第六十四話 長尾景虎
天文十九年(1550年)3月
「
「
お互いが名乗りしばらく沈黙するが、景虎が再び開口する。
「遠路はるばる大儀でござった」
「景虎様みずからのお越しを感謝いたします」
「
「苛めるなどとは……私は長尾家との友好を――」
「兵部殿。前置きは良い。そちの目的はなんじゃ?
「それはむろん長尾家の公方様への忠義にございます」
「忠義はむろん尽くそう。
「むろんであります。公方様は長尾景虎殿による越後の
「御所様
「公方様は景虎殿を正統なる越後国主であると認め、
ちなみに信濃守は景虎の父である
(あと現在の弾正少弼は
「ありがたいことだな。兵部殿も
「公方様はむろんでありますが、それがしも長尾景虎殿の武勇に大いに期待しておりまする。なにとぞ我が
「確かに兵部大輔殿は我が長尾家にお味方いただけるようであるが、なにゆえだ? なにゆえそこまで我が長尾家を厚遇いたす?
「ただいま公方様は
「それは
「なにもすぐに上洛せよとは申しませぬ。越後国内をしかとおまとめ頂き、軍勢を率いて上洛できる体制を整えたのち、公方様のため、幕府のため、大義のために、逆賊の三好長慶を討伐していただきたい!」
長尾景虎の目を見ながら逆賊三好を討て! と訴えたのだが長尾景虎は即答をしなかった。噂のとおりの義の武将であるならばあっさりとウンと言ってくれても良いものだろうが……
「公方様が我が長尾家を高く評してくれることはありがたき事なれど、兵を率いての上洛となると、いささか難しき仕儀かと……」
直江景綱が消極的な意見を言ってくる。まあ普通はそうだろう。この乱世になんの得にもならないのにわざわざ兵を率いて上洛する馬鹿はいないだろう。
「私は長尾景虎殿の越後国内の鎮撫と上洛の体制を整えるお手伝いをしたく思い、この越後へ参りました……
◆
上杉謙信(長尾景虎)は義の武将であり領土を欲して侵略を行わなかったかのように言われるが、ただの義の武将なんてことはまったくない。
また上杉謙信は内政なんかできない戦闘狂いの脳筋野郎に思われているかもしれないが、実は織田信長並の経済ヤクザだったりする。
越後は非常に広い国なのだが1598年の検地においてはわずか39万石に過ぎない。現在では米どころとして知られる新潟県であるのだが、戦国期には寒冷地に適した改良された稲は無く、二期作・二毛作もろくにできない雪深い不毛な大地であったりするのだ。
さらに
三方を山に囲まれ不毛な大地の越後ではあるのだが、越後には富となるものがあった。金山や銀山ではない。越後の富とは
【上杉謙信はそもそも佐渡を領国化しておらず、
さきに桶狭間の戦いを織田家と今川家が伊勢湾経済圏を巡って争った戦いであったと述べたことがあったが、上杉家と武田家の川中島の戦いも
武田信玄が上杉謙信という化け物が居たにもかかわらずなぜ北進政策を続けたのか、それは今川家と北条家というこれまた化け物が居たおかげで東海・関東に出られなかったということもあるのだが、先代の
日本三大河川のひとつであり日本一の長さを誇る信濃川は、甲斐・信濃・武蔵の国境にある
信濃川は飯山と十日町の間の信越国境が
信濃にとって「越後の信濃川」やその河口の新潟は交易路ではない。では信濃の千曲川の交易路はどこに繋がっているのか?
それは
千曲川の舟運は飯山を北限としており、そこから陸路で
この関川と飯山街道は「塩の道」でもあり、上杉謙信の「義」を
【武田信玄による
武田信玄は自前の交易路を渇望していたと思われる。この時代に新兵器として現れた鉄砲は、鉄砲それ自体もそうであるが火薬の原料の
(鉛はこの時代輸入が多く、良質な鉄はたたら製鉄の山陰から得る必要があった)
川中島の戦いは武田信玄が桶狭間の戦いによる今川家の弱体により、南進政策を取ることで終結した。千曲川と
(むろん一連の「川中島の戦い」が石高の高い善光寺平の領有争いと、春日山城の安全保障上の戦いであったという面を否定するものではありません。領有権・安全保障・経済の争いでありましょう)
上杉謙信は農本主義ではなく重商主義の戦国大名であったのだ。領地という「面」ではなく交易路という「点」と「線」を掌握し、領地によらない収入を確保する。この時代の交易路とは戦における
◆
上杉謙信(長尾景虎)のもう一つの「義」の戦いである関東出兵はどうであろうか?
上杉謙信の関東
利根川の
戦国時代の利根川は現在の流路とはまったく違い
古河が関東公方(古河公方)の御座所となったのも渡良瀬川が利根川水運と結合しており重要な交易拠点であったためだろう。
関東中央部の利根川や荒川の水系などでは、江戸の開府以前にもかなり発達した水運による交易路が形成されており、上杉謙信は関東の土地を支配しようとしたのではなく、この交易路を北条氏康より奪うべく越山を繰り返したのである。(むろん個人の主観です)
憶測ばかりで申し訳ないのだが、上杉謙信の関東出兵の最大の敗因は
上杉謙信と成田家は
荒川(現在の元荒川)を握る岩槻太田家は
(成田家は名族藤原氏の出で八幡太郎義家の頃から大将と一緒に下馬する古例があったとされるが、そんな慣わしは無かったと思うよ。それに式典で下馬しないとかTPO無視し過ぎで無礼すぎるだろ)
成田家と上杉謙信は関東管領就任式など関係なく、利根川などの水運利権を巡って対立していた。(
上杉謙信の二度目の越山以降において、武蔵南部へ攻め入ることができなかったのは、補給路である利根川から離れることができなかったこともあるが、武蔵の水運を握る成田家と太田家の協力が得られなかったことも大きいのではないだろうか。
関東平野は江戸幕府以前より利根川、荒川、渡瀬川などにより高度に水運が発達した地域であった。その流路では川商人が兵站を担っていたのである。
別に自前で運ばなくても商人が運んできた物資を買えば良いのだ。
(誰か川の舟運による交易とか補給とか、関東平野の当時の川の流路の検討込みで、この時代の関東戦国史を調べてくれないだろうか……大坂平野も濃尾平野も関東平野も現在の川の流路で考えてしまっては何もわからないと思うのです。戦国時代の川の水運は現代人が思うよりも重要な補給路・交易路であり「川」なくして戦国時代は語れないと思うのだが……)
戦国時代は寒冷であり常時飢餓状態にあったとする説もあり、上杉謙信の冬季における関東侵攻は越後の口減らしの側面もあったであろう。
だが上杉謙信の関東侵攻を関東平野の川の交易路の掌握という面から見ると、また変わった上杉謙信像が浮かび上がらないだろうか?
結局のところ関東越山は失敗に終わったというオチであるのだが……
(以上脱線終り……脱線し過ぎて申し訳ない)
◆
「先ほど
長尾景虎に鋭い眼光を向けられてしまう。老練な
「いいえ! 逆であります。税の肩代わりだけでなく、青苧の畿内における流通に関しましても、それがしが、幕府が全面的に長尾家に協力するのであります」
「全面的な協力と申すか……それが真実であれば、ありがたい話であるが、商談と申すのであれば、何か代わりとなるものをそちも
「長尾景虎殿に求めることは最終的には上洛でありますが、その上洛のための費えを蓄えるため、長尾家の有する交易路をお貸し頂きたいのです」
「交易路を貸す?」
「交易路に乗せる商品は――光秀。
明智光秀に急いで呼びに行かせ、饅頭屋宗二と宗二の一族の
「越後の長尾家の掌握する交易路にて商うものはこの
饅頭屋宗二から長尾景虎に笹団子を献上させて食して貰う。
「なんと甘きものよ……」
「口直しに酒も用意がございます」
角倉吉田光治から長尾景虎に清水の神酒も献上させる。
「美味い、美味すぎるぞ。なんと
「この笹団子と酒の二つの商品を越後で商いまする。その協力の見返りとして運上金を長尾家に納めることになります。私は長尾景虎殿の上洛を助けるべく越後まではるばる参ったのであります」
「詳しく聞く必要があるようじゃが、まずはもう一杯所望いたす」
笹団子という新たな商品を販売し、越後の経済を活性化させるという話に長尾景虎は食いついた。
美味い酒が呑めそうだから食いついたという気がしないでもないが……たぶん気のせいだろう。
こうして長尾景虎と越後における商談に入れたわけだが、この越後に長尾家と協力して「
ちなみに「越後屋」の屋号は、史実では
今回連れて来た林宗和と
林宗和が直江津に常駐して越後におけるメープルシロップの採取とメープルシロップで甘くした笹団子を作る責任者となる。
角倉吉田家の吉田光茂も吉田神社の酒造りからは離れ、直江津に常駐して酒の販売に力を入れることになった。
越後国内におけるメープルシュガーの採取と酒造はもう少し時間がかかるが、まずは流通に商品を載せることから始めるわけだ。
「越後屋」は
上方から越後へ運び込む物にはむろん「鉄砲」が含まれる。
長くなってしまった商談中に休息をかねて明智光秀による鉄砲の試射を行った。長尾景虎には公方様よりの
「金はいくらでも出す。100挺……いや200挺じゃ。すぐにでもこの越後へ持って来させるのじゃ!」
長尾景虎は鉄砲の有用性にすぐに気付いたのだろう、200挺持って来いとか無茶ぶりをかまして来た。すまんが我が淡路細川家がやっと120挺の運用なのだ。さすがにそれは無理というものだ。
代わりにと言ってはなんだが、連れて来た
建仁寺のルートを使って薩摩からも鉄砲を調達することを長尾景虎に提案した。建仁寺は越中に荘園を持っており、和仲東靖は見返りに寺領の保護を長尾家に求めるので、両者にとって良い話なのだ。
◆
「
その夜、長尾景虎に請われて二人だけで酒を酌み交わすことになった。酒豪といわれた景虎の呑みっぷりは噂どおり凄まじく、越後まではるばる持って来た清水の神酒を一晩で飲み干さんとする勢いであった……もうその辺で勘弁してください。
売るお酒が無くなってしまうではないか……(涙)
「
「まだお若くありますが、征夷大将軍という重圧に負けまいと、一生懸命頑張っておいでです」
「今はお幾つであるのじゃ?」
「15歳であります」
「お若いな……
「
「そなたは優しき
戦に高揚する自分を静めるために武闘の神な
(史実でも家臣の仲違いに落ち込んで手紙を置いて家出したり、家出から帰る際には弓矢の道から逃げたと思われたくないとか言い出したり、想い人が死んで拒食症になったり、何をするにも大義名分を欲しがったり、短気起こして失敗して落ち込んだり、実は戦にも結構負けていたり、越後国人にとってはブラック上司だったり、トイレでぶっ倒れて死んだり……変な逸話があったりなかったり)
「戦に荒ぶる気持ちを抑える必要はありますまい。景虎殿は武家の
思わず「正義の戦」とかいう、とてもハズかしいセリフを吐いてしまった。これは景虎殿も笑ってしまうのではないか……って、な、泣いている……だと???
「御所様が
「え、ええ。全ての武家の
「
長尾景虎がおかしなことを言い出した。目を潤ませ熱き眼差しで中空を見つめている。どこかにトリップしてしまったようだ。
だが、ちょっとマテ。その女神(義藤さまです)は俺のものだ。誰にもやらんぞ。
景虎は大人しく
「公方様は残念ながら女神でも毘沙門天の化身でもありませんが、景虎殿をお救いすることは可能でありましょう」
「それはどのような意味じゃ?」――景虎が涙を拭きながら聞いてくる。
「公方様は景虎殿が越後守護上杉家の
「ん?
「越後上杉家は
長尾晴景の子で長尾景虎の甥にあたる「
長尾景虎が
その「猿千代」が死んじゃったので後継争いが酷いことになるのだが、それは未来のお話だな。
「
「景虎殿は家督を奪ったのではありませぬ。兄と甥のために一時お預かりしただけでありましょう」
「ご、御所様は
いや義藤さまは長尾家の家督とか全く知らんけどな。でもまあ、後継者不在の越後守護家の家督を長尾景虎殿に継がせてくださいとお願いしたら、あっさり「許す」と言ってくれると思うけど。
「越後守護職と上杉家の家名につきまして、景虎殿がお望みになるのであればその継承に尽力いたす用意がございます。越後守護上杉家とは
これには「関東管領上杉謙信」ではなく、「越後守護上杉謙信」を誕生させるという狙いもあったりする。上杉謙信を不毛な関東に送りたくはないのだよ。関東はほっといて良いから畿内を目指して貰おう。
関東で無駄なパワーを浪費しなかった上杉謙信が越後、越中、能登、加賀と最初から北陸と畿内を目指していたら……どうよ、見てみたくはないかね? 俺は見たい。
実際問題として、もはや幕府には関東をどうこうする力など皆無なので、関東なぞほっといてコッチ来いということである。
「あ、ありがたき話とは存ずるが、それは上洛を果たし、逆賊を討ったのちの事にしていただきたい」
公方様とついでに
「大功を打ち立てねば公方様に願うわけにはいかぬ。という事でありますかな?」
長尾景虎が大いに
「御所様にはいずれこの景虎が毘沙門天の旗を掲げて馳せ参じるとお伝え願おう。逆賊はこの長尾景虎が必ずや討伐するとな……」
「心強きお言葉にあります」
長尾景虎が燃えに燃えている。これは
◆
「現状の洛中はどうなのじゃ。
「今はまだ
「兵部殿、
「5倍から7倍では勝負になりませぬか?」
上杉謙信は史実で二度の上洛を果たしている。一度目は2千、二度目の上洛は5千の兵を率いていたという。
さすがに上杉謙信が軍神であろうが7倍の敵を蹴散らせるとは言うまい。(7倍でも勝ちそうで怖いけどそれはゲームのお話だ)
「勝てぬとは言うまいが……厳しかろう」
上杉謙信は脳筋のように見えて、
「御安心下さい。越後勢だけで三好勢にあたるわけではありませぬ。長尾景虎殿が兵を率いて上洛の
「尾張に美濃、さらには越前と近江と申したか?」
「尾張からは
いやまあ、これから算段するんだけどさ……
「なかなか
「かの者らを烏合の衆とするか、公方様の精鋭といたすかは……それがしに掛かっておりましょうか」
「そちであれば巧くやりそうであるがな。その策が成って三好を討伐することができればどうなる? 兵部殿はその先をどう見ているのじゃ」
「長尾景虎殿には上杉景虎殿として越後・越中の守護職に。織田信長殿は尾張・三河の守護。斎藤道三殿は美濃・飛騨の守護に。
「スバラシイ、スバラシイぞ兵部殿! くははははは!
越後全軍とか来てくれればそれはありがたいことだが、武田がなぁ……武田信玄が北信濃にしゃしゃり出て来るし、上杉憲政なんかも北条氏康に
だがこれで長尾景虎を上洛させる道筋は掴めただろう。大義名分製造マシーンな公方様から大義名分というエサを与えて長尾景虎をコントロールすれば良いのだ。
番犬にするなら調教しやすい番犬の方が良いのだよ。かーっかっかか。
冗談は置いといて、あとは……頼もしきヤツらが上洛して来るまで三好長慶の攻勢から義藤さまを守りきれるかどうかだな……
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