40 秋月の葛藤
あれ?
立ち上がり方を忘れたかのように立ち上がれない。
何故だろう。何か未練があるのか。
未練。そうか。この父親の机、椅子、そして、書斎。秋月は机を触り、この部屋と別れる事に未練を持っているのだと気づく。
やはり元の世界の唯一の面影を失うのは精神的にもくるものがあるのだろう。
だが、気持ちを切り替えよう。この部屋が無くなるわけではない。事が落ち着いたら戻って来ればいい。弟子たちとも最初はギクシャクするだろうが、そこはお互い大人になって和解すれば良いだけの話だ。
さて、そろそろ名残惜しいが立ち上がって帝国から出立しなければならない。
なのに、足が動かない。
心が騒つく。鼓動が激しくなる。
何か。何か見落としているような感じがして気持ちが悪い。
本当にこれでいいのか。そうもう一人の自分が問いかけてくるのだ。
これが最善の手なのか。
いや、これが最善だった。これしかなかった。ボディーガードを用意して、レイラを邪神化から遠ざけ、むしろ改善まで持っていった。かなりの物語の改変になったはずだ。
それでもなお、歴史は繰り返すというのならば自身の命の為に逃げ出す事は仕方ない事だ。
そう頭の中で論理的に最適な解だと理解しているはずだ。
では、なぜ立ち上がれない。何を迷っているいうのか。すぐに立ち上がり、ここから用意した逃走経路を使って逃げれば良い。
だが、身体は椅子に根を張っているかのように動かない。
もやもやした晴れない気持ちがある。どんよりとした後ろ暗い感情が心にこびり付いたような感覚が拭えない。
苦しい。呼吸すらままならなくなる。
無理矢理に息を吐き出し、酸素を肺に取り込む為に吸う。
それでも酸欠が続くように息苦しさが治らない。
この感覚を昔に味わった事がある。
前にも同じ事があった。すべてを諦めたあの日だ。あの日と同じだ。
壁にぶつかり、状況に追い詰められて、心の余裕を全て削ぎ取られ、目の前の現実に恐怖で立ち尽くすしかなかったあの日と同じだ。
あの時と同じで逃げる言い訳を必死に探している。逃げ出そうとしている自分を必死に正当化している。
だって仕方ない。死の危険性があるのだ。そんなの回避するに決まっている。
そもそも最初の目的が生き残る事だったのだ。ならば、秋月の行動はすべて理に適ってる。
死なない為に逃走する。自身の命を脅かす邪神化する可能性のあるレイラや黒幕エドワードからなるべく距離を置く。自身の命を狙ってくる可能性のある勇者たちから一切関わらない。
全て理に適い、最適で最善の方法であるのだから、これが正しく、正解ーーそういう事を言いたいのではない。
理屈なんてどうでもいい。わかっている。すべては虚像に他ならない。
正論なんて大多数のメリットか少数の権力者のメリットでしかない。
すべては自分にとって都合の良い事をそれっぽくつらつらと話しているに過ぎない。
逃げ出す理由なんてものはいくらでも出る。
本当はびびっているだけのなのだ。失敗する事を。死ぬ事を。
ただ怖いから逃げ出そうと必死になっているだけなのだ。
弟子とか言いながらそれらを放り出して、あれだけ思わせぶりな事して近づいたレイラをあっさりと見捨てて。
秋月はこういう人間なのだ。どこまでいっても自分ファースト。自分大好き。だって人間は自分しか興味ないのだから仕方ないだろう。
自分が好きで自分が傷つくのを恐れて、自分の見栄が大事で自分の自尊心が大切で自分の欲求が満たされる事がなによりも重要なんだから。
だったら、逃げ出してなにが悪い。自分の死を恐れて何がいけない。
他の奴らが生きてようが死んでいようが苦しんでいようが秋月には関係無い。
そんなの他の奴らだって同じだ。子供や配偶者、両親や恋人、友人が大切なんて言っているのは単に自分が苦しい思いをするのが嫌なだけだ。結局、人間は自分しか興味無くて自分しか大事ではない。
キリストの言うような隣人愛や仏陀の言うような慈悲の心なんてのは結局上から目線の余裕ぶっこいた優越感でしかない。
秋月はずっとそれが欲しかったのだ。本物になりたかった。人を愛して人を慈しむそんな本物に。でも、そんなのは無いと気づいた。だって、所詮、人間は自分の欲求を満たす為にしか生きれないのだから。
だから、諦めたのだ。どこまで行ってもただの地球の歯車でしかない人類が自らの欲求を満たす為に争っているのは宇宙規模からすれば滑稽だ。
必死に他人に興味を持ってもらおうと躍起になりながら、他人は自分の欲求を満たす事にしか興味が無いという滑稽さ。滑稽な人類は自分が何の為に生まれたのかと嘆いている。何の為でもなく、偶然に原子と原子が結合した結果に過ぎないというのに。
自身の不幸を嘆いているのも滑稽だ。道路で車で引かれた死んだ猫を見てこれが未来の自分の姿と想像すらしない。五体満足で食事に困っていなくても不幸だと嘆き苦しむ。他人と比べて欲求が満たされているかどうか気にして、他人が作ったルールや常識に乗っ取って勝手に不幸だと決めつけて欲求不満になって苦しむ馬鹿さ加減。
愚かな人類の為に何かする必要なんてあるだろうか。秋月も所詮、人間。人間らしく愚かに醜く自分中心で自分ファーストで生きればいい。
だけど、何故こんなにももやもやしているのか。こんなにも苦しいのか。
自分の為に逃亡する。それがもっとも合理的で秋月の為になるはずだ。なのに、何故、こんなにも胸が苦しいのか。
弟子たちの尊敬の眼差しが思い出される。レイラの微笑みが思い出される。メイドのニヤけ顔やアシュリーのドヤ顔が思い出される。
なんで、なんでこんな時に思い出すのか。所詮、人間は自分の為にしか生きれない。だから、捨てたって構わないはずだ。
彼ら彼女たちとの関係など秋月にとってすべて偽りでしかない。虚像でしかない。手放しても構わないはずだ。捨ててもいいはずだ。
それなのに何故こんなにも苦しいのか。未練がましくこの場に動けずにいるのか。
ああ……そうか。
こんな結果、認めたくないからだ。
こんなレイラや弟子たちを見捨てて逃げる自分を認めたくないからだ。納得できないからだ。
全ては虚像に他ならない。すべては在るだけ。自然の摂理が、仕組みが存在するだけだ。なのに、人間は答えを追い求める。それは人間に意味を見出し、価値を見出し、納得したいという欲求があるからだ。
全ては納得感に他ならない。幸せも不幸も、意味も、価値も、すべては納得感に他ならない。
秋月は納得していなかったのだ。自分の選択肢に納得していない。だから、こんなにも苦しいのだ。
レイラや弟子たちを見捨てることに納得できないのだ。自分が逃げ出す事を認めたくないのだ。
綺麗事であろうと現実離れしていようと本当は秋月は求めているのだ。ハッピーエンドを。最高の納得感を。
だったら、行動は一つしかない。立ち上がり、あの旧教会へ向かうだけだ。
なのに身体が動かない。立ち上がろうとすると体が震えて動けない。
ぽたりと汗が頬を伝って床に落ちる。
瞳の焦点が合わなくなり、動揺で呼吸が荒くなっているのがわかる。
唇が乾き、口の中が乾燥する。
身体は鉛のように重くなり、本能が立ち上がる事を拒否している。
何故、どうして? それは秋月は気づいていた。
それは勇者――クラスメイトに会うことを恐れていたからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます