第十六話 マネーの虎

 天文十六年(1547年)1月

 山城国 慈照寺



 洛中の治安がよくなりが活き活きとしている。

 清原業賢伯父は洛中への出入りが安全になったので、以前にも増して公卿の皆様への「吉田の神酒」の売り込みと配達に大忙しである。


 お前(伯父上です)は本当に朝廷に仕える偉い学者なのか? とも思うのだが、実は清原家の家督は嫡子で俺の従兄弟でもある清原枝賢に譲り、学者としてはその枝賢が一応頑張っている。

 伯父上は息子に本業は任せて商売に明け暮れているというわけだ。


 普段は業賢伯父に悪態をついているが、食材の確保等に俺自身が動き回らなくて良いので非常に助かっており、感謝の気持ちが無くはないのだが、たまに本気で頭にくる事もあるので、感謝の気持ちはおくびにも出さないけどな。


 吉田兼右叔父も洛中へ蕎麦屋と鰻屋の宣伝に乗り出し、吉田社への参拝客増加作戦を展開している模様だ。

 兼見のやろうは歳下の婚約者とよろしくやっていたので、トルネード投法による剛速球で雪玉でもブツけておいた。


 饅頭屋宗二もメープルシロップの原料であるカエデの樹液の採取が最盛期に入ってきており、京周辺の山々へ出向き忙しそうだが楽しそうに働いている。

 宗二殿とはメープルシロップをさらに煮詰めて、メープルシュガーの精製を始めるなどしっかり協力してやっている。

 他に試作品なども共同で作っていたりする。


 角倉吉田家は吉田神社の境内に新築された酒蔵(謎の宮大工集団製)に若旦那の光治と宗桂の弟にあたる吉田六佐衛門ろくざえもん光茂みつしげさんを送り込んで陣頭指揮を執らせる力の入れようである。

 嵯峨野から職人を集め活性炭濾過と火入れによる清酒の加工に着手し増産体制に入っている。


 現在はまだ既存の嵯峨野の濁酒を運びこんでの加工作業だけになっているが、いずれは、吉田社の酒蔵において新酒の造酒にも着手し、麹米、掛米の両方に白米を使う諸白の製法や絹で上澄みを濾す、南都諸白の技法も導入して、「吉田の神酒」のレベルアップも計画している。

 近いうちに三段階の覚醒を成し遂げた「吉田の神酒」が生まれるだろう。


 そして俺こと細川藤孝は蕎麦屋、鰻屋、酒、メープルシロップなどで稼いだ金を元手に土倉業(金融業)への進出を考えていた。

 土倉業も営む角倉吉田家にレクチャーを受けながら、まずは金策に困る幕臣あたりからその毒牙にかけようとたくらむのである。

 ……が、まず俺に借金を申し込んで来たのが、実の父親である三淵晴員であったのは笑えない話である。


 ◆


 大御所と公方様の元へは洛中の治安が改善したことにより、新将軍へのお祝いや新年の挨拶のため、全国の諸侯や洛中の公家、五山の僧、山城国周辺の寺社など多くの者が訪れるようになっていた。


「謁見、謁見、謁見……んーわしはもう飽きたのじゃー!」


 連日の諸侯の方々などの挨拶に追われ、我らが公方様がお壊れになった。


「お疲れ様でございます。これでも食べて元気を出してください」


「お? なんじゃ、美味しいものか?」


「はい、これは『おやき』というものにございます」


「ほほう♪ 『おやき』か、ではさっそく頂くか、うむコレも美味いのう!」


「お褒めに預かり恐縮でございます」


「この『おやき』とやらは一体何じゃ?」


「はい、この『おやき』はそば粉と小麦粉を練って作った生地きじに野菜や山菜の餡を入れて、焼いて蒸したものになります。饅頭屋宗二と一緒に作った試作品であります。材料が揃っていたので簡単に作ってみました」


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 おやき

『おやき』は長野県北部のソウルフードである。

 今の長野県、戦国期では信濃しなのと呼ばれる地域の北部は山がちで寒冷であり昔は稲作に適した土地ではなかった。

 そのためコムギ、ソバを作ることが多く、その小麦粉・そば粉を使って生地を作り、中に野菜や山菜などの餡(具)を入れて焼いた『おやき』が生まれた。

 『おやき』は長野の家庭料理なため江戸時代などから続く老舗店などは残念ながら無い。

 だが昭和初期創業のお店も多く、長野北部へ行ったら是非本場の味を楽しんでもらいたい。

 ちなみに野沢菜のざわなのおやきが一番おすすめである。

  謎の作家細川|幽童著『そうだ美味しいものを食べよう♪』より

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「あいかわらずお主が作るものは変わっているが美味いな。じゃが、わしはこうもっと甘いものが食べたいのだ。そうじゃ! お主とやらはいかがした。今日は持ってきておらぬのか?」


「申し訳ありませぬ。今日はまだご用意ができておりませぬ」


怠慢たいまんじゃな」義藤さまにジト目で見られる。


「はっ、申し訳ありませぬ」


『おやき』をしっかり食ってるのに怠慢とは酷くね。

 それにホットケーキは卵が足りなくて少し厳しいのだ。

 もみじ饅頭の生産にも支障が出るくらい卵が足りないのだ。


「怠慢といえば、わしばかり政務に追われているが、藤孝お主も御部屋衆になったのだから諸侯の挨拶には同席するのが筋ではないのか?」


 む、正論ではある。

 が、基本的に大御所とその側近が政務を取り仕切っているので、俺に声が掛かったためしはない。

 この前の謁見の儀は例外である。


「主命とあらば喜んで同席いたしますが、ホットケーキはどうしますか?」


「むう.……」睨まれてしまった。いかん話題を変えよう。


「それで、どういった方々がご挨拶に参られているのですか?」


「ん? いろんな国の守護やら寺社やら、公卿やら、いっぱいじゃ」


「は? えーたとえば守護とはどこのどなたになりますか?」


「あー、だからいっぱいじゃ」


 あかん、こりゃ覚えてないな……さっきもいったが、基本的な政務や取次ぎは大御所様とその側近がやっているので問題はないのかもしれんが、さすがに何も分からないで、ただ座っているだけはダメだろう。


「それでは明日はどのような方が参られるのですか?」


「ん? あ、明日もいっぱい来るのだ……そ、そうじゃ明日は尾張おわり又守護代またしゅごだいとかいうのが来るとか申次衆もうしつぎしゅうが言っておったぞ。なにやら沢山ぜにを持ってきたとかでうたげも開くとかいっておったからな。どうだ、ちゃんと分かっているだろう」


 尾張の織田おだだって? 何故か偉そうにするあるじを無視して問いただす。


「義藤さま、その者はもしかして尾張の守護代織田大和守やまとのかみ家の家老織田弾正忠だんじょうのちゅう家の織田信秀のぶひで殿ではございませんか?」


 まだこの時期(1547年初頭)では織田信長ではない。

 その父の織田信秀であろう。

 たしか織田信秀も信長と同じく上洛していたので間違いはないと思う。


「たしかそんな名であったな、知っているのか藤孝らいでん?」


「モチロンお会いしたことはありませんが、たしか私の従兄弟にあたる方が尾張におりますので、お噂は聞いたことがあります」

(現代の知識で知っているとは言えんからな。ちなみに従兄弟は平野さんという人です)


「なんだ知っておるのか。ならば丁度良いではないか、やはりお主も同席せよ」


「はい。なかなかの人物と聞いておりますので私もお会いするのは楽しみであります」


「お主が褒める人物か。少し興味が沸いてきたな。その者の家はどんな家なのか知っているならわしに教えるがよいぞ」


「はい、では尾張の国についてはご存知ですか?」


「馬鹿にするでない。それくらい知っておる。管領かんりょうたる家格かかくゆうする斯波しば一門の宗家、武衛ぶえい殿の領地であろうが」


「はい、よくご存知で。織田信秀殿の織田家はその尾張守護の武衛様のご家来で――」


 ◆


 足利一族随一ずいいちの名家である、いわゆる「斯波しば氏」の宗家である「武衛ぶえい家」は室町幕府における三管領家の一つとして栄華を極めた。

 だがその武衛家は応仁の乱を前後して壊滅するのである。

(武衛とは唐名からめい兵衛督ひょうえのかみのことであり、代々当主が任官したため武衛家と称された)


 斯波氏の9代当主の斯波義健しばよしたけが後継者のないまま早世そうせいした。

 そのため一門の大野斯波おおのしば家から斯波義敏よしとしが養子として宗家に入り武衛家の家督を相続することになった。

 ここまでは良くある話なのであるが、この後から武衛家はマジでことになる。


 まず、斯波義敏が守護代の甲斐かい氏と対立して内紛を起こしてしまう。

 それにより関東計略を台無しにされた時の将軍足利義政が激怒し、何故か堀越公方ほりこしくぼう執事しつじであったとされる渋川義鏡しぶかわよしかねの子の斯波義廉よしかどが斯波家の家督となってしまう。


 その後は、斯波義敏とその子の斯波義寛、それに渋川氏出身の斯波義廉との間で斯波家の家督があっちにいったりこっちに来たりしてグチャグチャになるのだ。


 この斯波家の家督継承の問題は応仁の乱の原因ともなり、最終的には血筋がな斯波義寛の系統が武衛家の嫡流に落ち着くのだが、武衛家は衰えきってしまいその領国支配は壊滅する。


 そんな武衛家ではあるがかなりのメーモン(名門)なので越前、尾張、遠江と三ヶ国もの守護であった。

 その武衛家の領国の守護代としては越前、遠江の守護代である甲斐氏、尾張の守護代である織田氏が居た。


 武衛家の家臣の序列としては甲斐家が一位、織田家が二位、朝倉家が三位とされる。

 朝倉家は今や越前の守護ではあるが、元々は織田家の方が上だったとも言われるのだ。


 朝倉家は応仁の乱において朝倉孝景あさくらたかかげが西軍から東軍に寝返るなどして、その影響力を高め、その後、斯波家と甲斐家を越前より追い落として守護となる。

 いわば下克上の先駆けなのである。(朝倉家は越前の守護代であったという説もあります)


 越前の太守としてふんぞり返る朝倉家だが、どこからどう見ても下克上そのもので、北条早雲や斎藤道三、宇喜多直家うきたなおいえなんぞより下克上の代名詞は朝倉じゃね? とか思っていたりする。

 朝倉家が今はそう見られていないのは、その後に朝倉家が室町幕府を支援することに多くの功があったからではある。


 尾張の国の守護代となる織田家は元々は越前の国の二宮にのみやであるつるぎ神社の神官であったとされる。

 越前を本国とした武衛家の被官となり、武衛家の尾張守護就任にともない越前から尾張に移り住んだといわれる。

 その当時の守護は在国せずに、京に居たため織田氏は武衛家の下で尾張の国の守護代となり尾張に土着した。 


 尾張の守護代を代々受け継いだ織田家の宗家は伊勢守家と呼ばれ、主君の斯波氏と共に在京することが多かった。

 そのため織田家の宗家は分家に尾張を統治させ、その家系が又守護代の織田大和守家となる。


 応仁の乱とその原因の一つである斯波家の家督争い「武衛騒動」で、斯波家はぐちゃぐちゃとなるが、尾張は上四郡かみよんぐんを織田伊勢守家が支配し、下四郡しもよんぐんと正式な尾張守護代職は織田大和守家のものとなる。

(下四郡のうち知多ちた郡と海東かいとう郡については諸説ある)


 ちなみに遠江では、駿河の今川家と争い今川義忠いまがわよしただを討ち取るなどするのだが、尾張守護代の織田氏が遠江への出陣を拒み、最終的には斯波義達が今川氏に大敗し、遠江は今川氏が支配することになる。

 甲斐氏はいつのまにか歴史から消えてしまう……哀れなり。


 正式に守護代となり、武衛家の当主をようした織田大和守家から、その一門に大和守家の家老を務める家が三家生まれる。

 因幡守いなばのかみ家、藤左衛門とうざえもん家、弾正忠だんじょうのちゅう家のぞくに「清洲三奉行きよすさんぶぎょう」と呼ばれる家である。


 その一つが今回上洛してきた織田信秀の「織田弾正忠家」なのである。



 一気に武衛家と織田家の説明をしていたのだが、義藤さまににらまれた。


「ふーじーたーか! 長いわ」


「……は?」


「藤孝、お主の話は長くてのじゃ。もそっと簡潔に言うがよいぞ」


「も、申し訳ありませぬ。では――」


 斯波がバカやってお家壊滅。

 甲斐は消え、越前朝倉、尾張織田。

 織田の中では


「――以上です」


「うむ。簡潔でよろしい♪ これからも


「ど、努力いたします」(一生懸命説明してるのに……)


「でだ、その織田信秀とやらが今の尾張では第一人者なのだな?」


「はい。家格としては大分下になりますが実力は相当あります。尾張で今最も勢いのある者と言っても良いでしょう。その勢いは尾張にとどまらず、隣国の美濃みの三河みかわにも出兵していると聞きおよんでおります」


 義藤さまは織田信秀についてはあまり知らない感じだな。

 まあ無理もない。全国的にはまだ無名だろう。


「それで半国はんごく守護代のがなぜそんなに実力があるのだ?」(正確には守護代の家老)


「当主の織田信秀は戦も強いと聞きますが、最も評価すべきはその経済力であります。朝廷にもかなりの献金をしているとの話です」


勤皇家きんのうかであるのか?」


「……家格の低き家ゆえに家名を上げるための策とも考えられます」


「しかし半国守護代の家老ごときが、そんなに多額の献金ができるものなのか?」


 義藤さまは各大名家や各国の動向などに興味が無いというわけではなさそうだ。

 教える者が居ないだけということであろうか。


「いろいろと理由はありましょうが、多額の献金ができる最大の理由は銭の出所を抑えていることが大きいかと」


「銭の出所?」


津島湊つしまみなと熱田湊あつたみなとにございます」


「津島? 熱田?」


伊勢湾いせわんに面する湊町(港湾都市)であります。津島社、熱田神宮もあり信仰を集める土地でもありますので人の往来も多き土地です。海上交通、河川かせん交通、そして陸上交通の要所であり、町は湊としてもいちとしても栄えていると聞き及んでおります」


「町を支配することで銭が入るのか?」


「それは幕府も同じことをしております。幕府も京の町の土倉・酒屋から税を取っております。大津おおつなどの湊からは津料つりょうも取っております」


「そういうものであるか」


「ですが普通の守護や国人領主などは土地からの年貢を中心に考えております。都市を支配してそこから税を徴収することを考える大名は少のうございます」(織田と上杉が有名かな)


「うん、なにやらわしもその織田信秀とやらに会うのが楽しみになってきたぞ。お主は織田家について詳しいのでやはり同席せよ。いや宴席の方がよいか、面白き御仁ごじんのようだからお主の料理でおもいっきり歓待してやれ。どうせなら、わしもお主の料理が食べたいからな」


「は?」


「堅苦しい挨拶だけの儀礼は嫌なのじゃ、どうせならうたげもお主の料理を味わいながら楽しくやりたいのじゃ。膳は急げじゃ、ちと父上と相談してくるぞ〜♪」


「ちょおまっ――」


 ちょっとお待ち下さいの声もむなしく、あのは何か楽しげな顔で飛んで行き、はるか彼方に消え去ってしまった。

 慌てて追う新二郎の足音が聞こえたりもする。


 数刻後、戻って来た我が主が俺に告げる。


「織田信秀とやらをお主の料理で歓待することに決まったぞ。大御所様ちちうえとそう決めたからな、天ぷらや蕎麦に鰻重にほっとけーきとやらも出すんだぞ♪」


「……宴の予定は明日の夕刻ですか?」


「うむ。そうじゃよろしく頼むぞ、ああ明日が楽しみじゃのう〜♪」


 義藤さまは、何の悪意もないニコニコした顔で俺を見ながら、俺にを投げつけた。

 ――こうして俺の修羅場がはじまったのである。

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