第二十五話 川端道喜

 天文十六年(1547年)うるう7月

 山城国 東山 吉田神社


 京は再び細川晴元の支配下となった。

 晴元は六角定頼と提携を確認し、細川氏綱と畠山尾州家も高屋城に封じ込めている。

 新将軍の足利義藤を擁立する体勢も整え、細川晴元に我が世の春が訪れていた。

 公方様や大御所様も今出川いまでがわ御所にこそ戻ってはいないが京の東山の慈照寺に在しており、久しぶりに京は安定期を迎えている。


 俺も蕎麦屋に鰻屋、もみじ饅頭の生産に『吉田の神酒』の生産、薬局などについて篭城中にとどこおっていたことを片付けながら、東求堂の義藤さまの元にかよって、講義をしたり美味しいものを届けたりする落ち着いた生活が戻って来ていた。


 ところで、この京に俺と同じようなことをしている人物が居ることをご存知だろうか? その人物は禁裏きんりにおわす陛下にたいして毎日律儀にをお届けしているのである。


 応仁の大乱などにより各地の荘園からの収入が途絶えて財政が破綻、室町幕府も頼りにならず即位の礼すら満足に行えなかった朝廷は、主上しゅじょう後柏原ごかしわばら天皇陛下)のすら満足に用意することができなくなっていた。


 そこに主上をうれえる一人の男が現れる。

 渡辺進わたなべすすむまたの名を餅屋もちや四郎左衛門しろうざえもんという。

 彼は京の餅座もちざに所属し餅屋もちやいとなんでいた。そしてみずからこしらえた塩餡しおあんで包んだ餅をとして主上に献上けんじょうしたのである。

 それは毎日続くことになり、「御朝物おあさもの」と呼ばれ、主上は毎朝届くのを心待ちにしたという。


 御朝物は主上の崩御ほうぎょ後も代を変え続けられる。

 だが朝廷の財政が安定し、まともな朝ごはんが用意できるようになると、「御朝物」は実際にはしょくされなくなってしまうのである。

 だが「御朝物」は儀式化してしまいつつも、なんと明治初年に禁裏が東京に移るまで、代々の陛下の元へ届け続けられるのである。


「御朝物」を献上し続けた餅屋は和菓子屋の「ちまき 川端道喜かわばたどうき」として、現代でも営業を続けている。

 皇室御用達こうしつごようたしという言葉があるが、300年以上献上されつづけた御用達の中の御用達、キングオブザ御用達といっても過言ではないが、史実の話なので余談ではある。


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 ちまき 川端道喜かわばたどうき 1503年創業

 京の鳥羽とば出身の餅屋もちや四郎左衛門(渡辺進わたなべすすむ)が正親町おうぎまちにて営んだ餅屋を起源とする老舗の菓子屋である。

 応仁の乱で財政が逼迫した朝廷に後柏原天皇の御世みよから明治まで300年間「御朝物おあさもの」を献上しつづけた御用達の中の御用達である。


 店名にある「川端道喜かわばたどうき」の名は渡辺進の女婿じょせいになった中村五郎左衛門が渡辺弥七郎と名のり、入道して「渡辺道喜」と号した。

 そして禁裏の御溝みかわ(川)傍の新在家しんざいけに店を移し「川端道喜」と称したことに由来する。

 この初代川端道喜は六町組ろくちょうぐみの宿老として活躍、禁裏の築地つきじ修復の作事奉行さくじぶぎょうとなり私財を投じてその任にあたるなど織田信長からも認められた。

 また文化人としても千利休とともに武野紹鴎たけのじょうおうの弟子となり名声を得た。

 当主は代々この「川端道喜」の名を受け継ぎ、現在も京都市左京区下鴨南で和菓子店の営業を続けている。

 

 織田信長が入京の際に間違えて「御所ごしょ」にを買いにいかせたという「御所ごしょちまき」(内裏だいりちまきともいう)として名高いその味を京へ行ったら是非賞味して欲しい。(予約必須らしいが) また川端道喜が作事した「道喜門どうきもん」も現存しているので、京都御所に観光の際にはその門も見に行こう。

  謎の作家細川幽童著「そうだ京都へいこう!」より

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 餅屋の渡辺進さんだが、近所に住む山科言継やましなときつぐきょうと親交があった。

 その渡辺進さんが少し体調を崩し、山科言継に診断を求めてきた。

 言継卿から相談を受けた我らが医薬グループ「牧庵マキュアン友の会」は渡辺進さんを診断のためまねくことにした。

 そして俺は渡辺進さんの病状を軽い「脚気かっけ」と判断したのである。


脚気かっけ」という病気をご存知だろうか? 脚気はビタミン不足により引き起こされる病気である。

 心不全による足のむくみ、神経障害による足のしびれなど「脚」にその症状が現れることから「脚気」と呼ばれる。

 古くは「日本書紀」にもその病状が書かれ平安時代ごろからあったと思われる病気である。

 白米はくまい食が普及ふきゅうした江戸時代においては「江戸患いえどわずらい」とも呼ばれ、明治期の大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍でも流行し、戦後まもなくまで多発したかつての日本の国民病である。


 脚気の治療法については「ビタミンB1」不足によるものだと解明されるまで、実に長い年月がかかっている。

 1884年の大日本帝国海軍の軍医である高木兼寛たかきかねひろの食事の改善による海軍における発症の激減。

 1910年の鈴木梅太郎うめたろうによる「オリザニン」の発見。1912年カジュミシェ・フンクの「ビタミン」という概念がいねん提唱ていしょうにより、ようやく「ビタミンB1」不足と解明され、ようやく「脚気」の治療法が確立されたのである。

 それは遠い未来の話になる。


 余談なのだが、「脚気」についてこんな話がある。大日本帝国における陸軍と海軍の仲の悪さは有名だが、陸軍は脚気の件でも海軍の話を聞かなかったりしている。

 そして陸軍は日清戦争とそれに続く台湾平定戦において、少なくとも4千人を超える脚気による死亡者を出すという大惨事を引き起こすのである。


 陸軍は海軍で実績のあった食事の改善に取り組まずに大惨事を引き起こすのだが、欧州などでビタミン不足が原因と判明すると、やっと食事の改善に着手する。

 国内の意見や海軍の助言など聞く気が全くないのである。

 その当時の陸軍の軍医の責任者に森鴎外もりおうがいがおり、軍医総監ぐんいそうかんにまで上り詰めるのだが、「脚気」については理解する姿勢がまったくなかった。

 文豪ぶんごうとしては尊敬すべきかもしれないが、軍医としてはまったく尊敬に値しないものと思われる。

 とりあえず陸軍はアホである。

 異論は認める――余談でした。


 さて脚気の診断方法であるが、深部腱反射しんぶけんはんしゃというものをご存知であろうか? おっさんなら子供の頃に健康診断でやったかもしれないと思う。

 椅子いすや机などに座り、あしをブラブラさせて力が抜けた状態で、ひざさらの下を木やゴムのトンカチで叩くアレだ。

 知っている人は自分がだと自覚しよう。

 作者はおっさんではなくなので全く知らないぞ。


 渡辺進殿を招き、脚気じゃないかと疑った俺は、まず米田殿を実験台にしてこの深部腱反射を実演してみた。

 木槌きづちで米田殿の膝を叩く――トン。


「うおっ。勝手に動いたでござる」米田殿がよいリアクションをしてくれる。


「これはけん反射はんしゃと呼ばれるものです。健康な方であればこのように元気良く反射の動きを見せるのです。では次に浄忠先生と渡辺進殿にもやってもらいましょう」トン……トン


「いやいや、わしも動くが米田殿ほどではないのう」浄忠先生は一応反射した。


「わたくしは余り動きません……」渡辺進さんはやはり反射が鈍い。


「渡辺殿のように反射が鈍い場合は、脚気の症状が疑われます。渡辺殿は足のしびれやしんぞうが苦しいことがありませんか?」


「ええ、足がしびれますし、胸もよく苦しくなります」


「やはり脚気とみてよろしいでしょう」


 渡辺進殿は餅屋で米が手に入りやすく、また結構裕福なのだ。

 もしかしたら白米を多く食べ、日本酒なども良く飲んでいるのかもしれない。

 この室町時代でも粗食そしょくをしない上流階級の人は脚気になりやすい。

 脚気といわれ渡辺殿が絶望したような顔を見せる。

 だが、俺は安心させるように微笑ほほえむのだ。


「心配しなくて大丈夫です。私の言うとおりにすれば必ずなおせます」


 ◆


 脚気かっけの治療方法は簡単に言えば食事療法しょくじりょうほうである。

 白米食や酒などをつつしみ、「ビタミンB1」を多くふくむものを食べるように食事を改善すればいいだけなのだ。

 ビタミンB1が多く含まれるものは下記のものである。


 豚肉、豆類、雑穀パン、牛乳、緑黄色りょくおうしょく野菜、たらこ、牡蠣かき、玄米(米ぬか)、それにである。


 渡辺殿にはしばらく脚気の食事改善に我が店に通ってもらった。

 朝ごはんはそば粉を使った

 昼ごはんは玄米を使った鰻重。

 晩御飯は蕎麦を食べるように指示をした。

 そして副菜として、新たに開発(パクリです)した沢庵漬たくあんづけも三食食べさせたのである。


 沢庵漬は「たくわん」、「たくあん」とも書く。

 江戸時代の高僧「沢庵宗彭たくあんそうほう」により考案されたという伝説がある。

 奈良漬ならづけ柴漬しばづけが既にあった関西あたりでは普通にどこかで作っていると思うのだが、沢庵が考案したことにして、まだ無かったことにしておこう。


 沢庵漬は天日干てんぴぼしした大根を米ぬかと塩で1ヶ月から数ヶ月けた物である。

 お婆ちゃんの家でも普通に自家製の沢庵漬をつくるため軒先のきさきに大根をよくるしてしていた。

 多くの家で昔はよく見られた光景だったのだが、そんな日本の原風景げんふうけいを見ることも少なくなってしまってちょっと悲しい。

(お婆ちゃんのたくわんが最高に美味かったと思っているので老舗店などの紹介はない)


 ようするに沢庵漬は米ぬかで漬けるものだから、米ぬかからビタミンB1がよく大根に浸透しんとうしているので、「脚気かっけ」の食事療法にはとても適しているものなのである。

 普通に美味いし、保存食であるので白川城の篭城前に作っておいたものである。


 1ヶ月程わが店に通ってもらい、俺の指示どおりに食事内容を改善した渡辺殿の症状はどんどん良くなっていった。

 1ヵ月後に再び深部腱反射しんぶけんはんしゃをしてみると、反射も改善していた。


 そして完全に良くなると、渡辺進殿本人と、その娘婿むすめむこであり、餅屋もちやいでいる渡辺弥七郎わたなべやしちろう(後の川端道喜かわばたどうき)殿がその餅屋自慢の「御所ごしょちまき」と銭を大量に持ってお礼に来たのである。


「細川与一郎様のおかげであります。このご恩は一生忘れません」


「義父の病状がこんなにも良くなったのは細川様のおかげです。深く感謝いたしまする」


 二人に土下座までされてしまう。

 渡辺進殿が涙を流さんばかりに感謝の意を示してきた、というか泣いている。

 病気の治療でに稼ぐ気はさらさらないので、持ってこられた御所ちまきと銭はお願いして、公方様への献上品という形にしてもらい、渡辺弥七郎殿と一緒に慈照寺へと持参して公方様に献上けんじょうした。


「餅屋渡辺といったか。そなたの主上しゅじょうへの献身けんしんは聞きおよんでおる。まことに殊勝しゅしょうなり。それにこの御所ちまきもあっぱれな味である。主上のように毎日とは言わぬが、わしの元にもたまには持参を頼むぞ」


 公方様はもらった銭には目もくれず、「御所ちまき」にご満悦であった。

 餅屋渡辺弥七郎殿も非公式ではあるが、公方様へのお目通りが叶い、またもや感謝されてしまった。

 そしてここで餅屋渡辺に二重に恩を売りつけた(主人公です)が動き出し、餅屋渡辺殿を悪の道に引きずり込むのである。(普通の商売です)


「弥七郎殿。ひとつお願いがあるのですが、私と一緒にあきないをやっては頂けませぬか?」――


 ◆


 渡辺進殿の脚気の治療の一件からしばらくすると。

 わが店が出す食べ物は病気をも治す魔法の健康食だと、噂にがついて、なぜか京中に瞬く間に広がっていた。

 そしてその噂を聞きつけた人々が押し寄せ、蕎麦屋も鰻屋もこの突発的に起こった健康食ブームにより長蛇の列が途切れない有様となった。

 両店長のヘルプにより、俺も厨房に入りフル回転しなければならない盛況さである。


 噂を広めまくったのは言うまでもないが、自動人間拡声機と化した清原業賢伯父と山科言継卿である。

 誰かあいつらを止めてくれ。

 俺はやらなければならないことがたくさんあるのだ。

 蕎麦屋と鰻屋はもうすでに儲かっているから十分なんだ、タスケテクレ……


 朝から続くウナギをさばいては串を刺し、焼くという無限地獄の中で俺の心は壊れかけていた。

 もうの顔にも見飽きたというか、ぬるぬる野郎の間抜け面にムカついて来たその時だ。

 どこからともなくが聞こえて来たのである――


「か、掃部頭かもんのかみィ! お主のウナギの方がではないか! わしと換えるのじゃあ!」


「掃部頭ではありませぬ。我々はの大旦那と番頭でございますぞ。番頭とお呼び下さいませ」


「お、おお、そうであったなスマン。だが蒲焼重の交換はさせて貰うぞ」


「残念ですがそれは出来かねます」


「な、なんじゃと!」


「私の蒲焼重は玄米製でございます。おおご……大旦那さまにそのような粗末なものを食させるわけには参りませぬゆえ」


 その声を聞いた俺の頭の中のが割れた。

 人間の限界を超越したスピードで俺は……アラホラサッサと蕎麦屋の方へ逃げ出した。

 関わっちゃダメだ。

 関わっちゃダメだ。

 は絶対に関わってはダメなやつだ。

 第六感が全力で俺にげてくるのだ。

 だが蕎麦屋に逃げ込んだ俺にさらに絶望が襲う。


「カモン、いや番頭や、めは黒うどんで行くぞ」


「ははっ。温かいのと冷たいのとどちらにいたしましょうか」


 ちりめん問屋どんやとか称するどこぞのご老公ろうこうが、今度は蕎麦屋に襲来したのだ。

 なんでこっちにも来るんだよ! よし、今度は薬局に逃げるぞ。


 だが退路はふさがれた。


「酒じゃ酒じゃ、おいそこの娘、ちとこちらに座ってしゃくでもせんか! 気のかぬ店じゃのう。この馬鹿ちんがぁ!」


「まったくでございますな」


 逃げ出す暇もなく、いたどこかの大旦那が店の自慢の巫女ウエイトレスに当たりちらすと化して襲いかかってきたのである。


「お、お客様。こ、困ります……当店ではそのようなことはいたしておりませぬ」


「なんじゃと! わしの言うことが聞けぬというんか! おい責任者はどこだ! この店の責任者を出せい! 今すぐわしの元に呼んでまいるがよい!」


 店中の巫女ウエイトレスが一斉に

 こうして俺の退路は閉ざされた。

 だがちょっとマテ! 無理だ! いくらなんでもは対処不能だ。


 アレに勝つ方法なんてさすがにないぞ。

 現代でいえば「モリモリ元総理」あたりを押さえ込むのと同じレベルで至難しなんなことだぞ。

 現役総理大臣ですらできないレベルの仕事なんて俺にできるわけがないだろーが!


 だが、なんとそこに吉田兼見の叔父上が現れた。

 そしておもむろに大旦那の横に座って酌を始めるではないか。

 そしてご機嫌斜めだったどこかのちりめん問屋の大旦那が、! 頭を下げておとなしく飲み始めたではないか。

 吉田兼右叔父はそういえば足利義晴の神道の師匠であったのだ。

 ダメだこいつ(叔父上です)、アレをおとなしくさせるとは、ちょっと尊敬してしまうぞ。


 こうしてに襲来された我が店の危機は回避され、健康食ブームが過ぎ去るまでの修羅場営業を無事に乗り切ることができたのである。


 炎上したり、イナゴの群れがやって来たり、キングゴショラに襲来されたり、ウチの店って何か呪われているんじゃないのか?

 霊験れいげんあらたかな唯一神道ゆいいつしんとうの吉田神社の境内けいだいにあるのに呪われているっておかしいじゃないか?

 と思わないでもないのだが、金儲けに走っているから神様も怒っているのだろうと諦めた。


 酒の時もそうなのだが、蕎麦と鰻重と天ぷらとか大御所に献上するのを忘れていたのだ。

 義藤さまに美味しいものを持っていく時には必ず常御所つねのごしょの方にもおすそ分けをすることを固く誓うのであった。

 キングゴショラの襲来など二度とゴメンなのである……

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