第三十七話 織田信長<上>

 天文十七年(1548年)3月



 斎藤道三とは織田家との和睦の件について話はついた。

 あとは織田弾正忠だんじょうのちゅう家にその条件を飲ませるだけである。

 織田弾正忠家との交渉としては、まず大垣おおがき城代の『織田信房おだのぶふさ』に使者を出して、織田弾正忠家当主の織田信秀殿と面会したい旨を伝える。

 ただ現状織田弾正忠家の織田信秀は三河で戦闘マシーンのクソ坊主『太原雪斎たいげんせっさい』とやりあっているところなので、すぐに会えるわけではないのだ。


 織田信秀の拠点はこの時期には古渡城ふるわたりじょうである。

 嫡子の信長に那古野なごや城を譲って三河みかわ方面への押さえである古渡城に移っている。

 そのため織田信秀に面会するため古渡城まで出向くつもりなのだが、まずは幕府の正使として織田家の支配地における安全確保のため、大垣城代の織田信房に通行の許可を求めることになる。


 織田信秀と面会するため、大垣城と連絡を取っている間に斎藤道三とも何度か会った。

 その際に猿楽さるがく観世流かんぜりゅう一座が川手かわでの町で興行する許可についても便宜べんぎを図ってもらった。

 観世流としては美濃みのにおける興行権の公認により収入が得られる。

 斎藤道三やついでに土岐頼芸ときよりのりとしては猿楽興行が城下の町衆への慰撫いぶとなる。

 俺は観世流に恩を売ることにより、今後の外交活動でも観世流一座の協力が得られることができる。

 俺も道三も観世流も得をする三方よしの関係のとても良い話となった。


 しばらくして大垣城代の織田信房から通行の許可がでた。

 安全が確保できたのでまずは尾張の津島つしまに向かうのだが、斎藤道三が美濃国内での護衛のための兵を出してくれた。

 俺の縁戚である竹腰重直たけごししげなおの軍勢を付けてくれたのだ。

 斎藤道三って仲良くなると義理堅いよね。(ギリワンどこいった?)

 竹腰重直は大垣城や竹ヶ鼻たけがはな城付近の濃尾のうび国境地帯の領主でもあったので道案内も兼ねている。


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「大垣城主織田信房について」 

 この頃の大垣(大柿城、牛屋城ともいう)城主(城代だろう)は『織田播磨守信辰』というのだが、誰なんだお前は? と言いたい……

 一応『織田藤左衛門尉とうざえもんのじょう寛故とおもと』と『織田造酒丞みきのじょう信房』のどちらかだと考えられている。


『織田藤左衛門尉寛故』の方は清洲三奉行の一つ『藤左衛門尉家』の当主であり、子孫は津田氏を称して江戸時代に尾張藩に仕えている。

『織田播磨守信辰』が『藤左衛門尉家』の人間であるのなら、生き残った尾張藩の藩士が祖先に対して何か言及していてもおかしくないのだが、今のところ皆無なので、多分『織田播磨守信辰』は織田寛故ではないのだろうと考えている。


 もう一方の『織田造酒丞信房』は小豆坂七本槍の一人に数えられる勇将なのだが、実は織田の一族でも何でもないらしい。(小豆坂七本槍自体も非常に胡散臭い)

 織田信房は織田信秀の家臣でありその父の代に武功で『織田の名乗り』を与えられただけのようである。

 織田信房の子としては『小瀬清長おぜきよなが』と『菅屋長頼すがやながのり』がいる。


 小瀬清長は守山城主『織田信光おだのぶみつ』(信秀の弟)の嫡男の『織田信成おだのぶなり』(信長の従兄弟)に仕えたのだが、伊勢長島一向一揆との戦いで主従ともども討死した。


 菅屋長頼は織田信長に早くから側近として仕え、馬廻りでも上位に位置し、主に使者として働いていた。

 のちには奉行なども務めるのだが信長には相当信頼されていたようである。

 多くの裁定に関与し、晩年には北陸方面で政務を全権委任されてもいる。

『府中三人衆』(不破光治ふわみつはる佐々成政さっさなりまさ前田利家まえだとしいえ)の後釜として越前府中に入り、越前の旗頭になるところだったのだが、その直前に本能寺の変で息子ともども一族全滅した。(前田や佐々より格上になるはずであった)

 菅屋長頼はクソマイナー武将扱いで、有名ゲーム等には出ていないのだが、内政官僚としても外交官としても超一流の人物である。


 ようするに織田信房の子孫は誰一人として生き残らなかったのだ。

 そのため織田信房は良く分からなくなってしまったのではないか?

 織田播磨守信辰は謎の人物なのだが、逆に考えよう。

 子孫が全滅したから謎になってしまったのだ。

 ……というヘリクツで、『織田播磨守信辰』=『織田造酒丞信房』だと考えている。それに『辰』と『房』は誤記なんじゃね? とも思っている。

 ――謎の作者細川幽童著「どうでも良い戦国の知識」より

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 竹ヶ鼻で竹腰重直が手配してくれた川舟で津島へ向かう。

 竹腰重直とはここでお別れだが、津島までは川舟で楽に行くことができた。

 津島で平野長治ひらのながはると合流し、津島の町で一泊する。

 平野家は津島の有力者であり津島見学なども自由にできるよう手配してくれた。

 津島は現在では内陸であるが、この時代には伊勢湾に通じるみなと町として栄えている。

 木曽川流域(木曽川、長良川、揖斐川)は川の治水整備がまともにできていないので陸路で行くのが困難な時代なので、水運が発達しているのである。


 平野長治には俺のおかげで織田信秀に重く用いられるようになったと、何故か感謝されてしまったのだが、俺特に口利いていないのだけど……まあいいか。

 織田信秀が幕府での弾正忠家の申次になった俺とのパイプ強化のために、俺と従兄弟である平野長治を引き立てたのだろう。

 これからでも機会があれば口をいてあげることにしよう。


 さて、この旅の最大の目的達成のため、尾張一の市でもあり、湊町でもある津島で食いしん坊将軍への美味しいお土産を買おうと思ったのだが、『ういろう』がないやんけ! 『ひつまぶし』もないじゃないか!

 美味しいお土産を買って帰れないと、義藤さまに怒られてしまう。

 これでは二度と接待ゴルフ(外交です)に行く許可が貰えなくなってしまうではないか。

 名古屋名物ってほかに何かあったかな? 正直土産が無くて困ってしまうぞ。


 津島からは平野長治の手配でやはり舟で熱田あったへ向かう、やはり陸路より海路の方が断然早いのだ。

 尾張南部は現代の木曽川などの流路がぐちゃぐちゃであり、現在の内陸まで海なのでとにかく陸路は難儀する。

 

 だがそのおかげで尾張の経済の中心である津島と熱田を観光できるのであり、少し贅沢だよなとか思ってしまう。

 伊勢湾は舟での流通が活発でこの時代に一大商業圏を形成しており、津島や熱田はその中心をなしている。

 この伊勢湾経済圏を押えたことが織田弾正忠家の発展に繋がったのである。

 東の遠州灘えんしゅうなだ、西の熊野灘くまのなだはこの時代には舟の運用が難しいのだが、伊勢湾や三河湾はそれに比べると水運が段違いである。(熊野灘はまだマシだが、遠州灘はまともな湊がなくて海の難所である)

 そのため、伊勢湾や三河湾の経済圏を奪い合い、織田家と今川家とは争うことになるのである。


 ◆


 熱田ではしばらく逗留とうりゅうしし、平野家を介して織田弾正忠家からの連絡を待つことにした。

 織田信秀との会談場所をどうするかの調整である。

 熱田で待っている間に観光などもしたが、とりあえず俺は美味いものが無ければ自分で作ってしまえの精神で「ひつまぶし」と「ういろう」を試作したりしていた。

 最悪自分で作ったこれらを『尾張名物』ですと偽って、義藤さまに献上すればよいだけではないかという考えである。

 あの食いしん坊将軍にはよもやバレるまい、はっはっは。(一応自称公方様の忠臣らしいです)


 そんなアホなことをしていたら、那古野城から織田弾正忠家よりの使者がすぐに訪ねてきた。

 公方様の正史たる皆様には那古野城でつつがなく逗留して頂き、是非とも歓待したいとのことであった。

 むろん断る理由などない。

 熱田からは陸路で北上し那古屋へ向かう。

 だが那古屋に向かう途中で、何やら怪しい一団と遭遇そうぐうした。

 こんな地域で山賊か落ち武者狩りかよとも思ったが違った。

 トッポい兄ちゃん達に『オメーどこ中だよ?』 のノリで絡まれたのだ。

 ボンタン狩りとかされそうな雰囲気である。


「おみゃーら何者だ? どこへ行くつもりだ?」(おみゃーとかお前とか時代考証的には怪しいのだが気分で使わせてくれい)


 これだから田舎のヤンキーは嫌なのだ、ここは茨城のクソ田舎かよ!

 将軍の正使御一行様に喧嘩売るとかアホですか。


「まずは己らが名乗るのが筋であろうが」


 むろんうちの鬼軍曹の米田源三郎こめだげんざぶろうが喧嘩腰で対応しております。


「あーん? なんじゃコイツら偉そうに」ヤンキー集団の仲間なかまトオル(仮称です)が威嚇いかくでメンチきってくる。(ガンつけです)


 人数的には50人程度のガラの悪い騎馬武者のヤンキー集団である。

 さすがに鎧は付けていないが槍や刀で武装はしている。

 さてどうするかな、舐められないようにこちらも郎党を連れて来ているのだが、外交相手のお膝元で面倒を起こしても困るのだが……、いやここは喧嘩を買うべきだな。


利三としみつ、火縄を」自慢の鉄砲隊で脅かすことにする。


「はっ、熱田より火縄の火はやしておりませぬ」


「さすがだな、ふむ。二十発ほど足元にでもぶっ放してやれ、当てるなよ」


「ははっ」


「α(アルファー)隊構えい!」利光が号令をかける。


「な、なんじゃい、やる気か、てめーら?」ヤンキーの一人の加藤ヒロシ(仮称です)が食って掛かってくる。


「かまわん利光。足元を狙え威嚇だ、ファイエル!」問答無用、先手必勝である。


 パパーン×20


 根来から調達し、訓練を重ねて来た我が鉄砲隊が火を噴いた。

 初の実戦? がヤンキー相手の威嚇射撃もどうかと思うが、しょうがあるまい。

 我らに喧嘩を売ってきたヤンキーの愚連隊の足元に弾丸が飛び散る。

 愚連隊の馬が慄きおののき制御を失いさんみだす。


「あ、あいつら鉄砲なんか持ってやがるぜ」当初の威勢はどこへやら加藤ヒロシ(仮称です)がビビリまくっている。


「ひ、ひけい、ひくんじゃあ」仲間トオル(仮称です)も逃げ腰だ。


 鉄砲20挺の一斉射撃だからな、まあ普通はビビる。

 鉄砲を知っていればだが……


「おい小僧こぞう共、次は当てるぞ、死にたくなかったらさっさと逃げてお前らの大将にでも泣きついて来いや」米田源三郎があおる煽る。


 こっちもガキのお遊戯ゆうぎに付き合ってあげる程ヒマではないのだ。


「のけい!」


 と、ここで、やつらの大将らしき男が前に出てきた。

 袴を履かずに派手な湯帷子ゆかたびら着崩きくずし、腰を荒縄あらなわで締め瓢箪ひょうたんを下げており、頭は茶筅髷ちゃせんまげである。

 これはもうアイツしかいねーだろ。


「おみゃーら何者だでぇ?」茶筅髷が声を掛けて来る。


「何度も言うが、人に名を聞く前に、己から名乗るが礼儀ぞ」


「源三郎よい。わしが答えよう。若殿のお出ましだ」


「は?」源三郎がポカンとしている。

 あの格好を見て、『若殿』だとは思えないのであろう。

 まあ普通はそうだ、だから『うつけ』とも称されることになるのだが……


「それがしは公方様の御部屋衆おへやしゅうにて細川兵部大輔ひょうぶだゆうと申す。我々は幕府の正使として、那古屋城に招かれた者だ。三郎殿御自らのお出迎え大儀である」


 そう、この愚連隊はのちの馬廻りで黒母衣衆くろほろしゅうなどになる者らであり、茶筅髷の大将は『織田三郎信長』なのである。

 俺と織田信長の出会いは少し硝煙しょうえんくさい出会いとなってしまった――


 ◆


信長殿との出会いはアレだったが、とりあえず今は那古野なごや城に無事に逗留とうりゅうさせて貰っている。

 あのあと鉄砲の発砲音を聞きつけたであろう平手政秀ひらてまさひで殿が飛んで来て場を納めたのだった。

 平手の爺さんは俺を見つけ平謝りであったが、信長殿は悪びれもせず知らん顔である。


 軟弱な京の幕府の使者とやらを、脅しのつもりで少しビビらせてやろうとでも思ったのであろう。

 ただの脅しに鉄砲20挺の一斉射撃で返されるとは思っていなかったであろうがな……


「失礼つかまつりまする。兵部大輔ひょうぶだゆう(藤孝)様、おくつろぎ頂けておりますかな?」平手の爺さんが、落ち着いたであろう我らの様子を見に来て挨拶をする。


「ええ、平手殿のおかげで十分快適であります。配下の者や馬借ばしゃくにまでご配慮頂き感謝致します」


 郎党は那古野城内で馬借たちは城下に逗留させてもらっている。

 我々があてがわれた部屋は上等な部屋であり、しっかりと歓待されている。


「殿(信秀)が不在で誠に申し訳なく。殿が戻られるまで何卒お寛ぎいただき、お待ちいただければ幸いでありまする――」


 と、そこにドカドカと足音を立てて部屋に入って来ようとする者がいた。


「爺! 席を外せ。その者と話がしたい」


「若っ、くれぐれも――」


「分かっておる。兵部大輔殿と話をするだけじゃ、無礼はせぬ心配いたすな」


 平手の爺さんは心配気な顔をしつつも追い出されてしまった。


「源三郎も席を外せ。織田の若殿は二人だけでの話を所望のようじゃ」


「隣室に控えておりますので何かあればおよび下さい」


 平手殿も米田源三郎も部屋から出ていき、二人きりとなる……沈黙を破ったのは足音のでかい来訪者の方であった。


「織田三郎信長にござる。兵部大輔様には、先ほどは失礼いたした」


 名乗りをあげ、頭も下げる。

 礼を尽くす場面では織田信長は礼を尽くせる男のようだ。

 まあ悪ガキ共の前では頭は下げたくなかったのであろう。


「細川兵部大輔藤孝にございます。茶の湯の用意をしておりましたので、しばしお付き合い頂けますかな?」


「頂くとしましょう」


 信長にも道三と同じく、宇治茶に京釜きょうがま茶杓ちゃしゃくを手土産に持参している、あとであげよう。


 とりあえず二人して静かに茶を喫する。

 信長をこうして見ると、まだ若いだけあってか覇王とか天下人という威圧感は余り感じない。

 これまでに三好長慶みよしながよしとか斎藤道三さいとうどうさんとかいう、既に化け物じみている相手で慣れてしまったというのもあるかもしれないが、まだ信長は俺と同じ15歳でしかないのだ、……うん、まだ若いな。


「お茶請けにもみじ饅頭もどうぞ」


「おおこれは! 以前に食したことがあったが、う、うまいだぎゃー!」


「お喜び頂けたようでなによりです」


「これは以前貰った饅頭と同じ物であるな。このような美味いものは食したことはなかった。以前送ってくれたのもそのほうであったか」


「ええ、そういえば信秀殿の上洛の折お持ち帰り頂いておりましたな。今回はかなりの饅頭を持参しておりますので好きなだけ食してくだされ」


「遠慮のう頂くとするわ」


 織田信長は実はかなりの甘党であったという。満面の笑みでもみじ饅頭を食べている。

 信長の満面の笑みとか貴重だよなぁとか思いながら眺めていたら、信長殿が赤面してしまった。(貴重ではあるが男の赤面とかいりません)


「茶の湯というものは、このように二人で静かにお話をするには持ってこいだとは思いませんかな?」


 信長殿がバツの悪そうな表情をしているので話題を振ってあげた。

 茶の湯の普及活動でもある。


「密談にちょうど良いということであるか」


「信長殿と私とが密談をする必要はありませんが、交友にはよろしいでしょう」


「ふん。しかし兵部大輔殿アレはないぞ」


「アレとは?」


「鉄砲だ。20挺はあったか?」


「こたびは60挺ほど持参しております」根来から定期的に購入し、ついぞ60挺になったのでハッタリかますために全部持ってきた。

 連れて来た郎党が40人なので鉄砲武装率150%である。


「ろ、60挺だと? それほどの数をど、どこで手に入れたのだ? それにあの鉄砲隊の統率力。どれほどの訓練を積んで来たのだ」


 に鍛えられた鉄砲隊だからな相当な練度ではある。

 それに硝石しょうせきも十分な数があるから訓練回数は日本一という自負もあるぞ。


「訓練は相当こなしております。鉄砲の入手先はまだ秘事ということで……」


  信長は間違いなく鉄砲に興味を持っているであろうから、あの場面で20挺の鉄砲をぶっ放すなんて真似をしたのだ。

  織田弾正忠家のお膝もとでの愚連隊ぐれんたいなぞ、信長以外には居ないであろうと踏んでな。

 案の定信長は鉄砲に興味を持って、俺を訪ねてまいり食いついて来たわけだ。


「まだ、ということは、和睦が成ればいずれは教えてくれるのであるか?」


「はて、和睦とは一体なんのことでござろう?」


「おみゃーさん、美濃と尾張の和睦をまとめる魂胆であろう?」


「なぜそうだと?」


にも伝手はある。おみゃーさんは稲葉山の土岐館で歓待されているであろうに」


「ええ、結構なうたげでありましたよ。左近大夫(道三)殿と一緒に舞なども楽しみましたゆえ」


「左近大夫と舞だぁ? なんじゃそのけったいな宴は」


「たしか三郎殿も舞はお好きでしたな。今度一緒にどうですかな? それがしは観世流かんぜりゅう太鼓方たいこがた宗家の直弟子です。小鼓こつづみには自信がありますぞ」


 そういって、目線で小鼓を見せる。さっき乾燥のために出しておいたのだ。

 残念ながら信長殿は今は興味がなかったようで一瞥いちべつをくれるだけで、舞の話題には乗ってこなかった。


「舞もよいが、それよりまずは和睦の件だ。で、条件は何であるか?」


「それは織田弾正忠殿との交渉の席にて披露ひろうされましょう」


「ワレは親父殿おやじどの(信秀)の前に聞きたいのだ」


「それは無理なご相談でござりましょう」


「ワレが和睦に協力すると言ってもか?」


「信長殿が和睦に協力を? なぜ信長殿は斎藤道三殿と和睦すべきとお考えでありますかな?」


「今の時期にあの斎藤道三を敵に回して美濃で領地を得ても旨みがないわ。それに清洲が邪魔で結局のところ美濃を維持はできまい」


 この頃の清洲城には尾張守護の斯波義統しばよしむねがおり、それを推戴すいたいする尾張守護代である大和守家やまとのかみけの織田彦五郎ひこごろう信友のぶともが清洲城を支配していることになっている。

 先代の守護代織田逹勝たつかつの代には織田信秀とは友好関係にあったが、この頃には逹勝は家老どもに隠居に追い込まれ、織田信友が当主となっている。

 清洲城は小守護代(家老)の坂井さかい大膳亮だいぜんのすけや坂井甚介じんすけ、織田三位さんみ河尻かわじり与一郎重俊しげとしなどといった者共らの専横を許し、守護を傀儡かいらいとする守護代をさらに傀儡とする小守護代に牛耳ぎゅうじられるといった有様なのである。

 家老逹に主導権を握られた織田大和守家と織田弾正忠家は今後対立していくことになる。


「それに、今は今川に全力であたる時ぞ、親父殿にはそれが分かっておらぬのだ」


「弾正忠(信秀)殿は、三河で今川家の太原崇孚たいげんすうふ(雪斎)殿と相対しているとか」


「今川が東三河を押えたからな。西三河を押えた我らと中三河の奪い合いじゃ。ワレも出陣したかったのじゃがな……」


「信長殿は現状の尾張をどのようにお考えか?」


「今川家が東と北を固めたという。後顧の憂いなく西を、三河を併呑へいどんしようとしている。尾張はまとまっておらぬ。斯波様ではまとめられぬのよ。守護代の彦五郎でも同じこと。このままでは三河を今川に奪われ、さらには尾張にまで今川家は出てくるであろう。ここは全力で今川家に対するべきなのじゃ!」


 ◆


 まだ若いがさすがは信長である。

 しっかりと先のことを見すえている。

 織田信秀の嫡男である信長殿が賛同してくれるのであれば、織田弾正忠家と斎藤道三との和睦はなるかもしれない。


 今川義元を『海道一かいどういち弓取ゆみとり』や、駿三遠すんさんえんの太守(駿河するが三河みかわ遠江とおとうみ)とも称するが、今川家は実はそれほどこの三国に安定的な支配体制を敷いていたわけではない。


 まず本国の駿河だが、ようやくこの2年前の1545年における『河東かとうの乱』で戦い勝利することによって富士川ふじがわから黄瀬川きせがわ一帯の駿河国の半国を北条家から奪い返したばかりなのである。


 遠江も今川家の領国となったのは最近のことだ。

 女城主おんなじょうしゅで有名な『井伊直虎いいなおとら』の井伊氏や、今川氏の分家である堀越氏ほりこししなどが今川家に服属したのもこの10年以内の話であり、今川義元死後には『遠州錯乱えんしゅうさくらん』などと呼ばれる遠江国人の叛乱がすぐに起こる有様で、今川家による支配が完全であるとはいえない。


 三河についても、今川家の進出はつい最近の話で、東三河の豊橋とよはし(吉田)城を支配下に置いたのは1546年であり、わずか1年前の話である。

 1510年頃の北条早雲ほうじょうそううんが今川家の武将として健在であったころに、今川家が三河にまで攻めてくることもあったが、今川家のお家騒動の『花倉はなくらの乱』や、三河における松平清康まつだいらきよやす(家康祖父)の台頭により、今川家の三河再侵攻は織田家より遅くなった。


 いまさら『桶狭間おけはざまの戦い』を今川義元の上洛じょうらく作戦であったと思っている人は少ないと思うが、一応言っておく。

 桶狭間の戦いは、この1547年より始まった今川家と織田弾正忠家との三河争奪戦の延長上の戦いでしかないのだ。

 逆に言えば桶狭間の戦いまで、この先13年間も織田弾正忠家は今川家と死闘を続けることになり、小豆坂あずきざかの戦い以降はほぼ今川家に圧倒され続けることになる。


 そもそも織田信長と今川義元との戦いである『桶狭間の戦い』は日本三大夜戦やせん(奇襲戦)の一つに数えられるが、言われるほどの奇襲戦などではない。

 織田家と今川家が、真正面からぶつかり合った戦いが真相なのである。


 今川義元は上洛など目指しておらず、三河の掌握しょうあくと尾張の知多ちた半島の奪取あたりが目的であったのだ。

 この時代の知多半島は米が取れないので石高は低いが、伊勢湾貿易の中継地であり、常滑焼とこなめやき塩田えんでんが発達した経済地域であるのだ。

 織田家と今川家の争いは経済先進地域であった、伊勢湾商業圏をめぐる争いなのである。


 それに主目的は信長の兵糧攻めに遭い窮地に陥っていた大高おおだか城の救援、いわゆる後詰ごづめが優先目的である。

 また織田信長が尾張をほぼ統一したことで焦ったこともあるだろう、時をおけば織田家の尾張支配が強固になってしまうからだ。

 だから今川家は無理を押して攻め込んだ。


 桶狭間の戦いにおいて、今川軍4万5千〜2万5千vs織田軍2千などとも言われ、絶望的な数字が喧伝けんでんされているが、さすがにそれはない。

 物語として盛り上げるための虚構きょこうであろう。

 絶望的な状況で勝った信長様スゲー! だから家康様が信長様に従うのもしょうがねー……である。


 慶長けいちょう三年の石高では織田家の尾張一国で実に57万石であり、1万石あたり250人〜300人という動員兵力の通説にしたがえば、尾張一国で1万4千〜1万7千人の兵力となる。


 今川家はどうであろう、駿河15万石、遠江25万石、三河29万石の合計69万石で計算すると1万7千〜2万程度の兵力となり、そこまで絶望的な差にはならないのである。


 1560年時点でいえば信長はなんとか尾張を統一したばかりであり、北の斎藤(一色)に押さえの兵も必要で、2千しか動員しかできなかったとされるのが通説だが、そんなわけがない。

 1558年の浮野うきのの戦いとその翌年の岩倉いわくら陥落かんらくにおいて織田伊勢守家を滅ぼすなか、信長には上洛する余裕すらあるのだ。

 

 たしかに今川方に転じた沓掛くつかけ城や大高城など尾張の一部に伊勢長島いせながしま一向門徒の勢力の強い海西郡かいせいぐん(水浸しで2万石程度)、葉栗郡(木曽川の流路変更のせいでほぼ美濃10万石)などは支配下においてはいないが、それでも40万石程度の領国は支配していたと考えられるし、それにプラスして、津島と熱田の経済力が10万石以上の経済価値があったと見込まれる。


 統一したばかりで完全に支配などしていないと言われればそうだが、それは今川家も似たようなものである。

 沓掛城は国人が優勢な今川方に転じただけであり、大高城は信長の包囲下で、遠江や三河も国人が完全に服したわけではない。

 織田信長には北に斎藤家という敵がいるから兵を割けないというのも、今川だって同じである。

 今川義元ともあろう御方が、武田信玄との甲斐国境、北条氏康との伊豆・相模国境をがら空きにするわけがないのだ。


 ようするに桶狭間における『奇襲攻撃』なんてものがなくても織田家は簡単には今川家に破れたりはしないということだ。

 戦力比も1万〜1万2千vs1万7千〜2万程度の兵力差であり、地の利と戦場までの距離は織田家が圧倒的に有利なのである。

 実際に桶狭間で今川家が2万以上の兵力を投入できていたとは思えない。

 桶狭間の戦いは言われるほど絶望的でもなければ、今川家もそれほど圧倒的なわけではないのだ。


 ましてや現状から三河に再侵攻したばかりの今川家に対処し、早期に対今川を戦略の中心に置けば、史実の桶狭間の戦いほど今川家の攻勢に晒されることもないだろう。

 あえて言おう、美濃などにかまけている場合ではないのだと。

 お前ら(織田家)の敵は今川家だ。(幕府としても今川家は敵だといえるのでな)


 織田信長が家督相続時に絶望的な状況になったのは、ひとえに織田信秀が耄碌もうろくしたせいといっても過言ではない。

 晩年の織田信秀は病魔に侵され判断をいろいろ誤っているのである。

 できもしない今川家との和睦を目指し、嫡男の織田信長と対立し、織田信長の家督相続権を危うくなどもしている。

 織田信秀は尾張国中を敵ばかりのままで、信長への家督譲渡をまともにせずに死んでしまったのだ。

 そりゃあ葬式で信長に位牌いはい抹香まっこう


 

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