第三十七話 織田信長<上>
天文十七年(1548年)3月
斎藤道三とは織田家との和睦の件について話はついた。
あとは織田
織田弾正忠家との交渉としては、まず
ただ現状織田弾正忠家の織田信秀は三河で戦闘マシーンのクソ坊主『
織田信秀の拠点はこの時期には
嫡子の信長に
そのため織田信秀に面会するため古渡城まで出向くつもりなのだが、まずは幕府の正使として織田家の支配地における安全確保のため、大垣城代の織田信房に通行の許可を求めることになる。
織田信秀と面会するため、大垣城と連絡を取っている間に斎藤道三とも何度か会った。
その際に
観世流としては
斎藤道三やついでに
俺は観世流に恩を売ることにより、今後の外交活動でも観世流一座の協力が得られることができる。
俺も道三も観世流も得をする三方よしの関係のとても良い話となった。
しばらくして大垣城代の織田信房から通行の許可がでた。
安全が確保できたのでまずは尾張の
俺の縁戚である
斎藤道三って仲良くなると義理堅いよね。(ギリワンどこいった?)
竹腰重直は大垣城や
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「大垣城主織田信房について」
この頃の大垣(大柿城、牛屋城ともいう)城主(城代だろう)は『織田播磨守信辰』というのだが、誰なんだお前は? と言いたい……
一応『織田
『織田藤左衛門尉寛故』の方は清洲三奉行の一つ『藤左衛門尉家』の当主であり、子孫は津田氏を称して江戸時代に尾張藩に仕えている。
『織田播磨守信辰』が『藤左衛門尉家』の人間であるのなら、生き残った尾張藩の藩士が祖先に対して何か言及していてもおかしくないのだが、今のところ皆無なので、多分『織田播磨守信辰』は織田寛故ではないのだろうと考えている。
もう一方の『織田造酒丞信房』は小豆坂七本槍の一人に数えられる勇将なのだが、実は織田の一族でも何でもないらしい。(小豆坂七本槍自体も非常に胡散臭い)
織田信房は織田信秀の家臣でありその父の代に武功で『織田の名乗り』を与えられただけのようである。
織田信房の子としては『
小瀬清長は守山城主『
菅屋長頼は織田信長に早くから側近として仕え、馬廻りでも上位に位置し、主に使者として働いていた。
のちには奉行なども務めるのだが信長には相当信頼されていたようである。
多くの裁定に関与し、晩年には北陸方面で政務を全権委任されてもいる。
『府中三人衆』(
菅屋長頼はクソマイナー武将扱いで、有名ゲーム等には出ていないのだが、内政官僚としても外交官としても超一流の人物である。
ようするに織田信房の子孫は誰一人として生き残らなかったのだ。
そのため織田信房は良く分からなくなってしまったのではないか?
織田播磨守信辰は謎の人物なのだが、逆に考えよう。
子孫が全滅したから謎になってしまったのだ。
……というヘリクツで、『織田播磨守信辰』=『織田造酒丞信房』だと考えている。それに『辰』と『房』は誤記なんじゃね? とも思っている。
――謎の作者細川幽童著「どうでも良い戦国の知識」より
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竹ヶ鼻で竹腰重直が手配してくれた川舟で津島へ向かう。
竹腰重直とはここでお別れだが、津島までは川舟で楽に行くことができた。
津島で
平野家は津島の有力者であり津島見学なども自由にできるよう手配してくれた。
津島は現在では内陸であるが、この時代には伊勢湾に通じる
木曽川流域(木曽川、長良川、揖斐川)は川の治水整備がまともにできていないので陸路で行くのが困難な時代なので、水運が発達しているのである。
平野長治には俺のおかげで織田信秀に重く用いられるようになったと、何故か感謝されてしまったのだが、俺特に口利いていないのだけど……まあいいか。
織田信秀が幕府での弾正忠家の申次になった俺とのパイプ強化のために、俺と従兄弟である平野長治を引き立てたのだろう。
これからでも機会があれば口を
さて、この旅の最大の目的達成のため、尾張一の市でもあり、湊町でもある津島で食いしん坊将軍への美味しいお土産を買おうと思ったのだが、『ういろう』がないやんけ! 『ひつまぶし』もないじゃないか!
美味しいお土産を買って帰れないと、義藤さまに怒られてしまう。
これでは二度と接待ゴルフ(外交です)に行く許可が貰えなくなってしまうではないか。
名古屋名物ってほかに何かあったかな? 正直土産が無くて困ってしまうぞ。
津島からは平野長治の手配でやはり舟で
尾張南部は現代の木曽川などの流路がぐちゃぐちゃであり、現在の内陸まで海なのでとにかく陸路は難儀する。
だがそのおかげで尾張の経済の中心である津島と熱田を観光できるのであり、少し贅沢だよなとか思ってしまう。
伊勢湾は舟での流通が活発でこの時代に一大商業圏を形成しており、津島や熱田はその中心をなしている。
この伊勢湾経済圏を押えたことが織田弾正忠家の発展に繋がったのである。
東の
そのため、伊勢湾や三河湾の経済圏を奪い合い、織田家と今川家とは争うことになるのである。
◆
熱田ではしばらく
織田信秀との会談場所をどうするかの調整である。
熱田で待っている間に観光などもしたが、とりあえず俺は美味いものが無ければ自分で作ってしまえの精神で「ひつまぶし」と「ういろう」を試作したりしていた。
最悪自分で作ったこれらを『尾張名物』ですと偽って、義藤さまに献上すればよいだけではないかという考えである。
あの食いしん坊将軍にはよもやバレるまい、はっはっは。(一応自称公方様の忠臣らしいです)
そんなアホなことをしていたら、那古野城から織田弾正忠家よりの使者がすぐに訪ねてきた。
公方様の正史たる皆様には那古野城でつつがなく逗留して頂き、是非とも歓待したいとのことであった。
むろん断る理由などない。
熱田からは陸路で北上し那古屋へ向かう。
だが那古屋に向かう途中で、何やら怪しい一団と
こんな地域で山賊か落ち武者狩りかよとも思ったが違った。
トッポい兄ちゃん達に『オメーどこ中だよ?』 のノリで絡まれたのだ。
ボンタン狩りとかされそうな雰囲気である。
「おみゃーら何者だ? どこへ行くつもりだ?」(おみゃーとかお前とか時代考証的には怪しいのだが気分で使わせてくれい)
これだから田舎のヤンキーは嫌なのだ、ここは茨城のクソ田舎かよ!
将軍の正使御一行様に喧嘩売るとかアホですか。
「まずは己らが名乗るのが筋であろうが」
むろんうちの鬼軍曹の
「あーん? なんじゃコイツら偉そうに」ヤンキー集団の
人数的には50人程度のガラの悪い騎馬武者のヤンキー集団である。
さすがに鎧は付けていないが槍や刀で武装はしている。
さてどうするかな、舐められないようにこちらも郎党を連れて来ているのだが、外交相手のお膝元で面倒を起こしても困るのだが……、いやここは喧嘩を買うべきだな。
「
「はっ、熱田より火縄の火は
「さすがだな、ふむ。二十発ほど足元にでもぶっ放してやれ、当てるなよ」
「ははっ」
「α(アルファー)隊構えい!」利光が号令をかける。
「な、なんじゃい、やる気か、てめーら?」ヤンキーの一人の加藤ヒロシ(仮称です)が食って掛かってくる。
「かまわん利光。足元を狙え威嚇だ、ファイエル!」問答無用、先手必勝である。
パパーン×20
根来から調達し、訓練を重ねて来た我が鉄砲隊が火を噴いた。
初の実戦? がヤンキー相手の威嚇射撃もどうかと思うが、しょうがあるまい。
我らに喧嘩を売ってきたヤンキーの愚連隊の足元に弾丸が飛び散る。
愚連隊の馬が
「あ、あいつら鉄砲なんか持ってやがるぜ」当初の威勢はどこへやら加藤ヒロシ(仮称です)がビビリまくっている。
「ひ、ひけい、ひくんじゃあ」仲間トオル(仮称です)も逃げ腰だ。
鉄砲20挺の一斉射撃だからな、まあ普通はビビる。
鉄砲を知っていればだが……
「おい
こっちもガキのお
「のけい!」
と、ここで、やつらの大将らしき男が前に出てきた。
袴を履かずに派手な
これはもうアイツしかいねーだろ。
「おみゃーら何者だでぇ?」茶筅髷が声を掛けて来る。
「何度も言うが、人に名を聞く前に、己から名乗るが礼儀ぞ」
「源三郎よい。わしが答えよう。若殿のお出ましだ」
「は?」源三郎がポカンとしている。
あの格好を見て、『若殿』だとは思えないのであろう。
まあ普通はそうだ、だから『うつけ』とも称されることになるのだが……
「それがしは公方様の
そう、この愚連隊はのちの馬廻りで
俺と織田信長の出会いは少し
◆
信長殿との出会いはアレだったが、とりあえず今は
あのあと鉄砲の発砲音を聞きつけたであろう
平手の爺さんは俺を見つけ平謝りであったが、信長殿は悪びれもせず知らん顔である。
軟弱な京の幕府の使者とやらを、脅しのつもりで少しビビらせてやろうとでも思ったのであろう。
ただの脅しに鉄砲20挺の一斉射撃で返されるとは思っていなかったであろうがな……
「失礼
「ええ、平手殿のおかげで十分快適であります。配下の者や
郎党は那古野城内で馬借たちは城下に逗留させてもらっている。
我々があてがわれた部屋は上等な部屋であり、しっかりと歓待されている。
「殿(信秀)が不在で誠に申し訳なく。殿が戻られるまで何卒お寛ぎいただき、お待ちいただければ幸いでありまする――」
と、そこにドカドカと足音を立てて部屋に入って来ようとする者がいた。
「爺! 席を外せ。その者と話がしたい」
「若っ、くれぐれも――」
「分かっておる。兵部大輔殿と話をするだけじゃ、無礼はせぬ心配いたすな」
平手の爺さんは心配気な顔をしつつも追い出されてしまった。
「源三郎も席を外せ。織田の若殿は二人だけでの話を所望のようじゃ」
「隣室に控えておりますので何かあればおよび下さい」
平手殿も米田源三郎も部屋から出ていき、二人きりとなる……沈黙を破ったのは足音のでかい来訪者の方であった。
「織田三郎信長にござる。兵部大輔様には、先ほどは失礼いたした」
名乗りをあげ、頭も下げる。
礼を尽くす場面では織田信長は礼を尽くせる男のようだ。
まあ悪ガキ共の前では頭は下げたくなかったのであろう。
「細川兵部大輔藤孝にございます。茶の湯の用意をしておりましたので、しばしお付き合い頂けますかな?」
「頂くとしましょう」
信長にも道三と同じく、宇治茶に
とりあえず二人して静かに茶を喫する。
信長をこうして見ると、まだ若いだけあってか覇王とか天下人という威圧感は余り感じない。
これまでに
「お茶請けにもみじ饅頭もどうぞ」
「おおこれは! 以前に食したことがあったが、う、うまいだぎゃー!」
「お喜び頂けたようでなによりです」
「これは以前貰った饅頭と同じ物であるな。このような美味いものは食したことはなかった。以前送ってくれたのもそのほうであったか」
「ええ、そういえば信秀殿の上洛の折お持ち帰り頂いておりましたな。今回はかなりの饅頭を持参しておりますので好きなだけ食してくだされ」
「遠慮のう頂くとするわ」
織田信長は実はかなりの甘党であったという。満面の笑みでもみじ饅頭を食べている。
信長の満面の笑みとか貴重だよなぁとか思いながら眺めていたら、信長殿が赤面してしまった。(貴重ではあるが男の赤面とかいりません)
「茶の湯というものは、このように二人で静かにお話をするには持ってこいだとは思いませんかな?」
信長殿がバツの悪そうな表情をしているので話題を振ってあげた。
茶の湯の普及活動でもある。
「密談にちょうど良いということであるか」
「信長殿と私とが密談をする必要はありませんが、交友にはよろしいでしょう」
「ふん。しかし兵部大輔殿アレはないぞ」
「アレとは?」
「鉄砲だ。20挺はあったか?」
「こたびは60挺ほど持参しております」根来から定期的に購入し、ついぞ60挺になったのでハッタリかますために全部持ってきた。
連れて来た郎党が40人なので鉄砲武装率150%である。
「ろ、60挺だと? それほどの数をど、どこで手に入れたのだ? それにあの鉄砲隊の統率力。どれほどの訓練を積んで来たのだ」
それに
「訓練は相当こなしております。鉄砲の入手先はまだ秘事ということで……」
信長は間違いなく鉄砲に興味を持っているであろうから、あの場面で20挺の鉄砲をぶっ放すなんて真似をしたのだ。
織田弾正忠家のお膝もとでの
案の定信長は鉄砲に興味を持って、俺を訪ねてまいり食いついて来たわけだ。
「まだ、ということは、和睦が成ればいずれは教えてくれるのであるか?」
「はて、和睦とは一体なんのことでござろう?」
「おみゃーさん、美濃と尾張の和睦をまとめる魂胆であろう?」
「なぜそうだと?」
「
「ええ、結構な
「左近大夫と舞だぁ? なんじゃそのけったいな宴は」
「たしか三郎殿も舞はお好きでしたな。今度一緒にどうですかな? それがしは
そういって、目線で小鼓を見せる。さっき乾燥のために出しておいたのだ。
残念ながら信長殿は今は興味がなかったようで
「舞もよいが、それよりまずは和睦の件だ。で、条件は何であるか?」
「それは織田弾正忠殿との交渉の席にて
「ワレは
「それは無理なご相談でござりましょう」
「ワレが和睦に協力すると言ってもか?」
「信長殿が和睦に協力を? なぜ信長殿は斎藤道三殿と和睦すべきとお考えでありますかな?」
「今の時期にあの斎藤道三を敵に回して美濃で領地を得ても旨みがないわ。それに清洲が邪魔で結局のところ美濃を維持はできまい」
この頃の清洲城には尾張守護の
先代の守護代織田
清洲城は小守護代(家老)の
家老逹に主導権を握られた織田大和守家と織田弾正忠家は今後対立していくことになる。
「それに、今は今川に全力であたる時ぞ、親父殿にはそれが分かっておらぬのだ」
「弾正忠(信秀)殿は、三河で今川家の
「今川が東三河を押えたからな。西三河を押えた我らと中三河の奪い合いじゃ。ワレも出陣したかったのじゃがな……」
「信長殿は現状の尾張をどのようにお考えか?」
「今川家が東と北を固めたという。後顧の憂いなく西を、三河を
◆
まだ若いがさすがは信長である。
しっかりと先のことを見すえている。
織田信秀の嫡男である信長殿が賛同してくれるのであれば、織田弾正忠家と斎藤道三との和睦はなるかもしれない。
今川義元を『
まず本国の駿河だが、ようやくこの2年前の1545年における『
遠江も今川家の領国となったのは最近のことだ。
三河についても、今川家の進出はつい最近の話で、東三河の
1510年頃の
いまさら『
桶狭間の戦いは、この1547年より始まった今川家と織田弾正忠家との三河争奪戦の延長上の戦いでしかないのだ。
逆に言えば桶狭間の戦いまで、この先13年間も織田弾正忠家は今川家と死闘を続けることになり、
そもそも織田信長と今川義元との戦いである『桶狭間の戦い』は日本三大
織田家と今川家が、真正面からぶつかり合った戦いが真相なのである。
今川義元は上洛など目指しておらず、三河の
この時代の知多半島は米が取れないので石高は低いが、伊勢湾貿易の中継地であり、
織田家と今川家の争いは経済先進地域であった、伊勢湾商業圏をめぐる争いなのである。
それに主目的は信長の兵糧攻めに遭い窮地に陥っていた
また織田信長が尾張をほぼ統一したことで焦ったこともあるだろう、時をおけば織田家の尾張支配が強固になってしまうからだ。
だから今川家は無理を押して攻め込んだ。
桶狭間の戦いにおいて、今川軍4万5千〜2万5千vs織田軍2千などとも言われ、絶望的な数字が
物語として盛り上げるための
絶望的な状況で勝った信長様スゲー! だから家康様が信長様に従うのもしょうがねー……である。
今川家はどうであろう、駿河15万石、遠江25万石、三河29万石の合計69万石で計算すると1万7千〜2万程度の兵力となり、そこまで絶望的な差にはならないのである。
1560年時点でいえば信長はなんとか尾張を統一したばかりであり、北の斎藤(一色)に押さえの兵も必要で、2千しか動員しかできなかったとされるのが通説だが、そんなわけがない。
1558年の
たしかに今川方に転じた
統一したばかりで完全に支配などしていないと言われればそうだが、それは今川家も似たようなものである。
沓掛城は国人が優勢な今川方に転じただけであり、大高城は信長の包囲下で、遠江や三河も国人が完全に服したわけではない。
織田信長には北に斎藤家という敵がいるから兵を割けないというのも、今川だって同じである。
今川義元ともあろう御方が、武田信玄との甲斐国境、北条氏康との伊豆・相模国境をがら空きにするわけがないのだ。
ようするに桶狭間における『奇襲攻撃』なんてものがなくても織田家は簡単には今川家に破れたりはしないということだ。
戦力比も1万〜1万2千vs1万7千〜2万程度の兵力差であり、地の利と戦場までの距離は織田家が圧倒的に有利なのである。
実際に桶狭間で今川家が2万以上の兵力を投入できていたとは思えない。
桶狭間の戦いは言われるほど絶望的でもなければ、今川家もそれほど圧倒的なわけではないのだ。
ましてや現状から三河に再侵攻したばかりの今川家に対処し、早期に対今川を戦略の中心に置けば、史実の桶狭間の戦いほど今川家の攻勢に晒されることもないだろう。
あえて言おう、美濃などにかまけている場合ではないのだと。
お前ら(織田家)の敵は今川家だ。(幕府としても今川家は敵だといえるのでな)
織田信長が家督相続時に絶望的な状況になったのは、ひとえに織田信秀が
晩年の織田信秀は病魔に侵され判断をいろいろ誤っているのである。
できもしない今川家との和睦を目指し、嫡男の織田信長と対立し、織田信長の家督相続権を危うくなどもしている。
織田信秀は尾張国中を敵ばかりのままで、信長への家督譲渡をまともにせずに死んでしまったのだ。
そりゃあ葬式で信長に
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