第58話 ワルター・ドイル

 ***


「今日の客入りも散々だ」


 劇場の支配人はステージの裾から薄暗い客席を眺めてため息をついた。


「もうお前との契約も終わりにさせてもらうよ」


 支配人は目の前で頭をかきむしっている若い劇作家に向けてそう言った。


「待ってくれ、次は必ず。次のは自信作なんだ」


「ほう、どんな話なんだ。言ってみろ」


「英雄だ。英雄の話なんだ」


 劇作家は必死の形相で支配人に向けて自らの次回作の構想を語った。


「その英雄は栄えある貴族の頂点の生まれで容姿端麗、この世に生を受けてから失敗などありえない完全無欠の超人。敵が現れればその剣を一振りするだけで相手を一刀両断。物を尋ねればまるで脳内に万巻の書がおさめられているかのようにあらゆる知見が滝のように溢れ出す。そんな英雄が愚かな大衆の下へ降り立ち、人々の啓蒙を促していくんだ。いかに人々が無知であるか、愚かであるか、目先の快楽に溺れ大事を見過ごし、日々を無為に過ごしているかを気づかせていくのさ。彼はまさにこの世の救世主ともいえる存在で──」


「ああ、だめだめ」


 支配人はもううんざりだという様子で首を振り、劇作家の熱のこもった構想を遮った。


「だから言ってるだろそんなんじゃだめだって。誰が金出してそんな説教臭いもん見たがるってんだ。逆だよ逆。大衆にウケるのはもっと身分の低い男の話さ。そいつはタフで知恵がまわって、仲間思い。そう、貧乏人の味方さ。そんな男が成り上がって金持ちや貴族の男ども懲らしめるんだ。身分の高い奴らをぎったんぎったんにして、平伏させる。そして勝者として貴族の女どもを抱いて抱いて抱きまくる。大衆にウケるのはそういうスカっとする話じゃなきゃ。そう何度も言ってるってのに、お前はまったくわからないようだな」


「支配人、そんな物語に何の価値があるんだ? そんなコップ一杯の酒のような享楽に何の意味があるというんだ? その劇を見終えても、自分は惨めなまま変わらないじゃないか」


「そのコップ一杯の酒はお前の劇より客を愉しませるがね。ほら、芝居が終わったぞ、挨拶してこい」


 ステージで役を終えた演者たちが深々とお辞儀をしている。観客席からはいくらかの拍手が聞こえるが、すでにほとんどの客が帰り始めているようだった。


 劇作家はいつものように一言を観客へ挨拶をしようとステージに歩み出た。やはりもう、ほとんどの客は劇場内に残っていなかった。

 ただいつもと違ったのは、薄暗い劇場の後方席に二人の男が拍手をしたまま立っていたことだった。


 貴族風の男と、その従者のように見える。貴族のような男は静かに笑みをたたえたまま、規則正しく力強い拍手を劇作家に向けていた。


 劇作家はその男の佇まいに妙な凄みを感じて少々怯えた様子を見せた。


「よかったよ。君がこの劇を書いたのか」


 そう男が言ったので、若い劇作家は癖っ毛をかきむしりながら「は、はい。その通りです」と小さく答えた。


「主人公の貴人はこの世で最も高潔で純粋であるがゆえに死を選ぶしかなかった。彼は紛れもなく正しく善であったというのに最愛の恋人すら奪われ惨めに命を散らせた。これは悲劇だが、私はこの劇を観ている最中別の思いを抱いていた」


 男は先程までの演劇を思い出すかのように宙を眺めてから、劇作家へ顔を向けた。


「それは仲間の存在だ。この孤独で高潔な貴人にただの一人でも理解者が、友人がいたならば結末はまったく違ったものになっていたであろうということ。そしてその友人たりえる人物こそ、この観客席から名乗りを上げる誰かである。そうあって欲しい、そのような人物はいないのか? という問いかけがこの演目の訴えたかったことのように思えた。違うかな?」


 劇作家は思わず崩れ落ちそうになるのをすんでのところでこらえた。それこそが己がこの演目に込めた真意だったからだ。孤独で高潔な貴人を民が決起し、それを奉戴し、共に歩む。そうやってこの堕落した世に救世をもたらすことこそが本当のテーマ。それを目の前の男は見抜いていた。


「あなたは、いったい……」


 劇作家はそう問いかけながらも男の正体に気づき始めていた。

 飯屋で隣を見れば皇帝がいる。その噂がまさに事実だということなのだろうと。


 男は名を名乗る代わりにこう劇作家へ伝えた。


「明日から城へ出仕しろ。君には壮大な劇を描かせてやる」


「壮大な劇を……」


「劇作家、名を聞かせてくれ」


「……ワルター・ドイル」


 男はニヤリと不敵に笑って言った。


「ワルター・ドイル。人々への啓蒙プロパガンダを君がやるんだ」



 ***


「しかし、国主自らがこうして人材を訪ねて回られるなんて、大陸中探してもあなた様くらいなものでしょうな」


 劇場を出たところでランゲがそう言った。


「仕方ない。何事も人材が基本だからな」


「あの劇作家をそれほど見込まれたので?」


「ああ、期待通りの男だった」


「私には小心で大事にをなしそうには見えない男のように思えましたが」


「いや、あれでいいんだ。あの男の心の底にあるのは他者に理解されない苦悩と自らの才能への疑念、そして怯えだ。そして恨みのルサンチマンを捨てきれないから、ああして小さな劇場で己の虚勢を張れる相手にだけ吠え続けているんだ」


「……それが期待通りなので?」


「ああ、まさしく。そのような男がある日突然権力を持つ。するとどうなるか?」


「さあ……欲にまみれた暴君にでもなるでしょうか?」


「いいや、逆さ。冷酷なまでに純粋で潔癖な善人ができあがる。そう、あの劇の主役だった貴人のように」


「それが陛下のためになるのでしょうか?」


「なるさ、みているといい。さあ次へ行くぞ」


「ええ、まだ行かれるのですか?」


「言っただろう。人材こそ宝だ」


 皇帝と従者は夜の帝都をまるで酒をはしごするかのような足取りで闊歩する。

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