第119話 日曜日の太陽
「どうした。浮かぬ顔をして」
リリシアが頬杖をついた姿勢で、ぼんやりと縁側に座り込んでいるのを見て、クリューネはリリシアの隣に腰掛けた。
クリューネたちの正面傍では、アイーシャが庭の一角にある池のほとりでしゃがみこんで、泳ぐ鯉たちに餌をあげている。パクパクと大きな口を開けて集まる鯉に、アイーシャが「おおう」と感動の声を発しているのが聞こえた。
「ここは平和だの」
クリューネは秋の陽射しを、目一杯浴びるように空を仰いだ。元の世界とそう違いがあるわけではないが、敵に襲われる心配もなく、戦火からほど遠い場所にいるという安心感が、太陽の陽射しでさえも特別なものであるように感じられた。
「リュウヤの母がつくる飯もけっこう美味いし、布団も柔らかい。薬も当たり前のように売っとるしの。贅沢な世界じゃ」
「……そうね」
「なんじゃ、暗い顔だの。味噌汁とつくだ煮がそんなに嫌か」
「悩むほど嫌いじゃない」
旅に馴れたクリューネたちからすれば、若干、薄味な感はあるが、毎晩レストラン級の料理が出てくることに、内心恐縮するほどである。ただ、リリシアは味噌汁の塩辛さとつくだ煮の甘さが苦手で、味噌汁などはお湯で少し薄めて飲ませてもらっていた。
「もしかしてリュウヤの姉のことか。やたらみゃあみゃあ騒がしい女だったの」
「私はあの人、好きだよ」
リリシアは苦笑した。
二日前にリュウヤの姉、片山陽子がリュウヤが帰ってきたと聞いて実家に顔を出し、一泊して帰っていったのだが、名前の通り太陽のように明るく豪快な女だった。
教員として愛知県の名古屋市に住んでいるというのだが、元々の性格に加えて名古屋なまりが身について、クリューネには嵐が通り過ぎていった感覚があったのだ。
リュウヤほどではなくとも、剣道では全国区の実績があり生徒に教えているらしいが、ふと垣間見る指導者らしい面倒見の良さや優しさがリュウヤと似ていて、リリシアは短い時間ながらも陽子に好感を持っていた。
「なら、何でそんな暗い顔をしておる」
「ジル兄さんたちを思い出している」
「……」
「この世界に来てから3週間過ぎた。向こうはどうなったんだろうって、戦況がとても気になる」
「ジルには悪いが、考えても仕方なかろう。私たちは私たちで、こっちの世界に合わせて生きていくしかあるまい。セリナみたいに」
「そうだけど……」
「リュウヤも、剣術の先生として後を継ぐだろうしの」
「……」
現在、リュウヤは祖父の兵庫とともに道場にいる。
兵庫が道場の本格的な再開のために連絡を回し、午後には前回以上の門下生たちが集まることになっている。リュウヤは兵庫と、道場でその準備をしていた。
リリシアは無言のまま、膝を抱えて顔を伏せた。
セリナは翌日からリュウヤ母を積極的に家事に加わり、今も母の手伝いをしているはずだ。
宿屋の娘や聖霊の神殿での日々が下地としてあったから、日本の風習や片山家の慣習に馴れてしまえば動きにも渋帯がない。
熱心さが功を奏してか、わずか二週間で簡単な日本語も理解し使えるようになっていたし、でしゃばらずに母を立てて働くセリナは重宝されて、母のお気に入りになっていた。
一方、クリューネとリリシアには、他所の世界という感覚が心の隅に残っている。
「アイーシャちゃんが転移させる力を起こせれば……」
「本人もよくわからんと言っとるし、変に期待せん方がいいと違うか。もしかしたら、いつかコントロールできるようになるかもしらんが、それもいつになるかわからんぞ」
「……」
「それより、私らは身の振り方を考えた方がいいんじゃないか」
「どうする気?」
「とりあえず、コンビニとやらで働くか。あれなら楽そうじゃ」
あのコンビニ店員をイメージしているのだろうと、リリシアはにやけ顔でいるクリューネの横顔を見つめた。
一昨日の昼頃、母とリュウヤに案内されて街に買い物へと出掛けていた。生活に必要な衣服や日用品を購入したのだが、その途中でコンビニに初めて寄っている。
小綺麗で整然、物に溢れた店内とは対照的に、陰気で無気力そうな若い店員がレジにたっていた。つまらなさそうな顔をして“イッシャッセ〜”などと機械的なぼそぼそ声で挨拶してきたのをリリシアは思い出している。
「あんなんで良いなら、私でもできそうじゃ」
リリシアはコンビニのレジに並んでいるクリューネと若い店員の姿を想像してみた。
“イッシャッセ〜”と死んだ魚のような目で、気だるそうに作業を行い、余った弁当を裏で店員とがっつくクリューネ。確かにクリューネの性格からすれば、お似合いの姿だと思い、自分の悩みも一瞬忘れて、リリシアは笑いを噛み殺すのに苦労していた。
「きっと……、良い考え」
「それとも、リュウヤがアイーシャの世話係で雇ってくれんかのう」
何気なく呟いたクリューネの声には、真剣な響きが含まれているのに気がつき、リリシアはクリューネの顔を覗き込んだ。
「クリューネ、意外と仕事の選択の幅が狭い。クリューネの性格なら、もっと幅広い世界を目指しそうなのに」
「たとえば、どんなんじゃ」
クリューネに問われて、リリシアは宙を見上げてしばらく首を捻っていたが、「わかんない」と肩をすくめると、クリューネはなんじゃそりゃと呆れ笑いを浮かべた。
「……正直、リュウヤの傍にいたいからかの」
言ってから、クリューネは顔を耳まで真っ赤になって、激しく手を振った。
「いや、そういう意味ではないぞ。これ以上、知らない土地に行けんという意味でな……」
「わかる。私も同じ。これまでの旅だって、心許せる者だけで身を寄せあってきた」
周りに魔物や魔王軍との戦いもない。しかし、言葉も文化もまるで違う世界で、リュウヤたちから離れて暮らす勇気など持てなかった。
これからどう暮らしていくか。
人間らしく暮らすことを望んでいたリリシアにとって、理想の世界であるはずなのに、これほど不安や戸惑いがあるとは思ってもみないことだった。
「……今まではぼんやりとしていたけれど、ここにきて明確となったものがある」
「なんじゃ」
「平和になったら、何をするか。いつまでも戦いは続かない。そうなった時、私たちはどうするのか。今までは目の前の戦いで精一杯で“これからのこと”なんて夢みたいな話だったけれど、平和なこの世界に来たことで、夢は私たちの現実問題となった」
リリシアはアイーシャの背中を見ながら言った。餌もあげ終わっても、飽かずに鯉の様子を眺めている。
「リュウヤ様の傍にいたいけれど、リュウヤ様にはセリナがいる。自分の道を探さないと……」
「リリシアは考えておるのか」
「作家になりたい」
「……」
「大好きだった“ナイト様”みたいな、読んでいる子どもたちをワクワクさせるようなお話を、いつか書きたい」
瞳を輝かせるリリシアの横顔を、クリューネは眩しそうに見つめていた。
特にこれといった夢もなく、リュウヤの傍にいられればとぼんやり考えていた自分が矮小に思え、安易にコンビニ店員と口にしたことが恥ずかしくなった。
「……だから、向こうの世界に戻っても、私は作家を目指す」
リリシアは縁側から下りると、アイーシャの傍へと歩いていった。遅れてクリューネも後からついてくる。
「アイーシャは鯉が好きだのう」
クリューネとリリシアは、アイーシャを挟むようにしてしゃがみこんだ。クリューネは、ヌメヌメと粘着した光を鱗から反射させ、虚無の口をパクパク開くこの魚があまり好きではない。
「アイーシャ。この世界が好きか。帰りたいとは思わんか」
「好きだよ。お父さんとお母さんといられるもん。お姉ちゃんたちだっているし」
「友達に会いたいと思わない?聖霊の神殿の子たちとは、長い間会ってないでしょ」
リリシアに言われて、アイーシャはうーんと考え込むようにして首を捻ったが、しばらくしてから、会いたいけどと口を開いた。
「会いたいけど、また離ればなれになるの嫌だなあ。お母さんだって、いつも寂しそうだったもん」
ゼノキアでの一年の話をしているのだと、クリューネとリリシアにはわかった。セリナの話によれば、ルシフィがよく面倒を見てくれたと聞くが、魔族に囲まれた日々は、幼心にも窮屈で冷たく辛いものがあったのだろう。
「だから、笑ってるお母さん見られて嬉しいから、あまり帰りたいとか思わないなあ」
「……そうか」
――帰るのは無理そうだの。
この世界でも紛争や対立はあり、痛ましい殺人事件も起きる。今朝も外国の町で自爆テロが起きたというニュースを見た。言葉は理解できなかったが、その悲惨さは映像からダイレクトに伝わってくる。
しかし、それでも魔族との闘いの日々に比べれば格段に平和な日常がある。
ようやく両親と暮らせるようになったというのに、もっと辛く厳しい世界に戻るための力を、発揮することなど無いだろう。
無邪気に笑ってみせるアイーシャに、クリューネはリリシアと視線を合わせると、リリシアは小さな溜め息を洩らした。
「アイーシャ、みなさん」
後ろから足音がし、呼び掛ける声に振り向くと、エプロン姿のセリナが縁側に立っている。仕草も雰囲気も、すっかり片山家の嫁として板についている。
「お食事の準備出来ましたよ」
※ ※ ※
『アメリカ……?聞いたことない国だわね』
『正確には、アメリカ合衆国という名だそうです』
これは村の代表らしきものが持っていたものですがと、ガーツールは地図をテーブルに広げた。
エリシュナはフォークとナイフを置いてナプキンで口元を拭い、地図を覗き込んだ。見慣れぬ奇怪な文字とともに描かれた地図は色分けがはっきりして分かりやすく、示されれば自分たちがどこにいるのかすぐにわかりそうだった。
エリシュナはとある一室で食事をとっていた。素朴な外装だったが豪奢な書斎で、床の絨毯も柔らかく質が良い。
この家の主人は、村の村長だという。既に村長を始めとした一家は始末され、娘と子どもの身体は、食糧として魔空艦の食糧庫に運ばれているはずだ。
エリシュナは豪壮な事務机を前に座り、机上にはパスタやサラダにワインが並べられていた。
室内はシャンデリアの明るい光に満ちている。
そばの窓から月明かりが射し込んでくるものの、シャンデリアの光がそれを掻き消している。
エリシュナの後ろには、給仕役の兵士がワインを手に控え、近くでリリベルとララベルが静かに佇立していた。
『はい、正確に申しますと、我々が今いる場所はアメリカ合衆国ネブラスカ州というそうです』
『やっぱり聞いたことないわね。ガーツール、お前は?』
いえとガーツールは首を振った。
『やはりこれは……』
『あの子どもの力ね。あの力で転移させられた』
エリシュナは地図を片付けるよう、払うような仕草をすると、フォークを取り上げて皿に載せられたパスタを突っついた。
エリシュナたちが乗る魔空艦は、白い光に包まれたかと思うと、次の瞬間には荒野が広がる大地に着陸していた。
兵士の間には、エリンギアとバルハムントの間にある荒野という推測もあったが、見つけた小さな村を襲撃してすぐに異常に気がついた。
家畜と人しかいない、エリシュナの目にも辺鄙と映る村の一軒一軒からは煌々とした明かりが洩れ、幹部クラスでも一部しか所有していない車を村の誰もが所有していた。新聞や本には見慣れない文字が並び、テレビモニターから派手な映像とともに流れる言語は聞いたこともない。
村で使われているものは、実際には古い家電品ばかりなのだが、魔族の古い伝統が色濃く残っている“深淵の森”出のエリシュナたちからすれば、驚愕するに充分に足る文明が、小さな村に溢れていた。
『……面白いわね。ゼノキア様があの親子を世話してきたのもわかるわ。やっと興味がわいてきた』
『しかし、これからどうします。艦長が探索した報告によると、我らが世界ほどではなくても、かなり広大なようです』
『焦っても仕方ないわ。妾がここにいるなら、奴らもここにいるはず』
『……』
『この国の文字と言葉くらい、少し理解できるようにしないと満足に動けないわ。まだ生き残っている村人はいるんでしょ?』
『は、食糧と奴隷として若い者を何名か』
『なら、誰か一人を通訳係にしなさい。あんまり頭がキレるのは駄目よ。真面目で気の弱そうな奴にしなさい。優しくね』
エリシュナは片頬を歪めると、ガーツールは主の意を覚ったようにニヤリと笑って頭を下げた。
『明日からでいいから、今日はこれで休みなさい』
『わかりました。では……』
ガーツールが踵を返して書斎から出ていくと、リリベルとララベルが足早にガーツールを追っていった。
『凛々しいわガーツール』
『可愛がってガーツール』
と、騒ぐ二人の声が遠ざかると、さてと言ってエリシュナは背を伸ばした。
『メインはまだかしら?』
エリシュナは後ろに控える給仕を見ると、給仕は「はっ」と頭を下げて隣の部屋に入り、二人の若い女を連れてきた。衣服を脱がされ真っ裸でいる。
食糧として確保した村の女たちで、恐怖で顔が歪み、身体が小刻みに震えていた。今にも崩れ落ちそうなところを、給仕が二の腕をつかんで立たせていた。
『……どちらにいたしましょうか。エリシュナ様』
『そうねえ』
ワインをすすりながら、エリシュナは二人の女を品定めするような目で見比べた。左の女に比べ、右の女の方が丸みがあって肉付きがいい。
やがて、人差し指を立て、右側の女を指した。
『じゃあ、今日はその子で。もう一人は明日でいいわ』
かしこまりましたと給仕が恭しく頭を下げるのを見て、女たちはすべてを察したようだった。選ばれなかった女はへなへなと崩れ落ち、選ばれた女は突然泣き喚き凄まじい形相をして暴れ始めた。
『くそっ!おい、抵抗するな。何が“ヘルプ”だ。訳のわからん言葉を使いおって……!』
給仕が力づくで押さえようとするも、女は猛然と抵抗した。
片手が防がれているため、押さえつけるのに手間取っていると、騒ぎを聞きつけたらしいコック三人が現れ、荒々しい手つきで二人の女を連れ出していった。
『頭殴っちゃだめよ。人間は脳ミソが旨いんだからね』
愉快そうにエリシュナは喉を鳴らして、グラスに残ったワインを流し込んだ。
『……さてと、楽しみだわ』
チロリとエリシュナは舌なめずりをした。
目の前のメインディッシュだけではない。
この未知の世界での冒険。そして、アイーシャという子どもの行方。
――爽快だ。
表現しがたい喜悦が身体の内から溢れ、口の端から洩れてくる。異様な興奮で身体が震えるのをエリシュナは止めることができなかった。身体が熱く、血液が沸騰しているようだった。
エリシュナは給仕が置いていったワインの瓶を取ると、一気にラッパ飲みをした。身体の内に心地よい酔いが広がっていった。やがて一滴残らず飲み干すと、ウーイとおくびを洩らし、誰もいない書斎を睨みつけながら呟いた。
『……妾はエリシュナ。この世界を統べる王ぞ』
言ってから自分の言葉が可笑しくてたまらず、感情が抑えきれないエリシュナは、いつしかゲラゲラと腹を抱えて哄笑していた。
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