第六十八話 朽木谷制圧
天文十九年(1550年)4月
朽木晴綱は
大御所の
「将軍家によく仕えて来られた植綱殿の嫡子たる晴綱殿を討ったことにより、高島家が京極家と通じていることは最早明白だ。高島家の
父の
「ですが父上、我らは田中城を包囲中でありますぞ、まずは田中城を攻め落としてから改めて高島に兵を向けるべきでは?」
兄の
「
公方様が俺に意見を求めてくる。
「明朝に陣を引き払い、しかるのち朽木へ向かうのがよろしいかと存じます。当主である朽木晴綱を討たれた朽木の家中は混乱の渦中にありましょう。我ら幕府軍が運よく朽木にほど近き場所に在していたことは行幸でした。公方様が我が陣中に居る朽木藤綱・成綱兄弟を連れて朽木へ参れば朽木の者共も安堵いたしましょう」
「だが与一郎、田中はどうするのだ?」
「与一郎、高島を攻めはしないのか?」
兄や父が不満の声をあげる。
「朽木谷に参り朽木の兵と合流したうえで弔い合戦を挑むことができれば名分もたち、よもや負けることなどはないかと存じますが」
「公方様、いかが致しますかな?」
「朽木家は我が幕府にとって忠義厚き家じゃ。稙綱殿は大御所を良く助けてくれた。藤綱や成綱も良くわしに仕えてくれておる。わしは朽木家を助けたく思う。兵部大輔の申すとおり晴綱殿が残念ながら亡くなったのであれば朽木は混乱しておるだろう。我らが行くことで朽木家を助けることができるであろう」
公方様の言で軍議は決し、幕府軍は明朝に陣を引き払い朽木谷へ向かうことになった。
朽木に向かうにあたって色々と準備をしなくてはならない。
まずは対峙している田中城の
無論形だけの和議交渉である。なぜか個人的にムシャクシャしていたので高圧的に田中頼長の切腹で城兵の命と田中家の存続を許すことを条件にした。
和議の交渉中に幕府軍は田中城の包囲を一時解くというもっともらしい言い訳を伝えさせる。和議の交渉中であれば追撃する意思を鈍らせることができるからな。
田中館には渡辺告を置き、次に補給線である
横山城や田中館が必要になれば、また後で攻め取ればよいだけだ。無理に守る必要はあるまい。
朽木入りについては朽木藤綱と相談して先触れの使者を送ることにした。公方様に許可を貰って朽木藤綱と朽木家中に送る書状をしたためる。
これまた文面が高圧的になってしまった気がするが、丹精こめて作った体操着が燃えてしまってムシャクシャして書いたからではないぞ……本当だぞ?
朽木藤綱の郎党にその書状を持たせて、すでに夜であるが朽木へと走らせた。
すべての準備を終えて義藤さまに報告に上がったのだが、すでに義藤さまは寝息を立てていた。
「義藤さま……申し訳ありませぬ。藤孝は義藤さまの気持ちを裏切ることをしております。お許しくだされ――」
義藤さまの可愛い寝顔に向けて謝罪をつぶやくのであった。
◆
田中城の和議交渉と監視を平井頼氏、渡辺告に任せて、残りの全軍で朽木谷へ向かう。田中城から北上し
順調に進軍していたのだが、安曇川の湾曲部であり朽木渓谷と呼ばれる場所にある
「藤孝、どういうことじゃ、なぜ我らが攻撃を受けるのじゃ。わしが朽木に向かうことを朽木の者らが知らぬわけではなかろう」
「申し訳ありませぬ朽木家には書状を持たせた使者を昨晩のうちに走らせておいたのですが……ただ、あの砦が我らの行く手を遮るつもりなのは明白です。朽木藤綱殿が交渉を試みましたが拒絶されました。見れば小勢でありますので攻め落とすことは容易と存じますので、攻撃の許可を頂きたくあります」
野尻坂砦は京を追われた足利義晴を朽木谷に迎え入れた朽木稙綱が1528年に築いた砦といわれる。
恐らくは堺公方の
その野尻坂砦に恐らくは朽木家の手の者が篭り、なぜか我が幕府軍の行く手を遮っているのだ。
「交渉に応じないのでは仕方があるまい。すみやかに落とすがよい」
山岳戦には慣れておりますと先陣を願い出た
裏手に回った斎藤利三による
「藤綱殿。野尻坂砦で我らに抵抗した守将は誰であったか?」
討ち取った敵将を朽木藤綱に確認させていた。
「も、申し訳ございませぬ……我が家中の
さすがに朽木家の陪臣の名前までは知らないが、藤綱が言うのなら間違いはないのだろう。どうやら朽木家は敵になったようである。
「公方様に報告せねばなるまいな」
忠臣と信じていた朽木家が我ら幕府軍に刃向かう事態が明白となり、公方様は心の中で泣いているようだ。
「なぜ皆幕府を裏切るのじゃ……忠義の家はどこにも存在しないのか」
義藤さまを悲しませることになってしまい、さすがに良心が痛むのだが進言せねばなるまい。
「公方様、朽木の者が全て幕府に背いたわけではありませぬ。我が陣中には藤綱・成綱の兄弟があり、勝軍山城の大御所の側には朽木稙綱殿もおわします。晴綱殿の討死があり朽木家は混乱しているだけかと存じます。我ら幕府軍で朽木藤綱殿を守り立て、朽木家中の謀反者を討てば朽木家はこれまでどおり変わらず幕府に忠義を尽くしましょうぞ」
「そうだな……すまぬ。藤綱に朽木の
朽木藤綱は朽木家中が幕府軍に叛旗を翻したことを謝罪し、改めて公方様に忠誠を誓った。朽木藤綱と成綱を先頭に幕府軍は朽木谷へと踏み込んでいくのであった。
◆
幕府軍に包囲された朽木館は逃げ出すものが居たり、命乞いをするものが居たり、館の中は混乱の
「公方様、
「うむ、任せる」
岩神館は野尻の朽木館の南方にあり、大御所の
【朽木館は
朽木館では
朽木館に留まった者らは朽木藤綱に服して忠誠を誓う者も少なくないようだ。また様子見で野尻から逃げていた者らも朽木館に戻りつつある。
「藤孝、朽木の家中の動静はどうなっておるか。朽木家の全てが敵対したわけではないのだな?」
「朽木館で事態の収拾にあたっている朽木藤綱の話では、朽木家中の一部が前当主である
【
「その朽木竹若丸とやらが我らに対し兵を挙げたということか?」
「いえ、朽木竹若丸はわずか2歳の幼子というので、朽木の一門衆である宮川家の一党が
「その宮川家は何ゆえ我ら幕府に兵を向けたのじゃ」
「はぁ、どうにも朽木藤綱に反発したようです。当主の朽木晴綱殿の討死という事態に幕府が介入して朽木家の当主を朽木藤綱殿に挿げ替えようと画策していると、宮川家の者らは考えたようであります」
「朽木家の家督は当主の朽木晴綱亡き後は
「よくある話です。在京していたため
「それでは
「このままでは朽木家は重臣らの専横を許すことになりましょう」
「2歳の幼子を祀り上げる宮川のやり口は気に入らぬところであるが、藤綱は宮川家を説得することはできないのか?」
「宮川らが援軍の宛てもなく篭城するとは思えませぬ。西山城に篭る朽木家中は
「……西山城の宮川らを討てと申すのか?」
「朽木藤綱殿が朽木家を早期に掌握するためには……討つ必要があると存じます」
「……分かった。幕府に反し京極や三好と通じる朽木家中の宮川らを討つがよい。だが幼子の朽木竹若丸に罪はなかろう。宮川家の者らから保護するようにな」
「はっ、仰せのままに」
公方様の許可が下りたので朽木竹若丸と宮川家の者らが篭る西山城を攻撃する準備に入る。
公方様の在所となっている岩神館の守備は親父の
「藤綱殿、公方様の命が下った。西山城を攻めるがよろしいか?」
「はっ、
「同じ朽木家の者が西山城を攻めるのは心苦しかろう。我ら淡路細川家が西山城を攻めるゆえ、藤綱殿には他の朽木家中の押さえをお願いしたい」
「その……竹若丸はどうなりましょうか?」」
「ご安心
「お心遣い感謝いたします」
野尻の朽木館から北方の山中にある西山城を淡路・和泉細川家の手勢と
ぶっちゃけると彼らはろくに準備もしておらず、慌てて篭城しただけであるのだ。
「
「幼子の朽木竹若丸やその母も残らず討ち果たすことでよろしいのですかな?」
「ああ、すまないが頼む。朽木を幕府に忠実な家とするためには必要なのだ」
「安心しました」
「安心?」
「はい。我らが主君は必要な措置を断固として行えるようでありますな。幼子ゆえ見逃せとでも言い出したら、若を叱るつもりでありましたが
「つまらぬ情けで台無しにする気はないよ。
「しかし朽木家中も簡単に挑発に乗ってきましたなぁ」
「朽木家にお家騒動を起こして幕府が介入する口実を作るだけのつもりが、いきなり挙兵だからな」
「それだけ宮川や
「多少弱くなったところで大して変わらんよ。
西山城は周囲を包囲され、その大手門は淡路・和泉細川家の軍勢による猛攻にさらされた。城攻めは苛烈を極め、ろくに備えをしていなかった西山城は……
「若殿、西山城の制圧が終わりました。
金森長近が西山城の制圧と主だった者の集団自決を報告して来る。
「間違いはないか?」
「間違いなくこの五郎八が確認しましたのでご安心召されよ」
「すまない。では
城は一刻ももたずに落城し
彼らが京極家や三好家と通じる? そんなことは考えても居なかったし、そんな暇は無かったと思われる。
そんなものは公方様に西山城攻めを許可してもらうための方便でしかない。
彼らは、朽木竹若丸を守るために義憤から篭城したのだろう。昨晩、朽木の館に朽木藤綱と俺の書状を持った使者が現れ彼らは暴発したのだ。
その書状には朽木藤綱が明日朽木へ軍勢を連れて参るので、竹若丸や朽木家中は臣下の礼で朽木藤綱殿を出迎えるよう命じていたとか、竹若丸は
篭城に参加しなかった者がそのような書状があったことを証言することもあったというが、新たに朽木家の当主となった朽木藤綱がそれを口にしたものを幕府に逆らうものとして粛清してからは、朽木家においてはタブーとなったようである……
宮川頼忠に宮川貞頼は朽木晴綱の重臣であり、その嫡子である朽木竹若丸を守るために散った忠臣であった……亡き主君の遺児を理不尽に扱おうとする幕府に対して怒り、そして無謀な挙兵に踏み切ったのだ。死を賭しての抗議であったのかもしれない。
「申し訳ありませぬ。朽木竹若丸とその母を自害
「気にするでないぞ。何事も上手くいくとは限るまい」
「それと朽木家の家督の件ですが、朽木藤綱殿と認めると
「一部の者が刃向かったとは言え、わしは朽木家を取り潰す気はない。御内書はすぐに書こう。藤綱には心配いたすなと伝えるがよい」
「朽木竹若丸や宮川らの
「丁重に
うーん、なんて良い上司なんだろう。これで可愛いんだから文句のつけようが無いわ。
朽木晴綱の討死から始まった朽木谷の混乱は西山城の陥落と朽木竹若丸の死によって一応の決着を見た。朽木藤綱が新たな朽木家の当主となり幕府がそれを後見することによって、朽木家中も安定することになる。
下手に時勢が読める朽木元綱とその配下らなどは、京に近く九里半街道や若狭街道を抑える朽木の地に居ても邪魔なだけなのだ。
幕府が横槍を入れることによって朽木家の新当主となることができた朽木藤綱の方が幕府に恩義を感じることになるし扱いやすい。
室町幕府が各地の守護家などの家督争いに介入するのも同じことだ。幕府に従順な当主の方が都合が良いからな。
俺にとっても朽木藤綱の方が何かと便利である。これで朽木谷からメープルシロップは取り放題に出来るし、流通を抑えることも容易になるだろう。
「しかしまあ……俺も悪人になったものだ……」
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