第三十六話 斎藤道三

 天文十七年(1548年)3月



 美濃に行くにあたり、小出石村こでいしむらから米田求政こめだもとまさに郎党40人を連れて来て貰った。

 荷物が多いので近江の馬借ばしゃくも雇っている。

 総勢は80人を越えてしまった。

 大所帯になったので宿を借りるために途中の近江で、日置流へきりゅう弓術きゅうじゅつとして名高い吉田家を訪ねた。

(現在の滋賀県竜王町りゅうおうちょう川守かわもりの川守城主といわれる)


 日置吉田流初代の吉田重賢しげかた殿は残念ながら数年前に亡くなっている。

 重賢殿の嫡子で現当主の吉田重政しげまさ殿が出迎えてくれた。

 この日置流の吉田家と同じく吉田(佐々木)厳秀を祖とする同族の角倉吉田家から連絡を入れてもらっておいた。

 宿代代わりに礼物を用意していたのだが、逆に公方様の正使として宴席を設けられ歓待されてしまった。(吉田家の出自はいろいろな説があります)


 吉田重賢は大御所足利義晴の弓術師範だったともいわれるので、せっかくなので宴席で吉田重政殿にも公方様の弓術師範になってもらえないか交渉してみた。

 だが何やらおかしな話になってしまった。


「実は御屋形様おやかたさま御嫡子ごちゃくしの四郎様と揉めておりまして……」


 ここでいう御屋形様とは六角定頼で、嫡子の四郎は六角義賢よしかたである。

(家中以外で御屋形様を使うのは非礼とされるらしいのだが、分かりやすさ優先で)


「六角家と吉田家に揉め事があるのでございますか? 私で何か力になれるのであればご助力いたしますが?」


 この旅は畿内東方の安定が目的なのに、直近の六角家中で揉め事なんてマジ勘弁して欲しい。

 観音寺騒動かんのんじそうどうとかまだ大分先の話だろうに。


「実は、四郎様から日置流弓術の奥義の相伝そうでんについて無理強むりじいされておりまして――」


 六角義賢は弓の名手として有名なのだが、この日置流弓術を習っている。

 ただ弓術好きが高じて日置流の奥義についてまで欲しがってしまったようである。

 日置流吉田家としては奥義を一子相伝いっしそうでんとしているのだが、主君の嫡子に無理強いされて困っており、六角家の出奔しゅっぽんまで考えているという。


 似た様な話は細川藤孝にもあったりする。

 三条西さんじょうにし家の「古今伝授こきんでんじゅ」の奥義を三条西実枝 さねきから藤孝が中継ぎして実枝の孫の三条西実条さねえだに古今伝授を相伝している。

 この時代とかく秘密主義で一子相伝とか面倒なことをいろんなところでやっている。

 まあ技術や知識は生活のかてなのでしょうがない面もある。


「弓術家としては忸怩たる思いもあるかと思いますが、武家としては主家への奉公も大事にございます。ここは一旦、四郎(義賢)殿に相伝して、しかる後に四郎様から奥義を返して貰う形を取ることを考えてはみませんか?」


 一子相伝なんざしていたら必ずどこかで破綻して失伝するものだ。

 この時代いつどこで死ぬか分からないからな。

 奥義を失伝しないためにも保険として信頼できるものに奥義を分散して相伝するのは悪くないと思うのだ。

 それに主家たる六角義賢にも恩を売れるメリットはある。

 というか日置流なんて歴史がまったくないんだぞ?

 たかが2代で一子相伝とかどうでもよくないか?


「奉公も大事なことは分かりますが、四郎様が奥義をお返ししてくれるかどうか……、日置流を乗っ取られることにもなりかねません」


「それでは私からお願いしますので、公方様の御前ごぜんにて奥義を伝え返すことを四郎殿に誓約せいやくして頂くのはいかがでしょうか?」


「公方様にお力添ちからぞえをお頼み頂けるのでありますか?」


「今は美濃への旅の途中でありますので、すぐにとは参りませんが私が四郎殿との仲を取り持ちますゆえ、出奔の儀はしばらくお待ち下さい」


 美濃での任務後に吉田家と六角義賢との間を取り持つことを約して、翌日美濃へと向かった。


 ◆


 美濃では同族である竹腰家を頼ることにした。

 淡路細川家も竹腰家も佐々木大原ささきおおはらの一族だったりする。

 こちらもすでに義父の細川晴広に竹腰重直たけごししげなお宛に早馬を出して貰って来訪を告げている。


 この竹腰重直は竹腰道鎮どうちんともいい、斎藤義龍さいとうよしたつが父の斎藤道三を討った「長良川ながらがわの戦い」で義龍側の先鋒を務め、見事に討死していたりする(お前はペンチマンか何かか?)。


 しかも大垣おおがき城主だったらしいのだが、この時期には織田信秀に攻め落とされたりもしている。

 なんだかダメダメな話しかないのだが、一応親戚筋だから頼ることにしよう。


 一応竹腰氏を擁護ようごしてみると、西美濃にしみのに結構な勢力を持っていたらしく。

 斎藤龍興のころには西美濃五人衆(西美濃三人衆+不破光治ふわみつはる竹腰尚光たけごしなおみつ)とか、斎藤六宿老しゅくろう氏家うじいえ安藤あんどう日根野ひねの竹腰たけごし長井ながい日比野ひびの)とか言われたりもするらしい。系譜けいふは若干怪しいのだが、尾張藩おわりはん附家老つけがろうとなった美濃今尾みのいまお3万石の竹腰正信たけごしまさのぶは子孫だという。


 稲葉レンジャイ!

 安藤レンジャイ!

 氏家レンジャイ!

 不破レンジャイ!

 竹腰レンジャイ! ――5人揃って西美濃レンジャイ!!


 とかアホなことを思ってしまったりもした。


 美濃には斎藤利三も実家の斎藤家に先触さきぶれで走らせている。

 利三の父斎藤利賢としかたの斎藤家は系譜に諸説あってよく分からないのだが、美濃守護代斎藤利藤さいとうとしふじの弟の斎藤典明の系統と思われる。

 斎藤利藤が京に亡命したおりに奉公衆ほうこうしゅうとなり、政所執事代まんどころしつじだい蜷川氏にながわしの縁戚になっている。

 一応美濃斎藤氏の末裔なので、竹腰氏とともに斎藤利政としまさ(道三)への取次ぎを依頼している。


 斎藤利賢・利三父子と美濃で合流して、稲葉山城の南の川手かわて(革手)の町に入った。

『西の山口、東の川手』といわれ、この当時は美濃で最も栄えている町で、織田信長が岐阜ぎふ城(稲葉山いなばやま城)に入るまでは栄えていたという。

 川手の町に逗留とうりゅうし、竹腰重直殿を取り次ぎに稲葉山城の斎藤利政からの連絡を待つことになる。


 斎藤利政との会見は岐阜城下の常在寺じょうざいじにて行うことにした。

 常在寺の住持は斎藤道三の父の妙覚寺みょうかくじ時代の同僚であり、守護代斎藤惣領家そうりょうけ出身の日運にちうんである。

 なんで稲葉山に行かないのかって? 立場上行けないのだよ。


 現在の美濃においては公式には守護も守護代も不在なのである。

 斎藤利政は守護代でもなんでもないし、公的には「斎藤山城守やましろのかみ」でもなんでもない、「長井ぼう」か「斎藤某」扱いなのである。土岐頼芸ときよりのりも現時点では『前守護』であり、美濃には当事者能力のある者が公的にはいない有様なのだわ。

 実力的には斎藤道三なのは皆様ご存知のとおりでありますがな。


 そのへんの事情があり室町殿むろまちどのの正使としては、稲葉山城に会見に出向く訳にはいかないので、常在寺で面会するから「道三ちょっと来い」というお手紙を出しているのだ。

 まあマジでこれだけだと喧嘩売っているだけなので、その手紙に添えて、斎藤利賢の名前を借りて「道三様お願いだから来てください」という手紙も送ってある。


 まあ、斎藤利政が来なかったらプランの変更もありだ。

 斎藤利政を謀反者として断じてしまおう。

 公方様を先頭に討伐軍を編成して美濃に攻め込むのもありなのよ?


 土岐頼芸の正室は六角定頼の娘であり、定頼は頼芸を支援している。

 斎藤道三は朝倉家・織田家とも対立している。

 美濃国人の切り崩しも正直、自信がある。

 それこそ西美濃三人衆なんて調略し放題だし、史実で斎藤氏を裏切った連中も結構頭に入っている。


 斎藤道三の使えない美濃なんて価値はない。

 三好家が暴れだす前に、細川京兆家に六角定頼、朝倉家、織田弾正忠家、若狭武田家の軍勢も合わせて美濃に攻め込んだろか?

 やろうと思えばできなくもないのだ……朝倉孝景がもうすぐ死ぬのは痛いけど、宗滴はまだまだ元気だからなぁ。

 斎藤道三ぶっ殺して、土岐家を追い出して公方様を美濃にお引越し頂くプランもありと言えばありかもしれん。


 まあ、せっかくお土産も持ってきているので、無事に斎藤道三と会見したいところではある。

 公方様からではない俺からの土産である。

 俺からの斎藤道三への土産は、清水の神酒にもみじ饅頭の鉄板セットに加え、高級宇治茶うじちゃに、自作(パクリ)の茶杓ちゃしゃく京釜きょうがまを持参している。


「京釜」とは鋳物師いものしの座である京三条釜座さんじょうかまんざで作られた茶の湯のかまのことである。

 三条釜座には日頃お世話になっているのだが、今回持ってきた釜は、その釜座の中でも最も腕のよい「名越浄祐なごしじょうゆう」に金なら幾らでも出すといって贅沢に作って貰った一品だ。


 大坂の陣を引き起こした「方広寺ほうこうじ鐘銘事件しょうめいじけん」というものをご存知であろうか?

 豊臣家は徳川家康の許可を得て方広寺の大仏殿を再建し、同時に巨大な梵鐘ぼんしょうも作成した。

 だがそのかね銘文めいぶんのうちの『国家安康こっかあんこう』が「家康」の文字を胴切りにした呪詛じゅぞだとし、『君臣豊楽くんしんほうらく』が「豊臣」家の繁栄を祈願きがんするものだとした、日本史上最大の「いいがかり」又は「いちゃもん」である。


 その方広寺の梵鐘の鋳造ちゅうぞう責任者であったのが「名越三昌なごしさんしょう」であり、実は名越浄祐の孫であったりする。

 名越浄祐は京釜師の名門「名越家」の実質初代であり多くの門弟を育てた、この時代最高クラスの鋳物師なのである。

 三条釜座とは吉田神社の紹介で以前から懇意にしており、実は「スコップ」の発注をしていたりする仲である。


 斎藤道三は何やらお茶の「毒殺」で話題になってしまっているのだが、茶の湯をけっこう好んでいたのは事実なようである。

 そんなわけで最高級の京釜と茶杓と宇治抹茶を土産に持ってきたのだ。


 斎藤道三との茶の湯なんてぞっとしないのだが。

 歓待の姿勢を見せながら毒入りのお茶でも飲ませられたりしたら堪ったものではない。

 まあ将軍の使いを毒殺するメリットなんてさすがにないと思うけどな。


 夕刻、竹腰重直殿が斎藤利政の使いとして来訪した。

 明日、常在寺で斎藤利政殿と会見することが正式に決まった。

 来てくれるか心配したがトリアーエズ斎藤道三と戦う必要はなくなりそうだ。


 ◆


 別室で差し向かいに、斎藤利政さいとうとしまさ道三どうさん)と茶をしばいてます。

 お茶を出しているのは自分なので、一応毒殺の心配はありません(笑)。

 今日の道三との会見は、幕府正使としての公式の謁見ではない。

 本番は土岐頼芸ときよりのり殿との謁見になる。

 その前の下交渉という位置づけである。

 実際は逆で間違いなくこっちが本命だけどなー。


 まず斎藤利政を呼びつけて上意下達の形どおりの形式だけやって、すぐに歓待した。

 鰻重、蕎麦、天ぷら、おやき、煎餅、もみじ饅頭に清水の神酒というぜいを尽くした俺流フルコースで斎藤利政を歓待かんたいしたのである。

 さすがに道三といえども驚いていたようである。


「贅を尽くしたおもてなし、ありがたきことなり」


「いまだ公方様のことを貧乏公方などと申す者がいるようですが、それは実態を知らぬ者の妄言もうげん。公方様には各地の守護大名など全国の諸侯より礼の物を献上され、また京の復興が進み、町衆まちしゅうよりもかなりの税が納められております」


 相変わらずのハッタリである。

 室町幕府は相変わらず貧乏で、金持っているのは俺だからな。

 まあ今年はメープルシロップが昨年比数倍れているし、酒の売上げも伸びているので、それらの税を納めれば幕府もいくらかマシにはなるけど。

(間違いなくかの柳酒やなぎざけより儲けている)


「ほう、公方様や大御所様は京からよくお逃げとお聞きしましたが、それほど幕府は持ち直しておりましたか」


「公方様は細川京兆家きょうちょうけの内紛に巻き込まれているだけ。幕府の財政は大分立ち直ってきております。本日やのちに土岐美濃守みののかみ(頼芸)殿にお渡しいたす物などは私からの礼の物となっておりますが、その実は公方様よりのたまわり物とお考え下さい」むろん全額が俺の自腹でありまんがな(涙)


「お茶請けに、もみじ饅頭もご賞味くだされ」


「先ほども頂戴しましたが、これは格別なお味でありまするな」


「昨年より京で流行はやりました上等の菓子になります」流行らせたのも作っているのも俺だけどな。


「結構なお手前でした。良い師に学ばれたようですな?」


 しかし何が悲しくてこんな梟雄きょうゆうのおっさんと、密室で二人にて茶を飲まねばならないのだ? まあお仕事だから頑張るけど。

 怖いものは怖い。


志野宗温しのそうおん殿に武野紹鴎たけのじょうおう殿、それに京の町衆ともよく茶の湯を興じておりまする。左近大夫さこんだゆう殿(道三)も茶の湯を好むとお聞きしましたので、宇治の茶に、この京釜きょうがまも土産として新作を用意させました」


「我が美濃にはそこまで茶の湯に高じる御方はおらなんだ。さすがに京は違いますな」


「美濃守様(土岐頼芸)は風雅ふうがの気質を好むとか、茶の湯にも精通しておられるのではありませぬか?」いい加減本題に入るかね。


「ふむ。御使者殿にひとつお聞きしたい。美濃守様に直接ではなく、なぜそれがしのところへ参ったか」


「……何故だと思われますかな?」


「交渉の余地ありと、そう、考えまするが如何か?」


「美濃守殿の対応次第というところでしょう。ここからは私の個人的な意見になりますが、すでに土岐頼純よりずみ(頼充とも)殿は亡くなっており、その責任を追及することに何ら益はありますまい。それよりは今後のことを実力者の左近大夫(道三)殿と交渉することのほうが大事と考えましたが」


「美濃守様ではなく、わしとの交渉をお望みと?」


「公方様に『飾りのたか』と交渉しろと仰せですかな? そのような無駄なときついやすよりは、美濃をくらい尽さんとする『マムシ殿』と交渉するほうが話は早いと思いますが、お気に召しませぬか?」


「美濃を食い尽くすマムシとは誰のことであるか?」


 来たなプレッシャー。

 そんなに威圧しないでくれ。

 今の俺の気分はまさにへびにらまれたカエルだけど、プレッシャーに負けず頑張りましょう。


「公方様は飾りの鷹に興味はお持ちではありません。それに飾りの鷹ではマムシ殿の野望を抑えることは難しきこと」


「そのマムシ殿とやらは大層な野望をお持ちのようでありますな」だからマムシの如く睨むなって。


「そのマムシ殿はいずれ美濃を我が物とすることでしょう。ですがそこまでです。マムシ殿では国を奪うことは出来ても、国を維持することは出来かねるでしょう」


「ほう、儂では実力が足りないと仰せか?」マムシと認めるのかよ。


「実力はありましょう。ですが美濃は少し荒れすぎました。国人の力も強くなりすぎました。マムシ殿はたしかに実力で美濃を奪えるかもしれませぬ。ですが、力で奪ったものは力で奪い返されるもの。斎藤惣領そうりょう家や斎藤持是院家じぜいんけはどうなりましたかな?」


 ◆


 大御所が美濃守護と裁定された土岐頼純は昨年の冬に急死した。

 だが頼純(頼武)派が消滅したわけではないのだ。

 神輿みこしが無くなったため、朝倉家や織田家は介入の大義名分は失った。

 だが報復として侵攻する気があれば、美濃国内の旧頼純派である反頼芸(反道三)派の国人と手を組むことは容易よういなのだ。


 守護の土岐家は既に力などなく、ずっと世紀末状態だった美濃の内乱によって守護代であった斎藤惣領家や斎藤持是院家も既に滅びた。

 小守護代の長井家も消えた。

 その小守護代長井家を乗っ取り、斎藤同名衆どうめいしゅうを名乗った斎藤利政(道三)が、土岐頼芸を神輿に担ぎ、頼純派と長らく戦い続け、勝利してきたために実力的には一つ飛びぬけている。


 だがそれはドングリの背比べで、一つ頭が出たに過ぎないのだ。

 家格かかくも権威もない斎藤道三が何故、息子の斎藤義龍よしたつと戦い敗れたのか?

 深芳野みよしの

 土岐頼芸の落としだね?

 土岐の血筋?

 そんなものは江戸時代の創作だ。

 斎藤義龍は美濃の有力国人領主に担ぎ上げられたのだ。

 国人領主達にとって非常に扱いにくい存在の斎藤道三を追い出すための神輿になったに過ぎない。


 やったことは武田信玄(晴信はるのぶ)を担いで、武田信虎のぶとらを追い出した甲斐の国人領主と同じなのである。

 たしかに武田信玄はその後、甲斐の国人領主を上手くまとめ上げた。

 だがそれは武田信玄が絶対的な専制者として君臨したわけではない。

 甲斐武田家は甲斐かい信濃しなの駿河するが上野こうずけ遠江とおとうみ三河みかわ美濃みの飛騨ひだの一部にまで勢力を拡大したが、武田家はどこまでいっても国人領主の連合体でしかなかった。

 ――だから信玄亡きあと『格』の低い勝頼では国人衆を維持できず崩壊ほうかいした。


 斎藤義龍は当初は担がれただけであったが、彼は実に上手く国人をコントロール出来ていた。

 斎藤義龍は頼純派、頼芸派の二派に分かれた美濃の国人らを『斎藤道三』を敵とすることで上手く纏め上げた。

 そして義龍は長良川の戦いで見事に斎藤道三の首を上げ武威ぶいを示した。


 道三派の国人の討伐も早かった。

 味方した国人への恩賞も悪くなかった。

 権威も上手く使った。室町幕府と上手に付き合い、一色いっしきの名乗り、治部大輔じぶだゆう左京大夫さきょうだゆうの任官や、室町幕府における相伴衆しょうばんしゅうへの就任など家格を上げ国人らの上位として大義名分を得た。

 そして従来の制度から知行ちぎょう貫高かんだか)制への切り替えへも移行しようとしていた。


 斎藤(一色)義龍は見事に戦国大名に脱皮をしようとしていた。

 だが命が持たなかったのだ……斎藤義龍が長生きできていれば、織田信長も美濃併呑へいどんにはもっと苦労したはずだろう。


 斎藤道三は名目上の旗頭である土岐頼芸を追い出すのが少し早過ぎたのである。

 頼純派と頼芸派の国人はつい数年前まで相争う間柄であり、守護土岐家の下では斎藤道三と同格であったのだ。

 正解は息子義龍がやっている。

 武威を示すこと。

 家格を上昇させ国人領主より上位となること。

 国人の被官化。

 最後に国取りの大義名分である。


 斎藤道三は元同格の者であった国人領主の被官化も満足に成しえぬままに、大義名分を得ぬままに土岐家を捨ててしまった。

 早計であったといえよう。

 簒奪さんだつする時には小守護代長井家の時のようにせめて上意討じょういうちという大義名分は得るべきなのである。


 織田信長は守護代織田大和守やまとのかみ家を討つ時に、しっかりと守護斯波しば家のためという大義名分を得ている。

 まだ戦国時代の前半はまだ大義名分が必要な時代なのである。

 斎藤道三の動きは全てが早過ぎたのだ――


 ◆


 「儂も斎藤惣領家や斎藤持是院家と同じく滅びるといいたいのかね?」だから睨むなよ、ただでさえ顔が怖いんだから。


「今のままではそうなりましょう。ですが公方様は左近大夫殿に期待しておいでです」


「ほう、公方様が儂ごときを?」


「公方様は尾張の弾正忠殿を大層お気に入りであります。その弾正忠どのと朝倉家の連合軍に対して見事な戦いぶりを発揮された左近大夫殿のことも大した御仁だと褒めております」


「弾正忠をお気に入りだと? 弾正忠と同じくというのは癪ではあるが、公方様に褒められるはありがたいことであるな」


「公方様は織田信秀殿とは直接お会いしておりますので。ですが現時点では幕府のではなく、あくまで公方様の御意思にございまする」まあ俺の意見だけどな。


「幕府と公方様の意思が違うと申すのか?」


「公方様も難しいお立場、全ての意思をおおやけにはできますまい。それに土岐頼芸殿は六角定頼の娘婿にございます。頼芸殿を差し置いて左近大夫殿をとは、大御所や六角定頼殿の体面上、今すぐに公には発言できかねましょう」


「幕府も面倒であるな」


「公方様としては公的には美濃の守護として土岐家をお立てしなければならない立場であります。ですが興味としては既に斎藤利政という御仁を気に掛けております。そのため腹心たるそれがしを美濃へつかわされました。大御所様や幕府の意向ではなく、あくまで公方様のご意思にあらせられます」俺の意思で来たけど黙っておこうな。


「公方様は儂に何をお望みなのだ?」


「まずは美濃のご静謐せいひつをお望みかと、それと斎藤左近大夫殿の将軍家への忠義をお望みでありましょう」


「儂は土岐家のしんにて、土岐家に忠義を尽くすものであるが?」


「建て前はそれで結構です。公方様は美濃国内をまとめる役儀やくぎについて、斎藤左近大夫殿に期待しております」


御屋形おやかた様(土岐頼芸)ではなく、この儂に期待していると?」


「公にはできぬことでありますが、美濃は斎藤左近大夫利政殿に、尾張は織田弾正忠信秀殿に期待したいと仰せであります」


「守護の土岐家や斯波家を差し置いて儂と弾正忠をのう」


「かつての斯波家や土岐家はたしかに足利家のために働いた。そのため数カ国の守護にも任命されました。しかし、土岐家も斯波家も応仁の大乱以降は将軍家に忠実であったとは言いがたく、また守護たるお役目を果たされておりませぬ。将軍と御家人とはご恩と奉公の関係。すでに公方様に対して満足に奉公できぬ者に旧恩を与え続けて、公方様に何の利がありますか? 新しき忠義者にこそ新恩を与えるほうが公方様の利になりましょう」


「この儂を新しき忠義者に仕立て上げる気かね?」


「斎藤家が忠義の家につらなるかはこれからのこと。逆に言えばこれからでも公方様に忠義を尽くして頂けるのであれば、それなりの新恩はお約束できましょう。……忠義者すら演じられぬ不器用な御仁などは無用の長物。公方様も役者は選んでおいでであります」


「儂のことを大根役者ではないと、お認め頂けるとは光栄の極みだな。で、公方様は儂にどう忠義を尽くせと仰せなのだ?」


「ひとつ。鷹を飾りつつ美濃を取りまとめて頂くこと。ふたつ。織田信秀と和睦し同盟を結ぶこと。みっつ。時がきたるおりに公方様のためお働き頂くこと」


「いつまで鷹を飾っておけばよいのかね?」


「時がきたるおりまでとしか申せませぬが、いずれは鷹を奉じて上洛頂きます。そう遠くはありませぬ。この5年以内になりましょう」


「上洛して何をせよと?」


「公方様のため戦って頂くことになりましょう。しかるべき武功を示せばまず美濃守護代は新しき斎藤家の物となります」


「飾りの鷹はどうするのかね?」


「京へ置いていかれるがよろしいでしょう。守護は本来、在京が本務のはずですから」


「飾りの鷹は美濃へ帰ろうと望むが如何いかにする?」


「公方様の在京の命を無視した守護など追討ついとうするだけのこと。家とともに美濃に残る旧勢力と旧来の守護家を叩くだけ」


「ふはははははっ。その絵図えず誰が考えた? 儂よりよっぽどマムシの渾名あだなが似合っとるぞ」


「マムシは共食いもいたしますが、縄張りを守って仲良く共存したく存じます」


 ◆


「まあ良い、その絵図は気に入った。利にもかなっておる。忠義者を演じて見せるのも良いだろう。さしあたって儂は何をすればよい?」


「まずは、将軍の仲裁後も争いとなり、土岐頼純殿とそれにくみした持是院じぜいん家の斎藤正義まさよし殿が亡くなってしまったことをおび頂きましょう。土岐美濃守殿と斎藤左近大夫殿には剃髪ていはつして頂きます」


「おぬし斎藤正義の件も存じておったのか、どこまで知っておる?」


久々利くくり頼興よりおき)殿とあらそいのすえ亡くなったとお聞きしている程度のことですが何か?」


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 斎藤大納言だいなごん正義(妙春みょうしゅん) 1516-1548

 

 1532年に初陣し、主に東美濃で頼純方と戦ったとされる。

 1548年に土岐一族の久々利三河守頼興に久々利城内で謀殺された。

 斎藤妙春は先の関白近衛稙家このえたねいえ庶子しょしで斎藤道三の養子とされるが、江戸時代あたりの創作だと思っています。

 持是院家の血筋で斎藤利親としちか(妙親)の孫で勝千代の子か大黒丸の子で斎藤利良としよし妙全みょうぜん)あたりの血縁でしょう。

 この人の初陣の1532年では斎藤道三はまだ長井規秀ながいのりひでだったりする。

 持是院家の斎藤利良(妙全)も1538年まで存命なので、斎藤正義はその後継と思われる。

 室町末期の斎藤氏は系図も混乱し人物比定も出来てないのですが、はやく研究してくれ。

 近衛稙家の庶子説は兼山町かねやまちょう編纂へんさんの1972年頃の説。

 ――謎の作者細川幽童著「どうでも良い戦国の知識」より

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「ふん、食えぬ御使者だ。それで儂と御屋形様がハゲ坊主になればよいのだな?」


「それで朝倉家にはなんとか納得頂き、頼芸殿と和議して頂くよう取りはからいます」


「朝倉が素直に和議を結ぶのか?」


 朝倉孝景はそろそろ亡くなるはずだ。頼純殿亡きあとは美濃侵攻の神輿もなくなり、朝倉家は代替わりで美濃へ手出しする暇もなくなる。

 このタイミングなら和議は成立すると見てよいだろう。

 朝倉家と土岐頼芸の和議には頼芸のしゅうとの六角定頼も相婿あいむこの細川晴元も文句は言うまい。


「そこは公方様の御威光ごいこうにてなんとかいたしましょう」公方様の御威光なんてむろんないが、物は言いようである。


「ふん、まあよい。で、次は?」


「織田弾正忠信秀殿との和議」


「弾正忠も素直に和議に応じるやからではないぞ」


「ご安心下さい。私は織田弾正忠の正式な幕府の申次もうしつぎであります。しかも左近大夫殿には大垣おおがきの城と、娘を信秀の御嫡子ごちゃくしに差し出して頂きます」


「儂の娘を人質に出した上に大垣まで差し出せと? それでは勘定かんじょうが合わぬわ」


「織田信秀殿にも大垣は放棄頂きます」


「うん? 信秀も大垣を放棄するとはどういうことだ?」


「大垣は将軍家の御料所ごりょうしょとさせて頂きます」


「なんだと? 儂に大垣を公方様にタダで差し出せというのか?」


「タダではありませぬ。左近大夫殿と弾正忠殿が和議の上、公方様の公認のもと婚姻こんいんして頂きます。さらには大垣を共同で御料所として婚姻仲裁の礼としてご寄進きしん頂く。その上で官途推挙かんとすいきょもお求めになり、左近大夫殿には越中守えっちゅうのかみへの推挙およびに唐傘袋からかさぶくろ毛氈鞍覆もうせんくらおおい塗輿ぬりこしの許可を与えます」


 ◆


「越中守と守護代の格式ということか?」


「越中守の意味は分かりますな」


「……斎藤惣領家の帯刀たてわき左衛門尉さえもんのじょう家であろう?」


「帯刀左衛門尉家の越中守はただの僭称せんしょうですが、左近大夫殿は将軍による朝廷への推挙となります。それと今のところは守護代『格』ではありますが、それは幕府による公認……勘定は合いませぬかな? 今は手元になく織田に占領されている大垣周辺の放棄で、公方様の公認による婚姻に加え、斎藤利政殿を斎藤惣領家と同位か上の家格と見なすわけです」


「公方様は良いとして、『幕府』が認めるのか?」


「そこはまあ何とかします。それよりもマムシ殿」


「なんだね」


「マムシ殿は危ういのです。たしかに実力はありましょう。ですがその実態は斎藤家の同名衆に過ぎない一国人いちこくじんのようなもの。美濃のその他の国人との差別化が出来ておられぬ。美濃は頼純派と頼芸派に別れ長年争い、国人が力をつけ過ぎました。家格で国人どもの上位に立たねば国盗りは難しいと理解ください。マムシのままでは難しいのです。朝倉家などのようにマムシ(蝮)をアオダイショウ(青大将)まで着飾きかざる必要があるのです」


「お主は儂に着飾れと申すのか」


「土岐頼芸殿では美濃を統治する能力はありますまい。ですが、斎藤同名衆に過ぎない左近大夫殿では、美濃をまとめるのもこれまた難しい。播磨守護の赤松家や越前守護の朝倉家も元は出自も定かではありません。それが足利将軍家への奉公により、両家とも守護になりおおせただけ。ですがどちらも将軍家の権威を利用して今の家格を築いております」


「儂にもそやつらの真似をしろと? 公方様を利用しろと言うのか?」 


「まずはご自身の新しき斎藤家の家格の上昇をお考えになるがよろしいかと存じます。現状では斎藤殿に服しておられる多くの国人衆と同格でありますゆえ、それでは公方様としてもお声を掛け辛い。それに武家にとって将軍というものは利用するための存在でありましょう?」


「お主、本当に公方様の腹心か?」マムシ殿がニヤリと笑って来る。


「それがしは公方様のたっての願いを聞きとげた大御所様の許可を得て、はるばるこの美濃にまで参っております。それに私の立ち位置は調べればすぐにお分かり頂けるものと存じますが?」


「よほど公方様に信頼されている自信があるようだな」自信というか平成の俺には足りなかった愛も金もコネも、ようするに甲斐性があるぞ。


「まあ、まずはそれがしや公方様がしかとお役にたつことを確認して頂きましょう。朝倉と織田との和議が成らねば何も始まりませんが、朝倉家と織田家との和睦はしかと公方様が仲裁されます。先も申しましたが、美濃守護の後継者であった土岐頼純殿と持是院家の斎藤正義殿がお亡くなりになった混乱の責任を取り、土岐頼芸殿と斎藤利政殿には出家頂き、交渉をまとめます。和睦成立後に大垣の御料所としての寄進があれば、土岐頼芸殿には美濃守護職の地位を追認いたしますことも、しかと頼芸殿をご説明頂きたい」


「やって見せよう。儂も公方様に見捨てられぬようにせねばなるまいからな」


「左近大夫殿には和睦交渉中は美濃を押さえてもらいます。今後はあまり無理に頼純派の排除は致しませぬよう願います」


「よかろう。きたる時のためにも頼純派は懐柔かいじゅうし取り込んで置くとしようか」


「それでは、頼芸殿との会見の件よろしくお頼み申す」


「まかされよう」


 ◆


「ところで、わしの土産はその京釜にこの茶杓に宇治茶だったな」


「はい。是非お持ち帰り下さい。それと先ほどお出しした酒も樽で用意してござればそれもお持ち帰り頂き頼芸殿にもお渡し下さい」


「おう、あの酒は美味かった。京ではあれほどの酒があるのだのう。美濃ではあれほどの酒は手にははいらぬわ」


「こたびの和睦がなれば美濃も落ち着きましょう。さすれば美濃へ酒を運ぶことも容易かと。できれば美濃紙など産物のあきないも活発にし、京への商いを考えてくだされ」


「そうであるな国を富ますことを考えよう。そういえばお主の持ってまいった料理などにも驚いたわ。だが美濃にも美味いものはあるぞ。頼芸殿との面談の折には豪勢な饗応きょうおうを期待してもらおうか」


「期待させて頂きます」


「おおそうじゃ、まだ少し早いのじゃが木曽川の鵜飼うかいを楽しむがよい。特別に用意させるゆえ明日には楽しんで頂こうぞ」


(旧暦の3月は新暦の5月になり、鵜飼のシーズンは現代では5月から11月、鵜飼はやれるかなあ。まあ、やれることにしておいてください)


「舟などが沈没しないようにしかと手配願います。まあ、私は水練すいれんも得意ではありますが」


「なんだ泳ぎは得意なのか、残念であるな」


「あまりぞっとしませんな」


「ふはははは、それこそ幕府に喧嘩を売るようなマネはせぬわ。良い土産や、良い『絵図』まで頂いたからな。それに儂はお主を気に入っておる。それはそうと頼芸殿にも土産は持参しておるのか? やはり儂の物より良い物なのか?」


「左近大夫殿にとって良い物かどうか……美濃守殿への土産は『物』ではありませぬゆえ」


「物ではない?」


猿楽さるがく観世流かんぜりゅう一座を手配しております。風流好きの鷹にはそういったものの方が喜ばれるかと思いまして」


「がっはっは、たしかに御屋形様は喜ぶであろう。やはり抜け目の無いやつよ」


「それがしも頼芸殿のために小鼓こつづみを叩きまする」


「なんと? 兵部ひょうぶ殿(藤孝)みずからがか?」


「これでも観世流太鼓方たいこがた宗家の直弟子じきでしでありますので」


「これは参ったな。では儂もその席で一指ひとさわねばなるまいて」


「左近大夫殿はまいが得意であるのでありますか?」


「知らなかったのか? 儂の父は旅の猿楽師であったこともあるのだぞ」(そんな説もあったりします)


 ――こうして、美濃のマムシ斎藤道三との会談は成功裏に終わった。

 翌日は道三が手配してくれた鵜飼を楽しんだりもした。

 残念ながら? 舟が水没したり、水中の忍者に襲われたりするようなことはなかったけどな。

 観世流一座も美濃に参ったので、その打ち合わせなども行った。


 そして斎藤利政殿との会談の二日ののち、稲葉山いなばやま城下じょうか守護館しゅごやかたにて、土岐頼芸殿と面会した。

 ほぼ形だけのセレモニーである。

 斎藤利政殿との下交渉の合意内容そのままだからだ。

 まあ、俺と利政殿がして舞なんてやったものだから、観世流の猿楽興行と相まって土岐頼芸殿は大変満足していたようだがね。


 会談後、土岐頼芸殿と斎藤利政殿は合意のとおりに剃髪して、それぞれ土岐宗芸入道、斎藤道三入道となった。

 形だけの出家ではある。


 さてこれで美濃は一応まとまった。

 マムシの斎藤道三のあとはマネーの虎の織田弾正忠信秀と話を付けねばなるまい。

 道三に信秀という戦国の化け物級相手に交渉の連荘れんちゃんなんて正直勘弁して欲しいものである。

 だが公方様のために役満狙いでいかなければならない『自称公方様の忠臣』としては、高めのツモを狙って行くしかないのである――

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