第六十五話 近江高島郡
天文十九年(1550年)4月
越後にまで
各地の勢力を糾合して三好長慶を迎え撃つことが戦略の要となるが、ヤツらを上洛させる環境を整えることはなかなか至難の業になるだろうなぁ……頑張るしかないけど。
だが、その勢力が上洛するうえで進軍路となるであろう「近江」に暗雲が立ち込めてしまうのである。
長尾景虎との正式な謁見を終え越後屋の準備は商人たちに任せて畿内へと戻るのであるが、情勢の変化に頭を抱えることになるのだ。
「義藤さま、ただいま越後より戻りましてございます。しっかりとお土産も買って(偽造した笹団子です)来ましたので、一緒に食べましょう」
「う、うむ。越後までご苦労であったな……」
ありゃ? 義藤さまが元気ではない。お土産にも反応が悪いぞ。
「どうかされましたか? 元気がないようでありますが」
「すまぬ。父を、大御所を見舞って参ったのじゃが……」
「お加減が悪うございましたか?」
「いや、今日は体調が良かったようで話が出来たのだが――」
――回想――
「おのれ三好筑前め! いつもいつも儂の邪魔をばかりしおって、あやつを討ち果たさねば死んでも死に切れぬわ! 征夷大将軍をなんだと思っておるのか。
――――――
「――と申しておってな。病に倒れてから怒気が強くなってしまったようじゃ」
うーん、大御所はとことん「負けの目」に掛けるお人だからなぁ。戦に出ても碌なことにはならんと思うのだが……
(足利義晴が自ら出陣した桂川原の戦いは大敗している)
肩を落として落ち込んでいる義藤さまを見て――思わず抱きしめてしまうのであった。
「な、なにを――」
ボンっ! 義藤さまは顔を真っ赤にして体を硬直させた。
「これはなんじゃ。そなたは無礼打ちにされたいのであるか?」
「これはスキンシップという治療でございます。人の温もりというものは心を落ち着かせる効果があると科学の力で実証されておりますれば」
「そ、そうか。何を言っているのか良くは分からぬが、これは治療なんじゃな。ならば仕方がない。ゆ、許すとしよう」
耳まで真っ赤になりながら力を抜いて身体を預けてきた義藤さまがトニカクカワイイ。
「はい、しばらくはこのままでいるのがよろしいかと……」
しばらくは恥ずかしそうにもぞもぞとしていたが、諦めたのか目を閉じて手を廻してくる。
「大御所は病で気が立っているだけにございます。そうお気になさらず」
「分かっておる。だが大御所の無念を晴らすことができぬのが歯がゆいのじゃ」
「いずれこの藤孝が大御所の無念を晴らしてみせましょう。そのために走り回っておりますので」
「ん……苦労をかけるな。それで越後の長尾景虎という
大人しく腕の中で会話をしてくれる義藤さまが愛おしくて仕方がない。
「公方様のために上洛し逆賊を討つと申しておりました。頼もしき御方で必ずや公方様や大御所の力となりましょう。それと多少私には劣りまするが、なかなかカッコイイ御仁でありました」
「そなたより劣るのではあまり格好の良さには期待できぬではないか」
「長尾景虎殿には家臣から熱烈な付け文が届くそうですよ」
「付け文?」
「
「ん? まさか長尾景虎殿も
「いえいえ男でございます」
「では何ゆえ家臣から付け文が届くのであるか?」
「それはもう男をも惑わす妖艶な御方でありますので、長尾家の家中は男も女も皆、長尾景虎殿にメロメロだそうであります」
「そ、そなたも惑わされて来たのではあるまいな?」
「いえいえご心配なく。私には男色の気はございませんし、すでにとある御方に惑わされておりますれば、妖艶な男であろうが傾国の美女であろうが見向きもいたしませぬ」
「ほほう、そのとある御方というのは、そなたを惑わすぐらいだからとても魅力的なのであろうな」
「それはもう……可愛くて可愛くて、思わず抱きしめてしまうほどに」
「……たしかこれは治療であったはずではないのか? お主はわしを
腕の中の義藤さまから不穏な気配が漂ってくる。
「え? いえ、これはそのう……」
「なんだか急にそなたが鬱陶しく思えて来たな。さっさと離れるが良いぞ」
「ご、御無体な……」
「もう治療は十分であろう」
「もう少しだけもう少しだけ、柔らかくて良い匂いがするので、もうしばらく!」
バッシーン! 義藤さまから平手打ちを喰らってしまう。
「いい加減にするがよい! この狼藉ものがぁ!」
残念ながらサービスタイムは終わってしまったようである。
◆
「ごほん。それで土産は何であったかの」
居住まいを整えて義藤さまが問い掛けて来る。元気になってくれるなら平手打ちぐらいは甘んじて喰らおうではないか。
「あ、はい。この笹団子になります」
「ンマ〜♪ あまあまじゃのう。笹団子と申したか、もみじ饅頭とはまた違った美味さがあるのう」
さっきまでの義藤さまの方が笹団子なんぞよりアマアマで良かったのだがなぁとか思ってしまう。
「ほかに海産物もしこたま買って来ましたので、
「ん? その方が料理をするのではないのか?」
「申し訳ございませぬ。実は近江の情勢が悪くなっておりまして、できれば出陣の御許可を頂きたくあり、残念ながら料理をする暇がなく――」
ピシッと部屋の空気が変わる。
「まってまって、やっと帰って来たかと思えばお主は、お主はぁぁぁ」
あ、義藤さまが涙目でプチ切れてしまった。
猫パンチで殴ってくるが、お前はミッキー・ロークか。
「も、申し訳ありませぬ。訳を、訳をお聞きくださいー」
駄々っ子パンチを喰らいながら懇願する。
「主たるわしを放ってドコへ行くというのじゃあぁぁ」
「だから近江です。近江。そんなに遠くへ行くわけではありませぬー」
しこたま殴って気が晴れたのか、ようやく義藤さまは落ち着いてくれた。
「ぐすん……近江と言えば六角義賢が山科を引き払い
涙と鼻水でぐずぐずの義藤さまに手ぬぐいを渡しながら近江の情勢を説明する。
「はい。北近江の
【京極高延はこのころには京極高広を名乗っていますが高延で統一します】
「京極高延と浅井久政とな? 京極家の当主は
【京極高吉は高慶、高佳とも記されますが高吉で統一します】
「京極家もお家騒動で分裂しておりまして、京極高吉殿とその兄の京極高延が争っているのであります――」
出雲・隠岐・飛騨の守護であり北近江の
さらにはカスにまで落ちぶれたくせしてこの期に及んでも、次男の京極高吉に家督を譲ろうとする京極高清と嫡男の京極高延との間でお家騒動を起こし(室町時代こんなのばっかりね)、出自のよくわからない
一般的には浅井亮政は武勇に優れ、その子の浅井久政の方は暗愚とされるのだが、実は浅井亮政の晩年から浅井家は超パワーだった六角定頼に服属していたりする。
天文7年(1538年)の京極高清の死により、六角定頼は初陣となる六角義賢とともに京極高吉を担いで北近江に侵攻した。
六角定頼の全盛期であり、そのフルパワーによって六角軍は
この結果、浅井亮政は六角家に服属し、京極高吉を擁した六角定頼によって北近江も六角定頼の影響下に入った。
浅井亮政の死後に浅井久政が浅井家の家督となったのも六角定頼の後押しがあったためであろう。
だが六角定頼の弟であり片腕であった大原高保が亡くなり、六角定頼も老いて六角義賢への政権移譲が始まることによって六角家にも陰りが見られるようになってしまう。
そこに三好長慶が台頭し、六角定頼の同盟者であった京兆家の細川晴元の没落が重なった。
今まで六角定頼に押さえ込まれていた京極高延と浅井久政が手を取り合って、敵の敵は味方の理論で三好長慶と協調して六角家に対抗しようと動き出すのである。
「京極高延と浅井久政とやらは三好長慶と組んで六角家に叛旗を翻したということであるのか?」
「かつて京極高清は細川高国派であった六角定頼と戦うために細川晴元と手を組んだこともあります。その当時に
「西の三好長慶と対峙せねばならぬ大事な時に、東の近江が安定していないのは由々しき事態であるな」
「はい。浅井家の動きにより美濃の大垣への連絡が絶たれることは大問題であります」――俺の商いが大打撃を受けるのですとは言えないがな。
「して、どう対処する気なのであるか? その方のことだ、何か考えはあるのであろうが、たしか山科は三条街道(東海道)の守備の要と申していたが、六角義賢が居なくなって大丈夫なのか?」
「まかせてください。まったく大丈夫じゃありません。三好長慶に対するためには六角家の力がどうしても必要ですし、東海道から大津・坂本を攻められたら
「そ、そうかダメなのか。だが体調には気をつけてくれ……それで出陣するというのはどういうことだ? 六角家を助けるためであるのか?」
「六角家を助けるためにもなりますが、狙いとしてはこの勝軍山城の後背地を安定させるためであります」
「後背地?」
「近江の
「そこに京極が居るのか?」
「いえ、京極家ではありませぬが、
◆
近江国は近江源氏の佐々木一族が治めてきた国であり、佐々木氏は佐々木四家と呼ばれる「
「六角家」は佐々木氏の嫡流であり、室町期には江南の6郡と近江の守護職を継承し、
「京極家」は佐々木
「大原家」は幕府の奉公衆であり、細川藤孝が養子となった淡路細川家の出自でもあるのだが、
(大原高保の死後は
「高島家」は越中守の官途を世襲したので正式には佐々木越中家と呼ばれる。湖西の高島郡にはその分家が繁栄しており「
「高島七頭」は高島・田中・
【分かりにくいので基本的には佐々木越中ではなく高島を使います】
だが六角定頼により全盛期を迎えた六角家にこの高島七頭は飲み込まれることになる。
天文4年(1535年)に六角定頼は高島郡に侵攻し、
また、大永5年(1525)の
特に高島・田中の両家は足利義輝(義藤)の元服式において護衛を務め、北白川城に足利義晴が篭城した際には六角定頼のために先鋒として攻め寄せ、「六角の両客」と称される立場になっていた。
「――とまあ高島七頭は六角家に従っているような状況ではありますが、公的には幕府の外様衆です。幕府が処断したとしても六角定頼は表立っては問題化できない曖昧な状態なわけです」
近江の情勢や高島七頭について義藤さまに説明していたが分かってくれたかしら。
「だが六角家としては面白くないのは確かなのであろう、幕府として征伐してもよいものだろうか?」
「そこは交渉次第でどうにでもなりましょう。六角家に対しては高島七頭を征伐する根拠と代わりのエサを与えればよいだけのこと。
「お主、段々と性格が悪くなってはいまいか?」
「政略や軍略というものはお人よしにはできぬものでありますので」
「そうではあろうが……まあよい。それで高島七頭とやらが妙だというのはどういう事じゃ」
青苧や「越後屋」の物資の流通に便宜を図ってもらうため、越後からの帰りに親族のもとを訪ねていた。
訪ねた先は、小浜を支配する若狭守護の
【
日本海から琵琶湖までの最短のルートである
逆に小浜の若狭武田家や九里半街道の途中にある熊川の沼田家、九里半街道終点の今津に影響力のある高島家、この三家は実は細川藤孝の縁戚であるので非常に話が通しやすいのだ。
(正直偶然とは思えない、三淵晴員は意図して九里半街道沿いの実力者を縁戚にしたのではないだろうか)
「越後からの帰りに長尾家の青苧流通や新たな商いのために便宜を図って貰おうと、姉婿の居る高島越中の居城である
「それで高島家が怪しいというのか? たんにそなたが横柄であっただけではないのか?」
小笠原流の礼法を学んで礼儀作法にはうるさい細川藤孝を横柄とはひどい言い草だな。
「いえ、当主の
「兵を出そうとしたところに余計なお主が訪ねて来たから高島家にはぞんざいな扱いをされたということか」
「高島郡は大津・坂本のある
「だが、高島家はそなたの身内であろう。お主は身内を攻めるというのか?」
「公方様のためであれば身内だろうが関係はありませぬ。いえ身内だからこそ外様衆の立場を忘れ幕府の意向に沿わぬ行動を取る高島家は許せないものがあります。これは父の三淵晴員も兄の
「父や兄に弟が、姉の居る城を攻めると申すのか……」
「乱世の習いにござりまするが、幕府が兵を出すことにより高島家を翻意させることができるやもしれませぬ。高島家がしかと公方様に服することになれば滅ぼす必要はありますまい」
「分かった……おぬしがそこまで言うのであれば是非もない。外様衆たる高島家を誅するのはわしの責務でもあろう。だが、兵を出すには条件を付けさせて貰おう」
「条件? それはいったい……」
「わし自らが出陣いたす。それが条件じゃ」
「……は?」
◆
義藤さま自らが出陣だと? そんな危ないことをさせるわけにはいかないではないか。何を言っているのだこの子(将軍です)は……
「そのような危ないことはおやめくだされ」
「む? その方はわしを何だと思っておるのだ? わしは征夷大将軍じゃ。武家の棟梁じゃ。武家の棟梁が
「戦などは我ら奉公衆にお任せ下さい。公方様自らが戦場に出る必要はありますまい」
「我が祖先の足利尊氏公も足利義満公も、それに父の大御所も戦場には出ておるわ。それに大御所も武威を示すことを望まれておる。かく言うわしも高島や田中が外様衆でありながら六角定頼に従い我らに兵を向けたことは許せぬ仕儀とかねてより思っておった。わしの出陣に反対するというのであれば、兵部大輔、そなたはこの城で留守居でもしているがよい。高島とやらは奉公衆を率いてわし自らの手で平定してくれよう」
高島郡について何も知らない義藤さまが指揮して勝てるわけがないではないか。まあ、公方様の出陣なんぞは大御所やほかの幕臣連中が止めるだろうが……
「大御所やほかの幕臣が公方様の出陣に賛同はいたしますまい」
「では、大御所から出陣の許可を貰って参る。兵部大輔も一緒に参り大御所に委細を説明するがよい――」
◇
◇
◇
そして室町幕府第13代征夷大将軍足利義藤公の初陣が唐突に決まってしまうのである……マジかよ。
なんということでしょう。病床の大御所が公方様の出陣に諸手を上げて賛同してしまったのだ……相変わらずの
それに大御所の側近や他の幕臣らも、どうしたものか賛成に回ってしまったのだ。どうやら長くてヒマな篭城が続き、皆が飽き飽きしていたようである。
奉公衆の皆が出陣を希望する有様でもあり、勝軍山城に留守居が必要だと説得するのが大変であった始末だ。何か全員頭おかしくなってないか? もうやだ、この幕府……
今回も出兵に反対し小言を言っていた
だが、将軍の親征という行為そのものは悪くない。義藤さま個人には危ないことはして欲しくないのだが、将軍としては失墜しまくった武威を上げるために親征を行う必要があるのだ……
衆議が決し、高島郡に派遣される幕府軍が編成されることになった。
総大将は公方様こと足利義藤、副大将は三淵晴員、
何か前回の幕府軍と余り代わり映えしないのだが、遠征に軍を出せるほど裕福な奉公衆は限られるので貧乏な幕府としてはこうなってしまう。
「初陣で分からぬゆえよきに計らえ、全て任す」
俺は義藤さまの一言で、「
「義藤さま早速ですが出陣します」
「ん? 先ほど衆議で決まったばかりであろう。いくらなんでも早すぎではないのか?」
「戦は
「じゃが、わしはまだ戦支度が出来ておらぬぞ」
「こんなこともあろうかと
義藤さまのコスプレ衣装は巫女服から陣羽織に甲冑も、なぜか現代の体操服に似せたものまで全てサイズもジャストフィットで用意済みだ……ぬかりはない。
「じゃ、じゃが……」
「急ぐのです。高島七頭が動き出してからでは遅いのです。後続の連中は小笠原殿と
細川家や三淵家の郎党は篭城中も毎日訓練をしていたので即応が可能だ。出れるならさっさと出たい。
本音は六角家の横槍が入る前に出陣する必要があるためだがな。六角定頼の注意が湖東に向いているうちに速やかに兵を出さねばならんのだ。
ジタバタと恥ずかしがる義藤さまを役得とばかりに無理やり着替えさせ、とっとと出陣する。
義藤さまが急遽出陣することになり、松井新二郎や沼田兄弟、
こうして神速の出陣をすることになった義藤さまには「
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