第十五話 祭りの後

 天文十六年(1547年)1月

 山城国 吉田神社



 祭りの最終日、角倉すみのくら吉田家の吉田宗忠そうちゅう光治みつはる父子が俺にお礼をしたいと訪ねて来てくれた。

 いかーんがバレてクレームが来たーとか思ってしまうのだが、逆になぜか非常に感謝されてしまった。


 角倉吉田家は、さきの西岡衆にしおかしゅう土一揆つちいっきによる徳政とくせい(借金の帳消し)の対象になったとかで、土倉業どそうぎょう(金貸し業)のほうで少なからずダメージを受けていたのだった。

 また酒についても洛中を占拠する細川国慶くによしのおかげで、売れ行きが悪かったため、少々経営がきつかったらしい。


 困っていたところに、吉田神社からの酒の大量注文である。俺が清酒への加工の元にするためではあるが、酒の一括大量購入を行い、さらに追加の注文もものだから大いに助かったという。

 さらにいつもニコニコ現金払いだったので非常にありがたかったらしい。


 最初のうちは信用がないと思うから蕎麦屋の儲けで手元にあった現金で納品のたびに即金そっきんで普通に払っていただけだったのだが、それが非常に感謝されることになるとは運が良かったかな。

 なんと言ってものちの「京の三長者さんちょうじゃ」の一角である『角倉』である。

 恩を売っといて損はない。


「まことに与一郎様のお陰を持ちまして、我が角倉も苦境から持ち直しております。安心して今後とも角倉と良いお取引を続けて頂けますようお願い申し上げます」


 若旦那の吉田光治にニコニコで感謝されてしまう。

 大旦那も機嫌が良い。


 うん感謝されている今が一番いいかな? オジーズ(業賢伯父おじと兼右叔父おじ)の要求する酒の量だと、正直、俺と中村新助の二人では酒の加工が間に合わない。

 というか既に破綻している。

 酒の製法を開示して加工も任せてしまおう。

 条件交渉次第ではあるが。


「実は相談があるのですが――」


 俺は人払いをして、角倉家に酒の加工の商談を持ちかけた。

 酒の加工についてはその製法を清原家にも吉田家にも内緒でやっているのである。


 角倉家は俺が酒の加工をして販売していることは知っていたが、角倉の酒を買ってくれているのだから文句をいうつもりはなかったようだ。

 俺の酒を売れるものに変える技術は欲しかったが、無理にでも聞き出すようなことをして、このご時勢にせっかく酒を大量購入してくれる大事なお得意様を失う愚行ぐこうはしたくなかったようだ。


 だが、その技術でもって一緒に酒を販売しようという話には飛びついた。


 つねづねから洛外酒らくがいしゅ(京以外でつくられる酒)が、特に僧坊酒そうぼうしゅなどが洛中に次々と運び込まれて売られている現状に、京の酒商人として、酒職人の代表として忸怩じくじたる思いがあったようである。


「製法の秘匿は必ずや守りますゆえ、何卒なにとぞ協力させて頂けますよう、してお願い申し上げます」


 と若旦那に土下座までされてお願いされてしまった。

 加工の技術については酒の販売に協力してもらっている清原家と吉田家(神社)の了解が得られればということで少し待ってもらう。

 この様子なら角倉吉田家に酒はまかせても良いとは思うが、あとはオジーズだよなぁ、あいつら(伯父上です)は一筋縄ひとすじなわではいかんからな。


 角倉吉田家とはとりあえず話がついたので、酒の販売を今のところ任せている清原業賢伯父と吉田兼右叔父も呼んで、今後の方針についての話し合いを持った。


「叔父上達に相談があります。清酒の製造について今後は角倉吉田家に一任したいと考えているのですが、いかが思いますか?」


「かまわんでおじゃるよ、なあ兄上」


「ああ、わしもかまわん。のう弟よ」


 あれ? こいつら(伯父上です)何か聞き分けが良すぎる気がするのだが….…?


「だが、そうだな少しだけ時を頂きたい。そうさな……十日ほどかのう弟よ」


「それぐらいですかな兄上」


「よくわかりませんが、十日ぐらい待てばよろしいのですか?」


 俺はなぜ十日待つのかこの時点ではよく意味がわからなかった。


「うむ。角倉殿には十日過ぎたごろに、すまぬがもう一度話し合いの機会を持って頂けますかな? その折には早馬を差し向けますので」


「え、ええ、私どもは大丈夫でございますが」若旦那も少し困惑している。


「では、与一郎。すまんが結論は次の機会でよろしいか? 今はまだ節分祭の最終日であり、明日も片付けなどやるべきことも多いでな」


「え、ええ。皆さんがそれでよいなら」そういやまだ祭りの最中だった。


「うむ。蒲焼屋や黒うどん屋が忙しそうなので、お主の助けを待っておると思うぞ、すまんが急ぎ手伝ってやって欲しい」


「さあさあ、大旦那も若旦那も、今日は我が吉田神社の節分祭を楽しんでいってくだされ。蒲焼も黒うどんもこの機会に是非に味わって欲しいものじゃ。さあさあどうぞ、どうぞ」


 なんだかよく分からないが、とりあえず酒の件は保留にされ、角倉家の皆さんも連れていかれてしまった。

 ああ、いかん俺も早く手伝いにいかねば、南豊軒叔父と兼有さんが討死しかねん。急げ――


 ◆


 そして節分祭が終わり、それから十日ほどのちのことである。

 俺は酒の加工とかシロップの件とかしながらバタバタと忙しくやっており、あっというまの十日後であった。

 また吉田家(神社)の屋敷で角倉吉田家の大旦那、若旦那、業賢伯父、兼右叔父とで集まって、この前の続きである酒の製造販売の件についての会合かいごうを持ったのだが――


 の野郎達がまたやりやがった。


 清酒の販売などでめ込んでいたお金を朝廷と幕府に献金して、吉田社境内けいだいでの酒の製造販売について、嵯峨野さがの臨川寺りんせんじと同様とまではいかないもののかなりの減税のお墨付きを獲得してきやがった。


 彼らが必要とした十日の猶予ゆうよは、この酒税の減免げんめんを獲得するためのものであったのである。

 やはりこいつらダメだはやくなんとか……いや、もう手に負えないや、あきらめよう。


 そして、が勃発した。


・酒の加工製造に関しては、吉田神社境内の敷地にあらたに建てた酒蔵(謎の宮大工集団がすでに建てていた)で行うことになった。

・角倉吉田家がその新しい酒蔵にて酒の加工製造を行う。加工は吉田神社の境内以外では行わない約束だ。

・吉田家・清原家は酒の加工技術を盗まないことを誓約した。

・清酒の販売は今までどおり清原家の様用の訪問販売と、吉田神社の境内のこれまた新築となる酒小売店舗(謎の宮大工製)で販売する。

・蕎麦屋、鰻屋での酒の販売量を増やす。(お代わり自由)

・加工した清酒の小売に関しては角倉家の本店や支店などでも販売は許可されるが、公家への販売は清原家が優先され原則禁止とする。

・俺は角倉吉田家から技術料と販売手数料、卜部うらべ吉田家(神社)、清原家から販売手数料を頂く。


 ――そういうことになった。


 俺の横では清原業賢伯父が嬉しそうに契約書を作っている。

 もうけというよりも朝廷関係者には清原家を通さないといけないことになったのが嬉しいみたいだ。

 俺はまあもちろん利益のかなりの割合を貰えることになっている。

 吉田神社の敷地以外での酒の加工を認めないことも製法の秘匿からまあよい。


 だが、なんだか、にいいようにやられている感がいなめないので、忸怩じくじたる思いがあった……が、酒加工の修羅場からは脱獄だつごくできたのでよしとした。


 この合意により清酒の販売量はかなり増えていき、「吉田の神酒しんしゅ」としょうされこれから先、洛中を席巻せっけんしていくのである。


 ◆


 1月になり、メープルシロップ用の「カエデ」の樹液の採取量がジョジョに増えてきた。

 饅頭屋宗二まんじゅうやそうじに任せているもみじ饅頭の製造も順調である。


「それではよろしくお願いします。こちらがもみじ饅頭の物納分です」


「ありがとうございます。公方様と大御所様にしかとお渡しして参ります」


 今後も幕府には便宜べんぎを図って貰う必要があるので、宗二殿に用意をして貰ったもみじ饅頭を上納するのである。

 まずは大御所の居る慈照寺の常御所つねのごしょに向かう。

 常御所で父の三淵晴員みつぶちはるかずに大御所へのもみじ饅頭の進上しんじょうを伝え、取り次いで貰う。


「おお与一郎か。本日は何用じゃ?」


「はっ。本日は大御所様のご助力を頂き、無事にもみじ饅頭の生産が始まりましたので、御礼おんれいに酒とそのもみじ饅頭を進上に参りました」


「おお、そうか無事に生産が出来たか。ではさっそくなので味見をしてやろう。一箱持ってくるがよい」


「ははっ」箱入りのもみじ饅頭を、父の晴員が持っていって大御所様に手渡す。


美味びみである! 天晴あっぱれ天晴れ」一つ食べた、大御所はご機嫌である。そして酒も開けてもらい、大御所に献上する。


「ほう、なかなか良い酒であるな。どれ……な、なんじゃこの酒は、かつての柳の酒にも匹敵する味わい。こ、これはどこで手に入れたのじゃ」


 そういえば大御所には酒を今まで献上してなかったのだが、正直忘れていたのだ。


「御所様、それはこの与一郎が吉田社にて造っている酒になります」


掃部頭かもんのかみィ! そちはこの酒をんだことがあるのかぁ!」


「は、先日、吉田神社の節分祭にて」 


 おい親父、嘘付くんじゃねえ、死ぬほど呑んでただろがー。


「この馬鹿者が、こんな美味い酒を知っていたなら早く教えんか」


「こ、これは面目めんぼくございません……」 


 うん、なんか親父が上司に怒られているところ見るのってきついな。助け舟を出そう。


「恐れながら申し上げます」


「なんじゃ与一郎申してみよ」


「この酒は今まで増産の体制がととのわず、吉田神社のみでしか販売ができておりませんでした。本日この酒を献上けんじょうしましたのは。酒の増産体制ができつつある報告と、今後毎月この酒を献上してよろしいかのお伺いに参りました次第であります」


「なんと、毎月持ってまいると?」


「はっ、幕府におかれましては吉田神社における酒の製造につきまして、格別のご配慮を賜りましたゆえ、その御礼おんれいにございます」


「配慮とは?」


「は、先日酒税の減免の許可を頂いてございます」


「おお、伊勢守いせのかみがそんなことも言っておったの。まあよい、与一郎まことに大儀である。今後も酒ともみじ饅頭の生産に励むように」


「ははー」


「それと、大樹の面倒も引き続き頼むぞ」やはり大御所は公方様に甘いと思うな。


 そしていつもの東求堂とうぐどうである。俺の教えた腕立て伏せに精を出す、新二郎に声を掛けて、腕立てなんかやっていて警護になるのか? とか思いながら東求堂に入る。


「公方様どうぞこちらをお納め下さい」


「お主も悪よのう。饅頭屋にいったいどれだけ稼がせておるのじゃ?」


「いえいえ、これも公方様のお力添えのおかげ。饅頭屋も公方様のお力添えに感謝しておりましたぞ、ふえっふえっふえっ……くしょん」


 なんだかどこかの越後屋えちごや回船問屋かいせんどんや悪代官あくだいかん私腹しふくやす町奉行との会話みたいになっているけど健全よ? ただのもみじ饅頭よ? 中身が黄金色こがねいろの饅頭とかではないよ? 賄賂わいろでもないよ? ただの献上品よ? 一介いっかい御部屋衆おへやしゅうと公方様との健全な会話よ? 俺と義藤さまの愛の語らい――ではないな。


「どうした藤孝、健康でも優れぬのか?」


「いえ、大丈夫でございます。鼻がむずがゆかっただけであります」


「そうか、まあよい。それよりもはやく饅頭をよこすのだ。わしは早く美味しいものが食べたいのだ」はいはいと、もみじ饅頭をあげる。


「おお、さっそく頂くとしよう。うん甘いのう美味しいのう」


「義藤さま。新二郎にも分けてあげてよろしゅうございますか?」


「ダメじゃ。新二郎はこの前、わしのもみじ饅頭を黙って持っていったからな。これはぜーんぶわしの物じゃ♪」


「バレてただろぉぉぉー!」


 外から新二郎の叫び声が聞こえ、義藤さまと俺は顔を合わせて笑い合った。そう、今日も慈照寺は実に平和であった――


 ――が、京の町では動きがあったりした。洛中を長らく占拠していた細川国慶くによしがついに洛中から撤退したのである。


 ◆


 細川晴元と細川氏綱との争いの中で、洛中を占拠していた氏綱方の細川国慶が洛中から撤退するはめになった。

 国慶は洛中の民からの支持を失ってしまったのである。


きょう』、それは応仁の乱や天文法華てんぶんほっけの乱で荒廃こうはいしたとはいえ、それでもこの戦国時代における日本最大の都市であり、その当時の世界においても有数の大都市なのである。

 その人口は10万人を超えるともされる。

(人口推計すいけいはいろんな説があります)


 一般的に『京』は応仁の乱により荒廃したと思われるが、実は天文法華の乱による被害の方がはるかに酷いものであった。

 天文法華の乱は天文の法難ほうなんとも呼ばれるが、まったく知名度がない。

 京都の人の冗談で、「先の戦争で家が焼かれてしまって」「太平洋戦争で被害にあわれたのですね」「いえ、応仁の乱どえす」などと言うものがあるが、天文法華の乱も入れとけとか思ったりする。


 京市街はその当時は内裏だいり今出川後御所いまでがわごしょがあり公家や武家の邸宅が広がる『上京かみぎょう』と、町衆中心の『下京しもぎょう』とに分かれていた。

 天文法華の乱では延暦寺えんりゃくじと六角軍により下京のほぼと上京の一部を焼かれる被害を受けている。


 この時代は一向宗いっこうしゅう法華宗ほっけしゅう延暦寺えんりゃくじなどが血みどろの宗教戦争をのである。

 まずは細川晴元の要請により一向一揆が起こり、晴元と対立していた三好元長らをぶち殺した。1532年のことである。


 次に、なおも暴れまくる一向一揆を、今度も晴元の要請により京の町衆中心の法華一揆ほっけいっきと六角氏が攻め、その当時の本願寺ほんがんじの本拠であった山科やましな本願寺を焼討ちし壊滅させた。


 そして最後に法華宗徒により自治が行われていた京の市街に比叡山延暦寺の門徒と六角軍が襲いかかり、下京を壊滅させた天文法華の乱となるのである。

 乱後には比叡山と幕府というか細川晴元に弾圧された法華宗徒ほっけしゅうとは京から追い出されるハメになる。

 それは1542年の後奈良ごなら天皇による法華宗帰洛きらく勅許ちょっきょまで続くのである。


 後年どこかの第六天魔王だいろくてんまおうが比叡山を焼討ちし、かの吉田兼見にその行為の評判を聞くなどしているのだが、かつて延暦寺の門徒に焼討ちされた京の人々がそれを責めるわけがないのである。

 逆に喜んだんじゃね? とか思ったりする。


 1547年当時の京は法華宗徒の帰還が始まって5年となり再建が進んでいた時期となる。

 いわばアホどもが始めた宗教戦争という盛大な祭りのあとだったのである。


 そこに細川国慶が乱入したわけであるが、京は一大消費地であり、そこに兵站へいたんの概念も無い軍隊が駐留し続けるのは結構無理がある。

 結局、国慶は京に居座り続けるために京の市中から強引に税金を徴収せざるを得なくなった。


 それは法的根拠のないものであり、幕府と公家と、なにより京の町衆を怒らせることになった。

 公家や町衆が結託し、その世論よろんに押された幕府も国慶の追討ついとうの動きを見せると、国慶は洛中から撤退するほかなかったのである。


 この時、細川氏綱方も幕府と連絡を取っており、細川国慶は幕府と敵対するわけにはいかなかったからである。

 細川国慶はこの後、細川晴元の追撃を受けることになり、丹波たんばへ落ち延びる。

 そして再度丹波から京を目指すのだが、大将軍たいしょうぐん(地名)で討死することになる。

 さんざんぱら名前があがっていた細川国慶だが、大して見せ場もなくフェードアウトしてしまう。


 こうして京から細川国慶が去ったわけだが、大御所の足利義晴は洛中の今出川御所には戻らずに、慈照寺に留まり続けた。

 今出川御所とは足利義満が築いた花の御所の跡地に建てられ、1542年頃から使われた義晴の御所である。

 花の御所(室町御所)よりは規模は小さかったという。


 慈照寺に留まった足利義晴であるが、この時、実は新たな城を築いているところであった。

 ――こうして細川藤孝と足利義藤が平和ボケをかましている間にも、歴史の歯車は少しずつ動いていたのである。

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