おまけ 美濃守護代・斎藤家の歴史

<美濃斎藤氏>

 美濃守護代斎藤氏の家系の祖は、いわゆる藤原北家ふじわらほっけ利仁としひと流斎藤氏とされる。

 鎮守府ちんじゅふ将軍『藤原利仁』の子の『藤原叙用ふじわらののぶもち』が斎宮頭さいぐうりょうに任ぜられ官職名と姓にちなんで「斎藤」(斎+藤)を号した。


 その子孫で越前斎藤氏の分家で河合かわい斎藤氏の景類の子の「斎藤帯刀たてわき左衛門尉さえもんのじょう親頼」が美濃目代もくだい(国司の代官)となり1220年頃に美濃にやってきたことで、美濃斎藤氏の歴史は始まることになる。

 多くの史書や系図では斎藤親頼の子に斎藤祐具を置くが、その間には実は数世代あったりする。


 斎藤景類-斎藤親頼-斎藤親利-斎藤頼利-斎藤利行-斎藤利康

 -斎藤祐具(頼茂)-斎藤宗円-斎藤利永-斎藤利藤


 美濃国目代となった斎藤親頼ちかよりから美濃守護代斎藤氏の直接的な祖とされる「斎藤祐具さいとうゆうぐ頼茂よりしげ)」までは系図的には上記の流れである。

(諸説ありますが自分が整理した結果ですので参考までに)


 斎藤利行さいとうとしゆきなどは斎藤太郎左衛門尉さえもんのじょうといわれ、後醍醐ごだいご天皇の倒幕計画が発覚した1324年の「正中しょうちゅうの変」で活躍したりしている。

 正中の変が発覚した原因とされるのは、土岐頼員ときよりかず舟木頼春ふなきよりはるとも)が愛する? 妻に倒幕計画を漏らしたことなのだが、その土岐頼員の妻の父が斎藤利行なのである。


 娘から事の次第を聞いた斎藤利行は六波羅探題ろくはらたんだい奉行人ぶぎょうにんでもあり、倒幕計画をすぐさま六波羅へ通報し、後醍醐天皇の倒幕計画第1回目は頓挫とんざした。

 斎藤利行の娘が土岐氏に嫁いでいるように、このころから美濃の斎藤家は土岐家と繋がりを持っていたことがわかる。

 室町幕府成立直前の時代の人になる。


 そして利行の孫の斎藤祐具さいとうゆうぐの子の『斎藤宗円さいとうそうえん(利政または利明)』から美濃守護代斎藤氏が始まるのだが、のっけからストレートにまっしぐらである。

 その当時の美濃守護代だった富島氏とみしましを京の土岐家の守護館で襲撃してぶっ殺している。


 1444年に美濃守護土岐氏の被官ひかんになっていた斎藤宗円が、守護の土岐持益ときもちますの命令で守護代の富島高景とみしまたかかげ誅殺ちゅうさつした事件で、背景には守護の土岐持益と守護代の富島高景との対立があったと思われる。

 その対立を利用して斎藤氏はのし上がっていく。


 その後も美濃国内でも富島氏の勢力と戦いつづけ、斎藤宗円は望みどおり美濃守護代に就任する。

 だが宗円は京の街中で富島氏残党に暗殺されちゃったりする。

 守護代斎藤氏の実質初代からこんな有様なのである。

 ちなみに京の評判では宗円の死は「悪党ザマー」であったそうな。


 斎藤宗円の子の『斎藤利永さいとうとしなが』は父親を暗殺されたお返しにさっくり富島氏をぶっ潰して、1450年を過ぎた頃に無事に美濃守護代に成りおおせ、以後の斎藤氏の守護代の座を安泰にする。

 ここに美濃斎藤氏の下克上が完成する。


 だが斎藤利永は守護代に成ったらなったで、今度は主家である守護の土岐氏と揉め始めやがる。

 守護の『土岐持益ときもちます』の後継者問題に介入して、持益を隠居させたあげくに、出自が若干あやしい『土岐成頼ときしげより』を1456年に美濃守護に据えて実権を握ってしまう。


 利永の最後は中風になって死んだといわれるのだが、実権握って贅沢三昧でもしていたのだろうか。

 この利永は清廉潔白な人だといわれるのだが、政敵ぶっ潰して、主人を隠居に追い込み当主を挿げ替えているので、個人的にはとても清廉潔白男にはまったく思えないのですが……(個人の感想です)



<持是院家台頭>

 1460年の斎藤利永の死後はその嫡子の『斎藤利藤さいとうとしふじ』が若年だったためか、利永の弟の『斎藤妙椿さいとうみょうちん』が利藤の後見という形で実権を握り歴史の表舞台に登場する。

 この斎藤妙椿がこれまた大暴れするのである。


 応仁の乱で守護の土岐成頼とともに西軍に属し、美濃国内の東軍勢力を駆逐し、幕府の奉公衆ほうこうしゅうに公家、寺社の荘園と国衙領こくがりょう押領おうりょうしまくる。

 実に8万石ほど押領したともいう。


 勢力を拡大した斎藤妙椿は近江や伊勢にまで攻めこんだ。

 越前や飛騨にも介入するなど完全に主家の土岐家を越える勢力に成ってしまう。

 あげく「応仁の乱」における西軍の最大級の実力者とまで言われるようになり、西軍の動向を左右する存在となる。

 これ以降の守護の土岐家はもはや存在が空気みたいなものに成り下がる。


 この斎藤妙椿の暴れっぷりにより、美濃は戦国時代に突入したといっても良い。

 美濃国内の奉公衆はほぼ壊滅に追い込まれる。

 奉公衆とは室町将軍の親衛隊であり将軍の軍事力であるのだが、その所領を斎藤妙椿に押領され美濃の所領を持つ多くの奉公衆が没落したと思われる。


 有名なところでは美濃佐竹氏などがある。

 美濃佐竹氏の奉公衆であった北酒出きたさかいで氏系の佐竹基親さたけもとちか(馬場基親)などは所領の維持ができずに、後年同族の佐竹氏の嫡流である常陸佐竹氏を頼り常陸に下向するはめになっている。

 美濃の奉公衆の多くは没落するか斎藤氏の被官になってしまったと推測する。


 古今伝授こきんでんじゅで有名な東常縁とうつねよりなども奉公衆であり美濃に所領があったのだが、妙椿は当然のごとく東常縁の城も攻め落としている。

 それを嘆く歌を東常縁が作ったら、感動したといいはり、常縁が直接自分に歌を十首送ったならば所領を返還しようなどと言い出している。

 実際に所領の返還はしたらしいが、評判を気にして返しただけともいう。(個人のヘンケンです)


 このように斎藤妙椿は、幕府の主流である東軍に反する西軍の将として暴れまくった。

 まだ一応形だけ土岐家を推戴すいたいしているので越前の朝倉氏などよりはマシかも知れないが、室町幕府にとっては、山名宗全やまなそうぜんと近江の六角高頼とともに、この斎藤妙椿は悪魔みたいなものである。


 その斎藤妙椿が1480年にようやく死ぬと、美濃では当然の如くお家騒動が勃発する。

 守護代であり惣領そうりょう家である斎藤利藤に対抗して、斎藤利藤の異母弟で斎藤妙椿の養子となっていた『斎藤妙純さいとうみょうじゅん利国としくに)』がその基盤を受け継ぎ、斎藤惣領家と当然の如く争いだす。


 斎藤妙椿・斎藤妙純の系統は『持是院家じぜいんけ』という。美濃斎藤家は惣領家の『帯刀たてわき左衛門尉さえもんのじょう家』と『持是院家』に分裂して争うことになる。


 斎藤妙純は義父妙椿の死後半年後には合戦におよび、異母兄で守護代の斎藤利藤を美濃から追い出してしまう。

 斎藤利藤は7年後に幕府の仲裁で守護代に復帰するのだが、美濃の実権は持是院家が握ることになる。

 斎藤惣領家の帯刀左衛門尉家の存在は空気になり、持是院家がとって代わってしまう。



<船田合戦と持是院家衰退>

 美濃の影の実力者になった斎藤妙純は主家の土岐家の後継問題にも最早当然の如く介入した。

 いわゆる船田合戦ふなだかっせんである。

 守護の土岐成頼が嫡男の『土岐政房ときまさふさ』ではなく、溺愛していた四男の『土岐元頼ときもとより』に家督を継がせようとゴネて起こった戦いなのだが、この戦い周辺国を巻き込みまくることになる。

 正直迷惑この上ない。


 土岐元頼方は小守護代の石丸利光いしまるとしみつと帯刀左衛門尉家が主力で、斎藤利藤の末子の『毘沙童』が担ぎ上げられている(利藤の嫡男は早世、嫡孫の「斎藤利晴さいとうとしはる」は担がれた瞬間に風邪ひいて死んだ)。

 元頼方には近江守護の六角高頼と尾張の守護代大和守家織田敏定おだとしさだ寛定ひろさだ父子が参戦している。


 土岐政房方は持是院家の斎藤妙純にその弟たちと持是院家の家老の『長井秀弘ながいひでひろ』が主力で、そこに妙純の娘婿の越前守護の朝倉貞景あさくらさだかげに同じく妙純の娘婿の北近江の京極高清きょうごくたかきよ、尾張の伊勢守家の織田寛広おだひろひろまでもが味方している。

 正直、なんだこの豪華さは? と言いたい。


 船田合戦は1495年3月に開戦し1496年の6月に終結する。

 結論からいえば、土岐政房と斎藤妙純の勝利である。

 この勝利により守護代斎藤利藤は隠居させられ、美濃守護代は完全に持是院家のものとなる。

 持是院家による下克上の完成である。


 斎藤惣領家の帯刀左衛門尉家は「斎藤利為さいとうとしため」が斎藤利藤の養子になり継いだことになっているが、利為って誰? という研究レベルだったりする。

 系図類も適当で胡散臭うさんくさいし、同時代資料で人物比定ができてない。

 歴史家の先生はもっと頑張れ。


 勝利した斎藤妙純は翌年に調子に乗って、船田合戦で敵対した六角高頼を攻撃するため近江に攻めこむ。

 連戦連勝していたらしいのだが、和睦成立後に油断していたところを土一揆に襲撃され全軍壊滅とかしたりする。

 まあ間違いなく六角高頼の謀略であろう。

 1497年1月のことである。


 近江出陣の失敗で当主の斎藤妙純とその嫡子の「斎藤利親さいとうとしちか(妙親)」と家老の長井秀弘も討死してしまい、持是院家は大打撃を受ける。

 守護代の地位こそ継承していくが、もちろん大幅に弱体するハメになる。


 斎藤妙純の死後は嫡孫の『斎藤勝千代』が幼かったため、利親の弟の『斎藤又四郎』がまず守護代となるが翌年の1499年にあっさりと死んでしまう。

 その後継は又四郎の弟の『斎藤彦四郎』が守護代となる。


 このへんの家督相続には斎藤妙純の正室の『利貞尼りていに』が絡んでいる。

 利貞尼は京の妙心寺みょうしんじに多額の寄進をしているのだが、持是院家をおかしくしたのはこの女じゃないかと個人的には疑っている。(個人の感想です)


 さらに斎藤彦四郎は守護の土岐政房と対立し、尾張の織田氏と結んで争うも敗れて1512年に尾張に逃亡している。

 その後は斎藤利良(勝千代か大黒丸か?)が守護代となったようである。


【参考 斎藤持是院家の家督継承】

 初代:斎藤妙椿、斎藤宗円の次男で僧籍のままであった

 2代:斎藤利国(妙純)、斎藤利永の子で妙椿の養子、斎藤利藤の異母弟

 3代:斎藤利親(妙親)、父の斎藤妙純と共に戦死、子に勝千代

 4代:斎藤又四郎、利国の次男、子に大黒丸

 5代:斎藤彦四郎、利国の三男

 6代:斎藤利良(妙全)、利国の嫡男である斎藤利親(妙親)の子?

 7代:斎藤正義?


 斎藤又四郎、彦四郎あたりの持是院家は最早まともに研究もされていないので、実名も不明で誰が誰だか良く分かっていない。(人物比定できてない)

 偉い人に早く研究しろと言いたいものである。


 持是院家は上記のような当主交代の連続でさらに弱体化し、妙純の家老であった長井秀弘の子の『長井藤左衛門尉長弘ながひろ』が台頭してくる。

 この長井長弘に仕えたのが、『松波庄五郎まつなみしょうごろう』であり、のちに『西村勘九郎にしむらかんくろう正利まさとし』、『長井豊後守ながいぶんごのかみ』を名乗る。

 ようするに斎藤道三さいとうどうさん利政としまさ)の父親である。



<斎藤道三の父>

 一般にいわれる斎藤道三(利政)の前半生は未だ解明はされていない。

「岐阜県史」の編纂へんさん過程で発見された古文書の「六角承禎ろっかくしょうてい書写」において、六角承禎義賢よしかた(定頼の嫡男)が家臣に送った書状に、斎藤義龍さいとうよしたつの祖父と父について書かれており、斎藤道三は二代で成り上がったことが最近の定説になった。


 まずは斎藤道三の父親の足跡を少したどってみる。

 道三の父の出身としては一般的には北面ほくめんの武士であった松波まつなみ左近将監さこんしょうげん基宗もとむねの子といわれる。

 北面の武士(禁裏きんりの警備隊)とか言うがこの時代にそんなものはまともに機能していない(1221年の承久じょうきゅうの乱後に廃止されている)。

 また山城国の西岡に「松浪」という地名があり、実際はそこに北面の武士であった者の子孫が帰農したか、油売りの子であった者が、のちに松波基宗の子と仮冒したともいわれている。


 道三の父の幼名は「峰丸みねまる」とされるがこれも確証はない。

 その峰丸は京の妙覚寺みょうかくじに入寺し「法蓮房ほうれんぼう」という法華宗ほっけしゅうの僧になったといわれる。

 だが法蓮房は還俗してしまい「松波庄五郎まつなみしょうごろう」(庄九郎とも)を名乗り油問屋の奈良屋又兵衛ならやそうべえ婿むことなり、山崎屋の屋号で油売りを始める。

 油の行商で永楽銭えいらくせんの穴に油を通す芸で売り歩いたエピソードなどが有名ではある。

 このあたりは江戸時代の創作感が強い。


 油の行商人として松浪庄五郎は法蓮房時代の妙覚寺で同僚であった「日運にちうん」を頼り美濃において商売に成功したという。

 法蓮房は日運の兄弟子で2歳年上であったとされる。

 この「日運」だが実は美濃国守護代の斎藤利藤の末子で船田合戦において担がれた「毘沙童」であるとされる。

(日運を長井氏という説もあるが、斎藤と長井は同族でもなんでもない)


 毘沙童は船田合戦で敗れたが、幼少であったため助命されて、京の妙覚寺に入寺した。

 僧となってからは「南陽坊、日護坊」などの名でも呼ばれる。

 日運は1516年に美濃の常在寺じょうざいじ(妙覚寺の末寺)の住職となっている。

 常在寺は斎藤道三に菩提寺ぼだいじとされ道三・義龍の肖像画(重要文化財)が残されていたりする。


 油商人として美濃で商売をしていた松浪庄五郎だが、小守護代の長井藤左衛門尉長弘に仕え足軽となったといわれる。

 小守護代とは守護代の代理(代官)であり又守護代と似たようなものである。

 小守護代・又守護代・守護又代などともいわれる。

 守護や守護代は在京することが多かったので在国して現地を治めていたのが小守護代であるが、応仁の乱以降は守護も守護代も在国したのでただの家老みたいなものになる。


 斎藤道三の父の活躍の時期は日運が常在寺住職となった1516年以降と思われるが、その翌年から美濃はまた荒れまくる。

 その動乱の中で長井長弘に仕えた松波庄五郎は次第に重用され、長井長弘の家老であった西村三郎左衛門の名跡を継いで「西村にしむら勘九郎かんくろう正利まさとし」を名乗るなど次第に頭角を現したのだろう。


 この時の美濃で何が起こっていたのかというと、またもや守護の後継者をめぐる御家騒動である。

 美濃守護の土岐政房と嫡男『土岐頼武ときよりたけ』の争いである。

 土岐政房は次男『土岐頼芸ときよりのり』に家督を継がせようと考えたのだが、土岐頼武に守護代の斎藤利良さいとうとしなががつき、守護vs守護代との争いともなった。

(土岐家は素直に嫡男に継がせたくない遺伝子でも持っているのかと疑ってしまう、何代連続で御家騒動やってるのだ?)


 1517年の合戦では斎藤利良がまずは勝利する。

 だが1518年には尾張に逃れていた前守護代の斎藤彦四郎が土岐政房につき、土岐頼武と現守護代の斎藤利良は縁戚の朝倉孝景あさくらたかかげ(母が斎藤利国の娘)の元へ亡命する。

 この状態で守護の土岐政房が死ぬのだが、暗殺されたような気がしないでもない。

 これ以降の美濃は『頼武派』、『頼芸派』に分かれヒャッハーな状態になってしまう。


 西村勘九郎正利はこの頼武派・頼芸派の戦いの中で、土岐頼芸にも寵愛されるようになり、1518年「長井」の名字を与えられ『長井新左衛門尉しんざえもんのじょう』と名乗りを変える。

 直接の主君の長井藤左衛門尉長弘は長井越中守長弘にランクアップしている。

(長井豊後守利隆を斎藤道三の父とする説もあるが活動時期から疑問であり、長井利隆としたかの名字は斎藤だと思われるので別人であろう)


 1519年には朝倉孝景の妹婿になった土岐頼武の逆襲が始まる。

 朝倉孝景の弟の朝倉高景あさくらたかかげの軍勢とともに美濃に攻め入った。

 頼武派は美濃北部を制圧し、大桑おおが城を拠点とする。

 美濃は北部の頼武派と南部の頼芸派に二分されるが、朝倉家の支援を得た頼武派が優勢となり土岐頼武が美濃守護となる。


 斎藤彦四郎はこの時に戦死したか病死したかで歴史から消える。

 美濃は守護に土岐頼武、守護代に斎藤利良でしばらくは治まるかに思えたのだが、まあそんなことにはならない。

 美濃はずっと世紀末な気がして来た。


 1521年頃に守護代が『斎藤利茂さいとうとししげ』に代わる。利茂は帯刀左衛門尉を名乗るので、斎藤惣領家の帯刀左衛門尉家を継いでいると思われる。

 船田合戦後に隠居させられた斎藤利藤のあとは『斎藤利為』が養子になり、その子が斎藤利茂であるとされるが、先にも述べたように斎藤利為からして誰だか分かっていない状態だったりする。


 そして1525年についに斎藤道三の父親が歴史の表舞台に登場する。

 長井長弘と長井新左衛門尉(道三父)が土岐頼武に対してクーデターを起こし、美濃守護所の福光館ふくみつやかたや斎藤利茂の稲葉山城を落城させるのである。

 土岐頼芸派の逆襲である。


 さらには江北の浅井亮政あざいすけまさ(浅井長政の祖父)が美濃の内乱に介入して美濃西部に侵攻する。

「牧田の戦い」で浅井亮政と土岐軍(頼芸派か?)が戦っているのだが、西美濃三人衆で有名な稲葉良通いなばよしみち(一鉄)の父、と兄5人が討死して稲葉家は壊滅。

 高僧の快川紹喜かいせんじょうきの下で僧となっていた稲葉良通が還俗して稲葉家の家督を継ぐようなこともあったりした。


 浅井家の美濃侵攻に対抗して土岐頼武はしゅうとの朝倉氏に救援を頼んだ。

 朝倉家は援兵を送り、朝倉宗滴あさくらそうてきと六角定頼が美濃の内乱に介入した浅井亮政を牽制する。

 浅井亮政といえども朝倉宗滴と六角定頼なんざ相手にして勝てるわけがないのである。

 宗滴は小谷城おだにじょう金吾丸きんごまるに5ヶ月程居座り、浅井・六角両家の間を調停し朝倉家と浅井家に縁ができる。

(朝倉家としては浅井家が六角定頼に滅ぼされるのは避けたかったようである)


 一方の朝倉家本隊は朝倉景職あさくらかげもとを大将に美濃へ攻め込んでいる。

 美濃の内乱は正直いい加減にして欲しいぐらい隣国を巻き込みまくるのである。


 内乱は1527年には一応落ち着くが、頼芸派は頼純派の切り崩しを行い1530年に土岐頼武はまたもや越前へ亡命する。

 だがこのあたりで斎藤道三の父の活躍は終りとなる。

 晩年は『長井豊後守』と名乗っていたようだが1533年頃に病に倒れたようである。

 ここからようやく長井豊後守の子の『長井規秀ながいのりひで』のちの斎藤利政(道三)の活躍が始まる。


<斎藤道三>

 1533年にまず長井規秀は直接の主君であった長井長弘を内通の容疑で土岐頼芸に讒言し、上意討ちを名目に殺害する。

 また長井長弘の子の長井景広ものちに殺害し、長井規秀は小守護代の長井家を完全に乗っ取ってしまう。(長井長弘も長井豊後守もふつうに病没したとする説もある)


 まったくもって余談だが、長井景広の子の長井源七郎は生き延びており、長井源七郎の娘は越後えちご新発田しばた藩初代藩主の溝口秀勝みぞぐちひでかつに嫁ぎ2代藩主の母となったりしている。

 長井源七郎の子の長井清左衛門の家系は遠く越後の国で現代まで続いていたりする。

(さらに余談だが忠臣蔵の堀部安兵衛ほりべやすべえの親戚になっていたりもする)


 土岐頼芸の後ろ楯は長井長弘と長井新左衛門尉(道三父)であったのだが、その両者の没後には、小守護代長井家を乗っ取った長井規秀(道三)がその後ろ楯となり、頼芸に重用されていくことになる。

 長井宗家は乗っ取られたが、長井一門は残っていたようであり、斎藤道三とこの後戦っていたりする。


 道三は1535年頃から『斎藤新九郎しんくろう利政としまさ』を名乗っている。

 まだ持是院家の斎藤利良も帯刀左衛門尉家の斎藤利茂も存命していると思われるので、「守護代斎藤氏」の名跡を継いで斎藤氏を名乗ったという説はおかしいと思われる(偉い人早く研究しろ)。

 斎藤道三の斎藤はただ斎藤同名衆となっただけなのかもしれない。


 1535年に土岐頼芸は調子に乗って父政房の十七回忌の法要を執り行って、自身の正当性をアピールした。

 実はまだ正式に美濃守護になっていないので焦ってしまったのかもしれん(美濃国内では実質守護)。

 だがこれに頼武派が激怒した。

 土岐頼武の子の土岐次郎(頼純よりずみ)を担いで、朝倉・六角勢も巻き込み美濃へ侵攻する。

 美濃はまたもやヒャッハー状態になる。マジでいい加減にしろ。


 土岐頼純は少し前まで父親の土岐頼武とともに「土岐政頼ときまさより」として一緒くたにされ同一人物とされてきたが最近分裂した。

 だが名前が「頼純」だったり「頼充よりみつ」だったりしてまだ固定されていない。


 1535年から1536年にかけて、美濃国内の頼武(頼純)派に、北から朝倉、西から六角、さらには南から尾張勢も攻めて来たようである。

 このとき道三は頼純派の長井玄佐や斎藤利直さいとうとしなお(八郎左衛門、宗祐そうゆう、宗雄、宗久とも)らと戦っているが、非常にピンチだったらしく、のちの斎藤義龍を尾張の知多半島や伊勢へと避難させている。


 この騒乱の結果、土岐頼純は大桑城に入り北美濃は頼純派(旧頼武派)となるが、土岐頼芸は美濃守に推挙されて正式に美濃守護となっている。

 頼純と頼芸の二頭体制で美濃は二分されるが、一応和睦した。


 この和睦で大きなものは六角家の方針転換である。

 これまで六角家は頼純派であったのだが、土岐頼芸が六角定頼の娘を娶り婚姻関係となった。

(土岐頼芸の娘が六角義賢に嫁いだともいわれる)

 六角家が頼芸派に鞍替えしたのである。

 また、美濃守護代の斎藤利茂も六角家の仲介により頼芸派に鞍替えした。


 六角定頼と婚姻関係となり、正式に美濃守護と公認され、美濃守護代も自分の配下となった。

 土岐頼芸はこの時が絶頂であったかもしれない。

 このころ斎藤道三は守護・守護代・土岐家親族衆の次くらいで四番手あたりのポジションだったりする。


 その後美濃では頼純派と頼芸派の小競り合いが続き、美濃守護代であった斎藤利茂は斎藤道三により追い落とされたのか1541年あたりで記録から消える。

 斎藤八郎左衛門利直が斎藤利茂の後継だと思われるが、いまいち不明である。早く偉い人研究しろ。


 ついでに土岐頼満の毒殺なんかもあったらしいが、1542年の土岐頼芸追放が今ではなかったことにされているので、土岐頼満の毒殺も年代と人物間違えているだけの気がしている。

(頼満、頼充、頼純が同一人物じゃね?)


 結局頼純派は劣勢となり1543年に土岐頼純は大桑城を落とされ、今度は尾張の織田信秀のもとへ逃亡する。

 これが翌年の朝倉・織田両家の再侵攻を呼び込むことになる。


 知らないとか言われそうだけど、史上に名高い1544年の「加納口かのうぐちの戦い」である。

 美濃守護たる土岐頼純が越前守護の朝倉孝景と尾張守護の斯波義統しばよしむねに出兵を求める形で要請されたが、実際に軍勢を率いるはである。


 朝倉宗滴率いる朝倉軍の南下にあわせて、織田連合軍(織田信秀が中核だが、織田大和守家も軍勢を出している)が、西美濃から侵攻する。

 赤坂あかさかで斎藤道三方と戦い、織田軍が勝利し大垣城おおがきじょうなどは放棄され織田方の掌中になる。


 斎藤道三の本拠である稲葉山城まで攻め込まれるが、夕刻に兵を引いた織田信秀に対して、斎藤道三の奇襲が決まり織田方は多くの死傷者を出して撤退した。

 その被害は5千人ともいわれ織田信秀の大敗である。

(朝倉宗滴と織田信秀相手に大勝するとか、斎藤道三マジパネぇ)


 加納口の戦いのあとも頼純派との小競り合いは続くが、1546年に朝倉孝景や幕府の仲介により頼純と頼芸・道三は和睦する。

 和睦の条件は土岐頼芸の守護退任だとされるが、はっきりとはしていない。

 翌1547年に土岐頼純が急死したためである。

 斎藤道三による毒殺ともされるが詳細は不明である。


 土岐頼純の急死後に斎藤道三は大垣城を攻めるも織田信秀が後詰で出兵し大垣城を落とすことはできなかった(出兵は翌年とも)。

 朝倉家は厳冬期で出兵ができなかったとされる。

 正直このへんは不明な点が多く偉い人にもっと研究をしてもらわないとどうしようもない。


 1547年に土岐頼芸と土岐頼純が大桑城に一緒に居た説や、このとき土岐頼芸も追放された説など、諸説あってはまだ謎のままなのだ。

 だが、斎藤道三は1550年10月までは土岐頼芸に従い続けていたと考えているので、1547年の土岐頼純の死は単なる頼純派と頼芸派の争いであり、1546年の和睦が崩れただけと考えている。

 

 大桑城は斎藤道三に攻められ落城し、土岐頼純は毒殺というか討死したのか自害したのではないかと思っている。

 同時期に相羽城あいばじょうも落とされ長屋景興ながやかげおきが討死し、揖斐城いびじょうも落城し土岐頼芸の弟の揖斐光親いびみつちかが逃亡している。

 1548年の斎藤正義さいとうまさよしの死なども頼純派と頼武派の争いの中のことであろうと考えている。


 何にせよ、斎藤道三の研究や守護代斎藤氏の研究などはまだ全然始まったばかりのような有様なので、今後どんどん変わるかもしれない。

 もしかしたら斎藤道三のイメージはもう少しだけクリーンになるのではないかと思っていたりします。


【参考 美濃斎藤(一色)氏四代】

(1)峰丸→法蓮房→松浪庄五郎→西村勘九郎正利→長井新左衛門尉→長井豊後守

(2)長井規秀→斎藤新九郎利政→斎藤左近大夫道三(山城守)

(3)斎藤新九郎利尚→斎藤高政→一色義龍(治部大輔、左京大夫)

(4)一色龍興(式部大輔)

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