第六十二話 大御所の病

 天文十九年(1550年)1月



「与一郎おるかね?」


「これは父上、いかがされましたか?」


 天守閣の1階の執務室みたいに使っている部屋へ、普段は本丸御殿の大御所のところに詰めている実父の三淵晴員みつぶちはるかずが訪ねて来た。


「公方様が体調を崩されたと清光院せいこういんより聞いたがどうなのだ?」


「もう大丈夫です。政務にも復帰しておりますれば」


「うむ、そうか……実は大御所も体調を崩されておってな」


「大御所もですか?」――まさか義藤さまと同じく大御所が女とか言わないでくれよ、俺まで体調を崩してしまうわ。


「先月に篭城の気晴らしと称して鷹狩りをしたのが、無茶をしたのか伏せっておるのだ」


「医師はなんと?」


片岡大和守かたおかやまとのかみ晴親はるちか)や上池院じょうちいん坂光国さかこうこく)先生は水腫すいしゅといっておる」


 大御所はたしか、史実ではもうすぐ病で亡くなるはずだった気がするが、やはりそうなのだろうか……


【大御所の足利義晴あしかがよしはるには病を苦にしての自害説もあります】


「分かりました。牧庵まきあん叔父や坂浄忠さかじょうちゅう先生にも急ぎ診断を依頼しましょう」


「頼む。それと話はそれだけではないのだ」


「ほかにも何か? では源三郎に先生方を呼びに行かせます」


 牧庵叔父と坂浄忠先生と親しくしており、病や薬にも精通する米田源三郎こめだげんざぶろう求政もとまさを使いに走らせる。


「それで他の話とは?」


「与一郎、わしが和泉いずみ細川家の出であることは知っておるな?」


「はい。和泉上守護家である細川家から三淵家へ婿入りしたと聞いております」


「うむ。そなたの母の前に三淵家から嫁を貰って養子に入ったのだ。まあ、それは良い。それで、その和泉細川家のことなのだが状況が非常に悪くてな……」


 細川元常ほそかわもとつねと三淵晴員の弟である細川晴貞ほそかわはるさだが和泉に残って戦っていたのだが、三好長慶みよしながよしとその弟の十河一存そごうかずまさの支援を受けている守護代の松浦守まつらまもるに敗れ去り、和泉から撤退していると報せを受けてはいる。


「和泉細川家の和泉や阿波、伊予の所領はことごとく三好方に押領され、西岡の勝竜寺しょうりゅうじ城も三好方に奪われたよしにございますな」


「さすがに詳しいのう。勝竜寺城から兄の元常や甥の頼勝よりかつ、それに郎党も無事に退却しているが、そのな……」


「和泉細川家は所領のほとんどすべてを失い郎党を養うすべがないと」


「そのとおりじゃ」


「分かりました。当座の費用の方は工面させていただきます」


「すまんな与一郎」


 三好長慶が摂津の平定をやっており、勝軍山城に本格的に攻めて来ないので城の外への往来も自由だし、なにかヌルイ篭城戦になっているのだが、三好方に所領を押領された奉公衆や、遠国に所領のある奉公衆などはこの篭城で経費がかさみ家計が火の車になっている。

 お陰さまで「山城金融道パート2」として、土倉(サラ金)業が繁盛しておりまっせ。まあ親戚の和泉細川家には無償融資するけどな。


 米田求政に呼びに行かせた牧庵叔父と坂浄忠先生とついでに山科言継やましなときつぐ卿も登城してきたので、本丸御殿の大御所のお見舞いに参上する。


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「足利義晴の病気」と「日本住血にほんじゅうけつ吸虫症きゅうちゅうしょう


 足利義晴は天文18年(1549年)の12月に鷹狩りを行い、体調を崩して闘病生活に入ったようだ。義晴の病気は「言継卿記ときつぐきょうき」などでは「水腫張満すいしゅちょうまん」とされる。


水腫張満すいしゅちょうまん」は現代の「日本住血にほんじゅうけつ吸虫症きゅうちゅうしょう」のことであるとされるが、この病気は感染地域に嫁に行かせるなら棺桶を背負って行けとも言われたほど高い致死率を誇った恐怖の地方病であった。


 甲斐の甲府盆地、関東の利根川水系、駿河の富士川、備後国の片山、九州の筑後川流域などで猛威を振るった感染症であり、罹病りびょう地域がある程度限られることから風土病ともされる。

 重症化すると腹水がたまってお腹が膨張し、最終的に死にいたることから「はらっぱり」とも称された。


 1904年の寄生虫の発見と1913年の中間宿主であるミヤイリガイ(宮入貝)の発見とその駆除により、現代の日本においては撲滅されているが、撲滅にいたるまで相当数の人の命を奪った恐ろしい感染症であった。


甲陽軍鑑こうようぐんかん』に記される、甲斐武田家の小幡昌盛おばたまさもりの症状が「日本住血吸虫症」ではないかとされている。

 また余談ではあるが、足利義晴の遠い先祖である鎌倉幕府創生期に活躍した足利義兼あしかがよしかねの正室の北条時子(北条政子の妹)も「日本住血吸虫症」で亡くなった可能性があったりする。(蛭子ひるこ伝説)


 京や近江は「日本住血吸虫症」が流行していた地域ではなく、そもそも「水腫張満すいしゅちょうまん」が誤診の可能性もあるので、足利義晴の死因は正直分からないとしたい。


【足利義晴の治療に当った幕府医官】

 片岡大和守晴親(奉公衆)、上池院じょうちいん紹胤しょういん(坂光国)、祐乗坊ゆうじょうぼう琇珔しゅうせん竹田瑞竹軒たけだずいちくけん竹田定栄たけだじょうえい)、吉田盛方院よしだせいほういん坂浄忠さかじょうちゅう)、半井明英なからいあきふさ(朝廷の医官)など


 ――謎の作者細川幽童著「どうでも良い戦国の知識」より

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 ◆


 この時代の水腫が何の病気を指しているのか医学を専門にならったわけではない俺には正直わからない。義藤さまには申し訳ないが大御所の治療は医師にまかせるほかはないのだ……

 史実の大御所は闘病に苦しみながら中尾城なかおじょうの築城を指揮し、中尾城に向かう途中に穴太あのうで倒れたという。史実とは違って既に完成している勝軍山しょうぐんやま城があるので、大御所も少しは楽ができるのではないかと思いたいところだ。


 それでも少しでも大御所の力になりたいと思い、見舞いの品として「経口補水液けいこうほすいえき」と自然薯じねんじょから作った「とろろ」を用意した。


 経口補水液は水と塩とブドウ糖から作られ、主に下痢や嘔吐、発熱などからくる脱水症状の改善に用いられるものである。現代の日本では「OS1オーエスワン」などが有名であろう。

 経口補水液を作るにあたって、水と塩の入手はどこでも簡単ではあるが、ブドウ糖の入手が問題となる。だが日本では比較的簡単に手に入れることが可能だったりする。

 ブドウ糖を入手するのに必要な物は「干し柿」だ。


「干し柿」は渋柿を食用とするために考案された平安時代からの日本の伝統的なドライフルーツである。

「干し柿」の表面に白い粉が付着しているのを見たことがあると思うのだが、あの白い粉はカビではなく、柿の実の内部から染み出してくる糖分なのだ。

 その主な成分がブドウ糖であり、あの白い粉はブドウ糖の結晶だったりする。


 その干し柿から採れるブドウ糖を集めて経口補水液を作ったわけである。大御所は食べ物が喉を通らないぐらい衰弱しているというので、栄養補給の助けになればとの想いで作ったのだ。


 大御所の病気である水腫すいしゅが「日本住血にほんじゅうけつ吸虫症きゅうちゅうしょう」なのかは正直分からないのだが、「むくみ」が見られるのは確かなようなので、「むくみ」に効く食べ物として「とろろ」も用意した。


 自然薯は様々な栄養素を含んでいる滋養強壮に効く食べ物であるが、とくにカリウムが豊富に含まれており、「むくみ」や高血圧にも効能があるとされる。


「経口補水液」から「とろろ汁」へ、そして「とろろ粥」といった感じで大御所の体調の状況に合わせて飲食するものを変えられればと考えている。


「兵部大輔か、美味い酒でも持ってきてくれたのか?」


 坂浄忠先生や坂光国先生に経口補水液やとろろの効能を説明したところ、特別に大御所に出すことを許してくれた。

 むろん公方様も大御所に是非あげて欲しいと言っている。皆の信頼が厚くて助かる。


「酒はもう少し回復されてからがよろしいかと。薬となる飲み物を用意しました」


「お主の作るものは美味い物が多いからな。よかろう飲んでみようか」


 病気により体力が落ちているにもかかわらず、大御所はなかなか気丈であった。


「こちらをお飲み下さい」


「ぐびっ。う、美味いのう……」


 経口補水液は健康的な時に飲んでもあまり美味くないが、脱水症状がある時や風邪の時には美味く感じるものである。


「とろろ汁なども用意しておりますれば、食べたいとお思いになった時に食してみてください」


「とろろか、あれも美味かったのう。兵部、わしは食したいぞ、はよう持って参るが良い」


「あまり無理をなされずとも――」


「よいから、はよう持って来い。食って体力をつけねば三好筑前に勝てぬではないか」


 あきらかに無理をしているのだが、食べたほうが回復は早いと思って急いでとろろ汁も用意する。

 大御所はとろろ汁も「美味い美味い」といって平らげてしまった。


「兵部大輔、お主の用意するものは本当に美味いのう。感謝するぞ」


「もったいなきお言葉であります」


「だが少し疲れた……休むぞ」


 とろろ汁を飲んだ大御所が眠りたいと言い出したので皆で退出する。


「藤孝、そなたに感謝しよう」


 大御所が食事をしてくれたことで義藤さまには涙を流さんばかりに感謝されてしまった。根本的な治療でなく対処療法しかできないことが胸に突き刺さる。

 医師たちが経口補水液に興味を持ったので作成方法を教えた。大御所のこれから長く続く辛い闘病生活に少しでも役に立てば嬉しいものであるが……


 ◆


「公方様、勝軍山城の改修が予定通りに完了いたしました」


「作事奉行としての兵部大輔の働き、まことに大儀であった。何か褒美をとらせよう。何か望みはあるか?」


「それでは、城の改修にあたっていた者を使って内裏だいりの修理を行いたくあるのですが、御許可を頂けませんでしょうか?」


「内裏の修理とな?」


 この時代の内裏は現代の京都御所の原型にもなった土御門つちみかど東洞院殿ひがしのとういんどのであるのだが、朝廷の収入が戦国時代に入って激減したことで、修理が滞り結構ボロボロの有様であった。塀は崩れ天井には穴も空いていたなどともいわれている。


「はっ。三好長慶の手の者が洛中へ進出しており、洛中の治安が悪化しております。みかど(天皇)を安んじさせるために必要な措置と考えます。また今年は公方様が参内さんだいしての年賀の挨拶を行えなかったこともありますので、そのお詫びとしての意味合いもございますが」


「だがこの勝軍山城の改修に費用が掛かっておろう。それに加えて内裏の修理ともなると、いささか無理があるのではないか?」


「費用のほうは御心配なく。洛中商家の川端道喜かわばたどうきなど多数の者が費用の拠出を願い出ており、幕府の費用分担は抑えることが可能でありましょう。また幕府の財源としては饅頭屋宗二まんじゅうやそうじからの進上金を充てる算段がついておりまする」


 川端道喜は史実では自らの資金で内裏の修理をしているほどの勤皇家なので、費用の相談をしたらあっさり拠出の話に乗ってくれた。

 ほかに清原業賢きよはらなりかた伯父や吉田兼右よしだかねみぎ叔父も費用負担に応じてくれている。実際の内裏の修理作業は弁慶新五郎べんけいしんごろう棟梁が率いる謎の宮大工集団がやってくれる手筈にもなっている。


「ふむ。皆の者はどう思うか」


 大御所が病に倒れているため、今は政務のほとんどを公方様が執られている。本丸御殿で評議しているのだが、公方様は大御所を支えて来た側近たちに意見を求めた。


「財源があるのであればよろしいと存じます」


「作事奉行はそれがしに是非とも」


「なかなか殊勝な心がけでおじゃるな」


「少々小賢しく感じますが、よろしいかと」


「概ね賛成が多いようであるな。良いだろう。作事奉行は結城左衛門尉さえもんのじょう(いわゆる結城忠正ゆうきただまさ)に任せよう。兵部大輔と相談の上、すみやかに事を進めるがよい」


「ははっ」


 いつものごとく義藤さまとは事前に打ち合わせ済みであり、御殿での評議は茶番のようなものである。内裏の修理であるので近衛稙家このえたねいえ久我晴通こがはるみちからの賛同も得ており根回しも十分していた。


 最近は歌会などを重ねており近衛家との関係修復も進んでいる。なんといっても摂関家筆頭の近衛家である。近衛家の協力があれば朝廷工作がスムーズに行えるのでやはり近衛家との協調関係はまだまだ必要であろう。


 その近衛家とともに歌道において交流を始めた三条西家さんじょうにしけの当主である権大納言の三条西実枝さんじょうにしさねき卿が、内裏に赴いて作業の打ち合わせをしていたところを訪ねて来た。

 用向きは三条西家の重要な収入源である青苧あおそ公事くじの交渉の依頼であり、交渉先はあの越後守護代の長尾家ながおけであった。


 ◆


 青苧あおそというのは苧麻ちょまやカラムシとも呼ばれるイラクサ科の多年生植物で「日本書紀」にも記載されるほど日本において古代から栽培されてきた繊維用の植物である。

 青苧は麻などとともに古来より衣類の原料に使われ、平安時代から越後は青苧の生産地として栄え「越後上布えちごじょうふ」は高級品の代名詞でもあった。


 三条西家は青苧座あおそざの本所として税金を徴収する立場にあり、当初は天王寺座てんのうじざに座役を納めさせて専売の許可を与えていた。天王寺座は越後に青苧の買い付けに出向き莫大な利益を上げていたという。


 だが越後守護代の長尾為景ながおためかげ上杉謙信うえすぎけんしんの父)の台頭によりその状況が変わってしまう。長尾家は越後の商人で長尾家の御用商人でもある蔵田五郎左衛門くらたごろうざえもんに越後青苧座を結成させ、青苧の流通を統制下においてしまうのだ。


 天王寺座は越後の青苧の流通からハブられてしまい、三条西家は重要な収入源である青苧の税金徴収を蔵田五郎左衛門やそのバックに居る越後長尾家と交渉しなくてはならなくなっていた。


「――というわけなのだ。兵部大輔殿にはなにとぞ長尾家との交渉をお願いしたい」


 三条西実枝卿が俺に青苧公事の件とその状況を説明してくれた。


「大納言様には古今伝授の件や歌会で日頃よりお世話になっております。喜んで長尾家の交渉を肩代わりいたしましょう」


「おお、承知してくれますか。長尾家との交渉が上手くいきましたおりには、我が家に伝わる古今の秘事を是非とも教えてさしあげましょう」


 この時代どこの公家も生活には非常に困っているからな。青苧あおそ公事くじという収入源を持つ三条西家は比較的余裕がある方だが、その青苧公事の収入が減っては堪ったものではないので必死にもなるか。


 すでに饅頭屋宗二まんじゅうやそうじ殿から古今伝授こきんでんじゅを受けているので、三条西家から改めて古今伝授を受ける必要はそれほどないのだが、まあ伝授してくれるというなら貰っておこう。


「公方様とも相談して長尾家と交渉いたしますれば、朗報をお待ち下さい」


 三条西実枝卿はめちゃくちゃ喜んで帰っていったが、喜びたいのは実はこっちの方である。あの越後長尾家とチャンネルが作れそうなのだからな。この前から三好家を打ち破れる豪の者はどこかに居ないものであろうかと考えていたがようやく見つけた。

 三好長慶を打ち破れるものは戦国最強の「越後の軍神」上杉謙信に違いないのだ。


「越後守護代長尾家とな?」


「はい。三条西家より幕府のお力で青苧公事の件を交渉して貰えないかと依頼がございました」


青苧あおそってなんじゃ?」


 いつものことだが公方様には最初から青苧の説明が必要だった。


「そのようなわけで、今、私が着ている素襖すおうなども青苧を原料とした上布から作られており、越後の青苧や上布は非常に質が良い高級品なのであります」


「ふむ、それで三条西家はお主に長尾家との交渉をお願いに参ったのであるか……じゃが困ったのう。越後の申次は大館晴光おおだてはるみつであったろう」


「はい。実は大館殿には先にお話をさせていただきまして、越後長尾家の申次を代わっても良いとの返事をいただいております。交代の件を公方様から御許可いただければ幸いであります」


「なんじゃ、根回しがよいのう。だが、よく晴光が許可をしたな……どんな手を使ったのじゃ?」


「大館家もこの篭城によって家計が苦しいようで、大館家と親しくさせていただいております私からいささか用立てさせて頂きました由にございます」


「あいかわらずお主も悪よのう」


「いえいえ、お代官様にはかないませぬ。お代官様には今後ともよいお付き合いをお願いします。これはほんのお礼にございます」


 と、今年の初物のもみじ饅頭を献上する。


「バカ。わしはお代官とやらではないし、何も悪いことはしておらぬわ。そなたと一緒にするでない」


「別に私もそれほど悪どいことをしているわけではないのですが……」


「まあよい。そなたを長尾家の申次に命ずる。わしのために励むがよいぞ。もみじ饅頭はやはりウマウマじゃあ♪」


 ニコニコしながらもみじ饅頭を頬張る義藤さまであった。しっかりと賄賂は効いているようである――

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