第22話 七月二十七日 その4

「お茶でも淹れますから、そちらで待っていて下さい」

「ありがとうございま……す」


 凪沙の御礼を最後まで聞かず、谷口愛美は居間として使っている和室を出て、隣のキッチンに向かった。


「入れてはもらえたっすけど……あまり歓迎はされてない?」


 部屋の静けさが一層不安をかき立てる。


 室内を見渡すとタンスとコタツのテーブルとテレビくらいしかなく、六畳程度の部屋がそれよりも広く感じる。やはり貴族ではなさそうだ。

 質素というより、キッチンを通り過ぎた時に見た食器の数からして、谷口愛美は独り暮らしのようだ。2LDKあるこの団地を持て余しているため、物が少なく見えるのだろう。

 山城と同じくらいの年齢に見えるが、これまで独り身だったのだろうか?


「でも平日の昼間に家にいて、どうやって生計立ててるんだろう?」


 いつもの癖で凪沙は疑問に思った事をブツブツと呟きながら考えた。


「これだけ部屋を持て余してるって事は……最初から一人でこの部屋に住んでいるとは考え辛いっす……てことは、誰かと住んでて、誰かの方が出て行った?」


 未来の自分が特別扱いして来た、この女性が何者なのか? 凪沙は手がかりはないかと部屋を見渡した。


「あ」


 するとテレビ台の脇に一つだけ写真立てに入った写真があった。写真は愛美さんと娘さんだろうか? 二人ともが式典用の服を着て写っている。娘さんらしき女性の袴姿からして、卒業式。二人とも笑っている。


「娘さんがいるって事は……離婚してるって事」


 その時、ポケットの凪沙のスマホがブルっと震えた。

 表示には『クマさん』と出ていた。そう言えば、さっき玄関の前で色々とやっている間、ポケットの中で震えていた気がする。とても出られる状態では無かったから無視したが。


「はい。こちらハチ」

「お前何やってんだよ! 電話にもでねぇで!」


 開口一番で耳を擘くクマの大声が凪沙の鼓膜に直撃した。


「大声出さないでくださいよ。今、昨日のリストの人の家にいるんですから」

「なんだ、ちゃんとやってんのか?」

「やってます、やってます! じゃあ、部屋の中なんで切りますね」

「ちゃんとやれよ」

「うっす」


 凪沙は電話を切ると、ホッとため息を吐いた。


「ああ、恐かった。やっぱクマさん、怒ると外見通りの人だな」


 と、スマホをポケットにしまい、振り返るとお盆を持った谷口愛美が襖の所に幽霊の様に立っていた。


「ヒィ!」


 不意をつかれた凪沙は、谷口愛美を見て、驚いてしまった。


「お茶、入りましたけど」

「あ、ありがとうございます」


 そう言って、谷口愛美はお盆をテーブルの上に置いて、凪沙の方にお茶を差し出した。


(なんだろう、今の不気味な感じ)


 凪沙には谷口愛美が随分長い間、無言で襖の所に立っていたように見えた。と、言うか、部屋に入ってからずっと彼女に監視されているような視線を感じていた。


「すいません。あの、写真、勝手に見てしまって」

「いえ、飾ってあるものですから、どうぞ」


 そう言って、谷口愛美は何かを誤魔化す様に笑った。


(どうしたんすか? アッシ、何かこの人の琴線に触れる事をしたっすか?)


 凪沙もぎこちない笑みで返しながら、内心でそのように勘繰った。


 やはり、部屋に入れられてから、彼女は何か腹に隠している。


「この人。娘さん、ですか?」

「ええ。大学を卒業した時のです。その時まで一緒に暮らしてたんですけど、就職を期に家を出たんで、今は独りなんです」

「お一人で暮らしてるんですか?」


 凪沙が何気なく聞き返すと、愛美は「え?」とキョトンとした顔を浮かべた。


「ん? アッシ、変なこと聞きましたか?」

「ああ、いえ! その……主人とは随分前に別れたので、今は一人ですよ」


 谷口愛美は目を逸らしながら言った。


「あ、すいません」

「気にしないでください」


 そう言って彼女はまた愛想笑いを凪沙に見せた。


 凪沙は笑っている彼女にまた違和感を感じた。凪沙は咄嗟に「瞬間記憶の能力」で、過去に見た多くの表情、視線のサンプルを脳内に散らばさせ、その中から今の状況に似た物を引っ張り出そうとした。

 そうする事によって、相手の心の中をかなりの高い確率で当てる事ができる。


 今、「主人」と言った瞬間に谷口愛美は目を逸らした。「主人」と言う事と凪沙を観察する事が、何か関係あるのか?


 最初は明らかに凪沙に警戒している素振りだったが、今はあえて笑顔に振るまって、凪沙が隙を見せるのを伺っているという感じだ。


 どこから、谷口愛美は態度を変えた?


 凪沙は再び、頭の中の記憶を引っ張り出す。

 玄関前で警察手帳を愛美に見せた時……手帳の中を開いて、クマの写真を見せた時。


「あっ」


 あの時は緊張していて気付かなかったが、その瞬間、谷口愛美の表情に明らかな変化があった。


(あの瞬間、よく考えたらおかしいっすよ)


 凪沙の頭に一つ疑問が浮かんだ。

 一般の人は偽物の警察手帳を見ても、本物の警官だと騙されてしまうと聞く。

 それは逆に言えば、本物の警察手帳を見せられても、それを本物だと判断する術をほとんどの人は知らないと言う事だ。


 しかし、この谷口愛美は凪沙がクマの手帳を見せた途端、態度を豹変させた。


 あれだけ警戒していたのに、そんな人物を家の中へ招き入れたという事は……あの手帳が本物だと谷口愛美には確証があったと言う事ではないか?


 凪沙はお茶を飲みながら、少しカマをかけてみようと考えた。


「でも、なんで愛美さんには私の警察手帳が本物だって分かったんですか?」

「え?」


 谷口愛美はまたキョトンとした顔を見せた。

 さっきから何度もする「どうしてそんな質問をするのだろう?」と言いたげなこの表情の意味は何なのか、凪沙には分からなかった。


「愛美さん。本物の警察手帳を見たことあるんですか?」

「え、ええ」


 愛美は一度、お茶を飲んで一呼吸置いた。


「実は……私の元主人も警察官だったんです」

「そうだったんですか!」


 ならば、本物を見分けられても納得がいく。

 しかし、それならば、クマの写真を見た瞬間「ホッとした表情」をしなければおかしく無いだろうか?

 あの写真を見た時の驚いた表情の説明にはならない。仮に凪沙が警察手帳を持っていた事に驚いたのなら、写真を見る前に表情を変えているはずだ。


 と言う事は……愛美さんが反応したのはクマの顔って事か?


「警察官の方なら真面目そうなのに、愛美さんみたいな良い人と別れてしまったんですか?」


 凪沙はこの話を掘り下げてみようと、あえて意味のわからない質問をぶつけた。我ながら「大きなお世話」としか言えない不毛な質問だった。


「いえ」


 しかし、その瞬間、愛美の声色が明らかに変わった。


「主人じゃなくて。私が悪かったんです」

「え?」


 凪沙はドキッとした。

 その言葉を発した瞬間の愛美の優しい表情に、同じ女性として見惚れてしまった。


「別れたのは、私のせいなんです」


 そう言った瞬間、愛美の警戒心が解け、ほんの一瞬、作り笑いではない綻んだ悲しそうな笑みを浮かべた。

 恋愛に疎い凪沙でもわかった。この人が未だに元旦那の事を愛しているのが。


「あ、すいません」


 愛美はそう言いながら、鼻を啜った。瞳も少し潤んでいた。


 情に流された凪沙は、谷口愛美を観察する目で見ることを止めていた。


「それで、あの、譲司さんのお願いって何なんですか?」

「あ、すいません。忘れてました」


 確証は何も無い、だが凪沙は思った。


『この人に死んでほしくない』と。


「愛美さん。八月一日にどこかに行く予定はありますか?」

「八月一日……」


 その瞬間、谷口愛美は視線を逸らす様にタンス上の方の棚をチラッと見た。


「いえ……特には」


 その愛美の返事をする瞬間の一連の仕草を凪沙は見逃さなかった。

 

 谷口愛美は嘘を吐いた。


「清和デパートに行かれる予定は?」

「いえ、行く予定はありませんけど」


 愛美の表情が虚をつかれた様子に変わった。そしてまた同じ棚をチラッと見た。


 タンスのあの棚に何かあるのか?


 凪沙は平静を装いながら、勘繰った。


「そうですか。急に変な事を言ってすいませんでした」


 凪沙は確信した。

 八月一日に谷口愛美は清和デパートに行く。


 そして、咄嗟にタンスの上の引き出しを二回も見た。


──その時、デパートに行く事に何か秘密がある──


 きっと、あの棚の中にそれを解くヒントがある。


「じゃあ、お願いです。もし行く予定などができたとしても、その日は絶対に清和デパートには行かないで下さい。もし行く場合は日付をずらして下さい」

「どうして?」

「詳しい事は言えないんですけど。その日だけです。お願いします!」


 凪沙は誠心誠意を込めて頭を下げた。


「わかりました。その日はデパートには近付きません」


 その声には心が篭っていないと凪沙は感じた。


「よろしくおねがいします」


 複雑な声で凪沙はそう言い、立ち上がった。

 今の凪沙にはそれくらいしかいう権利を持っていなかった。


 多分、今日はこれ以上説得しても無駄だ。何か考えないと……この人をデパートに近づけさせない方法を。


 団地の外に出ると、凪沙はすばやくメモを書く。


──谷口愛美 → 嘘を吐いている。何かある。死んで欲しくない。タンス怪しい──


 あと「クマの写真を見て異変」と書き加える。


「なんで、クマさんの顔に反応したんすかね?」


 確かめたくても、クマには内緒の人物である以上、直接クマに聞くわけにはいかない。


「とりあえずは、次だ!」


 まだ時間はある。

 何か、谷口愛美がデパートに近づかない方法を考えないと。


 だが、その前に谷口愛美以外の四人の方を先に済まさなければ。




 なんで、あんな若い子が主人の警察手帳を持っていたのか?


 譲司凪沙が帰った後、谷口愛美は何度も考えたが、どれだけ自分の知っている山城像と掛け合わせても理解不能だった。


 今、主人は相澤くんと焼死体事件の捜査をしているはず、なのに何で女子大生と別件の捜査をしているの?

 しかもそれが『八月一日の清和デパート』と関わっている。なんで、主人が八月一日の清和デパートの事を捜査しているのか?


「あの譲司凪沙って子は何者?」


 お茶を淹れて、居間に入った時、あの子の電話から聞こえてきた男性の声は明らかに主人だった。

 と言う事は、あの警察手帳は盗んだものではなく、本当に何かの捜査の協力をしていて、主人が貸した物って事だ。警察官の心臓である警察手帳をふざけて素人の女に貸すはずがない。


「何なの、あの子」


 なぜか譲司凪沙に嫉妬に近い感情を覚え、愛美は自分の爪を噛んだ。


「それより、なんで私が『八月一日に清和デパートに行く事』を知っているの?」


 それは、山城ですら知らないはずの事なのに……あの時、咄嗟に油断して、簞笥の引き出しを何回か見てしまった。

 譲司凪沙は本物の東條大学の生徒手帳を無防備に私に見せて来た。それを考えると捜査のプロでは無さそうだ。だから、タンスを見たことも気付かれているとまでは、愛美は考えなかった。


 愛美はリモコンでテレビの音量を下げながら、スマホを取り出した。画面に表示にされたのは『相澤くん』のと言う文字と電話番号。


 数回のコール音で相澤はすぐに電話に出た。


「もしもし、相澤くん。ちょっと相談があるんだけど、今、いいかしら?」








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