第55話 帝国
「帝国……だと」
言葉を失うアルノー二世の背後から、さらに新たな来訪者が現れ、ロイの前に跪いた。
フィアット王国将軍 レツィア・デ・ルカ。先の戦いで負傷した左目を黒い眼帯で覆っている。
「フィアット国王の名代として建国の祝言を述べさせていただきます。そして我らフィアットは帝国皇帝に即位されるロイ・ロジャー・ブラッドフォード陛下に忠誠を誓うことをここに宣言いたします」
先の戦いで多くの兵と国家の主導権を握っていた大公を失ったフィアットにロイが囁きをかけた。それは脅迫にも似た言葉。信義は無いのかと怒ったフィアット王にロイは静かに何かを語った。その内容は公にはされてない。しかし、フィアットは結果として従属を選んだ。ナプスブルクに対してではなく、この新たな”帝国”の一構成国となることを選んだのだ。
そしてロイの前に跪くもう一人の男が顔を上げ、こう述べた。
「私、ロッドミンスター王ウルフレッド・ゴトランドは新たなる帝国へ従属を誓い、皇帝ロイ・ロジャー・ブラッドフォード陛下へ臣下の礼をもってその配下に加えられることを心より望みます」
ふざけるな。ロイの提案に当初最も怒りを表したのはウルフレッドだった。先祖から続くこのロッドミンスターをナプスブルクの従属国にするくらいなら死んだほうがましだと激高した。
それをロイは冷静になだめ、自らの構想を粘り強く言って聞かせた。
臣従するのはナプスブルクへではなく、新たなる国家”帝国”であること。
”帝国”は巨大な敵に対抗するための連合体であり、ロッドミンスター侵攻を企図するイシュマール帝国へ対抗できる唯一の手段であること。
……そして”帝国”の後継者に自分の──ロイ・ロジャー・ブラッドフォードの血縁者を決して選ばないということ。
これらの条件を無論ウルフレッドは鵜呑みにしたわけではない。だがロッドミンスターは切実に軍事力を欲していた。旧アミアンを含め四カ国の軍事力があればイシュマールへ対抗することも現実味を帯びてくる。そして何よりも、あの日グレーナーと交わした密約の存在が気持ちを後押しした。
それでもロイに、形だけであっても臣従しなければならないのは屈辱の極みだった。何よりジドゥーバルら股肱の臣たちはその話を聞くなり殺気を顕にし、ジドゥーバルに至っては剣を抜いてウルフレッドへ向け、「大将が腑抜けたというのなら、今この場でたたっ斬ってやる」とまで言い放ったためエリクセンとホランドが慌てて取り押さえたほどだった。
ウルフレッドはこれら友ともいえる家臣たちを辛抱強く説得した。そして今日の日を迎えたのだった。
ロイは跪いた二人を見下ろし、静かに、しかし威厳のある声でこう述べた。
「二つの国の帝国への参加と、二人の王の臣従を認める」
そしてロイは驚愕するアルノー二世へと顔を向けると、こう言った。
「……さて、陛下。いや、ナプスブルク王アルノー二世。あなたはどうする?」
「馬鹿な……帝国などと、そんなまやかしが……おいランドルフ、グレーナー! こんな不忠を許してなるものか! この男を捕らえよ!」
アルノー二世がすがるような目を向けると、グレーナーが行動を起こした。
グレーナーは静かに、ゆっくりと跪くと”自らの主君”に向けて頭を垂れながらこう言った。
「皇帝陛下、万歳」
「な……グレーナー、貴様裏切るというのか。ただの書記官であったのを目をかけてやったというのに」
「書記官のまま私を閉じ込めていたのは他ならぬあなたですよ、国王陛下。皇帝が私をその暗黒の檻から解き放ってくださったのだ」
「アルノー二世。あなたの動きを逐一知らせてくれていたのはグレーナーだ。あなたは彼をもっと活用すべきだった」
「ぐ……おのれ裏切り者め。ランドルフ! 父の代から仕えしお前まで裏切るのではあるまいな! お前の家は代々名誉ある一族だ。その尊さのわからぬ男ではあるまい!」
ランドルフはアルノー二世の方を見るでもなく、ロイを見ることもなく、ただ顔を下へ向けその表情を隠し沈黙している。
「ランドルフ! お前にまで裏切られたら私はどうなる! 父に誓った忠誠は、王家への忠心は嘘だったとでも言うのか! 名誉を失っても良いというのか! 何とか言え、ランドルフ!」
取り乱す国王に、ロイは諭すように静かに声をかけた。
「王よ、真なる忠臣とはただの愚か者に過ぎない」
「なに……?」
「全ての私心をなくして人や信仰にその身と魂を捧げるような者がいるとすれば、それは知性ある人間だと私は認めない。人とは常に己の欲望や願いと向き合い、その実現を夢見て、あるいはその道程の険しさから目を背けて生きるものだ。ランドルフはそのどちらでもあり、決して愚か者では無い。私はこの一年で彼を見てそれを知った。長年連れ添ったあなたにはまだそれがわからないようだが」
ロイはランドルフに向けて静かに言い放った。
「”お前”が好きな生き方を選べ、ランドルフ」
ランドルフの胸の内に様々な思いが巡った。
幼少のころに先王へ誓った忠誠の言葉。共に駆け巡った戦場。死んだ戦友から受け継いだ誓い。ブルフミュラー家の名誉と伝統。騎士とは清く正しくあるべしとの心。
同時に別の思いが光を侵食する闇のように現れる。
老木のように枯れ果てる恐怖。全てが足かせのように自分にまとわりつく。老いて全てを失う恐怖。雄叫びをあげて敵を両断する快感。恐れて逃げ惑う敵兵の姿。己を称賛する配下の兵たち。己の本性の在り処。獣の心。それは自らの騎士道がこれまで封じていた闇と泥の釜の蓋。
やがて今まで顔を伏せていたランドルフが、静かに顔を上げた。
そしてロイの前に跪くと、迷いのない声でこう言った。
「皇帝陛下万歳。帝国、万歳」
ロイはランドルフのその眼差しを正面から見据え、そして頷きをもって返した。
「馬鹿な……」
アルノー二世は崩れ落ちそうになるのをこらえた。
一方ここまで誰にも触れられなかった筆頭政務官のマルクスは露骨に焦りを顔を表していた。
そして彼もまた跪くと「皇帝万歳! 帝国万歳!」と叫んだ。
ロイはそんなマルクスをランドルフに対してとは違って極めて冷ややかな目線を向けてこう言った。
「マルクス、お前を許す。ただし、裏切りを許すのは一度だけだ」
マルクスは豚の鳴き声のような声を出してひれ伏した。
「さて」
ロイは長話はもういいだろうという態度でアルノー二世の方へ向き直し、言った。
「あなたも自分の道を極めると良い。我が名に従いナプスブルク王の玉座につくか、さもなくば死か、好きな方を選べ」
「予は……わ、私は……」
アルノー二世はもはや孤独な老人と成り果てた。
本来はまだ老人というような年齢ではない。だが目の前で皇帝が指差す玉座へ一歩、また一歩と歩む度に髪は抜け落ち、目は落ちくぼみ、やがてその細い腕で愛しんだ玉座に手をかけたときには、老人のような姿になってしまっていたのだ。
後年、皇帝ロイは宴の席で貴族の一人からこう訊ねられたことがあった。
陛下、我が”帝国”はなぜ国号を持たないのですか。我が皇帝の偉業を千年の時を超えて語り継ぐに相応しい国号が名付けられることを皆望んでおりますのに。
それに対して皇帝ロイはただ一言「不要だ」と答えた。
周囲がそれでは理解できていないようだったので、さらにこう付け加えた。
「この世に帝国と名のつく他の全ての国は我らが平定する。ゆえに我が”帝国”の名は後に続く歴史上唯一無二。千年語り継がれる国家に国号は不要だ」
これに配下の者たちは息を飲んで自らの皇帝の野望の壮大さと気宇に感心を示した。
嘘だよ。ロイはその時心の中で笑った。
そしていつの日かあの哀れなナプスブルク王に言われたことを思い出した。
「お前はこの国を破滅に導く存在だ」
そうだ、その通りだ。
この国の千年後などどうでもいい。
私はただ、ただ──。
アビゲイルを助け出したいだけなんだ。あの子のその先数十年の未来を明るいものにしたい。そのためならばこの世を地獄に変えてもいい。
悪魔め見ていろ。
今はお前の従僕としてその生贄を捧げ続けよう。それが善人であろうと幼子だろうと、お前の望むままにだ。
そうする度に私は己を理解する。
悪魔に従う己もまた、確実に汚れていくのだと。
ならばやることはわかりきっている。この身と魂が汚れにまみれようと、あの子を救う。
だから悪魔よ。いつの日か我が娘の身体を取り返すことが果たせたなら、必ず貴様に復讐する。
そして地獄と変えたこの世の新たな魔王として、貴様に死をくれてやる。
それは私が生まれてからただ一度だけ心に抱いた、明確な殺意の処刑斧だ。
第一部 了
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