第五十三話 勝龍寺城と山崎城

天文十八年(1549年)2月



 鶏冠井かいで城と物集女もずめ城を落とした我らが幕府軍は、向日むこう神社から西国街道を南に3.5km下った先にある勝龍寺しょうりゅうじ城に入城した。


 勝龍寺城はのちに細川藤孝によって二重の堀を持つ近世城郭へと改修されたといわれるが残念ながらこの時代はそこまでの城ではない。

 だが乙訓おとくに郡の郡代の城として機能を持ち西岡では一番まともな城だったりする。


 勝龍寺城に入城した我らを迎えてくれたのは細川頼勝ほそかわよりかつ殿であった。

 細川頼勝は和泉上守護細川家当主の細川元常ほそかわもとつねの嫡男で、細川元常が和泉に出陣しているため城代を務めていた。


「叔父上に弥四郎殿に与一郎殿、お久しぶりです」


 細川藤孝の実父である三淵晴員みつぶちはるかずが細川元常の弟であり、兄の三淵弥四郎藤英ふじひでと細川与一郎藤孝は、細川弥九郎頼勝(元春とも)の従兄弟になるわけである。

 ちなみに細川藤孝と細川頼勝は同年齢でもある。


「おお弥九郎殿出迎え感謝しますぞ。兵に休息を取らせたい。しばらく厄介に成り申すぞ」


 父が親しげに甥の頼勝殿と話しているが、俺はあまり会ったことがないというか、「細川藤孝」となってから出会った記憶がないので感覚的には初対面みたいなものだな。


「対馬、幕府軍の兵たちを案内してやってくれ。ささ伯父上達は本丸へご案内いたしましょう」


「かたじけない」


 幕府軍の兵は勝龍寺城内や城周辺の寺、近くの神足こうたり屋敷などに分宿することになり、幕府軍の主だった者は勝龍寺城の本丸や二の丸に宿泊することになった。

 城攻めのあとでもあり、休息と摂津方面の情報収集のために勝龍寺城に逗留することになる。


 夜には祝宴を開くことになったのだが、案の定俺は祝宴係となり忙しくなってしまう。

 勝龍寺城に運び込んだ食材を使って、いつもの蕎麦やら天ぷらにとろろ飯を作ったり、地元の漁師から買った桂川のウナギを使って鰻重を作ったりと大忙しである。

 だが明智光秀や米田求政が宴自体の差配を勝龍寺城の和泉守護家の家臣と一緒になってやってくれるので、一人でやっていた頃に比べると大分マシかもしれん。


 肝心の宴の方はというと、相変わらず親父の三淵晴員は大将格で主賓のくせして飯も酒もガツガツ喰らいやがって早々に撃沈し、城代でホスト役の細川頼勝は体調が優れないと早々に退出してしまったので、めっさグダグダな宴席となってしまっていた。

 頑張って宴の準備をした俺の苦労はなんだったんだろうか……


「兵部大輔様、宴の差配かたじけなくありました。若屋形(頼勝殿)が早々に退出して申し訳ありませぬ」


 酔っ払って寝転がっている奉公衆の惨状を見ながら、一人で飯食ってクダを巻いていた俺に声を掛けて来る者があった。


「貴殿はたしか将監しょうげん殿でありましたか?」


「ご挨拶が遅くなり申し訳ありませぬ。有吉ありよし将監しょうげん立言たつのぶと申します。あるじ播磨守はりまのかみ(細川元常)様が不在で人手も足りず、宴の差配をお任せしてしまい申し訳ありませんでした」


「これはご丁寧に痛み入ります。細川兵部大輔であります。我らが勝龍寺城へ入城したためご迷惑をお掛けしております」


「いえ、我が和泉守護家と京兆家(細川晴元)に幕府軍がお味方してくれるのです。ありがたいことであります」


 なんというか、ついに細川三家老(松井まつい米田こめだ有吉ありよし)の最後の一人である有吉立言に出会えることができた。

 どこに居るのかと思っていたが、こんなところに居たのかよ。

(ちなみに筆頭家老の松井康之まついやすゆきは来年の1550年に生まれます。出番ないな……)


 せっかく有吉立言に出会えたのだが、親戚である和泉細川家の家臣では引き抜くことは残念ながら出来そうにないな……


 通説では細川藤孝は和泉守護細川家を継いでおり、この有吉立言も細川藤孝の股肱の臣下として活躍してくれるはずなのだが、どうにも通説とは違う歴史を歩んでいるのか、細川藤孝は淡路細川家だしなあ、どういうことなんだろうか?


 有吉立言と話をしていると、築山つきやま兵庫介ひょうごのすけ貞俊さだとし殿も雑談に混ざって来た。


「これは将監殿と万吉様とは珍しい組み合わせですな」


「兵庫介殿、こたびはいろいろと合力いただき感謝いたします。ですが万吉は勘弁してください」


「これは申し訳ない、今は兵部大輔様でしたな。昔の癖が抜けずに申し訳ない」


 築山兵庫介殿と俺が親しげなのをいぶかしんで有吉立言が聞いてくる。


「兵部大輔様と兵庫介殿は旧知の間柄でありましたのか?」


 有吉立言の質問になぜか築山兵庫介殿が誇らしげに回答する。


「それはもう兵部大輔様のことは生まれる前から存知あげておる。それにワシの女房は万吉様の乳母めのとでもあるのだぞ」


 そうなのだ、今回の出兵に先立ち西岡衆の中から協力者を求めたのだが、この築山兵庫介貞俊殿の奥方は沼田光兼ぬまたみつかね殿の妹であり俺の乳母でもあったのだ。

 そのため築山兵庫介殿は非常に俺に協力的であり、向日神社の本陣の準備や鶏冠井城攻めの際には率先して城攻めを主張するサクラの役などでかなり助けてもらっていた。


(築山兵庫介貞俊の妻は沼田上野介光兼の「娘」とされていますが、系図等にその存在はなく、また世代的にも合わないため「妹か姉もしくは養女」ではないかと考えています。まったく証拠はありませんが……)


「ほう、それは知りませなんだ」


「しかし兵部大輔様の指揮ぶりは見事でありましたな。鶏冠井城も物集女城もほとんど無傷で落とされましたからなあ。初陣でこれとは末恐ろしいものがありますな」


「そんなに褒めても何も出ませんよ? まあ物集女や鶏冠井の領地のいくらかはお約束どおりお任せすることになりますが」


「ははははは、期待しておりますぞ。いやまったく惜しいことだ。将監殿知っておるかね? もしかしたら兵部大輔様は将監殿やわしの主になったかも知れぬのだぞ」


 築山家は西岡衆ではあるが古くから細川家に仕えており、今は和泉細川家の被官となっている。


「兵部大輔殿が我が主とは?」


 有吉立言は話が分からずにさらに聞いてくる。


「うむ。兵部大輔様が生まれる前の話であるのだがな。大御所様(足利義晴)にワシと沼田上野介殿の二人は身ごもった兵部大輔様の母御(清原宣賢娘)の世話を命じられたのじゃ。生まれる子が男子であれば、御屋形様(細川元常)の養子となり跡継ぎにするという約束もあったのよ」


「それはまことの話でありますか?」×2


 俺も有吉立言も築山兵庫介殿の話にびっくりしてしまう。


「うむ。その当時は右京兆殿も播磨守殿も堺公方派(足利義維あしかがよしつな)から転向して大御所様とは和睦したばかりでな。大御所様の幼馴染で腹心でもあり、なにより播磨守様の弟であった掃部頭かもんのかみ様(三淵晴員)の子を和泉細川家の跡継ぎとすることで、大御所様は和泉細川家をお味方にしたかったのであろう」


「そ、そのようなことがありましたのか……」


「まあ、同じ年に播磨守様に御嫡男が生まれ、今の頼勝様のことであるがな……頼勝様が生まれたことで、残念ながら兵部大輔様が御屋形様の養子となる話は流れてしまったのだがな」


「もしかしてそのような経緯があったので、沼田家と築山家はわたくしの面倒を良く見てくれるわけでありますか?」


「ああそうじゃ。養子の話はなくなったが、大御所から命じられた万吉様と万吉様の母御のお世話をするという話はそのままでしたからな。しかし大御所様からはその件では褒美を貰っておりますれば与一郎様は気にしなくてもよろしいのですぞ、がっはっは――じゃが、わしは今でも病弱な頼勝様ではなく、与一郎様が和泉細川家の跡継ぎであればと残念でならないわ。御屋形様も晴貞様ももうお歳だ、頼勝様ではこの先の和泉細川家の行く末が心配でならぬわ」


「兵庫介殿それは!」


「ああ将監殿すまぬ。和泉細川家に仕える身としては出過ぎたことを申した。忘れて貰えると助かる」


「頼勝様が病弱で頼りないのは事実ですが、あまり触れ回ることはせぬべきでしょう」


「す、すまぬな将監殿……」


 なんか有吉くん毒舌なんですけど……


「元常伯父と晴貞叔父の状況はどうでありましょうや?」


「兵部大輔様申し訳ありませぬ。我らにも和泉国の情勢は分からずじまいでして……」


 有吉立言にも和泉国における戦況の詳しい報は入っていないようで、和泉守護細川家の主力の状況は分からなかった。

 だがまあ厳しい状況になっていくのであろう。

 史実では江口の戦いにおいて細川晴元が敗れたことによって、和泉守護細川家は和泉の支配を完全に失うハメになるはずなのだ……


 ◆


 幕府軍が勝龍寺しょうりゅうじ城に入城した翌日には、鶏冠井かいで城と物集女もずめ城を落としたことが恫喝になったようで、さらに西岡衆が兵を率いてやってきた。

 乙訓おとくに調子荘ちょうししょうを領し近衛家の被官でもある調子ちょうし彦三郎武吉たけよしと乙訓郡久我荘こがのしょうを管理し久我こが家の被官でもある竹内たけのうち宮内少輔くないしょうゆう季治すえはるが来てくれたのだ。


 まあ近衛家と久我家の被官とか面倒でしかないのだが、せっかくなので恩を売っておいて近衛家と久我家の印象を良くするのも手かもしれない。


 ほかに和泉細川家の被官となっている志水しみず対馬守つしまのかみ重久しげひさ(清実とも)もすでに味方であるので、これで西岡衆の主だった者のほとんどが幕府軍の元に結集したことになった。


 いまだに西岡衆の中で幕府軍に参集していないものに寺戸城てらどじょう主の竹田たけだ左京進さきょうのしん仲広なかひろなどが居たが、すでに竹田仲広は幕府軍の物集女城攻めの際に寺戸城を放棄して逃亡していた。

 これで西岡の平定は名実ともに完了し、いよいよ摂津との国境である大山崎へ進軍することになる。


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【参考 西岡衆一覧】

 革嶋かわしま越前守一宣かずのぶ:革嶋城主、子孫は細川・明智家臣の後に帰農

 築山つきやま兵庫介貞俊さだとし:築山城主、細川家被官、子孫は熊本藩の在京家臣

 神足こうたり掃部春広はるひろ:神足城主、子孫は熊本藩家臣

 能勢のせ市正光頼みつより今里いまざと城主、子孫は足利義昭に仕え二条城討死

 中小路なかこうじ五郎右衛門:開田かいでん城主、子孫は細川家臣のち藤堂家臣

 志水しみず対馬守重久:志水落合しみずおちあい城主、子に志水清久、子孫は熊本藩家臣

 調子ちょうし彦三郎武吉:調子城主、近衛家被官、子孫は調子村領主

 竹内たけのうち宮内少輔季治:久我家被官、のちに堂上家(公家)となる


 鶏冠井かいで孫六:鶏冠井城主、三好家被官<滅亡済>

 物集女もずめ太郎左衛門尉:物集女城主、子孫は細川藤孝に謀殺<滅亡済>

 竹田たけだ左京進仲広:寺戸城主、三好家被官<逃亡>

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 細川頼勝ほそかわよりかつ殿や有吉立言ありよしたつのぶの見送りを受けて勝龍寺城を出陣し西国街道を通り西の大山崎おおやまざきの町を目指す。

 勝龍寺城から大山崎までは5kmもないので半刻ほどで着いてしまう。

 物見の報告で安全を確認しての出陣であったが、報告のとおりに三好長慶の勢力は大山崎には居なかったため、無事に宝積寺ほうしゃくじに着陣する。


 宝積寺から天王山てんのうざんにある山崎城にも兵を出し山崎城の接収も無事に完了することができた。

 山崎城は細川晴元の城であるので、山崎城を接収することは事前に相談済みであったりする。

 細川晴元と三好宗三みよしそうぞうとの評議では、我らが幕府軍はこの山崎城に陣を張り、援軍としてくる六角定頼のために侵攻路を確保し、可能であれば摂津東部の芥川山あくたがわやま城や高槻たかつき城などの三好方に圧力をかけることになっていた。

 無事に戦略目標を達成することができたので一安心である。


 城下の大山崎の町は昨年の12月に将軍の名で関役せきやく諸役しょやくを免除しており懐柔済みではあるので、一応幕府軍には協力的である。

 山崎城を維持するためには地元との関係は大事であるからな。


 大山崎の油座とは伯父の清原業賢きよはらなりかたを通して、てんぷら用の油の取引もあり懇意にはしている。

 業賢伯父はのちほど大山崎まで来て、油座やその母体の離宮八幡宮りきゅうはちまんぐうとも交渉をしてくれることになっているので地元対策は問題ないであろう。


 接収した山崎城は後年には羽柴秀吉はしばひでよしが一時期本拠地ともした城ではあるが、当然の如くこの時代ではい城である。

 一応数ヶ月はこの山崎城に居座り続ける予定なので、簡単な改修ぐらいはするが、ガチガチに防備を固めるわけではない。

 まあ、万がいち三好長慶が本気出してこの山崎城に攻めてきたら全力で逃げるわな。

 勝てない戦をするつもりはないので無駄に篭城とかするわけではない。


 摂津の芥川山城には三好一族の芥川あくたがわ孫十郎長遠(諱は未確定)が在城しているが、幕府軍と西岡衆だけで芥川山城を落とすのは無理があるだろう。

 それに芥川孫十郎は三好長慶を裏切ることもあったはずなので無理に攻めずに調略を仕掛けてもよいかもしれない。

 ここから先は持久戦でよいだろう。


 あとはこの先長丁場になると思われるので兵糧の確保が問題だな。

 現地調達とかやって大山崎の町と喧嘩はしたくないので小荷駄こにだを呼び寄せなければならない。

 ここは補給に失敗して左遷されたアムリッ○アのキャゼ○ヌとかラグナロック作戦のゾンバ○トみたいに責任を取らされることにはなりたくないので万全を期して俺自らが行く必要があるだろう。

 山崎城にて評議を開いて、父の三淵晴員から兵糧を運ぶための小荷駄を呼び寄せる許可を貰った。

 

「小荷駄に護衛が必要でありますのか?」


「補給は戦のかなめであるぞ源三郎、腹が減っては戦ができぬというではないか」


「はあ、ですが西岡の地は平定済みでありますので、何も与一郎様自らが出向かずとも大丈夫ではありませぬか? それがしか五郎八ごろはちにでも下知をくださればよいかと」


「それでは


「は?」


「い、いや。小荷駄の護衛もむろん大事であるが、西岡衆のために知行安堵ちぎょうあんどの許可を公方様にいただく必要もあってだな……」


 西岡衆に恩賞を与えて、ガッチりと仲間にしておきたいのだ。


「左様でありましたか、公方様にがあるのでございますな」


 米田の兄貴は空気が読めるんだか読めないんだか……


「そ、そうなのよ、公方様に非常に大事な用があるのだよ。はっはっは。公方様に逢いたいから京に帰りたいとか、決してそういうわけではないのだ源三郎――」


 こうして山崎城の守備に明智光秀の鉄砲隊と吉田重勝の弓隊を残し、言い訳を作って、愛しい義藤さまの顔を見るために俺は京へと帰るのであった。



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 おまけ突発シリーズ

 謎の作家細川幽童著「どうでもよい源氏の知識」より

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「和泉上守護細川家と有吉立言」


和泉いずみ上守護かみしゅご細川家)

 半国守護とも称されるが和泉国の半分だけの守護ではない。

 全国唯一なのだが和泉国は守護を二人置く体制であり、和泉上守護家と和泉下守護家が同時に守護に任じられ、その二人の守護が和泉国全域に統治権を持つ守護職であり、ともに堺に政庁を構え和泉国を共同統治していたとされる。


 和泉上守護家は細川頼春よりはるの三男である細川頼有よりありを家祖とし、京兆家の当主となった細川頼元よりもとの兄の家系になる。

 細川一門として宗家の京兆家を支え、室町二十一屋形やかたの一つとして屋形号を称するなど高い家格を誇った。

(屋形号は室町幕府による許可制になり屋形号の許可がないと当主を御屋形様おやかたさまとは呼べなかったりする)


 細川藤孝の叔父である細川元常もとつねは両細川の乱において、一貫して細川澄元すみもと・晴元派に属して戦っており、細川高国に敗れて和泉守護職を失うこともあったが、大物崩れで細川晴元が勝利してからは和泉守護職として復帰した。


 作中の時点では細川元常は弟とされる細川晴貞に和泉守護職を代行させ、細川晴元と在京することが多かったが、三好長慶の叛乱に対しては、細川晴貞はれさだとともに和泉国で三好長慶方に寝返った和泉守護代の松浦守まつうらまもると戦っている。(諸説あります)


 細川藤孝と和泉守護家の関係なのであるが、今までの通説というか熊本藩の公的記録でも細川藤孝はこの和泉上守護細川家を継承していたとされ、江戸時代の「寛永かんえい諸家しょか系図伝けいずでん」の編纂へんさん時点では細川元常の父である「細川刑部少輔ぎょうぶしょうゆう元有もとあり」の養子とされていた。

 だが細川元有は1500年に討死しており、藤孝を元有の養子とするには年代的にも世代的にもかなり無理があった。

 そのため次の「寛政重修かんせいちょうしゅう諸家譜しょかふ」の編纂においては熊本藩は細川藤孝の養父を「細川元常」に変更したりしている。


 ようするに江戸時代の熊本藩ではすでに細川藤孝の養父がという、かなりいい加減な状態だったりする。

(おおむね細川藤孝からまともに話を聞いていない細川忠興ヤンデレのせいだと思います)


 近年の研究で、細川藤孝を養育したのが淡路細川家の「細川伊豆守いずのかみ高久たかひさ」と「細川刑部少輔ぎょうぶしょうゆう晴広はるひろ」であるとの新たな説が出され、細川藤孝は和泉細川家ではなく、淡路細川家の養子であったとされるようになり、細川藤孝は和泉守護細川家とは関係ないんじゃ? という感が強くなってきているのだが、はたしてそうであろうか……


(余談ですが淡路細川家・和泉細川家という二つの細川家と細川藤孝の関係性を考察することもこの小説の主題のひとつであったりします)


有吉立言ありよしたつのぶ

 有吉氏の家伝によると、有吉立言の父である佐々木ささき立英たつひでの代から和泉上守護細川家に仕えている。

 佐々木立英は近江の出身で細川元有が近江へ来た際に武芸でもって召抱えられたという。

 細川元有の死後、立英はその嫡子の細川元常にも使えたが享禄きょうろく4年(1531年)の細川高国と細川晴元の戦いである大物崩だいもつくずれ(天王寺の戦い)で討死している。


 佐々木立英が討ち死にした際に子の万助(有吉立言)はまだ幼かったため和泉細川家の所領があった伊予で育ち、成長して14歳になった万助は天文11年(1542年)に、細川元常の元に出仕したとされる。

 細川元常は万助の仕官を喜び、戦死した佐々木立英の武勲を褒め、細川元有の「有」の一字を与え、「有吉」の家名を名乗らせたとされる。


 有吉立言は細川藤孝にも早くから仕え、足利義昭を救い出した細川藤孝に同行しており、六角義賢が三好三人衆に寝返り足利義昭が近江から逃れる際には琵琶湖を渡る舟の手配をするなど活躍している。

 信長の上洛戦や本国寺の戦いにおいても細川藤孝に付き従い多くの手柄を上げ細川藤孝の重臣となっていく。


 有吉立言の嫡子である有吉立行たつゆきも細川忠興の傅役もりやくとなるなど、有吉家は肥後熊本藩の家老三座を代々務めることになり、明治期には男爵ともなるのである。


 ――謎の作者細川幽童著「どうでも良い戦国の知識」より

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