17 閑話 ソニア・エリオット(黒髪の少女)
ソニア・エリオットはダグラスの大災害で両親を亡くした。
この大災害で多くの人が亡くなり、多大な被害をもたらした。勿論、ソニアだけではなく、ソニア以外の仲間たちも同じように両親を亡くした者や両親に捨てられた者、売られた者が続出した。
生き残る為に子供たちを中心にしたグループが形成し始めた。多くのグループが生き残る為に犯罪で資金や食料を調達していた。
そんな中、犯罪を犯さないグループが一人の少女によって作り上げられた。少女は商人の娘であり、様々な伝手を持っており、路頭に迷う子供たちに職を与えていた。ソニアも災害孤児として飢え死にしそうな所を彼女に拾われ、職につく事が出来た。
リーダーが少女からアレックスに引き継ぎ、時が過ぎた頃、一人のメイドがソニアたちの前に現れた。
アーロン・ラングフォード。貴族でありながら、貴族の在り方を否定する異質な存在。
彼との出会いはソニアが所属するグループにとって衝撃的な出来事だったと言える。
彼は言った。教育を受けて欲しいと。耳を疑った。教育なんてものは貴族、そして、豪商の子供くらいしか受けれなかったからだ。教育を受けていたのは前リーダーである少女だけだ。彼女は災害孤児たちをどうにか救おうとした異質な存在。そんな彼女ですらソニアたちに教育を受けさせようという発想は無かった。
彼は今まで生きてきたこの世界の常識を覆す知識を披露し、同時に貴族にしか使えないと言われた魔法を平民であり、孤児であるソニアたちに教えようと試み始めたのだ。
「人間には感覚記憶と短期記憶、そして、長期記憶が存在する」
一見、古ぼけた小屋の中に見慣れない内装の書斎。
ソニアたちがアーロンと出会い、そして、教育の場となっている。
アーロンは教壇に見立てた机の前で本を片手に演説している。
本日のテーマは人間の記憶についてだ。
「俺たちは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚と言った感覚器官が存在する。それらによって記憶されるものが感覚記憶である」
アーロンの知識はソニアたちにとっては新鮮だ。教育と聞いた時、ソニアは魔法を中心としたこの世界で必要な技術や知識を教えられるものだと思っていた。
しかし、アーロンの授業はそれとは違い、常識を覆すような根本的な話が多い。逆にアーロンのメイドであるミランダの方は魔法やこの世界の常識、生きていく上で必要な知識が主だ。
どちらかというとメイドのミランダの方が役には立つ。だが、子供たちに人気があるのはアーロンの授業だ。
「感覚記憶はすべてを記憶しているわけではない。選択的に注意を向けたものだけが記憶されるのだ。それが短期記憶である」
ソニアにとってアーロン・ラングフォードは不思議な存在である。貴族でありながら、貴族っぽくない。ソニアにとって嫌な貴族特有の侮蔑の視線と傲慢な態度はアーロンからは感じない。
偶にちょっと理解出来ない言動はあるものの、平民のソニアたちに普通に接してくれて、なによりソニアたちが知らない知識を教えてくれる良い人である。
メイドのミランダもソニアたちに知識を教授してくれている。ミランダはソニアたちと同じような元孤児でありながら貴族の使用人として働いていて、博識であり、剣術の達人でアーロンを護衛までしている人である。正直凄すぎる。そして、なにより、とても親身になってくれ優しいのだ。ソニアはミランダにちょっとだけ憧れを抱いている。
ソニアは最初、貴族の子供からの呼び出しがあったという事で不安があった。
当然だ。ソニアは貴族という存在とそこまで接点があったわけではないが、両親から貴族に逆らってはいけない、なるべく関わってはいけないと口をすっぱくして言われたのだ。
それに偶然見かけた貴族は見た目は裕福そうであるが、平民に対して威張っていてあまり良い印象は無かった。
だからこそ、貴族の呼び出しにはかなりの不安があった。それはきっとソニア以外の子供達も同じだっただろう。
最初はリーダーであるアレックスもかなり警戒していた。アレックスは他の子供を中心とした犯罪組織と間違われているのではないかと心配していた。
けれど、それは杞憂に終わった。アーロンは自身の目的の為に教育を受けて欲しいと言ってきたのだ。犯罪組織に間違われ損害賠償を支払えと言われたり、貴族特有の平民への嫌がらせや無茶振りでも無かった。
アーロンの目的については何も言ってこなかったので若干の気がかりを覚えたけれど、ソニアたちの嫌な予感が外れてホッとしていた。
「そして、そうした短期記憶の情報をある一定の時間後、想起する事で長期記憶へと変化するのである」
アーロンの授業は衝撃的で刺激的だ。まるで何か生まれ変われるのではないかという気分にさせてくれる。
アーロンの授業の後、多くの子供たちが自主的に勉強に励んでいるのを何度も見ている。仕事中でも雇い主に隠れて本を読みながら働いている子もいるくらいだ。
リーダーであるアレックスは剣術を習い始め、ものすごい特訓をしているところを何度も見かけたし、サラはいつの間にかギルド関係者とコネクションを作っており夢の足掛かりを手にしている。なにより、イアンは貴族しか使えないと言われていた魔法を現実に使い始めているのだ。ミランダよるとかなりヤバイ事をしていると驚愕の表情を浮かべていたのでイアンは相当すごい事をしているみたいだ。
ここまでくると、ソニアもアーロンのすごさを認めざるおえない。
アレックス、サラ、イアンを中心に皆実力を発揮し始めているのだ。他の子供達も学力や魔法や剣術などの力をつけ始めている。
アーロンのいう成長マインドは実在するのかもしれない。ソニアも知識を学ぶ事が面白いし楽しい。もっと色々な事を学びたいし、知りたい。もっともっと成長したい。
そしたら、自分の夢である看護婦にもなれるような気がする。
そう考えると、アーロンの言っている事は正しい気がしてきた。うん、きっと正しいのだろう。実際、成果を出し始めた子供達もで始めたのだ。
ソニアはアーロンの事を信じようと思う。リーダーのアレックスやイアンは完全にアーロンを信頼している。サラに至っては……うん、完全に恋する乙女だ。
他の子もアーロンを慕っているし、ソニアの尊敬するミランダもアーロンの事をすごく慈愛に満ちた眼で見守っている。間違いなく彼は信用にたる人物なのであろう。
ソニアはアーロンを信じることにした。
……なのに、何故、アーロンのうんこを我慢した姿が浮かぶのだろうか。ぷるぷると震えている姿が頭から離れない。
違う違う、とソニアは首を振る。あれは偶々、偶然、そう見えただけ。うん。
誰だってうんこを我慢した感じに見える時が……ある? わけないけど、あったんだよ。うん。
そう納得させるように無理矢理ソニアは微笑む。
あー……あれ? 頭に「I am a baby !」とアーロンの叫び声が何度も何度も木霊する。
いやいや、あれは比喩。別に本当に赤ちゃんだって言っているわけじゃない。
めちゃくちゃ必死な顔で叫んで、最後はやり切った感を出しながら目を瞑っていたけど、それがめちゃくちゃ気持ち悪かったけれど……うん、比喩だから。
「記憶には記銘、保持、想起の3段階が存在する。記銘によって短期記憶に記憶され、記憶を保持した後、想起する事で長期記憶へ移行する」
ソニアは頭の中で何度もリフレインするアーロンの叫び声を払拭するように首を振った時、ケヴィンの姿が目に入る。
ケヴィンは腕を組みながらアーロンの話を聞いている。
ケヴィンはアレックスたちのようにアーロンを盲信しているわけではなく、どちらかというと距離を置いている。
ケヴィンは将来を商人になると決めている為か、損得勘定で物事を計っている節があるのでアーロンの見返りを求めてこない事へ不審を募らせている。
彼が言うにはアーロンは知識だけでなく、教育の為に大量の本も購入し、ソニアたちに貸し出しまでしている。そして、何より多くの時間をソニアたちの為に使用している。
それだけの事をしておきながら何も見返りを求めない事の方が恐ろしいと彼は評していた。
……うん。誰かが言っていたけれど、タダより怖いものはない。
ソニアはちょっとだけ気がかりなだけで、そこまで気にしていなかったけれど、アーロンの目的というのは実は結構ヤバかったり?
結局、ケヴィンは何が目的か知らないがこちらも利用させてもらうとドライに返すだけで、そのまま、ここにいるわけだし。きっと大丈夫のはずだ。……大丈夫だよね?
ケヴィン以上にアーロンと相対しているジュリアはグループでも古参で、前リーダーとも深い関係だった。どこか大人びていて、冷たいように見えるが、ソニアたちを大切にしていて、気にかけてくれる。ソニアたちにとって頼りになる存在だ。
ジュリアは表立ってアーロンを排斥するような素振りを見せないものの、あいつが何かしでかさないか監視しておく。何かしようとしても自分がどうにかすると息巻いていた。
ジュリアの彼に対する態度は不審感からではなく、どちらかというともどかしい苛立ちからくる感じに見える。
そんな彼女だが、偶にソニアたちに分からない事を呟いたり、どこか視点がズレているような感じが、相対しているアーロンに被って見えるけど……勘違いだと思いたい。
まさか……同族嫌悪、ではないよね?
ん? んん? アーロンを信用していいんだよね? いやいや、信用していいはずだ。ケヴィンは元々疑り深い性格なだけだし、ジュリアも前リーダーからグループを任されているからちょっと過敏になっているだけだ。問題無い……はずだ。
「短期記憶に記憶するには、注意を向けて覚える事にフォーカスし、長期記憶に落とし込むには一定の時間、つまり、5秒後、30秒後、5分後、1時間後、1日後と間を開けて思い出す事にフォーカスする必要があるのだ。そして、これさえ守ればどんな事も覚える事が出来る!」
ほら、現に彼はソニアたちが一生かかっても知り得なかったであろう記憶のメカニズムを披露してくれている。他の子供達も感嘆の声をあげていた。
やはり彼はすごいと思う。知識を持っている事もだが、一介の貴族が平民に対してこんな重要な知識を教えるだろうか? まず、ありえないだろう。
彼はその辺の貴族とは全く違う。ソニアたちの為に惜しみなく知識を披露し、本を貸し出し、学ぶ場を提供してくれ、更には夢の手助けもしてくれている。
確かに彼には何か目的があり、それをソニアたちに教えていない。だが、それはきっと何か事情があるのだろう。
だから、心配する必要性はないのだ。
間違いなくアーロン・ラングフォードという貴族は信用に足る存在だ。
ソニアは自身を納得させるように頷く。
「また、記憶は身体の動きと連動する事も可能だ。例えばーー」
アーロンはそう言いながら、右手を小さく横に振る。今の動きに何の意味があるのかわからない。他の子供達もソニアと同じなのか怪訝そうな顔をしていた。
アーロンはまた同じように右手を小さく振り、
「こうして腕を振った瞬間に『りんご』と覚えたい単語を言うと、記憶に残りやすい。これを卓球記憶法と呼ぶ」
なるほど、動作に合わせて記憶したい単語を言うと記憶に残る。分からないでも無い。タッキュウ? というものが何なのかソニアには分からないがアーロンの言っている意味は分かった。
「また、曲に合わせて覚えたい単語を歌にする事も記憶に残りやすくなる」
ソニアはアーロンの話に納得する。確かに歌などの歌詞は頭によく残っている。
アーロンの話は合理的だ。やっぱり、彼の話は説得力がある。
ソニアは若干の高揚感を覚える。
「つまり、二つを合わせた記憶法がもっとも合理的で記憶に残りやすいのだ。それを今から君たちに教えよう。最強の記憶法を」
アーロンはそうソニアたちを見ながら言う。子供達は湧き立つ。
ソニアも柄にもなく、ワクワクしていた。
「これは昔とある場所で流行ったもので、国民的アニメ……物語のOPにもなったものだ」
ソニアはアニメ? というのは分からなかったが、国民的というのだからすごい物なのだろうと胸が高鳴りドキドキする。
アーロンは皆の視線が集まる中、眉間に左手の中指を当て、右手を上にピンと伸ばす。
「ふんふんふんふー、ふふんふふんふーふーふんふん」
そして、アーロンは鼻歌を歌い出し、先ほどのポーズを鼻歌に合わせて逆にする。そして、両手を横に持っていく。
ん? んん? んんんんん? ソニアは予想と反したアーロンの行動に口を閉ざし目を白黒させながら首を傾げる。
「ふふふーふふ、ふふふーふふん」
両手をリズム良く左右に振って、左に行った時に決めポーズを取るように右手を伸ばし、左手を縮める。足は左右にステップを踏んでいる。
ん? んん? んんんんん? ソニアはまた目を白黒させつつ口を閉ざし微笑を浮かべた状態で逆の方に首を傾げる。
何かの冗談かなとソニアはアーロンを見つめるものの彼は鼻歌を歌いながら踊りのようなものを続ける。
顔は真剣そのもので真顔なのだ。笑顔でもなく、格好つけているわけでもなく、真顔なのである。
そして、アーロンは奇妙なダンスを踊り終え、最初のポーズである左手の中指を眉間に、右手をピンと後ろ上に伸ばしている。
え? 終わった?
アーロンの奇妙な踊りにどう反応していいのか分からずソニアは困惑していると、隣から「かっこいい……」と声が聞こえた。
ソニアは思わずそちらの方を見る。そこには恍惚な表情でアーロンを見つめるサラがいた。
今までの中にどこにかっこいい要素があった? と問いたいソニアは微笑と怪訝が混ざった顔で首を傾げる。
「これこそが、五感に訴えかけた記憶法。パラパラ記憶法だ」
ぱらぱら記憶法? 今のが? と怪訝に思っていると、
「では、皆、俺に合わせて」
アーロンはポーズを取ったまま言う。まさか、一緒にやるつもりなのかとソニアは冷や汗を掻く。
いやいや、こんなの誰もやらないでしょう。いくらなんでも。
そう思って周りを見渡すと、そこには左手の中指を眉間に、右手を後ろ上にピンと伸ばしている子供達の姿があった。
あれだけアーロンを警戒しているケヴィンすらそのポーズを取っていた。いや、あなたクールキャラなくせにいいの?
「え……?」
ソニアはその光景に困惑していると、アーロンがこちらを顔だけ向けて見つめてくる。
他の子供達もこちらに視線を送ってくる。無言の圧力を感じた。
ソニア以外は既に何の疑問も羞恥も感じる事もなくそのポーズを取っていた。
今からあのヘンテコな踊りをソニアもするのか? そう思うとだらだらと背中に脂汗が出てくる。
ソニアは圧力に屈してポーズを取る。恥ずかしくて仕方ない。顔から火が吹き出るように熱かった。
「ふんふんふんふー、ふふんふふんふーリンゴ! ふーふんふんバナナ!」
アーロンはソニアがポーズを取るのを確認すると、鼻歌を歌い出す。そして、踊り出した。真顔で。更に合間に果物の名前を叫ぶ。きっと記憶すべき単語という意味なんだろう。しかし、何故、果物なのかソニアは理解出来ない。
「「「ふんふんふんふー、ふふんふふんふーリンゴ! ふーふんふんバナナ!」」」
子供達もそれに合わせて踊り出す。ソニアも皆に合わせて踊るが、羞恥で声が小さくなる。
「ふふふーふふソニア! ふふふーふふん声が小さい!」
アーロンは左右にステップを踏みながら、そうソニアの声の小ささを指摘してくる。
「「「ふふふーふふソニア! ふふふーふふん声が小さい!」」」
やめて! 人の名前を記憶する単語に組み込まないで!
ソニアは愧死する思いで大きな声で鼻歌と単語を叫んだ。
踊りが終わり、皆、最初のポーズに戻る。
ソニアも同じポーズを取りながらも、口角を上げた状態で目を白黒させながら思う。
本当に信じていいんだよね? 信じて……いいの? 本当に?
ソニアはすべてがわからなくなった。
参考文献:一流の記憶法
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