第147話 あなたも、あの雲のようにあれ

 ゼノキアに挨拶を済ませたリディアが朝議の間を出ると、深い暗闇の底から解放された気分になって、思わず新鮮な空気を一杯に吸い込んだ。穏やかな陽射しがやけに眩しく感じる。顔をしかめて空を見上げた。

 リディアの耳の奥には、ゼノキアの雷鳴のような怒声が残っている。

 その印象が強烈すぎて、『ネプラスを頼むな』とゼノキアのねぎらう声もリディアには実感がない。

 ただの顔合わせだと思っていたのに、異様な出来事が続き過ぎて、意識が飽和しているようだった。


『ふう……』


 何度も深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着いて思い浮かんだのが、朝議の間から去っていくルシフィの寂しげな後ろ姿だった。


 ――無役の公子か。


 ルシフィは斬罪を免れた。


 治安回復にルシフィの力あってこそと訴えたタギルを始めとして、ルシフィを知る諸将が必死に命乞いをしたために、ゼノキアは死罪を免じたのだが、後継者としての地位は取り上げられ、マザラという僻地に移るよう命じられた。今ごろは転居の準備をしているはずだった。

 ゼノキアはルシフィに対して、冷淡だったと聞いている。

 あまりに厳しい処分だとリディアも思うが、独断による行動が大勢に影響を与えたことを、ゼノキアは重く見ているようだった。褒章されたタギルと罰せられたルシフィの措置に、将官の心が引き締められたのは事実である。


『……?』


 ふと声がし、見ると階段下の広い芝生の上で将校が8名ほど集まって、熱心に話をしている。空手のまま剣を身構えるような仕草をする様子から、剣術談義を交わしているようだった。

 興味を持ち、リディアが近づいていくと不快な名前が耳をついた。


『……いや、リュウヤ・ラングは確かこうだろ』


 一人の男が剣を振るう真似をすると、仲間の一人が男にリュウヤのはこうやったのではないかと、足を踏み込んで剣を振る仕草をして、相手に何か指摘している。

 リュウヤという名を出すとき、どこか敬うような響きがあるのをリディアは聞き逃さなかった。それも不愉快だったが、『しかし、ネプラス将軍も、あの時の動きはまずかったな』という言葉がリディアの感情を沸騰させた。父を批判をしているのだと思うと、頭の中が熱くなっている。


『剣談ですか。各部隊の勇士が集まって、楽しそうですね』


 声が上ずっていると自分でも思いながら、リディアは男たちの輪に加わっていった。リディアに気がつくと男たちは気まずそうにして、互いに顔を見合わせている。


『父の何がまずかったのか、後学のために教えていただけますか』

『いえ、勘違いしないで下さい。決して、ネプラス将軍を悪く言ったわけでは……』


 なるほどと、リディアは言った。


『しかし、仇敵であるリュウヤ・ラングに対して随分と熱心なご様子ですね』

『ネプラス将軍やゼノキア様との戦いで見せたリュウヤ・ラングの巧みな剣さばきは、我々にも学ぶものが多く……』


 そこで将校たちは互いに顔を見合わせて、口をつぐんだ。

 尚武の気風を持つ魔族の武人たちの間では、優れた武人を尊ぶ。

 リディアが言うように、リュウヤは仇敵と言える存在で、しかも卑小な人間である。

 そのため、声を大にしては言う者はいないが、リュウヤ・ラングに対しても、一種の畏敬の念を抱く者も現れ始めていたのも確かである。

 剣談に集まっている者も、それぞれネプラスやルシフィ、エリシュナやゼノキアとの激闘を目の当たりにし、時には一刀に蹴散らされ、それでも生き延びてきた歴戦の猛者たちである。

 古くは、リルジエナとの戦いに関わった者もこの将校の中にもいた。

 ゼノキア以下諸将は、いずれも剛を以て知られているが、その剛剣をリュウヤが風のように柔らかにさばき、隙を見出だして鋭く一撃を与える刀法に、自分の理想を見つけた者もいた。

 リュウヤの評価は皮肉にも、ムルドゥバより敵である魔王軍の方が高い。


『しかし、奴は敵ですよ?あまりリュウヤに好意を寄せすぎると、戦場でいざという時に困りませんか』

『いえ、そのようなことはありませんよ』


 一人が苦笑いして言った。へらりと小馬鹿にした笑い方がリディアの癪にさわった。


『我々は魔王軍の将です。リュウヤに躊躇するなどありえません』


 毅然と胸を張る将校に、しかしねえとリディアは冷たく目を細め、大仰にため息をついてみせた。


『……あなた方で本当に大丈夫かしら』

『さっきから何なんですか』


 リディアの傲岸とも受け取れる態度に、将校の一人が色をなして前に出ようとしたが、他の仲間が慌ててその将校を押さえつけた。


『こちらからも言わせてもらいますが、リディア殿ではリュウヤに到底及びもつきませんぞ。下手なことは考えぬがよろしい』

『……なんですって』

『ネプラス将軍が単身向かわねばならなかったのは、リディア殿が猪突猛進したからと聞く。剣を論じたいなら、我々をどうこうよりも、自分を省みてからにしてもらいたいな』

『無礼者、私を誰だと……!』

『軽率、自信過剰の小娘リディアだろう。そんな者に無礼などと言われる筋合いはない』


 リディアはギリッと奥歯を鳴らして、剣の柄に手を伸ばした。身体が小刻みに震えている。将校の言葉は、リディアの深く場所を抉り、そこに押し込めていた罪の意識をほじくり返していた。

 あまりに腹に据えかねたか、相手も柄に手を掛けると、他の将校たちは騒然となり、二人の間に割って入った。


『リディア殿、ここは殿中。抜けば罰せられるだけだぞ』


 構うものかと叫ぼうと剣を抜き放とうとした時、強い力がリディアの剣を押さえつけた。


『リディア殿、邪魔をするのはよくないな』

『邪魔とはなんです!』


 背後からの声に振り向くと、太陽を背にして岩のような巨大な影がリディアたちを覆っていた。そこにはいつからいたのか、“ハエタタキ”を担いだアズライルがのっそりと佇んでいる

 

『まだ、軍旅も解いていない部隊も多い。彼らにはこれからまだ仕事が残っている』

『……』


 アズライルはリディアから視線を離すと、他の将校たちを見回した。


『お主らも何をぼやぼやしている。雑談せず、早く仕事に戻れ』


 アズライルに促され、将校たちは三々五々に別れ散っていく。リディアは去っていく将校を睨みながら唇を噛みしめていた。


『リディア殿、冷静にならんか。単なる剣術談義だろうが』


 アズライルがリディアの横に並んでたしなめると、わかっていますと鋭い眼でアズライルを睨み上げた。


『ですが、父が倒されているのに、あのような話に使われているのかと思うと我慢が出来なくて……』

『ルシフィ様の沙汰があったばかりで、将士一丸、気を引き締めていかんという時に、次はネプラス将軍の息女が将校と喧嘩か。厄介事が絶えんな』

『し、しかし……』

『仇を討つなら敵を知り、自分の今を知って力を高めるしかない。あの将校の言う通りだ。今のリディア殿では到底、リュウヤには勝てん』

『リュウヤなぞ、たかが人間ではないですか』

『そう。そのベリアもマルキネスは死に、エリシュナ様やネプラス将軍も深い傷を負った。ゼノキア様の剛剣でさえも巧みに凌いだ。“たかが人間”がな。リディア殿には、リュウヤがやったことが出来るかな』

『……』


 反論できず唇を噛み締めているリディアの表情は次第に歪んでいき、身体が震えはじめた。目の端にキラリと光るものをアズライルは見逃さなかった。


『いくらなんでも、泣かなくていいだろう』

『泣いてなんかいません。泣いてなんか……!』


 リディアの言葉が切れた。

 ポタポタと涙が地面を濡らし、リディアは顔を覆った。声こそあげなくても小刻みに震えるリディアに、アズライルは愛しさと憐れみを感じつつも、同時に女はこれだから面倒だと思って途方に暮れていた。


 ――男なら“泣くな”とぶん殴って済ますんだが。


 しかし、可憐な乙女にそんなことをするわけにもいかない。放っておくのも可哀想だし、かといって、気の利いた言葉も浮かばないからじっと見下ろしているしかなかった。


 ――しかし、ずっとこうもしとれんな。


 今は人気が無いが、誰か人に見られたら、不審に思われるのは間違いないと思い、とにかく泣き止んでもらわねばと、内心はかなり焦っていた。話のネタになるものは無いかと周りを見渡していたが、その時、目に飛び込んできたものを見て、アズライルはリディアの肩を叩いた。


『リディア殿、あれを見たまえ』


 アズライルに促され、リディアが顔をあげると、その先には筆で書いたような薄い雲が、ゆるやかに流れていく。


『雲は常に形を変えて流れていく。ひとつの形に拘らない。リディア殿もこだわりを捨てて、鍛練に邁進すれば技も心も変化しくもの。雲のようになりなさい』


 自分でも何を言っているのかよくわからなかったが、とにかく思いつくことをそのままいった。ただ口にした言葉を思い返して見ると何となくいいことを言った気もしている。そんなアズライルの傍らで、リディアが泣きはらした目のまま、じっと雲を追っていた。


『……雲』

『そう、雲の如くだ。雲が雨を降らすように今は泣くのもまた良し。しかし、いずれ雨は止む。とらわれるのは良くない』

『……』


 どうやら泣き止んだらしいと安堵して、アズライルは綺麗に折り畳んであるハンカチを差し出した。


『リディア殿には涙など似合わん』

『……』

『ハンカチをそのまま持っていって構わんからな』


 ハンカチを受け取って佇むリディアに、アズライルは『ではな』と軽く手を挙げると、いそいで背を向けて歩き出した。

 その先には正門があり、出仕した家臣の馬を繋ぐ厨舎がその近くにある。アズライルが乗ってきたベヒーモスも、その厨舎に繋いである。


 ――柄にもないことを言った。


 顔から火が出る思いがしていたが、この場合はやむを得ないとアズライルは自分を慰めながら足を早めた。幾多の戦場に足を踏み入れたが、こんな緊張はいままでに経験したことがないものだった。


『あの、待ってください!』


 リディアの声がして、振り向くと同時だった。リディアが駆けてきて、アズライルの胸元に飛び込んできた。柔らかな風が起こり、花のように甘い香りがアズライルを覆った。


『リ、リディア殿……』

『あの、ハンカチは必ずお返ししますから。ご自宅に伺いますから待っていて下さい。……アズライル“様”』


 リディアは胸元に顔を伏せながらささやくと、アズライルから身体を素早く離し、振り向きもせずにそのまま正門へと走っていってしまった。

 アズライルには何が起きたのか把握できず、小さくなっていくリディアの後ろ姿をじっと見送っている。

 遠くからコツコツと乾いた音と、ひとのざわめきが聞こえてくる。宮廷の南西側で城壁の修復作業をしていて、その作業音だった。

 破壊された城壁に足場が組まれ、小さな人影が無数に動いている光景が、リディアの後ろ姿とともに映った。正門に繋がる広い並木道の木々の間から、午後の暖かな陽射しがと穏やかな風がアズライルをやわらかく包み込んでいく。


『あらあ、アズにゃん。そんなとこで何をしてんの?』


 今までどこにいたのか、独特の高い声でミスリードが声を掛けてきた。


『聞いてよ。さっき、親衛隊に可愛い男の子がいてね。ずっとからかっていたら、ゼノキア様に見つかって叱られちゃった。ルシフィちゃんの時ほど怖くなかったから、本気じゃなかったんだろうけど……て、アズにゃんてば、聞いてる?』

『ああ、聞こえてる』


 アズライルの力の無い声と呆けた表情に、ミスリードは不審な顔をした。濃密な日々の間に、アズライルは色んな表情を見せてきたが、初めて見る表情だとミスリードは思った。


『ミスリード、聞きたいことがある』

『なによ』

『ある人に“ハンカチを返しに伺います”と言われたのだが、後で家に来るんだろうな』

『当たり前でしょ、何を言ってんの』


 突然の奇妙な質問に、からかうどころか正気を疑い、ミスリードはアズライルをまじまじと眺めていたが、アズライルは気づかず、既に見えなくなったリディアの後ろ姿をずっと追い掛けている。

 信じられないほどのしなやかな感触が、アズライルの身体にいつまでも残っていた。

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