第二十四話 銀閣寺よ私は還ってきたー

 天文十六年(1547年)7月

 山城国 北白川城-慈照寺



 相国寺しょうこくじに陣取った右京兆殿の細川晴元と管領代の六角定頼に対して政所執事の伊勢貞孝が送った詰問の使者は、当初細川晴元を激怒させた。

 だが六角定頼は大御所を裏切ったという思いがあったのか、あるいは晴元とは違いその意図を読み取ったのか、貞孝と定頼が中心となって交渉を進めていった。


 大御所の心中はやはり穏やかではなく、細川晴元と六角定頼との和睦にはあまり積極的ではなかった。

 また細川晴元も自身が加冠かかん役ではない元服式をおこなった将軍(義藤)を当初は認めない姿勢を表すなど交渉の進展は鈍かった。

 定頼が晴元を、貞孝が大御所を説得して互いに妥協点を探っていく流れである。


 だが、いわゆる「舎利寺しゃりじの戦い」の戦況報告が京に届くと状況が一変した。

 細川晴元はその勝利により自身の地位がおびやかされる心配がなくなり、心に余裕が持てたのだろう。

 大御所にたいして譲歩する姿勢を見せた。

 一方の大御所も細川氏綱方の敗戦の報によりこれ以上の抵抗を諦めるほかなくなった。

 両者のつまらない意地の張り合いで無駄な条件交渉が行われていたりしたのだが、和睦の交渉は舎利寺の戦いにより一気に進むことになった。


「舎利寺の戦い」とは、細川氏綱方と細川晴元方とが摂津の国の天王寺の東の舎利寺周辺(現:大阪市生野区いくのく舎利寺)でぶつかり合った戦いである。


 細川氏綱はこの当時、高国派を支援していた紀伊きい河内かわちの守護たる畠山はたけやま尾州びしゅう家と連携しており、その畠山尾州家を牛耳ぎゅうじっていた遊佐長教ゆさながのりと畠山尾州家当主の畠山政国まさくにと連合軍を結成して、細川晴元方を攻めていた。


 畠山尾州家が細川氏綱を支援している理由は、簡単に言えば細川京兆家の弱体を狙ってのことである。

 細川京兆家と畠山尾州家は管領になれる資格を有する家格を持っている。

 畠山尾州家としては細川京兆家の勢力が弱まれば、60数年振りに管領になり幕政に復帰できると夢をみているのかもしれない。

(三好長慶の父親である三好元長と一緒に一向一揆の大軍にひねり潰された畠山総州そうしゅう家の畠山義堯よしたかが管領になったともいわれるが最近の説では否定されている)


 晴元方は当初、氏綱・畠山(遊佐)連合に押されっぱなしであり、京の支配を失い、三好長慶すら堺で包囲されるなど危機的状況におちいる有様であった。

 だが、その三好長慶の元に四国勢が援軍として畿内に上陸すると情勢は一変する。


 三好長慶は細川晴元の下で、分家の三好宗三そうぞうにこき使われるという不遇の時代を過ごしていたのだが、四国勢の援軍を得たことにより三好長慶の大躍進だいやくしんが始まるのである。


 長慶の元に援軍として上陸した四国勢とは何を隠そう、「三好之虎みよしゆきとら」や「安宅冬康あたぎふゆやす」なのである。

 摂津せっつ越水こしみず城で一人頑張っていた長慶のところに、見事に成長し若き将として一軍を率いることができるようになった頼もしき弟達がついにのである。


 三好長慶は氏綱方に寝返っていた摂津衆の池田信正いけだのぶまさを攻めたて降伏させ、芥川山城を奪い返すなどまたたく間に摂津を平定してしまう。

 そして、河内十七箇所の榎並城えなみじょうで孤軍奮闘していた三好宗三政康らと合流し、舎利寺の戦いで氏綱・畠山(遊佐)連合軍をこっぱ微塵に叩き潰すのである。


 この戦いにおける戦死者は2千人を越えたともいわれ、激戦のようでもあるのだが、数刻で畠山(遊佐)軍が撤退したともいわれ、どの程度の規模であったのかは実は諸説あったりするのだが、ここでは一応激戦としておこう。


 舎利寺の戦いにおける細川晴元軍では没落寸前の総州家の畠山尚誠なおまさが奮戦したり、和泉上守護いずみかみしゅご細川元常もとつねの臣下である和泉守護代の松浦氏(松浦守か?)も奮戦したりするのだが、結局のところその軍勢の主力は三好軍である。

 晴元方の戦死者には安宅とか篠原しのはらとか後の三好家の中核をなす家の名が見られるので、三好家も相当奮闘したものと思われる。


 三兄弟が結集した三好家は覚醒を遂げ、スーパー三好家になってしまったのだ。

 三兄弟が揃った三好家にとって氏綱・畠山連合やそれに寝返った摂津衆などもはや敵ではなかったのである。

 しかも恐ろしいことに三好家は覚醒をまだもう一段階残しているのである。


 三好家最強の鬼十河おにそごうこと十河一存そごうかずまさはこれからやって来たりするのだ。

 四兄弟が揃った三好家とか畿内ではもはやムテキングになるのですがどうしたらいいのでしょう?

(実は三好五兄弟で末弟に野口冬長のぐちふゆながというのも居るのですが早死にするため出番がないので忘れて下さい)


 そのスーパー三好家を中核とする細川晴元軍は舎利寺の戦いのあと、逃げ去った氏綱・畠山(遊佐)連合を追撃しながら河内を南下。

 迎撃を試みた敵さんをなぎ倒して、そのまま畠山(遊佐)軍の本拠地である河内高屋城たかやじょうまで攻めこんで包囲下に置いてしまうのである。


 ◆


 舎利寺の戦いの報を受けて管領代六角定頼と、政所執事伊勢貞孝を中心とする交渉はまとまった。

 その結果、六角定頼の重臣が公方様をお迎えにあがる事になった。

 公方様と大御所様は奉公衆に守られながら、六角軍に迎えられ慈照寺へと向かうことになる。

 結局のところ公方様と大御所様の体面を守りつつも、北白川城は無血開城することになり、北白川城は六角軍に接収されることになった。


 城を焼いて坂本に落ちることを考えればよっぽどマシではある。

 奉公衆も皆好き好んで坂本へ落ちることなど望んではいなかった。

 細川晴元も公方様や大御所様が在京することを望んでいる。

 六角定頼も幕政の安定を望んでいるし、伊勢貞孝も幕府が京にあることを望んでいる。

 公方様も慈照寺に戻れることを素直に喜んでいる。

 結局、誰もが望む結果となったのである……へそを曲げている大御所を除けばではあるが。


 慈照寺に入った公方様は常御所つねのごしょで、細川晴元と六角定頼との御対面の儀を行った。

 細川晴元も正式に足利義藤公を第13代の室町殿と認め、臣下の礼を取ったのである。

 一連の儀を差配したのは伊勢貞孝であった。


 大御所は晴元と定頼の両者にまだ会おうとはしなかった。

 大御所の勘気が収まるにはいま少し時が必要なようである。

 それは晴元も定頼も分かっているようであり、貞孝も心得ていたため特に問題とはならなかった。


 実態はともかくとして幕府としての儀式に関わる形式的なあるじは公方様であり、大御所様ではないのだ。

 だが実態としてもこの頃から大御所による側近政治から、本来のあるべき形である公方様を立てた政所主体の政務へと徐々に移行していくことになる。

 それは政所執事である伊勢貞孝の権勢が強まることに繋がっていく。


 これまでは本来政所の管轄である訴訟などの御沙汰おさたにも大御所の側近である内談衆や大御所の後ろ楯であった六角定頼、それに大御所の身内である近衛家の意向などが反映されていたのだ。

 だが政所執事の台頭により幕府の行政から、内談衆や六角定頼の影響力は少なくなっていく。

 大御所はこれまで以上に伊勢貞孝に政務を任せることが多くなっていった。


 やるべきことを終わらせてやっと落ち着いた公方様と俺たちは東求堂とうぐどうに向かった。

 北白川城に篭城してからすでに4ヶ月弱が過ぎていた。

 久しぶりに帰った東求堂から懐かしき銀閣寺を眺めた俺は思わず叫ぶのである。


「銀閣寺よ私は帰って来たぁぁぁぁ!」


「突然なんだ藤孝、びっくりするではないか」


「相変わらずおかしな奴だろ」


「なぜか帰ってきたらコレをやらなきゃいけないような気がしまして」(安心してください国宝にアトミックバズーカはぶっ放しません)


「それに前にも聞いたがギンカクジとはなんのことだ?」


「すいません、何でもありません。忘れて下さい」そういえば銀閣寺は江戸時代になってからそう呼ばれ出したことをまた忘れていた。


「まあよい。それよりやっと帰ってこれたな」公方様も嬉しそうである。


「はい。まるで我が家のような懐かしさまで感じます」


「そうだな。別にわしはここで生まれ育ったわけではないのだが不思議なものだ。さて落ち着いたところで早速だが、藤孝……美味しい物はまだなのか?」


「そうだろ、早く出すだろ」


「ちょ、ちょっとお待ち下さい。私も義藤さまと同じく篭城していて、今帰って来たばかりですぞ。青い狸ドラ衛門じゃあるまいし、そんなにすぐに美味しいものを用意できるわけがないじゃありませんか」


「青い狸とは何のことじゃ? どうでもよいが、ないなら今すぐ美味しいものを作ってくるがよいぞ」


「そうだ早く作るだろ、俺の筋肉も美味しいものを求めているだろ」


「こいつら鬼だ……誰か俺に四次元ポケットかドコにでもいけるドアをくれ」


 ◆


 史実では北白川城を焼いて、坂本に落ち延びた公方様と大御所様が京への帰還を果たすのは、およそ1年先のことになる。

 坂本で無為むいな時間を過ごすことなく、この京で1年早く活動する機会を得ることはできた。

 新たに得たこの1年間を有効に使い来るべき時に備えねばならない。

 もうすでに恐ろしい敵の足音がすぐそばまで迫っているのだ。


 この4ヶ月弱の篭城で俺になにが出来たというのだ? 坂本へ落ち延びることなく1年早く京に落ち着くことは確かにできた。

 だが考えてみれば口だけしか使っておらず、手柄も伊勢っちに取られているではないか。

 しかも戦力としては無に等しかったぞ。

 俺はこの篭城で一兵卒も率いることが出来ていないのだ。


 銭は着実に増やすことは出来ている。

 だがさらに銭を増やして早期に自分自身で率いることができる戦力を、へいを揃えることを考えねばならないだろう。

 まずは地盤が欲しい。俺がって立つ地盤を手に入れなければならない。

 いつまでも淡路細川家の養子で次期当主じゃなにもできん。


 銭で兵を雇い入れることはできるだろう。

 だが、俺に兵の指揮など出来るのか? 公方様の兵法指南などという役柄やくがらを務めてはいたが、それは現代で孫子そんし三略さんりゃくの解説書を読んだだけの生兵法なまびょうほうでしかない。


 今の俺が兵を雇い入れ小なりとはいえ軍を率いたとしよう。

 そして戦にのぞむとする。

 その結果は街亭がいていの戦いにおける馬謖ばしょくよりも酷いものになるのではないか? 馬謖に忠告し敗戦の中奮戦してくれた王平おうへいすら俺にはいないのだ。


 領主となり兵を率いる訓練をしなければならない。

 出来れば優秀な補佐役も欲しい。

 俺はまだ14歳の若造でしかないのだ。

 金で兵を雇ったとしても誰が現代の感覚では中学生になったばかりである俺の指揮を喜んで聞くというのだ? 金で雇った兵は累代るいだいの忠臣ではないのだ、どこかの殿様の初陣のようなわけにはいかないのである。


 美味しいものを早く作れという公方様の頼みで、食材を調達するため慈照寺から吉田神社に向かって急ぎ歩くはめになった俺は、その道程で思案の袋小路に迷い込んでしまったのである……


 吉田神社で久しぶりに逢ったオジーズ(清原業賢・吉田兼右)や吉田兼見くん、それに饅頭屋宗二殿、角倉吉田六佐衛門さんに牧庵叔父、皆が無事の再会を喜んでくれた。蕎麦屋も鰻屋も相変わらず繁盛していた。


 ごめんよ、義藤さま……まだ僕には帰れる所があるのだ。

 こんなに嬉しいことはない。

 とか言って白い悪魔アムロごっこをしながら誤魔化したいところではあるのだが、蕎麦や鰻重、もみじ饅頭などを揃えて、急ぎ慈照寺へとって返さなければならない俺である。


 食いしん坊将軍に久しぶりのご馳走を振舞わねばならない。

 考えることは山ほどあるのだが、我が主の胃袋を満たして、まずはその笑顔で元気を貰おう。

 義藤さまの笑顔を見ることが今の俺の特効薬かもしれないからな……



 ――スーパー野菜サイヤ人化した三好家を押さえ込める勢力や元気が出る玉の作り方をご存知の方は、至急東求堂あたりまでご連絡下さい。

 このままでは畿内が三好家の独壇場になってしまいます。

 一応主人公っぽい細川藤孝という人が困ってしまいますので、連絡よろしくお願いします。

 できれば四兄弟が揃う前にお願いします。

 間に合わなくなっても知らんぞーっ!(もう手遅れだと思うが)


 現在の戦闘力。三好長慶「1万3千ぐらい」vs細川藤孝「2」(本人と中村新助だけ)……バンゲリングベイより酷くね? まさに無理ゲーではないか――



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 おまけ突発シリーズ その4

 謎の作家細川幽童著「どうでもよい源氏の知識」より

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畠山はたけやま氏」

 三管領の一つである畠山氏は、足利義兼よしかね庶長子しょちょうしである畠山義純よしずみが我が埼玉県の誇る偉大なる武士の中の武士「畠山重忠しげただ」公の娘をめとって、秩父党の畠山氏の族滅ぞくめつ後に乗っ取った家であったりする。(重忠の未亡人とする説もあります)

 

 畠山重忠は源頼朝に仕え、数々の戦いで武功をあげ、模範的な武士とも称された鎌倉幕府の功臣である。

 埼玉県の深谷ふかや市には畠山重忠公の銅像などがあったりするのだが、埼玉県民のほとんどは重忠なんぞと思われる。

 同じ深谷市でも多分『ふっかちゃん』の方がよっぽど有名であろう。

 実になげかわしいことである。

 

 その足利系源姓畠山氏だが、名門の畠山氏を乗っ取った家であったりしたので、斯波しば宗家の武衛ぶえい家に次ぐ家格であったともいわれる。

 ただ本来の畠山嫡流はいろいろあって奥州で没落して二本松にほんまつ畠山氏になっている。

 伊達輝宗だててるむねを拉致しようとして、あの伊達政宗に射殺された二本松義継よしつぐがそれである。

 

 本来の嫡流は没落したが、畠山義深よしふか基国もとくに父子がいろいろ頑張ったりしたので、畠山基国が管領となり、こちらの系統が「畠山金吾きんご家」と称され三管領家の一つとして嫡流扱いされている。

 だが畠山金吾家は畠山持国もちくにの後継者争いで応仁の乱の引き金を引いたりする。

 持国の庶子である畠山義就よしなりと、家臣に担ぎ上げられた持国の甥である畠山政長まさながとがお家騒動を起こし、御霊合戦ごりょうがっせんで両軍が激突し、応仁の乱が始まるのである。

 

 その後、畠山|義就系は「畠山総州そうしゅう家」、畠山政長系は「畠山尾州びしゅう家」となり、戦国時代初期まで両家は対立を続けるのである。

 だが畠山総州家は木沢長政きざわながまさに乗っ取られたあげくに木沢長政の巻き添えを食らって没落し、畠山尚誠はたけやまなおまさを最後に歴史から消えてしまう。(大和国で土豪レベルになり下がって消えた)

 

 畠山尾州家は遊佐長教ゆさながのりに乗っ取られるなどして、家督相続がめちゃくちゃで普通の人にはまったく理解ができないぐらい当主がかええられたりする。

 だが一応戦国時代を乗り切って、江戸時代には名族の高家こうけとして、かろうじて家名を存続できたりしている。

 

 他にも能登のと畠山家があったりするが、これは基国の次男の畠山満慶はたけやまみつのりの系統である。

 能登畠山家も同じく家臣に乗っ取られるなどして滅亡する。

 家名としては越後上杉家の家臣であった上条政繁じょうじょうまさしげの養子になっていた畠山義春はたけやまよしはるの子義真よしざねが江戸幕府の高家として存続できた。

(少し前まで上条政繁=畠山義春だったはずなのだが、最近の研究でしたので注意が必要である)


 もしかしたら本編で話題にするかもしれないが、畠山尾州家には和泉守護いずみしゅごとされる細川五郎晴宣ごろうはるのぶ(畠山政国の弟)とか、その子であろう刑部大輔ぎょうぶだゆう政清まさきよなどが居たりする。

 クソマイナーなので多分誰も知らないだろうし、憶える必要は全くないのであるが、一応和泉守護細川を名乗っているので紹介してみた。

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