? そして味方の裏切りとは?」
ライルの様子を一部の者は驚きをもって見た。目線、声、仕草、それは彼女が本気になっているときにのみ見せる特徴が現れていたからだ。
しかしヴィチコフはこの空気をわかっているのかわかってないのかまったく不明な平然とした様子で質問に答えた。
「そそ、それはこういう理由です。これから一年以内に新たに参加する反帝国連盟の国家による兵力増加が三万。南方のイシュマール帝国からの侵攻軍が十五万、それによるナプスブルク、フィアット、ロッドミンスターの離反によって四万。敵は三十万を超え帝国に勝ち目はなく、よって神権や正統性ではなく利益によって忠誠を得ている皇帝陛下はここにおられるどなたかの臣下によって暗殺されるでしょう」
「待て」
ヴィチコフを制止したのグレーナーだった。
「貴様、自分が何を言っているのか理解しているのだろうな」
「ああ、あなたこそ私の言葉をよく理解できるはずだ。ぐぐ、グレーナー・グラウン卿」
「新たな国家の参加はあり得るとして、イシュマールがこの大陸へ侵攻だと? あの老いた帝国は選帝侯たちが前皇帝とその息子たちを暗殺し、まだ少女ともいえる姫を皇帝に据え傀儡にしたと聞く。そして選帝侯同士が互いに領土を侵しあい事実上の内戦状態だというではないか」
「ろ、ロッドミンスター第一王子マシューデルの息子とウルフレッドの妹が亡命し事情が変わりました。今あの帝国は我らの大陸を侵した方が互いに争うよりも益になるという意見でまとまりつつあります」
知っている。私の諜報網通りの情報だ。この男、なぜそんなことを。そしてもし本当にあの南の大国が侵攻してきたのなら、十五万で済むかどうかも怪しいところだ。
「そして亡命の手引きをしたのはアディンセルの手の者です」
「なに」
グレーナーは静かに歯を噛み締めた。
事実かどうか今は確かめる術はない。
しかしそれでイシュマールがこの大陸へ侵攻し、同時に北からも大軍が攻めてくるとなれば間違いなくナプスブルクら三国は帝国を裏切る。これは間違いない。この帝国における各国の関係とはそういうものだからだ。
であれば結末は見えている。忠義の士などこの国のどこにもいないのだから……。
そうなれば全ての計画はおしまいだ。
「では」
グレーナーの思考を遮るように声を上げたのはライルだった。
「それが一年後という根拠は?」
ライルの静かで冷ややかな声はヴィチコフを射抜くようである。
「せ、選挙」
「選挙?」
「ヤオメン共和国で次の選挙が行われるのが一年後。そこであの男が動きます」
「……アイザック・アディンセルね。あの男が一体何を?」
「きょ、共和国議長から、王権に等しい権限を個人が持つ終身共和国代表への就任です」
「馬鹿な。それではまるで王政復古と同じ。一個人が絶対的な権力を握ることをあの国の国民が許すはずがないわ」
「だだから、彼はここまでじっくり準備を進めているのです。議会の形だけの長を演出しつつ、他の議員を自分の思うがままに裏で操る。そして自分の目的を果たすための法案を一つずつ通していく。それらは一見別々の法に見えて、実は一つに繋がっている。彼はそうやって全てを整えようとしているのです。全ては圧倒的な権力を得て帝国を滅ぼす一手を実行に移すために」
「……」
ライルはここで絶句した。そして冷たい汗が頬を伝うのを感じた。
可能性としては考えていた。けれどあの国で日々論議されている法案全てを諜報で得ることはできず、確信が持てなかった。
そして何よりあの国民感情が独裁官の誕生などさせるわけがないという考えがあった。
でもヴィチコフの言うことが事実であれば、なんということだ。遠く離れた帝国の地からそれを止める手立てなどありはしないではないか。
アイザック・アディンセル──。
政治と外交で全ての勝敗をつけてしまう気だというの。遠く離れた北西の地から動かないでいるのは、その場所こそが帝国を滅ぼす準備をするに最適の要塞だから。
ライルのまだ見ぬその男に対し、はっきりと恐怖の感情を抱いた。
「……だから帝国は北へ遠征すべき、そう言うのね?」
「ははい、ハンクシュタイン卿。この状況を打破する手は一つ。反帝国連盟の連帯を外交と謀略によって乱しつつ、迅速かつ確実に各個撃破するほかありません。勝っている限り味方に裏切られることもない。つまり遠征こそ、てて帝国の生きる唯一の道です」
──わかっている。ライルはもどかしさ、苛立ちを胸に覚えた。
北への遠征。
それこそが自分もグレーナーも、そして皇帝陛下も含めた三人が下した結論。
アイザック・アディンセルの動きと真意がわからない中であっても、時間が経てば経つほど帝国に不利になるのは確実。
であれば北征を行い反帝国連盟がまとまり切る前に瓦解させる以外に希望はない。
そのためには尋常ではない急速な軍備の増強が必要。”皇帝のパンとサーカス”はそのための劇薬。
──しかし。
この遠征計画の実現を阻む唯一にして最大の障害が一つ。
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