第207話 押し寄せる悪夢

 天蓋式萌花蘭々コスモスグランドカバーが王都ゼノキアに到達するほんのわずか前、リディアが父のネプラスのリハビリに付き合っていた。汗がひどくなり、休憩でネプラスのために茶の用意をしようと、邸宅の庭に設置されてある椅子に座らせようとしていたところだった。傍に巨木が植えてあり、豊かな緑葉が広い木陰をつくってくれているので、一休みするにはちょうどいい場所ではある。


『どうだ、リディアよ。なかなかいい動きをしていただろう』

『はい。でも、無理はされると、お医者さまに怒られますよ』

『医者が何ほどのものか。いくら一線から退いたとは言え、孫に剣の手ほどきや相手くらいできんでは、将軍の名折れというものだ』


 額から大量の汗を流しながらネプラスはふんと鼻息を荒くすると、リディアは笑いを噛み殺しながらネプラスの傍をついて歩いていた。

 背中と腰を負傷したネプラスの回復具合は順調で、杖をつきながらなら歩けるほどまでに回復してきているのだが、ネプラスは武人が病人の真似事などできぬと、朝から剣の基本稽古をしていたのだった。手にしているのもただの杖ではなく、太い素振り用の木剣である。

 リディアは医者からもしばしば注意されていたのだが、ネプラスから孫のためと言われては強くは言えなかった。それに夫のアズライルが魔王軍の存亡を賭けた決戦に赴いている今、ネプラスの介添えすることで気がまぎれていたし、元気な姿を見るのは嬉しく、不安な心も和らぐのを感じていた。ネプラスも娘の心情を覚って、張り切っている部分もあった。といっても、落ち着いてしまえば、グリュンヒルデで行われているだろう決戦に意識が向かざるをえない。


『アズライル様……、戦場はどうなっているでしょうね』

『なに、奴のことだ。多少は砲撃や土煙で煤けているだろうが、ケロっとした顔で帰ってくるさ。アズライルをまだお前くらいの頃から見ているが、今まで奴が大怪我をして運ばれてくることなど一度もなかった』

『そうですよね……』

『よいか、リディアよ』


 ネプラスが足を止めた。

 少し厳しい顔つきをして、リディアを見つめてくる。


『お前は家を護らなければいけない身だ。家と聞くと反発するかもしれんが、城の護りと同じだ。王都ゼノキアの様子を見れば、それがいかに大事かわかるだろう』

『……はい』


 リュウヤ・ラングとその仲間によって後方をかく乱され、支援が途絶えたことは前線の魔王軍にも大きな影響を与え、休戦の理由のひとつにはなっている。王都を護っていた将を何人も失い、ネプラスも一線から退かなければならなくなった。ネプラスに関してはリディアが武功を焦った結果でもあるので、今でもリディアの暗い過去や強い教訓となっている。


『よいか。気をしっかり持ち……』


 そこまで言った時、ネプラスが口をつぐんだ。

 釣られるようにリディアも見上げると、異様な紅い光が急に空を覆うのが視界に映った。


『伏せろ――』


 ネプラスの怒号が途切れた。強い力とともに体を押され、何かがリディアを覆った。凄まじい衝撃波が土砂とともに、リディアの上を通過していく。視界は真っ暗で、唸る地鳴りや轟音は自分の叫ぶ声すらも届かなかった。やがて、轟音が収まり辺りが不気味な静寂と、不快な土煙の臭いがリディアの鼻腔を刺激してきた。生きていると思ったが、それで一安心する気にはならなかった。


『無事か……。リディア』


 かすれた声に顔をあげると、リディアを覆っていたのは父のネプラスだった。リディアはいそいで体を起こしてネプラスを横にさせると、大丈夫だとネプラスは笑ってみせた。たしかに埃と煤だらけで汚れてはいるが、体に流血や傷らしいものは認められない。あの尋常ではない衝撃波の中、自分を含めて奇跡だとリディアは思った。


『その巨木の傍で助かった。樹が護ってくれたらしい』


 見上げると、たしかに見慣れた巨木が傍に立っている。だが、残っているのは太い幹の部分だけで、豪快にひろげていた枝や青々と茂っていた葉も残らず吹き飛ばされて無残な姿に変わり果てていた。巨木だけではない。自分たちが住み慣れた邸宅もほとんどが吹き飛ばされ、隣の家々も見る影がなくなっている。使用人たちもどうなったのか、声も姿もない。街からは、いたるところから火の手や黒い煙が空にあがっている。わざわざ確認しに出掛けなくとも、


『なにが起きたのでしょう。人間どもの仕業でしょうか』

『いや……』


 言い掛けてネプラスは口を閉じた。

 空から降り注ぐ紅い光を目にした時、花びらを模した閃光だったとネプラスは思い出している。花びらで想起するのはエリシュナの魔法“萌花蘭々コスモス”だが、それが自軍の町を焼くわけがない。

 だが、方向からして、向かってきたのはグリュンヒルデから。あの強大で独特な魔法はエリシュナのものしか思いつかない。

 しかし、なぜ王都ゼノキアを。

 だが……。しかし……。

 何度も何度も、同じ言葉がネプラスの中で反芻されたが答えは出てこなかった。

 ようやく出てきた言葉は、リディアと同じものだった。


『……何が起きているんだ』 


  ※  ※  ※


 世界に拡散された“天蓋式萌花爛々コスモスグランドカバー”のエネルギー波は、王都ゼノキア以外にもムルドゥバを焼き、メキアに甚大な被害を与え、そして復興の最中にあるエリンギアにも落下した。ただ、エリンギアの場合は、復興途中でレジスタンスの旧アジトを利用する者が多かったことと、エネルギー波のほとんどがまだ廃墟となっている場所に落ちていた。衝撃波で怪我人は多数出たものの、死者はなく、その他の都市に比べれば、奇跡的に被害は僅少で済んでいた。

 まったくの無傷で済んだのは、聖霊の神殿くらいかもしれなかった。

 エリシュナが“天蓋式萌花爛々コスモスグランドカバー”を放つ数分前から、ざわめき始めた聖霊たちに、大神官ナギは子どもたちや外の様子を見守っていた。

 子どもたちや職員らを神殿の中へ入るよう指示し、自身は神殿の屋根から西方に、眼前に広がる海原の彼方に厳しい目を注いでいる。水平線に接するように、黒い染みのような雲が見えた。


「ナギ様、急にどうしたんですか」


 いぶかしげにハーツ・メイカが魔装兵ゴーレムの操縦席から見上げていた。ハーツは数学と機械工学の講師として招かれ、今乗っている機体は、レジスタンス軍で使用していた魔装兵ゴーレムだ。戦線を退いた後は単純な土木作業も難しくなったため、解体予定だったところを、ハーツが後進のために授業材料として譲り受けていた。


「さきほどから聖霊たちが、ひどくざわめいています。それにこの邪気にあの黒い雲……。グリュンヒルデで不吉なことが起きています」

「はあ……」


 戦争だから当然ではと思って、ハーツはぼんやりとうなずいた。

 ナギからは子どもたちや職員を避難させる一方で、魔装兵ゴーレムを操縦できるハーツに表に残るよう頼んでいた。

 ただ、今回の場合、ハーツの腕を見込んだというよりも、魔装兵ゴーレムを動かせるのがハーツしかいないから頼んだと言う方が正しい。廃棄寸前のオンボロだから大したことは出来ないが、神殿前に“神盾ガウォール”くらいは張れる。


 ――機体が持つかどうかは別だけど。


 口に出せば叱られる軽口くらいはわかっているので、ハーツは心の中で呟きながらコンソロールパネルを叩いていた。

神盾ガウォール”を準備しながらも、チラチラと視線はナギに向けられる。 

 ナギの剣幕は異様なものだったが、ナギほど敏感ではないハーツには、とにかく実感がないので事の重大性がわかりにくい。

 それよりハーツとしては、聖霊たちのざわめきというものより、風に煽られてはためくナギの神官服が気になっている。神官服は生地が分厚くて重いのだが、折からの強風でバタバタと裾が舞っている。

 神官服を着る際、ロングスリップ以外下着をつけないという話を、リュウヤから聞いたのを思い出している。

 どのようにリュウヤが聞き出したか経緯はハーツにも不明だったが、現に白い生足を太ももまで露出させるナギに、外見はぼんやりしつつも、ハーツの心はひどくざわついていた。

 もうちょっとかなと首を傾げた時、ナギの怒声がハーツの耳に飛びこんできた。


「ハーツさん!」

「ひっ……、ごめんなさい!」


 ナギの鋭い視線がハーツに向けられると、ハーツは気づかれたと思って両手を合わせて拝むように悲鳴を上げた。


「何も、何も見てません!足が綺麗だなて思ったくらいで……!」

「何言っているんです!邪悪なものが迫ってます。準備したなら伏せて!」

「何て、何が」

「いいから!」


 何何問答の果てに、わけもわからずハーツは“神盾ガウォール”を発動させて操縦席に身を隠した。操縦席からナギを見上げると、ナギが印を結び足下から魔法陣らしき光がこぼれるのを見た。そして、手の内に生じた光球を足下の屋根に叩きつけた。


「目覚めろ、“聖鎧神塞グラディウス”!!」


 ナギの声に地響きが起きると、聖霊の神殿がせりあがり、唸り声をあげながら地中から鋼鉄の巨人が姿を現した。


聖鎧神塞グラディウスよ!不吉をもたらす者を拒め!」


 鋼鉄の巨人は粘りのある鈍重な雄叫びをあげると、洞穴のように開いた口から巨大な空気の塊を放出した。“萌花爛々コスモス”の強烈な一撃が激突したのは、その直後である。巨大なエネルギー波は聖鎧神塞グラディウスの砲撃に激突すると、紅い光が四方に拡散していった。


「くっ……!」


 凄まじい圧力に耐えながら、苦悶の表情でナギは聖鎧神塞グラディウスに魔力を送り続けている。ナギも必死だったが、聖鎧神塞グラディウスを形成する聖霊たちからも異様な必死さが伝わってきた。“機神オーディン”の時はナギを見捨てて逃げたにも関わらず。だが、何にせよ、双方の必死の意志は力へと変質し、強烈な熱波を押し返していく。悪夢のような轟音と激震が続いたが、不意に音が途切れて光が消失した。

 わずかな光塵が漂う中、ナギはがくりと両膝をついて座りこんだ。うなだれた拍子に、大量の汗が屋根を濡らした。ナギは肩を大きく揺らし、汗みどろになって喘いでいる。


「大丈夫ですか!?」


 ハーツが操縦席から身を乗り出して声を掛けると、ナギは目だけで笑ってみせて小さくうなずいた。息をととのえ、胸の動悸がおさまるのを待ってゆっくりと立ち上がった。


「……聖霊たちが集まって来ますね」


 正確には逃げ込んでくるかと、ナギは心の中で訂正した。各地から聖霊たちが神殿に集まってくるが、そのどれもが恐怖を抱いている。


 モリガシンダ。

 イズミガキエタ。

 ココモナクナッタラ。

 ワレラモキエル。

 ワレラモキエル。

 マモレ。

 マモレ。


 逃げてきた聖霊たちは命の源である聖地を失った者たちのようだった。聖霊に力を与えるこの地を失えば、聖霊は存在できなくなる。人間で言えば死にあたるそれが聖霊たちを必死にさせ、聖鎧神塞グラディウスの力にもなったのだが、だからといって喜んでもいられなかった。水平線の彼方から感じる邪気はまだ増幅していたからだ。

 果たして次の一撃を耐えられるか。

 その先で何が起きているのか。

 今一つ自信が持てずに、ナギは水平線の彼方に広がる黒い雲を見据えていた。

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