第五話 東求堂
天文十五年(1546年)9月
山城国 吉田神社・慈照寺
すでに蕎麦屋の開店5日目だ。
いかんマジで売れる。
吉田家に家賃を払い、食材の仕入れに金も掛かるが、それでもウハウハである。
提案者で従兄弟の吉田兼見はもちろん売上げや参拝者の急激な増加を見て当主で叔父の吉田兼右も蕎麦屋に乗り気満々になっている。
今や食材の仕入れに当主みずから乗り出している。
てんぷら用の油が費用の面でネックになるのかと思っていたのだが、強力なコネを持っていやがった。
この時代の油は
座とは同業者の組合のことだ。
大山崎の油座は、京の南西にある
室町幕府にも公認され、原料の荏胡麻の栽培から
京とか畿内はほぼ独占に近かった。
コネは超身近にあった。
伯父の清原業賢が朝廷の
ようするに大山崎の油座から朝廷に収める税金を徴収する立場の人なのだ。
このコネを最大限発揮しやがった。
大山崎の油座から税金を誤魔化して(黙認して)エゴマ油を一括大量購入して仕入れ値の大幅削減を実現してしまったのだ。
店は安く仕入れられ、大山崎の油座も税金がかからない油を売れるWIN-WINの関係を構築しやがったのだ。
吉田兼右叔父は天ぷらタネの野菜やソバを吉田家の領地だけではなく、周辺の国人領主などからも直接交渉して買い付けを始めやがった。
これも店は食材を安く仕入れられて、周辺の領主も雑穀のソバや野菜を安定的に売ることができるWIN-WINの関係である。
やる気になったコイツら(叔父上達です)ハンパねえわ。
本気出した公家の親戚のおかげで材料の仕入れは開店三日目にして安定供給が確立してしまったのだ。
初日から売れまくって話題にもなっているのだろう、新規の客がどんどんやってくる。もちろんリピーターも多くやってきやがる。
そんなわけで俺は朝からずっと、蕎麦を打って、切って、茹でて、天ぷらを揚げての繰り返しである。
いい加減やめさせろー。
と、そんなことを思っていたら、店に義父の細川晴広がやって来た。
「与一郎。明後日からの
「出仕?」バンバンとソバを打ちながら回答する俺。
「忘れたのか、若様の兵法指南の
「おおそうでした。すいません義父上、身も心も蕎麦屋のおやじに染まるところでありました」
「お、おお。お主の蕎麦は確かに美味いが、武家たる本分を忘れてはならんぞ」
「(怪獣)モチロンです。次期将軍たる義藤さまへの奉公、がんばりますよ!」と力強く俺は宣言する。麺を切りながらだけど。
だがそこに吉田兼見から「チョットマッタコール」が入ったー。
「ちょっと待ったー! 店はどうするんだ、店は。店番がいなくちゃ困るじゃないか。この客足だぞ。明日も明後日も店を開けなければ困る。お前がやらなくて誰が店番をするのだ?」
「店番、店番って俺はかーちゃん(兼見)の奴隷じゃないっつーの!」
タケシの気持ちが少し分かった気がする。
「兼見殿、だが与一郎にはお役目があってだな……」いいぞぉ義父上ぇもっと言えー。
と、そこに清原業賢伯父が割って入った。
「こんなこともあろうかと、与一郎の代役を用意したぞ」
「なんと?」みんなでびっくり。
「紹介しよう。我が弟の南豊軒周清だ」いや叔父さんだし知ってるわ。
「与一郎殿! 是非
「いやでも、相国寺のお坊さんでしょ? お寺の仕事というか修行はどうするの?」と俺は麺を茹でながら答える。
「そんなもん
「拙僧、いやわしも還俗するつもりである」南豊軒叔父もあっさり言うし。
「元々口減らしの寺送りだからな、金が入るなら還俗しない手はないな」
業賢伯父上ちょっと怖いぞ。
口減らしとか本人の前でいうなよ。
これはあれだな、清原家も金儲けに絡む気マンマンなんだろうな。
「俺としてはかまわないけど、兼見くんもそれでいいかい?」あと「注文あがったよー」とウエイトレスの巫女さんに声をかける。
「う~ん……、与一郎が居ないんじゃ店が開けないのは困るしな。たしかに叔父さんなら適任なんだよなあ」と、あらたな敵(お客様です)を店内に招き入れながら兼見くんが答える。
「まあ時間もないんで、これから南豊軒叔父さんをみっちりシゴキますんで覚悟して覚えてくださいよ」と麺を茹でながら答えるというか、いい加減器用すぎるだろ俺。
「おう与一郎殿。いや、師匠よろしく頼みます!」いいから早よ手伝え伯父さん。
猫の手も借りたいんじゃー。
というわけでお店を廻しながら実地で南豊軒叔父さんを鍛えることになった。
裏では清原家vs吉田家による蕎麦屋利権獲得戦争が勃発していたが、俺には関係ないことにしておいた。
話し合いの結果、蕎麦屋の店長には本当に相国寺をブッチ(還俗)した南豊軒叔父さんがなり、店の名も「うどん処 南豊軒」となった。
どっかのラーメン屋みたいな店名だが、まあいいや。
いちおう店の権利は俺の物で俺はオーナーである。
吉田家は店の地代(賃借料)とソバと野菜の仕入れの中間マージンと多くの参拝者をゲットした。
清原家は油の仕入れの中間マージンと店長の座を獲得した。
両家が間にいるけど利益は十分に出ているというか儲かり過ぎて怖い。
本気になった公家って怖いと思ったね俺は……まあそのうち蕎麦屋をマネするところも出てくるだろうが、親戚だけでやっているし製法の秘密は守れるかな?
しばらくは独占できるだろう。
ちなみに分かりやすく蕎麦屋といってきたけど、黒うどんの名前で売っています。 店名も「うどん処」でした。ソバが原料だとバレるまでは、黒うどんの名称で誤魔化していくことになるだろう。
それから実地で蕎麦作りを叔父さんに教え込んだ。
南豊軒叔父さんは蕎麦の美味さに感動してマジメに蕎麦打ちに取り組んでいる。
どうやら本気で蕎麦屋の親父をやりたいみたいだ。
南豊軒叔父さんはうどんを寺で作っていたと言うだけあって覚えも早かった。
これなら十分に店を任せられるだろう。
これで俺は蕎麦屋の親父役からは解放されることになったのだ。
今後は店の監督だけで十分だろう。
あとは、季節ごとの天ぷらタネとか、変わりダネとか茶蕎麦とか少しずつ教えていこうと思う。
殿様商売であぐらをかいていてはダメだからな。
今後の工夫もしっかり考えていこう。
◆
吉田神社から慈照寺まで今日は兄上と一緒に歩いて行った。
若様は爵を受けて幼名の
そのためか正式な
それにあまり人前には出ないそうだ。
兄上は俺が若様に近侍することになって驚いていた。
俺はなんとなくだが若様が女性であることを隠しているから近侍が少ないのかなと思っている。
慈照寺に入って、公方様のいる
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東求堂 1486年
京都左京区の慈照寺にある。慈照寺のなかで銀閣寺とともに創建されたままの室町時代の建物が残る国宝である。創建は銀閣寺の3年前で
東求堂は
謎の作家細川幽童著「そうだ京都へ行こう!」より
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「よく来たな、万吉!」
東求堂の縁側から若様に笑顔で元気よく声をかけられた。
胸を張ったポーズなのに胸が出ていない。
……成長はこれから期待するとしよう。
「お久しゅうございます」と慌ててひざまずく。
「おかげ持ちまして、それがしは元服いたしました。今は細川与一郎藤孝と申します。以後お見知りおきの上お引き立てよろしくお願い申し上げます」
「与一郎。苦しゅうない、
「ははっ」
改めて義藤さまの顔を見ると、さっきの笑顔が消えていてなにか機嫌が悪そうな顔をしている。
俺なんか不調法したかな? と心配になる。
いや、そういえば胸を見ていた気もするが……
「許す。さっさと上がるがよいぞ」
「はっ、ただいま」草履を脱いで、縁側にてかしこまる。
「何をしているか、早く入るがよい」不機嫌なまま東求堂の室内に入ってしまう。慌てて後を追う。
「そんなところで何をしている。もっと近うよれ」ちょっと近づく。
「もそっと!」やばいなぜか半泣きだ。
「若様。恐れ多くございますれば」
「そんなんじゃ、お主を呼んだ意味がないではないか! ヨシフジと呼べと申したであろう!」
もう完全に泣きだしそうというか、目から涙が流れて来た。その涙を見て俺はハッとする。
「これはわたくしの心得違いでございました。お許しくだされませ」ゴホン。と咳払いをわざとらしくする。
「さあ義藤さま、機嫌を直してください。勉強をはじめましょうか」
にっこりと笑顔で不調法に言ってみる。
頭を下げたりもしない。
そして普通に近づいた。
「そうじゃ、それでよいのじゃ」あ、笑顔になった。
やっぱり可愛い。
そう……義藤さまはかしこまられる相手ばかりで嫌気がさしていたのだ。
義藤さまはもう少し対等な関係というか、気を使われすぎない関係に憧れていたのであろう。
記憶をなくして、何も知らない俺が、義藤さまが将軍
「ただ人前では無理ですよ」と一応つけ加える。
「わかっておる」と舌を出して来る。
うーむ。なんだか幼児化している気がしないでもないが、多分11歳くらいだから本来こんなものか。
「では、さっそく孫子の続きでもやりますかな」
「うむ。頼むぞ」
「『兵は、
とりあえずは俺のお仕事である。
兵方指南として「孫子」の講釈を義藤さまにしていくのである。
◆
義藤さまの「お腹がすいたな」の声で、お昼時も近いので、いったん兵法のお勉強会はお開きとすることになった。
「なあ与一郎。お主は知っておるか? 何やら美味いと有名なうどん屋があるそうな。
「そんなに食べたいのですか?」
「うむ。なかなか外出は許されないがな。また抜け出してでも行ってみたいと思っておるぞ」
(前に抜け出して白川でぶっ倒れていた俺を発見している)
「そうですね。今日のお詫びに食べさせてあげてもよいですよ?」
「まことか? 連れて行ってくれるのか? それとも黒うどんとやらを買ってきてくれるのか? いつかのー楽しみじゃのー」
「いつかではなく、たった今ご用意いたしましょう」
「今すぐとな?」
「はい。こんなこともあろうかと、実は持参しております」といって持ってきた蕎麦を見せる。
「鍋か釜と煮炊きできる場所があれば今すぐ作れますが」
義藤さまが「なんじゃ。それならここに」といって畳を開けた。
畳半畳分のスペースに
ああ、ここは茶室なのだなと感心した。
「誰かある!」といって部屋の外に声をかける。
「新二郎ここに」
「新二郎。すまぬがここで煮炊きがしたいのじゃ。鍋か釜と煮炊きの準備を頼めぬか」
「かしこまりました。すぐにご用意いたします。しばしお待ちくだされますよう」そういってすぐに奥へと飛ぶように歩いていった。お前は競歩のオリンピック代表かなにかか?
グツグツ
国宝の茶室で鍋で蕎麦を茹でる。
さすがに天ぷらは持って来なかったので、今回ははもり蕎麦である。
蕎麦を湯切りしてざるに盛って、めんつゆを用意する。
「まだか? まだか?」と待ちきれない義藤さまが可愛いが少しうっとうしい。
「さて、できましたよ義藤さま。まずは私が食し方の見本を見せましょう」
ざるから蕎麦を箸で掴んで三分の一ほどめんつゆに付けて一気にすする。
うん、美味い。
「さあ、義藤さま。どうぞ召し上がって下さい」
「うむ。いただくとしよう。……ンマー。美味いぞ〜♪」
義藤さまが笑顔で美味しそうに俺の作った蕎麦を食べてくれる。
それを眺めるのはとても幸せなことだな。
◆
――少し考え込んでしまった。
義藤さまは「足利
史実で足利義輝が
三好三人衆と
今は1546年だ。
襲撃されるまであと19年ということになる。
19年後か、時はあるな。
もしかしたら救うこともできるのではないか?
だが、俺の手で歴史を変えてよいのか? そんなことが許されるのだろうか?
だが一つ分からないことがある。
足利義輝が可愛い女の子だったのは、一体どういうわけだ? 前にも思ったが上杉謙信じゃあるまいし、足利義輝女説なんて俺は聞いたことがない。
なんというか既に歴史は変わっているのではないか? というかなんで女だ? おれが戦国時代に転生したせいなのか? 何かが歪んでしまったのか? この先の歴史はどうなるのだ?
既に変わっている歴史なら、どう変えようがかまわないのではないか?
俺は義藤さまが好きなんだと思う。
助けてもらった恩もあるし、可愛いし、一緒に居て今すごく楽しいのだ。
幸せな気分になれるのだ。
……男が戦う理由としては十分じゃないのか?
惚れた女のために歴史を変える? そうだよな、そんなのあたりまえだよな!
惚れた女を助けるんだ。
それだけで動機は十分じゃないか。
だが実際問題助けられるのか? 俺にやれるのか?
助けるのは当然だ。惚れた女を見捨てられるわけがない。
もう見捨てたくはない……
駄菓子菓子(だがしかし)、どうやって助ける?
足利将軍家は衰退しきっている。
三好家の台頭もすでに始まっているだろう。
今から足利将軍家が三好家を倒す? 室町幕府を再興して天下を統一する?
そんなのは間違いなく無理ゲーだ!
バンゲリングベイもびっくりな鬼畜難易度だ。
室町幕府に残された体力なんてスペランカーだぞ。
とにかく三好家に滅ぼされないように室町幕府を強化する。
それが第一目標だ。けっこうな無理ゲーではあるがやるしかない。
だが、現状で俺に何がやれる? 俺は細川藤孝に生まれ変わったが、若い頃の細川藤孝については知っていることはあまりない。
藤孝が歴史の表舞台に登場するのは、義輝の弟の15代将軍足利
藤孝はたしかにチート野郎ではあるが、若い時代に目立った業績はない。
というか今の俺は数えで13歳のガキだぞ。
こんな若造に何ができるんだ?
今の『細川藤孝』は『
俺が知っている細川藤孝は『
まあ和泉家のことを今は考えてもしょうがない。
淡路細川家の現当主は俺の義父の細川刑部少輔晴広だ。
義父上は現将軍の足利義晴の側近ではあるが、淡路細川家自体にそこまで力はない。
幕府奉公衆として
正直あてにならん。
要するにたいした領地もなければ、軍事力もない。
さらに俺は当主ですらないので指揮権もない。
しかも現在洛中は細川
室町幕府は絶賛洛中から逃亡中で、そして今の俺は吉田家の居候だ。
これでは内政チートも軍事チートもやりようがないではないか。
内政チートでお金を稼いで、織田信長のマネをして『楽市楽座』で金を稼いで、『兵農分離』で常備軍を整備して、さらには鉄砲隊を編成して、数を揃えた鉄砲で敵を殲滅する。
戦国時代のチートのセオリーはこんなところだと思うが、領地すらない現状ではこれはできない。
さて困ったな……まあ、何にしてもまずは銭だな。
銭があれば土地を買ったり
徳政を訴えられる恐れもあるが、そこはそれ幕府内にコネもある。
銭があれば家臣や
武器の購入も可能だ。
鉄砲の購入は早く始めたいところではある。
金はあって困るものではない。
金があればできることも増える。結局世の中金か……
「おかわりじゃ!」義藤さまの食いしん坊な声で我に帰る。
結論の出ない思考をいったんやめて、おかわりの蕎麦を盛ってあげる。
まあ今は、側にいられる幸せを感じていよう。
平和な時間はそう長くは続かないのだから――
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