●atone-12:埒外×アウタスペースブルー


 事故のショックによる影響は、やっぱり僕の頭・身体にある程度はありそうだった。例の「青く見える」がそれだろうし、いま切羽詰まった状態で感じさせられているのは、「身体のままならなさ」だ。


 ふわふわと浮いているような感覚……アルコールでも入れたらこんな風になるのかな? 経験は無いけれど。さっきから今まで、「洞窟」から出てゆっくりと歩いている時もそんな浮遊感はあったものの、まだ何とか制動することは出来ていた。でも今の状況……


 この場から離脱したいという大脳からの危険信号が、うまく身体に伝わらない。


 もちろん向かい合っている銀白の「獣」……彼我距離10mもなさそうだよ、そしてその大きさ多分後ろ脚で立ち上がったら僕より軽く大きいだろうよ……から不用意に視線を切ることは、何とかそうしたい欲求を抑え込んではいる。何かで習った。野生の動物とは目を合わせろ、背中を見せると襲い掛かってくる。


 でもじゃあどうするか、という考えには至ってない。二車線道路を挟む「青い」街路樹、高さはかなり……10m以上ありそう……のひとつによじ登るか? うぅんでもそんな素早く登れないだろうからあっさり追いつかれてアウトだよね……木登りの経験すらないし……


 右手側にはなだらかな土肌の斜面、左手側は件の獣が出現した茂みを有する雑木林、正面方向へと続く道の先には、さっき発見して狂喜した家々が見えるけれど、外に出ている人の姿は確認できず。大声で助けを呼んでも、それを合図にして獣の方が襲い掛かってきそうだよ。


「……」


 詰んだ……目の前の銀白獣は、いまや獰猛な捕食者としてのオーラを隠そうともしてきてないよ……それにしても何でこんな人里近くまでこんな野生の大型獣がのしてきてるんだよ危ないでしょうよ……


 野生生物ではあるんだろう。けどその容貌は、僕が知ってる限りの動物、いや生き物の姿とは何か、微妙に違って見えた。違和感があった。


 ぐぅぅぅぅうう、という獲物を前にして興奮を押し殺したような唸り声が、その「狼」然とした大きく裂け広がった口からは断続的に聞こえてくるものの、そこから覗く牙の色は黒い。いや、「黒」という色をしているというよりは、そこだけ光の届かない宇宙空間のような、「何も無いゆえの黒」、そんな感じだった。


 そしてその「黒」は、相対している間にも、その口から吐息と共に広がるかのように、煙のようにその銀白色の体毛に絡みついていっては、その周囲にとどまって、「黒い霧」のようにその身体を包み上げ始めている。何だこれ。


 先ほどから僕を睨みつけている両眼だけはずっと射るような強さの琥珀色の光を発しているけれど、その目をピントを合わせようと直視していると、よりその周りの、身体の輪郭がぼんやりとしてしまうような……これも僕の頭が誤作動を起こしているからなんだろうか。ていうか諸々すべてが夢であってほしいとの願望が、既に頭の中で存在感を増してきている……


 結果として。何ひとつ身動きは出来ないまま。僕はその獣がのそりのそりと接近してくるのを、ただただ見守ってしまうだけだった。そいつの体高は、僕の目の高さより少し高そう。そして目線よりも高いと急激にそれって大きく見えるよね……狼にしては体格は規格外。凶暴性……存分にありそう。銀白の毛並みはもう、半分くらいが「黒い霧」に覆われ始めている。その何よりの得体の知れなさに、僕は鳩尾の下あたりが止まらないほどに痙攣している。恐怖。身体が動いてくれないよ……!!


 「獣」は、こちらを容易な獲物と見て取ったのか、緩やかな動きのまま、右へ左へと蛇行しながらでも確実に近づいてきていた。一方の僕は、無意識の本能なのか、その方向へと身体と視線を向けたまま、じり、じりと後ずさっている。足裏が舗装コーティングされた車道を踏みしめていることを感じながら、まだ自由には制動の利かない自分の身体を恨めしく思いながら。


 そして、僕の周囲5mくらいは緊迫この上ない雰囲気なんだけれど、さらにその周りを包むのは未だ牧歌的な空気なわけで、昼下がりののんびりとした感じがにじみ出ている風景が、さらに僕の不遇を嘲笑うかのようであり。うぅん、お昼ごはん中か、その後のひと休みとかかなぁぁぁ……全ッ然、人が外に出て来ないんだけれど。


 双方、同じ方向に移動しているというのに、「獣」と僕との距離は詰まっていくばかりだ。現在、目測3mも無いよ。このままじゃジリ貧。どうする?


 前考撤回、振り向きざまに全力で走って逃げる? うまく走れもしないこの身体の状態なのにそれは無理だろう。まあ、万全の状態でも運動苦手系男子の僕には確実に無理であろうけど。相手に無防備な背中を向けるという危険も冒したくはないし。


 戦う。どうやって? 今の僕は全タイ以外は空手の丸腰だ。格闘の覚えがあるわけでもないし、相手は相手でいまや黒い霧が全身を覆っていて、ほんとにそこに存在してるの? と思わせられるほどの実態の無さだ。殴ったり蹴ったりがどうこうする話じゃあなさそうだ。


 やはり詰み……と、僕がそんな埒の開かない逡巡をしていた瞬間だった。納得できる射程距離に入ったのか、今までの緩慢な動きから一転、黒い影のような「獣」は、ひときわ腹に響く吠え声を上げると、こちらに向かって一直線に突進してきた!! もうあれこれ考えている場合じゃあないよ。危険も何も今がその最高潮。僕はその獣から逃れようとする一心で、くるりと後ろを向いて逃げ出す第一歩を思い切り踏み込むのだけれど。


「……!!」


 刹那、だった。


「!?」


 僕の視界が一面、うっすらとした白色に覆いつくされていた。あれ。


 すぐそこまで接近していたはずの、「獣」の気配がはっきりと薄らいでいた……というかほぼほぼ感じなくなっている……どういうことだろう。どうなっているんだろう。


「!!」


 とか思っていたら、いきなり目の前に現れた「青い葉」を持つ木の幹が、ぶわり自分の眼前に迫ってくるのを視認して、思わずうわぁと突き出した両手が、そのごつごつとした木肌を結構な衝撃と共に、それでもしっかりと掴んだのを感じている。何でこんなところに木?


 慌てふためきつつ、振り返るけどそこには白色の中空しか無く。視線を下へ下へとずらしていくと、今いるところは地上10mはあるんじゃないかくらいの高さであって。巨木の先端付近に、何故か僕はしがみついているという摩訶不思議な状態なわけで。


 視界の真下、僕が寄るところの大木の根元には、先ほどの黒い「獣」が、こちらを見上げるようにして唸り声を上げているけれど、その姿はピンポン球くらいの大きさにしか見えない。


 何だろうこれ……僕の「逃げたい」欲求が炸裂バーストして、瞬間移動でもかましちゃったのかな……興奮と安堵のあまり、ままならない思考を持て余す僕だけれど、そうじゃあなさそうだ。


 呼吸を無理やりに意識的に大きく行うことによって、ようやく落ち着いて来た僕は、自分の身に何が起こったのかを、少しづつ分かりかけてきていたのであって。


「……」


 巨大な樫の木に似た、頑丈そうな幹と、光沢のある葉(でもその色は真っ青な)を持つ、その常緑樹(常青樹、かも知れないけど)のてっぺん辺りに、僕は必死で腕を回してしがみついている状態……不思議と自分の体重がそこまで負荷に感じてない。先ほどまでのふわふわした感覚と、どこか似ている気がした。


 そして先ほどの「瞬間移動」にも思えた、この身体の移動……それらから鑑みると、答えはとどのつまり「重力が弱い」ってことになるだろうか。僕はさっき、あの「獣」(今は遥か眼下に小さく見える)から逃げ出そうと、振り向きざまの第一歩を強く踏み込んだ。普段の感覚であれば、前方へと走ろう走ろうとする時、前へ、そして少し上へと、力を掛けるんだろうけど(もちろん無意識にやっているのだけれど)、重力が低いことで、上への力が想定以上に強く出てしまい、身体がアクションゲームのような、超人的な大ジャンプを生み出してしまったと、そういうことなんだろう、たぶん。


「……」


 と、そこまでは数分の時間を費やしながらも、何とか思考が辿り着いたかに思えた僕だが、依然、状況は芳しくない。下に見える黒い「獣」は、僕という獲物を諦めきれないのか、低い唸り声を上げたまま、巨木の周りを回っている。木に登ってくる素振りを見せないことだけは本当に良かったと思いたいけれど、かといってこのままじゃどうにもならない……思い切って、隣方向に等間隔で植えられている木から木へと飛び移りつつ人がいるところまで逃げる……? いや、さっきは無我夢中だったし、まだ自分の跳躍力がどの程度のものなのか、まったく掴めていないわけで。しくじって地面に落ちたらアウト。うぅぅん、どうしよう。このまま向こうが諦めてくれるまで、この木のてっぺんに蝉のようにとまったまま、まんじりと根比べするしかないのだろうか……


 途方に暮れた僕が、それでも緊張感からは少し解放され、ようやくのことで出るようになった細く長い溜息を曇り空に向けて吐き出した。その時だった。


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