第四十八話 池田家騒動
天文十七年(1548年)8月
風が語りかけて来ない……暑い、暑すぎる、まったくの無風だ――
小氷河期とか言われているが夏はやはり暑く、蚊も多くて鬱陶しいことこの上ない。
ちなみに蚊取線香の発明は1890年になってしまい遥か未来の彼方だ。
この時代では蚊取線香の原材料である
除虫菊の原産地はバルカン半島の「セルビア」か「ダルマチア」辺りだとされているが、この時代は「オスマン帝国」が
そんな所から除虫菊を輸入しようとか、まあ土台無理な話だよなぁ……とそんなことを考えていたら、さらに暑苦しい事態になった。
「困っているでおじゃるー、困っているのでおじゃるー! なんとかしてたもれやー」
うだるような暑さで鬱陶しいのに、さらに暑苦しい公卿の
鬱陶しさが倍増するので勘弁してくれ。
「とりあえず落ち着いてくだされ。お茶を入れますゆえ」
「これが落ち着いていられるかやー!」
「落ち着いていただけないとお話をお伺いすることも出来かねます。さあ、まずは一服」
山科卿はマキュアン友の会(医薬グループ)でも協力してもらっているし、悪い人ではないのだが、正直かなりウザいのでちょっと苦手だ。
「ふぅー、飲んだでおじゃる。さあ、話を聞いてたもれ!」
落ち着いてねーし! 高級な宇治茶をてきとーに飲みやがって。
「……して、いかような用件にあいなりますか?」
「困っているのじゃ! 山科の我が領地が押領されておるのじゃ!
「何とかと申されましても、山科の御料所については大御所や
「このままでは我が家は破産するぞよ。そんな冷たいことを言わずに公方様にお取り成しをお願いするでおじゃるー」
この7月に山科の地が足利将軍家の武家領に編入された。
本来、山科の地は朝廷の御料所(
(どっちも御料所なので分かりにくいことこのうえない)
それで手近な山科郷を接収したのだろうが、根回しぐらいはやっておいて欲しいと思うぞ無能な幕臣どもめが。
山科の郷民は長年禁裏(朝廷)に仕え、禁裏の警護役も行っていたため、新たに派遣された幕府の代官とは確執が起こっているとも聞いている。
山科家の荘園も押領の憂き目にあっているのだろうが、幕府が公的に動いている案件であるため、立場的に横槍を入れることは避けたいところだ。
それに山科の地では
「山科家が破産しないよう援助はいくらでもしますので、今しばらくは堪えてはいただけないでしょうか?」
「なぬ、援助してくれるとな?」山科卿の目がお金のマークになる。
「はい。薬を保管するために桐材から作った
「ほう、薬の保管とな」
「山科卿は薬の販売については多くの伝手を持っておりますので、これらの販売を共同で行うというのはいかがでしょう? むろん相応の報酬はお約束します」
「その商いでしばらくしのいでくれ、ということでおじゃるか?」
「申し訳ありませぬが、私も幕臣でありますので幕府のなすことに表立って反対はできかねます。それと失礼でなければ当座の
「今さらそこもとに失礼などとは申さぬ。かたじけなく頂戴いたすでおじゃる」
あげるんじゃなくて貸すつもりなのだが……聞いちゃいねえな。
「幕府の財政も苦しいのです。山科の御料所の件はなにとぞご容赦下さい」
「幕府や禁裏の財政が苦しいのは今に限ったことではないでおじゃるがの。じゃが、そこもとの懐は相変わらず裕福なようでおじゃる。
「さすがは山科卿ですなお耳が早い」
「我が家にも古着の伝手はありやんす。そのへんのお話も聞きたいものでおじゃるな――」
結局、山科家にも古着の仕入れに協力してもらうことになり、ダメ押しとばかりに公方様の
山科卿は笑顔で帰っていったからよしとしよう。
百味箪笥は薬やその元となる
冷蔵庫もなければ密閉容器もあまりないこの時代にあっては、薬を保管するだけでも結構大変だったりするのだ。
桐を用いたタンスと珪藻土でなんとか湿度を調節してなるべく薬を長持ちさせたいと思い、とりあえず作らせてみた。
薬や生薬に、塩や砂糖などの保管に桐の箪笥や珪藻土は、この時代にあっては優れているので商家や医師関係に売っていこうと思う。
武家や公家、寺社なども自らそれらを保管しているので、販売先にはまあ困らないだろう。
◆
山科卿がドタバタと帰ったあとに、入れ代わりで
かねてから依頼されていたのだが、公方様の国学や法学の先生として紹介するため今出川御所へ出仕する約束をしていたのだ。
――ところで『
日本史の授業で名前だけは習っていると思う。
(名前と発布年だけ教えて、その中身を教えないのが日本の歴史教育のダメな所だと個人的には思う。御成敗式目は日本の文化、日本人の心を形作った大事な法律であると思うのだが……)
『御成敗式目』は1232年に鎌倉幕府
室町幕府も『
へたすると江戸幕府により『
『御成敗式目』は制定されてから正式に廃止されることもなく、明治維新によって武家社会が崩壊し、その役目が消滅するまで、なんと600年以上存在し続けた化け物みたいな法律なのだ。
無論この室町時代においても『御成敗式目』の知識は為政者にとっては必須の教養であり、愛する義藤さまにも是非学んで欲しいものとなる。
そこで清原家の出番になるのだが、細川藤孝の祖父である清原宣賢は家業として『御成敗式目』を研究しており、『
さすがは屈指の
また、清原宣賢の養父である
清原業賢も父の業績を継いで『式目抄』に注釈を加えるなど研究を引き継いでおり、その子の
(三好政権に清原家が協力するなどは阻止するがな)
そもそもの話だが『御成敗式目』を
まあそんなわけで、愛する義藤さまに法律を教える人材としては、清原宣賢と業賢は最高の人材であり、誰も文句を付けようがないはずだ。(枝賢くんはアホっぽいから少し避けたい)
大手をふって身内を公方様のブレーンにできるので、俺としては万々歳であったりする。
ゴキゲンを取るために抜かりなく唐揚げ用の食材も持参して、祖父と伯父をともなって今出川御所の離れに居る義藤さまに逢いにいく。
公方様の警護にあたりながら、松井新二郎に
「公方様、藤孝にございます」
「入るがよい」
「恐れ入ります。我が祖父の
「公方様におかれましてはご機嫌麗しゅう存じます」
宣賢爺さんが代表して公方様に挨拶をする。
「環翠軒(清原宣賢)殿に侍従(業賢)殿、わざわざお越しいただき痛み入る」
「このご老体をお召しいただき嬉しくあります。公方様の学問の師を最後の奉公として励む所存にござります」
「遠慮のう指導してもらいたい。それに藤孝の祖父であるのじゃ、藤孝と同じよう身内を指導するつもりでビシビシお願いいたします」
「ほほほほ、今でこそ偉そうにしておりますが、この与一郎めは気移りが多くて講義には難儀しましたものですじゃ。与一郎と同じでは扇子で公方様のお頭をポカリと打つことになってしまいますが、よろしいのですかな?」
「それは良いことを聞いた。その方はダメな弟子であったようじゃな」
「爺さん、それぐらいで勘弁してください。公方様にあまり変なことを吹き込まないでくだされ」
「何をいうか。まだまだヒヨッコの癖して偉そうに」
「だから勘弁してくださいよー」
「父上その辺で許してあげてくだされ。与一郎は今や公方様の一の側近でありますぞ。いつまでも鼻たれ小僧ではありません」
「伯父上まで勘弁してくだされ」
「くくくく、藤孝は鼻たれ小僧であったか! お二方、この藤孝めの面白き話をもそっと聞かせてくだされませ」
「義藤さまもいい加減にお許し下さい。これでは学問に入れないではありませぬか」
「分かった、分かった、許すがよい」
「まったく……では伯父上、お願いいたしまする」
「う、うむ。公方様、これは私めが御成敗式目を写して注釈を加えたものになります。これを元に講釈を行いますのでお納めください」
業賢伯父上から巻物を預かり公方様に手渡す。
「かたじけない。ではよろしくお願いする」
「ははっ」
宣賢爺さんは70歳を超えた高齢であるので、基本的には業賢伯父がメインで公方様に指導していくことになる。
清原宣賢の名が高名であるので、宣賢爺さんは公方様の学問の師としての箔付けのための名前だけの存在と言ってもよい。だが、それでも爺さんは嬉しそうに時おり口を挟んでいる。
和気あいあいとやれているので、義藤さまの勉学の環境として悪くないだろう。
とりあえずは御成敗式目の勉強からスタートしているが、いずれは国学や和歌の勉強もやっていくが平和な時にしかできないからな。
これで吉田家と清原家がともに足利将軍家のブレーンとなったわけであるが、恐らくはまだまだ公方様を囲い込んでいこうとか考えているだろうな……
◆
勉学のあとは鳥の唐揚げを作ったので、宣賢爺さんたちと談笑しながら食事を楽しんでいた。
なぜか知らないが俺の過去をサカナに笑いながら食っているようだ。
俺にはその頃の記憶がないので他人事にしか聞こえないのだが、理不尽であることには変わりなく面白くはない。
笑われてばかりではつまらないので話題を変える意味で、山科卿の押領の件を持ち出した。
「山科卿から家領の年貢の未納の件で苦情が来ております。山科卿にはご助力いただいておりますれば、大御所様にも一言お伝え願えないでしょうか?」
「山科郷のことだな。分かった、大御所には申し伝えておこう。それと唐揚げをおかわりじゃ♪」
ちなみに唐揚げは安土桃山時代には技法が伝わり、江戸期には普及していたともいわれる。
自分のレシピは鶏肉に醤油で下味を付けているので竜田揚げに分類されるかもしれない。
そのうち蕎麦屋のメニューに加えるだろう。
「助かります。しばしお待ち下さい追加で揚げますので」
と、そこに沼田三郎左衛門が声を掛けて来た。
「恐れ入ります。
「入るがよいぞ」
「失礼仕ります。大御所様が火急の仕儀にて公方様をお呼びでございます。常御殿までお越しくだされ」
大御所からの使いは実父の三淵晴員であった。
「親父、何かあったのか?」
「ああ、右京兆(細川晴元)殿の元に弾劾状が届いたのだ。それで京兆家屋敷が大騒ぎになっている。この御所にも注進があってな対応を協議することとなった」
この日、大御所は側近らと、のちの世に『
そこに摂津の池田家のお家騒動の顛末と、
道増殿の送別の宴は池田家のお家騒動と弾劾状の対応について協議する場になってしまった。
朝からずっと宴をやっており、酒もかなり入っているので、協議の場はヒドイ有様となった。
「また三好如きが騒動を起こしましたか、忌々しい」
「せっかく洛中が治まっておるのにいたずらに世を乱すとは言語道断の仕儀よ」
「ここはあの憎らしい三好長慶を討伐するもよろしいかもしれませぬな、ぐわっはっは」
「おお、そうよ、そうよ」
「わしの槍先に三好の首級を掲げて見せましょうぞ」
うーん、相変わらず三好長慶の人気のない事よ。
ほとんどの者が三好長慶を非難する言動をしている。
ここで三好長慶を擁護したり、仲裁に動こうなどと提案したらどうなることやら。
ん? 我が主が可愛い顔で俺を見ているが、嫌な予感しかしねえ……
「兵部大輔、何か思うところがあるようだな、発言を許すゆえ申してみよ」
相変わらず空気を読まずに、我が主がスクリュードライバーをぶち込んできやがった。
俺が三好長慶を擁護するだろうことを分かっているのだろうか?
頼むからこんな空気の中で発言させようとしないでくれ……
でもまあ、無駄だとは思うが一応言うだけ言ってみるかな。
「はっ、こたびの池田家の御家騒動につきましては、右京大夫(細川晴元)様が
「貴様は右京大夫殿を非難するつもりか!」
「う、右京大夫様の裁定に異議を唱えるとは小僧が増長したかっ!」
「なんでおじゃるその失礼な物言いは!」
「三好宗三殿を隠居させろとはどのような仕儀か!」
「貴様は三好長慶の回し者か!」
「黙れこわっぱ!」
「与一郎! 分をわきまえよ、控えろ、控えるのだ!」
あ、あかーん、義父(
久しぶりに洛中が安定しているものだから、細川晴元のシンパが増えていやがったのか。
「も、申し訳ありませぬ。出過ぎた真似をいたしました。失礼して頭を冷やして参ります」
とりあえず逃げるとしよう。
公方様が俺を擁護とかしてくれたりしたら、さらにマズイことになりかねん。
「愚か者が申し訳ございませぬ。しかと言い含めますれば平にご容赦を――」
義父が皆に俺の言動を謝っている。
いつも迷惑をかける出来の悪い養子で申し訳ない……
◆
離れの縁側の下で正座して、義藤さまの帰りを待った。
――数刻後、義藤さまが戻り笑顔で俺を中に招き入れてくれる。
「少し出すぎたようであったな……」
「も、申し訳ありませぬ」
「そなたのことだから、何か考えがあっての言であるとは思うが、すまぬが詳しく説明してくれるか?」
「はっ、まず第一に池田信正殿に切腹を申し付けた仕儀は、摂津の国衆に疑念を抱かせ、動揺させることになりました」
「池田信正とやらは返り忠を行ったのであろう? 切腹は行き過ぎだとは思うが細川晴元が怒るのも無理からぬことではないのか?」
「勝敗は兵家の常であります。戦の当初、
「ようするに池田信正の切腹は他の摂津の国衆にとっても他人事ではないということだな」
「左様であります。さらに池田信正は四国衆の援軍により大勢を挽回した三好長慶に対して降伏、開城しております。三好長慶の仲介により池田信正は晴元に帰参しておりますれば、三好長慶は池田家の保護者としての立場を有します。それゆえ池田信正の切腹は三好長慶の面目を潰すことにもなったのです」
「そなたの言うことはもっともだと思うが、だからと言って三好宗三を隠居させろというのは話が飛躍し過ぎて無理筋にあたるのではないか?」
無理は承知だけど、恐らくそれ以外で三好長慶は納得しないんだわ。
「三好宗三は池田信正の義父になり、池田家の家督を継ぐことになった
池田家中の親晴元派、親三好宗三派と組んで三好宗三は好き勝手やったらしい。
池田家を完全に晴元の言いなりになるよう、三好宗三の旗下に組み込もうとしたのだろうが、露骨にやりすぎたわけだ。
「それで池田家の者が三好宗三と対立してお家騒動になっているということか?」
「三好宗三が池田長正の外戚としてまっとうに後見し、池田家を守り立てていけば問題とはならなかったものと思われます。こたびの摂津池田家におけるお家騒動は明らかに三好宗三の失策、三好宗三派は追放され池田家中は反宗三派でまとまったと思われます」
「それゆえ、三好宗三に責任を取れということか?」
「それだけではありませぬ。この問題はすでに三好家の問題へと発展しております」
「三好家の問題?」
「10年前の騒動は覚えておりますでしょうか?」
「10年前とは?」
「三好長慶が三好宗三が所領とする河内
「ああ、もろん覚えておるぞ。わしもその騒ぎで北の
ん? 何か義藤さまが訴えかけるような目をしている……なんだろう?
「義藤さま、何か私の話で分からないところでもありましたか?」
「い、いや……大丈夫じゃ、続けてくれ」
「10年前は三好長慶の力も弱く、振り上げた拳を納めて和睦しましたが、細川晴元の下にあっては庶流にすぎない三好宗三が三好家の嫡流である三好長慶より立場が上位にあり、庶嫡が逆転しております。10年前に比べ力をつけた三好長慶の家中にとっては庶流の三好宗三が如きの下で、いつまでもこき使われることは納得できぬことでありましょう」
もしかしたら三好長慶は我慢ができるかもしれないが、恐らく
「三好家にもお家騒動があるということだが、池田家の騒動に便乗して三好宗三を貶めようというのは、あまり感心したことには思えぬが?」
「たしかに無理筋ではありますが、そもそも細川晴元が三好長慶をしかと引き立てていればかような問題にもならなかったものと思われます」
「おぬしも三好長慶と同じく細川晴元殿が嫌いなようであるな」
「恐れながら、細川晴元は京兆家の当主としてはいささか器量に欠けるものと存じます」
「……わし以外の者の前ではかようなことは申すでないぞ。そのような言動が広まればわしでもそなたをかばいきれぬかもしれぬ」
「失言でありました」
「それでお主の言うように三好宗三を隠居させればこの問題は解決するのか?」
「三好長慶は主君の細川晴元ではなく、
「しかし三好宗三は細川晴元のお気に入りの近臣じゃ……細川晴元が三好長慶の要求を拒否すればどうなるとそなたは考えるか?」
「三好長慶は挙兵し……京兆家は崩壊するでしょう――」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます