第七十話 高島郡平定
天文十九年(1550年)5月
愛の力(エロの力)で復活を遂げた俺と義藤さまは
清水山城は
だが清水山城を脱出して来た姉上とそれを手引きした者から城の図面や高島家の内情を得ているので城攻めにそれほど苦慮することは無かった。
図面や実地での測量で清水山城の弱点を割り出し、攻め口を的確に見定める。
また同じ高島七頭の
幕府の、それも将軍が直々に率いている軍勢が相手ということも相まって清水山城の士気は見るからに衰えていった。
城の南東部にあった屋敷群を焼き払い清水山城の
「
「黙れい! 公方様への無礼な態度は許さぬわ!」
「おお、そこもとは我が家を裏切った嫁の父君であらせられましたな。このような所で出会うとは思いませなんだ。良い機会であるので問いただしたいわ! 娘婿を攻め滅ぼすはどんな気分であるか!」
父の
兄の
「使者殿、お主は降伏の使者のはずであろう。もそっと静かに話せぬものか? これでは口論をしに来たようではないか」
降伏を申し出ているはずなのに煽りまくっているではないか。
「父上を下がらせよ――父が無礼を働き申し訳ござりませぬ。それがしは
興奮しまくっている高島頼春は随伴の者どもに下げられた。
「許す。申すがよいぞ」
公方様は頭に血が昇った高島頼春の無礼な態度に苦笑するだけで、使者の交代を笑って許した。
「ありがたき幸せであります。我が
公方様が俺に視線を向けてくる。その目はどうするのじゃ? と問いかけていた。
「
「そ、それは六角家に強要されたものであり、望んで北白川城を攻めたわけでは……」
「さらに言えば外様衆でありながら
その忠勤に励んできた朽木家を制圧して当主を挿げ替えた俺が言っても説得力がないなと我ながら思うけどね。
「我等は京極家に
「では、京極家に与しておらぬ証拠を示してもらおうか」
それは悪魔の証明というもので、証拠を示すことなど出来るものではない。
「そ、それは……我が佐々木越中家を幕府は許さず、どうあっても清水山城を攻め落とすと申されるのでありますか……」
そこに公方様が救いの言葉を投げかけた。
「越中
そういって公方様は下がられた。交渉の余地のない最後通牒ということである。高島家の降伏条件は昨晩のラブラブ尋問で打ち合わせ済みであったりする。
高島氏春は涙目で清水山城の主郭に慌てて帰っていったが、すぐに戻って来ることになる。
当主の高島孝俊は公方様の提示した条件を即座に受け入れ降伏したのである。
永田家や山崎家、横山家のように滅びるよりは命が助かるならばさっさと降伏した方がマシと思ったようである。これまでの高島七頭の仕置が苛烈と思われたことが功を奏したのだが、これがあるから撫で斬りとかの見せしめが戦国時代に横行するわけであるのだ……
降伏の返答が早かったこともあり、降伏条件は緩和することにした。
当主の越中孝俊は京極高延に通じた責任を取り剃髪して隠居。高島家の家督は嫡男の高島大蔵大輔高賢とする。高島家は清水山城およびその所領を没収。ただし奉公衆の高島家として新たに横山家の旧領を与えるという条件である。
豊臣秀吉の時代には
義藤さまには良い案だと褒められたからよしとしよう。ご褒美に頭を撫でられたぞ。
◆
高島家は降伏して存続することになったのだが、残念ながら姉上は
姉上もあっけらかんと朽木家に
降服した高島高賢は清水山城を大人しく退去していった。幕府軍は清水山城を接収して前進基地とした。この城からさらに高島郡の北部へ攻め込むのだ。
だがその準備に追われる幕府軍のもとに、遂に六角家から使者がやって来てしまう。
六角定頼が遣わして来た詰問の使者は「六角氏の両藤」と称される
六角定頼は予想していたことであるが、自分の勢力圏と認識しているであろう高島郡への征伐にイチャモンをかまして来たのだ。
高島七頭は六角家に半ば臣従しており、幕府が征伐するのはどういうことだ! とのことであるが、すでに言い訳は用意してあるので問題はない。
六角家への言い訳の証言者その1は
【平井秀名の証言】(意訳)
「六角家や公方様は
【田中頼長の証言】(意訳)
「公方様の力を読めなかったばかりに京極高延の誘いに乗ってしまった……湖のタナカ一生の不覚!! 公方様に攻められて隠居して
【高島高賢の証言】(意訳)
「朽木の野郎がムカついたので京極高延と結んで攻め込んだよ。
【朽木藤綱の証言】(意訳)
「朽木
【細川藤孝から平井・田中・高島・朽木家への質問】(意訳)
「お前らの
「我ら
【とどめの公方様の言】(覚醒バージョン)
「
高島四天王におちょくられ、とどめに公方様の言を叩きつけられた進藤貞治は何も言えずにすごすごと尻尾を巻いて帰っていった。守護の
京極高延とはさも恐ろしい男のように思えるかもしれないが、実態は六角定頼に圧倒されているだけの男であり高島七頭には何もしていない。
進藤貞治も京極高延が高島七頭に手を廻すことなどできるわけがないことは分かっているのだが、いい訳に多少無理があろうが公方様がそれを認めて口にしてしまえば
進藤貞治をやり込めた義藤さまがいたずらっぽく舌を出して俺に微笑み掛けて来る。先ほどの高圧的な義藤さまも、いたずらっぽい義藤さまもどちらも可愛くて困ってしまう俺であった。
◆
その木津荘にはいわゆる
饗庭三坊は山門領の代官から豪族になったやつらで、後年には浅井長政と通じて高島郡南部にまで勢力を拡大したりするが、この時代にはそれほどの勢力にはまだ成っていない。
大した勢力ではないのだが、高島郡を
問答無用に攻め滅ぼしてしまったほうが、兵の損耗やのちの統治を考えると楽であるのだが、義藤さまは饗庭三坊も奉公衆に加えるお気持ちであり、攻める前に降伏勧告をするように命じられてしまう。
身も心もとろけてしまった俺は義藤さまに逆らうことが出来ないので、 饗庭三坊と同じく比叡山の
「公方などは見えぬ! 公方などは聞かぬ! 公方などとは喋らぬ! ここは山門領であり幕府の指図など受ける
だが、饗庭三坊の返事は非常に無礼なものであった。
山門領の代官として比叡山延暦寺の権威を笠に着る饗庭三坊は情勢を理解せずに傲慢ですらあった。
「饗庭三坊らは奉公衆として身分を与えようとする公方様の温情を理解せず、山門という権力にあぐらをかき、公方様や我ら奉公衆をも愚弄している……皆の衆よ、許せることであるか?」
「クソ坊主共が目に者を見せてくれるわ」
「比叡山のクソ坊主共が図にのりやがって」
「黙れこわっぱ!」(入れたかっただけ)
「さあ公方様、われ等に攻撃命令を」
イキリ上がる奉公衆を見て、公方様がそっと耳打ちする。
「よいのか? あんなに
「叡山とはしかと交渉します。山門領の収入を
「ん、分かった」
「では、出陣の下知をお願いします」
「わしは饗庭三坊とやらも奉公衆として武家の身分を与えてやろうと考えていたのじゃが……話を聞く気もないのではいた仕方あるまい。饗庭三坊とやらを討ち取った者にはその領地の代官に任命することを約束しよう。さあ者ども饗庭三坊とやらをなぎ払うがよい!」
高島郡に集った奉公衆たちは公方様の武家を大事にしようとする意気に感動しまくった。
「我らが公方様のために!」×いっぱい
円卓の騎士ならぬ奉公衆は軍議の席から勢い良く立ち上がり、
「山門の坊官どもに武家の意地を見せてくれるわぁぁぁ!」
「逃げるヤツは坊官だ。逃げないヤツは訓練された坊官だ。ほんと高島は地獄だぜー! ふははははは」
「首おいてけ、なあ、手柄首おいてけよ。なあ坊官だろおまえ?」
「坊官は根絶やしだぁぁぁ」
まるで秘境グンマーに生息する首狩り族のように手柄首を追い求めた奉公衆は、饗庭三坊の拠点である
「なあ藤孝。あそこまで坊官どもを追い回して叡山と妥協なぞ出来るものなのか?」
「な、なんとかします……」
この時代の
年貢徴収は幕府が責任をもって請け負うし、
首狩り族と化した幕府軍は木津荘から饗庭三坊らを叩きだし、今津の町を抑え
今津から北上した幕府軍は
幕府軍による高島郡の制圧は、最後はろくに戦闘にもならずあっけなく完了するのであった。
田屋吉頼は木津荘や善積荘で首を求めて暴れまわった蛮族が如き幕府奉公衆の乱行に非常に怯えていたという――
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おまけの解説「饗庭三坊と田屋家」
謎の作家細川幽童著「どうでもよい戦国の知識」より
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【
饗庭三坊(高島三坊とも)は延暦寺山門領木津荘の代官であったとされる
饗庭弥太郎やその末子は「
饗庭弥太郎の長子が「
饗庭弥太郎の次子は「
饗庭弥太郎の季子(末子)は「
饗庭三坊は浅井長政と結んで高島越中家の没落に合わせて勢力を拡大したものと思われるが、明智光秀に攻撃されるなどして織田信長の高島侵攻時に滅ぼされたと考えられる。
その後、吉武壱岐守は津田信澄、村上頼勝と主を変え村上藩の筆頭家老になるが、村上藩二代の村上忠勝がお家騒動で改易となったためか、史料がほとんど残っておらず、残念ながら「饗庭三坊」の多くが謎のままである。
個人的な見解だが、饗庭三坊と土岐一族の
【田屋家と
田屋家も出自が良く分からない家であるのだがどうやら清原家の一族であるようだ。マキノ町誌によれば室町期には清原行長や田屋清原頼秀、清原蓮廉の名が見え、また戦国期の田屋山城守清原朝臣吉頼の名乗りからも、田屋家は清原一族を自認していたようである。
戦国期の
浅井嫡流の血筋である鶴千代を妻とした田屋明政は「浅井明政」を名乗り浅井亮政の後継候補にもなっている。
(浅井亮政の嫡男である
だが浅井亮政が没すると、庶子の
田屋明政と浅井久政は家督を争ったという説も有るのだが、個人的には無かったのではないかと考えている。
海津には田屋氏の一族とされる
琵琶湖北岸の要港である海津は京極家の勢力圏であったが、天文7年の六角定頼の北伐にあわせて六角方であった高島越中守が海津を攻めており京極方の田屋家は田屋城に篭城して戦っている。これ以降、海津は六角家の支配下となり、
天文15年や天文18年に海津で戦があったとされるのだが、浅井久政が六角定頼と手切れし京極高延と結ぶのは天文19年以降であり、海津政元こと田屋明政が浅井久政の協力を得て海津を支配するのは天文19年以降のことではないかと推測している。
浅井家は浅井長政の代となると海津から高島郡へと進出していくのだが、海津政元はその勢力拡大に大きな役割を果たしたのであろう。
田屋明政の子孫としては旗本三好家が江戸時代に存続している。
田屋明政と鶴千代の娘である
海津局とその妹である
田屋明政は田屋家の家督を継承しておらず、田屋山城守
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