第七十話 高島郡平定

 天文十九年(1550年)5月



 愛の力(エロの力)で復活を遂げた俺と義藤さまは岩神館いわがみやかたを出陣し、先に高島家の清水山城しみずやまじょうを包囲していた幕府軍に合流した。

 清水山城は高島七頭たかしましちがしらの旗頭である高島越中家の本城であり、流石になかなかの堅城である。


 だが清水山城を脱出して来た姉上とそれを手引きした者から城の図面や高島家の内情を得ているので城攻めにそれほど苦慮することは無かった。

 図面や実地での測量で清水山城の弱点を割り出し、攻め口を的確に見定める。


 また同じ高島七頭の朽木くつき家や平井家、田中家で高島家の者と親しくする者が多くいたので、それらの者から敵勢に投降を呼びかけもした。

 幕府の、それも将軍が直々に率いている軍勢が相手ということも相まって清水山城の士気は見るからに衰えていった。


 城の南東部にあった屋敷群を焼き払い清水山城の主郭しゅかく(本丸)の目前にまで迫ると、援軍の宛てのない高島越中刑部大輔ぎょうぶだゆう孝俊たかとしは抵抗を諦め、降伏の使者を送って来ることになる。


高島たかしま河内守かわちのかみ頼春よりはると申す。公方様や並み居る諸将に申し上げたい。何ゆえ我が佐々木越中家を攻めまするか! 我が高島家は公方様の外様衆とざましゅうとして幕府に対して忠勤に励んで参った。その奉公に報いるどころか攻め滅ぼそうとするとは……それが武家の棟梁のすることか!」


「黙れい! 公方様への無礼な態度は許さぬわ!」


「おお、そこもとは我が家を裏切った嫁の父君であらせられましたな。このような所で出会うとは思いませなんだ。良い機会であるので問いただしたいわ! 娘婿を攻め滅ぼすはどんな気分であるか!」


 父の三淵晴員みつぶちはるかずと使者の高島頼春たかしまよりはるが口論を始めてしまう。

 兄の三淵藤英みつぶちふじひでが父を止め、高島頼春に随伴してきた若武者も見かねて高島頼春を止めに入った。


「使者殿、お主は降伏の使者のはずであろう。もそっと静かに話せぬものか? これでは口論をしに来たようではないか」


 大和晴完やまとはるみつが呆れながらも割って入って仲裁するが、高島頼春は本当に降伏の使者か?

 降伏を申し出ているはずなのに煽りまくっているではないか。


「父上を下がらせよ――父が無礼を働き申し訳ござりませぬ。それがしは高島たかしま八郎兵衛はちろうひょうえ氏春うじはると申します。父に成り代わり、我が主の口上こうじょうを伝えさせて頂きたく」


 興奮しまくっている高島頼春は随伴の者どもに下げられた。


「許す。申すがよいぞ」


 公方様は頭に血が昇った高島頼春の無礼な態度に苦笑するだけで、使者の交代を笑って許した。


「ありがたき幸せであります。我があるじの刑部大輔孝俊様にその嫡男の高賢たかかた様は公方様に対する異心などはなく、公方様の慈悲の心にすがり和議を願いたいと申しております」


 公方様が俺に視線を向けてくる。その目はどうするのじゃ? と問いかけていた。


八郎兵衛はちろうひょうえ殿。佐々木越中家は公方様に対する異心はないと申すが、北白川きたしらかわ城に篭城した公方様に対して六角定頼ろっかくさだよりとともに兵を向けたことを我等は忘れておらぬ。この清水山城へ幕府軍が寄せるのはその報復であると心得るがよい」


「そ、それは六角家に強要されたものであり、望んで北白川城を攻めたわけでは……」


「さらに言えば外様衆でありながら勝軍山しょうぐんやま城に篭城し三好長慶と対峙する公方様に援兵も送らず、京極高延きょうごくたかのぶくみして幕府に忠勤を励んできた朽木家の者を討ち取るとは言語道断の仕儀で有ろう」


 その忠勤に励んできた朽木家を制圧して当主を挿げ替えた俺が言っても説得力がないなと我ながら思うけどね。


「我等は京極家にくみしてなどはおりませぬ」


「では、京極家に与しておらぬ証拠を示してもらおうか」


 それは悪魔の証明というもので、証拠を示すことなど出来るものではない。


「そ、それは……我が佐々木越中家を幕府は許さず、どうあっても清水山城を攻め落とすと申されるのでありますか……」


 高島氏春たかしまうじはるが絶望してしまう。ちょっとイジメ過ぎたかな。

 そこに公方様が救いの言葉を投げかけた。


「越中孝俊たかとし高賢たかかたの親子は剃髪ていはつして出家するがよい。城を開城して両名が出家いたせば、城に篭った郎党の罪は問うまい。清水山城に越中家の領地は没収いたすが、両名には生きられるだけの捨扶持すてぶちは与えよう。郎党の再仕官も許す。高賢が恭順きょうじゅんの意思を示しておれば、いずれ奉公衆ほうこうしゅうの高島家として再興することも考えよう。その方はこの条件を持ってあるじのもとへ急ぎ戻るがよい。一刻いっとき(約2時間)は待つとしよう。一刻ののちまでに返答無くば城攻めを再開いたす」


 そういって公方様は下がられた。交渉の余地のない最後通牒ということである。高島家の降伏条件は昨晩のラブラブ尋問で打ち合わせ済みであったりする。


 高島氏春は涙目で清水山城の主郭に慌てて帰っていったが、すぐに戻って来ることになる。

 当主の高島孝俊は公方様の提示した条件を即座に受け入れ降伏したのである。


 永田家や山崎家、横山家のように滅びるよりは命が助かるならばさっさと降伏した方がマシと思ったようである。これまでの高島七頭の仕置が苛烈と思われたことが功を奏したのだが、これがあるから撫で斬りとかの見せしめが戦国時代に横行するわけであるのだ……


 降伏の返答が早かったこともあり、降伏条件は緩和することにした。

 当主の越中孝俊は京極高延に通じた責任を取り剃髪して隠居。高島家の家督は嫡男の高島大蔵大輔高賢とする。高島家は清水山城およびその所領を没収。ただし奉公衆の高島家として新たに横山家の旧領を与えるという条件である。


 豊臣秀吉の時代には所替ところがえ(転封)は珍しくないが、この時代にはあまり行われていない処置であろう。目的さえ果たせば必ずしも滅ぼす必要はない。家名の存続を図れるこういった措置をやっていくのも悪くないと思うのだが、甘いかな?

 義藤さまには良い案だと褒められたからよしとしよう。ご褒美に頭を撫でられたぞ。


 ◆


 高島家は降伏して存続することになったのだが、残念ながら姉上は高島高賢たかしまたかかたと正式に離縁することになった。だが、父の三淵晴員みつぶちはるかずは朽木家の当主となった朽木藤綱と姉上との婚姻をいつの間にかまとめてしまっていた。 


 姉上もあっけらかんと朽木家に再嫁さいかしていった。義藤さまも唖然としたようだが苦笑して祝福していた。


 降服した高島高賢は清水山城を大人しく退去していった。幕府軍は清水山城を接収して前進基地とした。この城からさらに高島郡の北部へ攻め込むのだ。

 だがその準備に追われる幕府軍のもとに、遂に六角家から使者がやって来てしまう。


 六角定頼が遣わして来た詰問の使者は「六角氏の両藤」と称される進藤貞治しんどうさだはるであった。

 六角定頼は予想していたことであるが、自分の勢力圏と認識しているであろう高島郡への征伐にイチャモンをかまして来たのだ。

 高島七頭は六角家に半ば臣従しており、幕府が征伐するのはどういうことだ! とのことであるが、すでに言い訳は用意してあるので問題はない。


 六角家への言い訳の証言者その1は平井秀名ひらいひでなで、その2は田中頼長たなかよりなが、その3は高島高賢たかしまたかかた、その4は朽木藤綱くつきふじつなである。


【平井秀名の証言】(意訳)

「六角家や公方様は三好長慶みよしながよしと対峙しており、六角定頼様でもいまだに滅ぼせない京極高延に脅迫されてしまっては京極にくみするほかなかったのだ。でも公方様が凄い速さで攻めてきたので改心して降伏して許されたよ。公方様がこれほどとは!! 読めなかった。このヒデナの目をもってしても!! あ、これ京極さん家からのお手紙です」


【田中頼長の証言】(意訳)

「公方様の力を読めなかったばかりに京極高延の誘いに乗ってしまった……湖のタナカ一生の不覚!! 公方様に攻められて隠居して朽木成綱くつきしげつなを養子にしたので、あとは成綱に聞いてくれ。俺はもう知らんもんねー」


【高島高賢の証言】(意訳)

「朽木の野郎がムカついたので京極高延と結んで攻め込んだよ。朽木晴綱くつきはるつなをぶっ殺したけど公方様は許してくれたんだわ。公方様は神様だなー。あとうちは奉公衆になるので、おたく(六角家)とはもう付き合えませーん。あとは幕府と話してねー」


【朽木藤綱の証言】(意訳)

「朽木竹若丸たけわかまると家督争いになって、あろうことか竹若丸派は京極高延と通じたので攻め滅ぼしたよーん。公方様が助けてくれたのでもう解決してますのでお構いなく。朽木家は公方様に忠誠を誓うんだよーん」


【細川藤孝から平井・田中・高島・朽木家への質問】(意訳)

「お前らのあるじの名を言ってみろー!」

「我ら高島七頭たかしましちがしら改め高島四天王たかしましてんのうは公方様の奉公衆でありまーす。奉公衆は守護使不入しゅごしふにゅうが認められているもんねー、六角家なんか知らんよーだ」


【とどめの公方様の言】(覚醒バージョン)

進藤貞治しんどうさだはるとやら、その方は兵をいくら率いて来たのだ? なに? 率いていないだと! この愚か者めが! 進藤家は幕府より海津かいづの代官に任命されているであろうが、我らはこれより京極高延に与する今津いまづ田屋家たやけを攻めるのだ。幕府の代官の身でありながら援軍も出さずにここに何しにやって来たか! とっとと帰って援軍を率いて参るがよい! このウスノロが! 六角定頼にも伝えるがよい。わしが京極と浅井を西から牽制している間に六角家もさっさと北へ攻め上がれとな」


 高島四天王におちょくられ、とどめに公方様の言を叩きつけられた進藤貞治は何も言えずにすごすごと尻尾を巻いて帰っていった。守護の陪臣ばいしんで御料所の代官でもある進藤貞治ごときでは身分も違い公方様に文句を正面から言えるわけがないのである。


 京極高延とはさも恐ろしい男のように思えるかもしれないが、実態は六角定頼に圧倒されているだけの男であり高島七頭には何もしていない。

 進藤貞治も京極高延が高島七頭に手を廻すことなどできるわけがないことは分かっているのだが、いい訳に多少無理があろうが公方様がそれを認めて口にしてしまえば建前たてまえとして通ってしまうのだった。


 進藤貞治をやり込めた義藤さまがいたずらっぽく舌を出して俺に微笑み掛けて来る。先ほどの高圧的な義藤さまも、いたずらっぽい義藤さまもどちらも可愛くて困ってしまう俺であった。


 ◆


 清水山しみずやま城の東から北にかけては、比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじの荘園であり山門領と称される木津荘こうつのしょうが広がっている。

 今津いまづにとって代わられてしまったが、木津こうつはかつて湖西の重要な港であったこともあり、木津荘こうつのしょうは現在も山門領として重きをなす地である。


 その木津荘にはいわゆる饗庭三坊あえばさんぼうと呼ばれる「西林坊さいりんぼう定林坊じょうりんぼう宝光坊ほうこうぼう」の勢力が居たりする。

 饗庭三坊は山門領の代官から豪族になったやつらで、後年には浅井長政と通じて高島郡南部にまで勢力を拡大したりするが、この時代にはそれほどの勢力にはまだ成っていない。


 大した勢力ではないのだが、高島郡を御料所ごりょうしょとして奉公衆に分配するためには饗庭三坊は邪魔な存在であったりする。

 問答無用に攻め滅ぼしてしまったほうが、兵の損耗やのちの統治を考えると楽であるのだが、義藤さまは饗庭三坊も奉公衆に加えるお気持ちであり、攻める前に降伏勧告をするように命じられてしまう。

 身も心もとろけてしまった俺は義藤さまに逆らうことが出来ないので、 饗庭三坊と同じく比叡山の坊官ぼうかんの身分を持つ佐竹蓮養坊さたけれんようぼうに交渉をお願いした。


「公方などは見えぬ! 公方などは聞かぬ! 公方などとは喋らぬ! ここは山門領であり幕府の指図など受けるいわれはないわ」(意訳)


 だが、饗庭三坊の返事は非常に無礼なものであった。

 山門領の代官として比叡山延暦寺の権威を笠に着る饗庭三坊は情勢を理解せずに傲慢ですらあった。


「饗庭三坊らは奉公衆として身分を与えようとする公方様の温情を理解せず、山門という権力にあぐらをかき、公方様や我ら奉公衆をも愚弄している……皆の衆よ、許せることであるか?」


「クソ坊主共が目に者を見せてくれるわ」


「比叡山のクソ坊主共が図にのりやがって」


「黙れこわっぱ!」(入れたかっただけ)


「さあ公方様、われ等に攻撃命令を」


 イキリ上がる奉公衆を見て、公方様がそっと耳打ちする。


「よいのか? あんなにあおってしまって、叡山と揉めるわけにはいかぬのであろうに」


「叡山とはしかと交渉します。山門領の収入をかすめ取るわけではありません。饗庭三坊に代わって我等が代官となるだけのこと。それに国衙領こくがりょうや公家・寺社の荘園に地頭(代官)として御家人を置き武家の奉公に報いることは鎌倉幕府以来の征夷大将軍の大事な使命です。彼らは公方様のおんためにと働く気構えです。彼らの働きに期待しましょう」


「ん、分かった」


「では、出陣の下知をお願いします」


「わしは饗庭三坊とやらも奉公衆として武家の身分を与えてやろうと考えていたのじゃが……話を聞く気もないのではいた仕方あるまい。饗庭三坊とやらを討ち取った者にはその領地の代官に任命することを約束しよう。さあ者ども饗庭三坊とやらをなぎ払うがよい!」


 高島郡に集った奉公衆たちは公方様の武家を大事にしようとする意気に感動しまくった。


「我らが公方様のために!」×いっぱい


 円卓の騎士ならぬ奉公衆は軍議の席から勢い良く立ち上がり、三淵晴員みつぶちはるかずを先頭に山門領木津荘に熱狂を持って突撃していった。奉公衆らの眼前にエサをぶら下げたのである。目の前の荘園の代官という分かりやすい恩賞により根が単純な彼らは燃え上がった。


「山門の坊官どもに武家の意地を見せてくれるわぁぁぁ!」


「逃げるヤツは坊官だ。逃げないヤツは訓練された坊官だ。ほんと高島は地獄だぜー! ふははははは」


「首おいてけ、なあ、手柄首おいてけよ。なあ坊官だろおまえ?」


「坊官は根絶やしだぁぁぁ」


 まるで秘境グンマーに生息する首狩り族のように手柄首を追い求めた奉公衆は、饗庭三坊の拠点である日爪館ひづめやかた饗庭館あえばやかた吉武城よしたけじょうを打ち壊していった。兵力に差が有るのでさもありなんなのだが、あいかわらず弱いものイジメが得意な幕府軍であった。


「なあ藤孝。あそこまで坊官どもを追い回して叡山と妥協なぞ出来るものなのか?」


「な、なんとかします……」


 この時代の天台座主てんだいざす(比叡山延暦寺のトップ)は尊鎮法親王そんちんほうしんのうになる。近衛家や三条西家が親しくあるのでその筋から賄賂を贈って交渉してみよう。佐竹蓮養坊殿からも伝手を使って交渉をお願いするし、まあなんとかなるんじゃね。

 年貢徴収は幕府が責任をもって請け負うし、押領おうりょうも今はまだする気が無いし、叡山も銭が入って来るなら幕府と正面からぶつかろうとはしないだろう。


 首狩り族と化した幕府軍は木津荘から饗庭三坊らを叩きだし、今津の町を抑え善積荘よしずみのしょう河上荘かわかみのしょうもその勢力下に置いた。そこからさらに北の田屋たや長法寺ちょうほうじ)館や田屋(森西もりにし)城に拠る田屋家を攻めるのである。


 今津から北上した幕府軍は百瀬川ももせがわを渡り、沢村の田屋家の居館(長法寺館)に迫った。田屋勢は幕府軍の北上を知り平城を捨て森西村にある詰めの山城である田屋城(森西城)に篭城した。


 京極高延きょうごくたかのぶ浅井久政あさいひさまさ田屋明政たやあきまさは田屋城に援軍を送る余力はなく、田屋吉頼たやよしよりは田屋城を開城して田屋明政を頼って小谷城へと落ち延びていった。


 幕府軍による高島郡の制圧は、最後はろくに戦闘にもならずあっけなく完了するのであった。

 田屋吉頼は木津荘や善積荘で首を求めて暴れまわった蛮族が如き幕府奉公衆の乱行に非常に怯えていたという―― 


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 おまけの解説「饗庭三坊と田屋家」

 謎の作家細川幽童著「どうでもよい戦国の知識」より

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饗庭三坊あえばさんぼう(高島三坊)】


 饗庭三坊(高島三坊とも)は延暦寺山門領木津荘の代官であったとされる饗庭弥太郎あえばやたろうを祖とする。

 饗庭弥太郎やその末子は「吉武壱岐守よしたけいきのかみ」ともされ、織田信長の甥である津田信澄つだのぶすみや越後村上藩主の村上頼勝むらかみよりかつの家臣にも吉武壱岐守の名があり、饗庭弥太郎の嫡流は代々「吉武壱岐守」を称したものと思われる。


 饗庭弥太郎の長子が「西林坊さいりんぼう」を称し、日爪ひづめ村の日爪館や日爪城主となったとされる。

 饗庭弥太郎の次子は「定林坊じょうりんぼう」を称し、霜降しもふり村を領して饗庭館に在したと考えるが詳細は不明。

 饗庭弥太郎の季子(末子)は「宝光坊ほうこうぼう」を称して五十川村いかがわむら針江村はりえむらを領して吉武城や五十川城主となったとされる。吉武法泉坊ほうせんぼうと称したともれされ、「宝光坊」と「法泉坊」、「吉武壱岐守」は同一の家系であろう。


 饗庭三坊は浅井長政と結んで高島越中家の没落に合わせて勢力を拡大したものと思われるが、明智光秀に攻撃されるなどして織田信長の高島侵攻時に滅ぼされたと考えられる。

 その後、吉武壱岐守は津田信澄、村上頼勝と主を変え村上藩の筆頭家老になるが、村上藩二代の村上忠勝がお家騒動で改易となったためか、史料がほとんど残っておらず、残念ながら「饗庭三坊」の多くが謎のままである。


 個人的な見解だが、饗庭三坊と土岐一族の饗庭あいば(相場)氏とは関係がないと思っている。また吉武壱岐守と「法泉坊新庄俊長しんじょうとしなが」が同一人物なのかは不明であるが、新庄直昌しんじょうなおまさ新庄直頼しんじょうなおよりの新庄家とは関係がないと考えている。


【田屋家と田屋明政たやあきまさ海津政元かいづまさもと


 田屋家も出自が良く分からない家であるのだがどうやら清原家の一族であるようだ。マキノ町誌によれば室町期には清原行長や田屋清原頼秀、清原蓮廉の名が見え、また戦国期の田屋山城守清原朝臣吉頼の名乗りからも、田屋家は清原一族を自認していたようである。


 政所執事代まんどころしつじだい蜷川親元にながわちかもと日記に江州海津衆として田屋家の名が見られるが、田屋家は基本的には京極家の被官であったと思われる。京極家の被官から浅井家が台頭すると田屋家は浅井家と結びついた。


 戦国期の田屋明政たやあきまさ浅井亮政あさいすけまさとその正室の蔵屋(浅井本家の浅井直政あさいなおまさの娘)との娘である鶴千代を正室とし浅井亮政の婿となった。

 浅井嫡流の血筋である鶴千代を妻とした田屋明政は「浅井明政」を名乗り浅井亮政の後継候補にもなっている。

(浅井亮政の嫡男である浅井政弘あさいまさひろの早世後に田屋明政が婿となった)


 だが浅井亮政が没すると、庶子の浅井久政あさいひさまさが恐らくは六角定頼の後押しで浅井家の家督を継ぐことになる。

 田屋明政と浅井久政は家督を争ったという説も有るのだが、個人的には無かったのではないかと考えている。


 海津には田屋氏の一族とされる海津政元かいづまさもとが海津西内城を本拠に勢力を持つことになるのだが、この海津政元が田屋明政と同一人物説がある。


 琵琶湖北岸の要港である海津は京極家の勢力圏であったが、天文7年の六角定頼の北伐にあわせて六角方であった高島越中守が海津を攻めており京極方の田屋家は田屋城に篭城して戦っている。これ以降、海津は六角家の支配下となり、進藤貞治しんどうさだはるが幕府により海津荘の代官に任命されているのはその追認であろう。


 天文15年や天文18年に海津で戦があったとされるのだが、浅井久政が六角定頼と手切れし京極高延と結ぶのは天文19年以降であり、海津政元こと田屋明政が浅井久政の協力を得て海津を支配するのは天文19年以降のことではないかと推測している。

 浅井家は浅井長政の代となると海津から高島郡へと進出していくのだが、海津政元はその勢力拡大に大きな役割を果たしたのであろう。


 田屋明政の子孫としては旗本三好家が江戸時代に存続している。

 田屋明政と鶴千代の娘である海津局かいづのつぼねを娶った浅井政高あさいまさたかが養子となり、その子の三好直政が旗本三好家の祖である。

 海津局とその妹である饗庭局あえばのつぼねは浅井長政の娘である淀殿よどどのの侍女でもあり、海津局の夫の浅井政高は大坂の陣で自害している。


 田屋明政は田屋家の家督を継承しておらず、田屋山城守吉頼よしよりやその弟と思われる田屋淡路守重頼しげより(茂頼)が田屋本家を継いでいたと思われるが、織田信長の侵攻により浅井家とともに田屋家は滅んだと考えられる。

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