第11話 悪魔

「ねえ、ロイ。どうして構ってくれないの?」


 アビゲイルが黒い瞳を目一杯広げながら顔を近づけてきた。かすかに女の匂い。それがロイを僅かに苛立たせる。


「アビー、ごめん。お仕事なんだ」


「いつも何か読んでるだけじゃない」


「そうだ、それが仕事なんだ。ほら、興味深い知らせが来た」


 ランドルフからの報告書だ。

第二王子ウルフレッド軍は海岸線の戦いでマシューデル軍を撃破、マシューデルは戦死。


 その後第一王子派の城を一つ陥とし、本拠地ロッドミンスター城へ向け進軍開始。


 第一王子派はマシューデルの息子を擁立し徹底抗戦の構えだが、戦いの趨勢はすでに決している様子。


「ロッドミンスター統一は近し、か……」


「嬉しい?」


「まさか、やりすぎだ、これは」


 誤算はいくつかあった。ウルフレッド軍の結束、ランドルフの予想外の武力、買収したメランの手腕。


 本来ならば内戦を膠着状態に導くはずが、片方に偏り過ぎたと言わざるを得ない。マシューデルめ、何がロッドミンスターの若獅子だ。


 特にメランの買収は高くついた。

 あの男の欲深さは見上げたものだが正確にこちらの意図を見抜いていた。

 己の価値をよくわかっていて、こちらが出せるギリギリの額まで首を縦には振らなかった。ならばウドロフとかいう馬鹿の恐怖を煽って離反させるべきだったか。


 いやそれも確実ではない。


 メランは買収できたものの今のナプスブルクに海軍を維持する拠点も金も無い。

 当分はウルフレッドの配下としてのらりくらりやらせるしかないだろう。ウルフレッドはメランの正体に気づいているかもしれないが、だとしてもすぐに排斥はできない。


 南方の安全は当面のところ保証された。今はこれで良しとしなければ。


「またお金の悩み?」


「心配しなくていいよアビー」


 金の問題はグレーナーと血鳥団けっちょうだんとかいう傭兵団の働きにかかっている。無法地帯と化した北の旧アミアン領でどれだけ略奪できるか。


 その成果が現れるまで、こちらは呼び戻したランドルフを中心に募兵を行い戦の準備をしなければならない。敵は、決まっている。


 旧アミアン王国を領するセラステレナ教国。こいつが隣国であるのは危険すぎる。だが万を超える兵を容易に動員できるこの国を攻略するにはまだ時間が、何より金が必要だ。


「あのねえ、ロイ」


 アビゲイルが甘ったれた声を出しながらロイの目の前の執務机に上半身を横たえ、上目遣いに見つめて言った。


「私はこの国が嫌だなって思うの。狭くて、汚くて、弱くて、こんなところにいるととても悲しいの」


「……アビー、大丈夫だよ、今に必ず」


「本当に? 約束だよ? 約束破ったら、ひどい目に合うんだからね?」


「アビー」


「もっともっと大きく綺麗にして、私を安心させてね? 私が大きくなるまで。それができないなら──」


「アビゲイル」


 ロイは身を乗り出すと、アビゲイルの首に手をかけた。


 そして顔を苦悶に歪ませ、唇をわなわなと震わせながら絞り出すように言った。


 この細い首を今すぐにでもへし折ってやりたい。だが。


「誓約さえなければお前など縊り殺してやるところだ悪魔め」


「できないくせに」


 首に手をかけられながらアビゲイルが微笑む。その目の奥に底の知れぬ闇が見える。


 その目を見たロイは、くぐもった声を漏らして、首にかけた手をゆっくりと離した。


 今はどうにもならない、今は。堪えろ。知恵の限りを振り絞れ。たとえこの身が最後にどうなろうとも。


 解放されたアビゲイルは切れ長の端正な目をそっと細めると、ロイに顔を近づけ、その額に口づけをして言った。


「地獄は人の心に広がるものなの。あなたが地獄の住人ならば、私はいつまでもあなたを愛すわ」


 アビゲイルは「なんちゃって」と言ってロイの側に小走りでまわると、もたれかかるようにしてロイの胸に甘えた。

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