第114話 大試合(おおよせ)
「一本!」
審判役の片山兵庫がリュウヤに白旗をあげると、道場の端に座って試合の行方を見守っていた門下生たちの間からは、名状しがたい吐息とともにどよめきが湧き起こった。
リュウヤは防具に身を包めているために、周りからは表情まで窺うことはできないが、凄まじい闘気や剣圧が伝わり、そして放った面への強烈な一撃に、見る者は圧倒されていた。
「……恐ろしく強い」
門下生の誰かが呻くような言葉を耳にし、クリューネは得意気になって鼻を鳴らした。クリューネでも今くらいの日本語なら理解できる。
「あのネプラスやルシフィとも渡り合い、そして勝ってきた。この世界では信じられんような死線を潜り抜けてきたリュウヤだぞ。こんな試合など、リュウヤには遊びにしかならんわ」
「クリューネ、静かに」
リリシアにたしなめられ、クリューネは慌てて姿勢を正した。隣の門下生が一瞬、怪訝な視線を向けたが、すぐにそれどころではないといった様子で、リュウヤへと視線を戻していった。
クリューネの視線の端に、道場の玄関付近で框(かまち)に腰掛けた中年の剣士二人が汗を拭きながら、リュウヤの試合を見守っているのが映る。
傍にはリュウヤの母とセリナがいて、息を激しく乱す彼らに手拭いをや水を浸したコップを渡し、甲斐甲斐しく世話をしている。
先ほどまでリュウヤと試合をしていた片山道場の高弟で、師範代の丸藤と次席の倉岡という男たちだった。
丸藤がリュウヤの母に何か話し掛けている。まだおさまらないざわめきに紛れて、内容までは聞き取れなかったが、ひどく興奮している。
先ほどまで両者はリュウヤと試合し、手も足も出ずに敗れたはずなのに、嬉々とした表情で話していた。
――剣士とはそういうものか。
昔、流浪の身だったテトラ・カイムも、リュウヤにコテンパンにされながらも、同じような笑みを浮かべていたことを思い出している。
剣の道など縁遠いクリューネには、負けても晴れ晴れとした心情が理解できず、奇妙な目で丸藤や倉岡を眺めながら、足をもじもじとさせながら座り直した。
片山道場の再開と、片山竜也を新しい師範としての力量を見極めるという名目で行われた試合で、兵庫の呼び掛けに応じて、片山道場には四十名もの門下生が集まっていた。
死んだと思われていたリュウヤが生きていた上に、外国人の妻子や友人を連れてきたことに、当初はひどく動揺していたが、リュウヤの試合が始まると、そんなことなど忘れてしまった様子で、門下生たちは試合の行方を固唾を呑んで見守っている。
クリューネたちはそんな彼らに混じって道場の隅に座って試合を観戦していた。
正座という馴れない座り方に、クリューネの足の脛あたりが板に押しつけられ、重苦しい痛みが襲ってくる。
クリューネは苦行でもしているような気分になっていた。
「結果なんぞわかっとるから、一人一人なんて面倒なことせず、一斉に掛からせればはよ済むのにの」
「……クリューネ、静かに」
「お姉ちゃん、大人しく座ってなきゃメッだよ」
リリシアとアイーシャからも注意され、憮然としたままクリューネは黙り込んだ。
試合前、リュウヤからは胡座で良いと言われていたのだが、玄関口のセリナやリリシアは勿論、アイーシャまでも平気な顔をしてちょこんと座っている。
誰に言われたわけでもないが、自分だけ胡座というのは許せないものがあり、クリューネは意地にも近い気分で正座をしていた。
「二本目、始め」
兵庫のしわがれた声に、クリューネたちは道場の隅から中央に目を向けた。ざわめきも潮が引くように静かになっていった。道場の中央では、リュウヤと相手が互いに竹刀を構えて対峙している。
相手はリュウヤと同じくらいの背丈で、防具に稽古着をつけているために、体格にも差がないように思える。しかし、どちらが優勢なのか、クリューネたちだけでなく、門下生たちの目にも一目瞭然だった。
リュウヤが足を運んで詰めていくごとに、相手は下がっていく。足元も浮わつき、剣にも落ち着きなく、肩が大きく上下している。
リュウヤから発せられる圧力に押され、抵抗すらできずじりじりと後退していく。
真伝流のルールは、基本的に剣道連盟の定めるルールに則って行われるが、逆胴が認められているのと場外がない。進行の見極めは審判が行い、「待て」を掛けるまで試合は続く。
リュウヤに押し込まれるようにして相手は壁際まで下がると、やがて相手は竹刀をぽろりと落とし、そのまま崩れ落ちて膝をついた。
野村の面の間から、滴り落ちた汗が床を濡らした。
「……参りました」
悔しさを滲ませながら洩らした声に、再び会場にどっとざわめきが起きた。
「あの野村武蔵が……」
「ほとんど何もしてないぞ」
門下生は口々に今起きた出来事を論ずる中、リュウヤは野村と呼ばれた相手に手を差し伸べた。
野村武蔵という青年はリュウヤの後輩で、まだ大学一年ながらも選手権大会の個人戦で優勝している。
リュウヤがいなくなった後、片山道場の“麒麟児”と呼ばれた男で、そんな男を圧倒したのだから、門下生たちの驚きも格別なものがあった。
「立てるか。野村」
「いえ、大丈夫です」
面の下から覗く若い青年が、口を喘がせながら立ち上がった。野村の世話を他の門下生に任せると、リュウヤは先に師範席まで戻っていた兵庫の前に座って一礼した。うんと頷くと、兵庫は立ち上がって、竜也と少し話があると言った。
「丸藤さん、倉岡君、それに野村も落ち着いたら奥に来い。セリナさんにお茶をお願いしたい。あとの者は、小橋君の指示通り自由稽古するように」
兵庫は手早く言うと、踵を返して奥の部屋へと歩いていった。そこには狭いが師範の休憩室がある。
セリナは呼ばれた気がしてぼんやりと兵庫の後ろ姿を眺めていたが、母がセリナに何か説明すると、ペットボトルのお茶とプラスチック製のコップをお盆に載せて、小走りに駆けていった。
やがて、小橋と呼ばれた中年の男が立ち上がり、「再開してからの初稽古だ。気合いを入れるぞ!」と怒鳴ると、門下生は竹刀を持って立ち上がり、それぞれ稽古を開始した。
「……私らはどうする?」
「いても仕方ないし、見学しているか。それとも、アイーシャ連れて外にでも行く?」
「お、そうするか」
リリシアの案に、クリューネは嬉しそうに声をあげた。とにもかくにも早く正座というものから逃れたい。
「よし、アイーシャ。外に……」
クリューネが膝を立てようとした時だった。
尋常ではない痺れが両足に襲われて、そのままクリューネは前のめりに床に倒れていった。
「おい、クリューネ。どうした……」
膝を立てたリリシアも、また同様に痺れが襲いかかり、今まで体験したことのない痺れに混乱してしてしまい、二人は床に伏せたまま、うーうーと唸るだけだった。
「おい、リリシア……」
「これまでに感じたことのない痺れ。ダメ、立てない」
「淡々と言わずに、何とかせんか」
「お姉ちゃんたち、大丈夫?」
アイーシャだけがきょとんとした顔つきで、唸り突っ伏すクリューネとリリシアを見下ろしている。
「足が……、足がの……」
「足?」
アイーシャがしゃがみこんで、何気なくクリューネの足の裏に触れると、「ほんぎゃあ!」とクリューネが悲鳴をあげた。
「だめじゃ、あの、そのな。あの、これ以上、足に触れるな」
「え?どっか痛いの」
心配顔になったアイーシャが、クリューネのふくらはぎや足の裏に触れる度に強烈なしびれで「ほんぎゃ!」と猫のように喚き始めている。
「お姉ちゃん、しっかりして!」
「いや、駄目じゃ、よせ……。ホギャア!」
あまりに騒々しいのと様子を見かねたのだろう。近くにいた門下生が稽古の手を休めて、苦笑いしながらクリューネたちのもとへと駆け寄ってきた。
※ ※ ※
「見事な試合だった。ワシの想像以上だ」
「……いや、でも、野村がかなり腕を上げていて驚いたよ」
いつもは厳しい祖父に誉められて、リュウヤは照れて頭を掻きながら言った。
「竜也君、見事見事」
ドヤドヤと騒ぎながら、丸藤と倉岡が休憩室に入ると、すぐ後を追うようにセリナがお茶入りのペットボトルと、人数分の透明なプラスチック製のコップをお盆に載せて入ってきた。
「まったく手も足も出なんだ。強い強い」
「前も強かったが、それでも、付け入る隙みたいなのがあったのになあ」
丸藤の意見に賛同するように倉岡が頷く。その傍らで、セリナがお茶をいれて配った。
「しかも、こんなに可愛い嫁さんまで連れてきて」
「さきほどから世話になっているが、気立ても良くてまったく羨ましい」
丸藤が言うと、倉岡がそうだと首肯した。二人の男にじっと見つめられ、セリナは顔を赤くしてうつむいた。純粋さを感じさせる恥じらう仕草に、丸藤と倉岡はますます好感を持ったようだった。
「それに引き換え、うちの娘なんぞ、高校にあがったら家事も手伝わんし、親をまったく敬う気配がない。あんなに大事に育てたのに」
「うちの嫁も、若い頃は可愛いげがあったのになあ……」
丸藤と倉岡は四十歳と三十九歳と歳も近い。
丸藤は小さな印刷会社の社長で、倉岡は文房具店を経営している。何か家で屈託があるのか、丸藤と倉岡は嘆息しながら愚痴をこぼし始めていた。
始まりだしたオヤジの愚痴に、セリナはきょとんとしていたし、リュウヤは返答に困っていた。兵庫は言いたいだけ言わせておこうと思ったのか、口を挟まず黙って聞き流している。
「遅れました。先生」
丸藤と倉岡が話している間に、汗を拭き終わった野村が休憩室に入ってきた。しかし、狭い一室に大人たちが一杯なのに戸惑った様子を見せると、意を察したセリナが「どうぞ」と冷たいお茶をいれた湯飲みを野村に渡して、部屋から出ていった。
「……可愛いなあ」
野村がセリナの後ろ姿を惚れ惚れとした目で追っていたが、リュウヤの憮然とした視線に気がついて、にやにやしながら座に加わった。
「良いなあ、竜也さん。生きてたと思ったら、信じられないくらい強くなった上に、あんな可愛い外国人のお嫁さんまで」
「……お前も、皆と同じこというんだな」
「だってそうじゃないですかあ。他にも可愛い子二人も連れて。どちらか俺に紹介してくださいよ」
「お前、外国語しゃべれんのか」
リュウヤに言われて、野村は北欧圏てどんな言葉を話すんでしたっけ、と頭を抱えた。
家族以外の人間にはリュウヤは記憶喪失になって、気がついたら北欧で暮らしていたくらいしか説明していない。
馬鹿げた話だとリュウヤ自身も思わないでもないが、葬式まで行った人間が生きていた事実に、異世界にいたというよりははるかに信憑性があるようで、丸藤たちは意外にあっさりと信じたのだった。
「野村。お前、彼女いたろ。どうしたんだ」
丸藤に言われると、野村は急に悄気て深いため息をついてみせた。
「……先月、別れましたよ。合宿や出稽古で会えないからて」
暗い表情をする野村だったが、その表情が大袈裟で芝居じみているのがやけに可笑しく、リュウヤを始めとした周りの男たちは、笑うの堪えながら何度も小さな咳を繰り返した。
ウウンと兵庫がわざとらしく大きな咳をして、話題を本題に戻した。
「……ま、彼女さんの件はともかくだな、野村は竜也とやってみてどう感じた」
「いや、まさしく“天才剣士”ですよ」
兵庫の問いに野村は剣士の顔に戻り、興奮した様子で、お茶を一息に飲み干した。
「何にも出来なかった。全日本で優勝した俺がですよ。天才どころじゃないな。神才……?とにかく完敗です」
「素直に敗けを認めるとは、あの“タケゾー”らしくないな」
丸藤がほっほと喉を鳴らして笑うと、野村は苦笑いして手を振った。
“タケゾー”とは野村武蔵の子どもの頃のあだ名で、荒っぽく負けん気の強さから、宮本武蔵の小説になぞらえて、大人たちからそう呼ばれていた。今、“タケゾー”と呼ぶのは丸藤と倉岡くらいしかいない。
「二人だってそうでしょう。ここまで差があると、悔しいを通り越しちゃって、変に嬉しいと言うか」
野村の言葉にまあ、そうだな倉岡が同意した。
師範代の丸藤も次席の倉岡も、学生時代や実業団でも実績があり、雑誌でもしばしばインタビューを受けるほどの名剣士である。その二人でも野村と同様に完敗したが、悔しさなどない。
むしろ、より成長して帰ってきてくれたことに喜びを感じていた。
「どうかな?竜也は」
話の区切りを待っていた兵庫が、男たちを見渡しながら尋ねると、「竜也君なら大丈夫です」と丸藤が力強く答えた。
「竜也君の実力なら、剣で充分、めしが食えます。どの大会に出ても勝てます」
丸藤の言葉を待っていたように兵庫は小さく頷くと、リュウヤに向き直った。
兵庫の鋭い目が真っ直ぐにリュウヤを捉え、それをリュウヤは正面から受け止めた。
「そういうわけだ。竜也」
「……」
「これから、真伝流新当主として頼むぞ」
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