第176話 それでもルシフィは再び

 つい先ほどまで読書をしていた部屋に、ルシフィの姿が見えない。

 部屋からは庭に直接出られるつくりになっていて、ヤムナークが屋敷の表まで出て辺りを探してみると、庭の隅にある緑葉がやわらかく生い茂る木の下で、小鳥たちを相手に佇むルシフィがいた。

 小さな邸宅が建てられる以前から立っているユメザクラという木で、ルシフィもヤムナークもまだ見たことはないが、春になれば鮮やかな白い花々を満開に咲かせるのだという。

 ヤムナークがルシフィに足を向けると、小鳥たちはパッとユメザクラの枝まで逃げ去った。


『やあ、ヤムナーク。いい天気だね』


 小鳥たちが一斉に逃げたのを見て察したのだろう。鳥たちを見上げたままの姿勢でルシフィが言った。


『ルシフィ様、そんなとこにいらっしゃいましたか』

『……』

『ま、この辺境の地で読書と畑仕事ばかりだと、さすがに退屈してしまいますからな』


 ルシフィはマダラという辺境の地に流されていた。

 陸の孤島と呼ばれる土地で、周りは深い山や森に囲まれ、屋敷から十数キロ先に肩を寄せあうようにして暮らしている集落があるだけだった。長い間、貴族などの流刑地のひとつとして使われていた。

 ルシフィは庭で野菜とジャガイモの穀物類、都から持ってきた花の苗を植え、晴耕雨読といった日々を過ごしている。ヤムナークは麻のシャツにこげ茶のベストにこげ茶のズボンと農夫らしい服装になっている。

 ルシフィは相変わらずの羊飼いのような服装で、いつもとの違いは、今日は陽気に誘われて、上衣がノースリーブというくらいである。暮らしも落ち着き、最近、ようやくマダラの生活にも馴れはじめてきているといったところだった。

 そんな折の出来事だった。

 近づくにつれ 沈痛な面持ちのルシフィに気がつき、ヤムナークがいぶかしむ表情を浮かべた。不吉な予感が胸の内に過る。


『なにかございましたか』

『もしかしたら、父上が危ないかもしれない』

『ゼノキア様がですか?グリュンヒルデで戦うという話はチラリと耳にしましたが、あの方の身に危険が迫るなどとは……』

『あの子たちは、ケーナから逃げてきたんだって。よほど怖かったんだろうね。みんな、あんなに震えている』


 逃げた小鳥たちは木の枝にとまって騒然としている。騒然と言っても、チュンチュンと小さな声で鳴き、たがいに毛づくろいしているだけだから、ヤムナークの目からすれば愛らしい光景にしか見えない。だが、鳥の声がわかるルシフィには、それが生き延びたことを喜び、鳥同士が互いをいたわっている時の仕種だと知っているから、気の毒そうに眺めていた。


『あの子たちが言ってた。“お空に巨大な芋虫がたくさん飛んできた。大きな蝶とたくさんの竜。人の姿に変えてグリュンヒルデの森の中に消えてった”て』

『竜族がグリュンヒルデに?』

『情報が断片的だし、時間の前後もよくわからないけど、大きな蝶というのはリュウヤさんだろうね。竜族というなら、クリューネさんもいるだろうし』


 グリュンヒルデが魔王軍にとって守りの要であることはヤムナークでも知っている。芋虫が魔空艦のことだと推測はつくが、方向的にムルドゥバ軍のものだろう。そのグリュンヒルデの戦場に竜族が現れたということはヤムナークには衝撃を与えていた。

 あの誇り高い竜族が人間に協力した上に、正面から向かって来ずに、人の姿となってグリュンヒルデに潜伏してきたことも。


『……僕、行ってくる。グリュンヒルデなら、そこまでの距離じゃない』


 身を翻し部屋に向かうルシフィを、ヤムナークは慌てて追いかけてきた。


『グリュンヒルデに、ですと』

『父上のところに』

『ですが、刑を受けた身で勝手に離れれば、脱走と見なされ、今度こそ極刑は免れませんぞ』

『そうだけど、黙っておけないよ。リュウヤさんやクリューネさんは、父上でもそう簡単に勝てる相手じゃない』


 部屋に戻ると、ルシフィは隅に立て掛けてある樫の杖を手にとって軽く振ってみた。ヤムナークに頼んで新しくつくってもらったものだ。


『いってきます』

『お待ちください。言ってはなりません!』


 ルシフィは庭に戻ると、そのままグリュンヒルデに向かおうとする勢いだったので、慌てたヤムナークはルシフィの華奢な手を思わずつかんでいた。


『ヤムナーク……?』

『も、申し訳ありません!』


 弾かれたようにヤムナークは手を離すと、急いで片膝をつき深々と頭をさげた。


『しかし、どうしても行くおつもりですか』

『ごめん。ヤムナークがいたら心強いけど、巻き込めないから』


 ヤムナークはルシフィの強い眼差しに主の意思や覚悟を感じていたが、一方のゼノキアはどう思うだろうか。

 これまでのことから、ただ『余計なことをした』と嘲り、一蹴するだけではないだろうか。いや間違いなくそうなるだろう。リュウヤとの戦闘で混乱した町を、タギルとともに治安回復に大いに貢献したのにも関わらず、ゼノキアは一顧だにしなかったではないか。

 ヤムナークがこれから起きることを想像するだけで、明らかに報われない孝子の行く末に、ヤムナークの中に強い憤りがわき起こってきた。

 ヤムナークは顔を上げ、真っ直ぐな視線をルシフィに向けると、最早抑えがたい感情そのままに口を開いた。


『お言葉ですが、ゼノキア様はルシフィ様にたいして日頃から冷淡極まりなく、今回の件についても、あまりに無慈悲だと私は感じておりました。果たして、ルシフィ様が身命を懸けてまですることでしょうか。ルシフィ様が無能の働き者呼ばわりされたこと。私には今でも悔しくて仕方ありません』

『……』

『魔王軍が勝てばともかく、負ければ苦難もありましょうが、監視も弱まり自由の身。ですが、今離れれば大功があっても罪に問われることは間違いありません。このまま静観が一番だと私は思います』


 憤然とした口調でまくし立てるヤムナークに、ルシフィは驚いて目をぱちくりとさせている。


『珍しいね。ヤムナークがそんなに怒るなんて』

『当たり前です。子を思わぬ親などありますか。しかも、誰の目にもわかる孝なる子を。私がゼノキア様の親なら、あの人を叱り飛ばして、ケツでもひっぱたいてやりたい』


 そこまで言ってから、自分が言い過ぎたと気がついたのか、ヤムナークは慌てて深々と頭をさげた。

 ヤムナークには妻がいたものの、子に恵まれなかった。

 その妻もルシフィが幼い頃に失ってしまっている。ヤムナークにとっては、ついに授かることが叶わなかった我が子と、ルシフィを重ねているところがあり、“家族”に対する思いもまた格別なものがあった。そのルシフィが、再び父親のために死罪覚悟で戦地へ向かう。ヤムナークの心は張り裂けそうで、呼吸も荒々しくなっている。


『……度々、申し訳ありません。出過ぎた真似をいたしました』

『そんなことないよ。僕、すごく嬉しい』


 ヤムナークが顔をあげると、ルシフィの秀麗な顔がすぐ目の前にあった。優しく微笑み、ヤムナークの震える肩にそっと手を置いた。

 細い指にも関わらず、その指先には力が強くこめられ、ヤムナークの胸が熱くなるのを感じていた。


『僕にはヤムナークがいてくれて、本当に良かった。……ありがとう』


 言葉が出てこなかった。

 ルシフィは手が離れても、ヤムナークはそのまま頭を垂れてうなだれていた。

 風がやわらかく舞い、穏やかな光がヤムナークを照らした時にようやく顔を上げると、澄みきった青い空の彼方に十二枚の翼が大きく羽ばたきながら遠ざかっていくのが、ヤムナークの滲んだ視界に映っていた。


『……ルシフィ様、どうかご無事で』


 長い沈黙の後、ヤムナークには、それを口にするだけしか力が残っていなかった。

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