第23話 七月二十七日 その5
「譲司凪沙? うーん……聞いた事ないですねぇ」
電話の向こうの相澤の声を聞いて、谷口愛美はテーブルに付いていた右腕に頭を預けた。
「そもそも、あの人に女の気なんて微塵もないですから、安心して下さい」
相澤は山城と長い間コンビを組んで捜査をしている。その相澤が知らないとなると、山城とあの女子大生が水面下でずっと繋がっていたと考えるのは難しい。
「あの人が浮気したら、僕がガツンと言ってやりますから!」
「浮気って、私たちは別れてるのよ」
愛美は苦笑いで誤魔化した。
どうも電話の向こうの相澤は、愛美が山城の浮気調査をしていると思っているようだ。相変わらず、能天気な性格をしている。
山城は、相澤を新人の頃から手塩にかけていた。すこぶる優秀とは行かないが、軽い雰囲気で可愛げのある性格をしている。愛美の目にも、山城が相澤のことを可愛がっているのは分かった。
猪突猛進型の山城には捜査に入れ込みすぎる節がある。相澤の適度に膝を折る感じが山城のいいガス抜きになっていた。
やはり、さっきの譲司凪沙はイタズラだったのか?
でも、それでは彼女が持っていたあの警察手帳の説明がつかない。
「ねぇ、今、あの人、警察手帳持ってる?」
「あの人って、山城さんの事ですか?」
「あっ……うん、そう」
何気なく相澤に聞き返されて、愛美はふと我に帰った。愛美は、別れてから山城をなんと呼べば良いのか分からなくなっていた。
山城と二人なら「アナタ」でいいが、三人称の呼び方、「主人」「うちの人」全て離婚した愛美には呼ぶ資格がない。しかし、どうしても愛美には未だに山城と別れたと言う自覚が持てないでいた。
「昨日の捜査会議の時は持ってましたよ。流石に山城さんが落とす事はないんじゃないですか?」
「そう、よね……」
「てか、手帳がどうかしたんすか?」
「ううん。なんでもない」
愛美は慌てて否定した。
警察手帳を紛失した警官には、重い処分が下る。相澤といえど、現時点で「山城が警察手帳を持っていない」と知られるわけにはいかない。
じゃあ、何であの女子大生が山城の警察手帳を持っていたのか? その子が『八月一日にデパートに行くな』と命令して来た。
もし、本当に山城の指示で『八月一日に清和デパートに行くな』と釘を刺しに来たのなら……なんで山城は「八月一日の件」を知っているのか? そうなると『山城があっち側の味方をしている』と言う可能性も出てくる。
しかし、それはあまりにも荒唐無稽過ぎると、愛美は深呼吸して冷静になった。
山城がこの件に絡んでいるなんて……そんな偶然がある筈がない。第一、山城とこの件には何の接点もない。
それに、山城があんな奴らの味方をするなんて、絶対にありえない。ありえないが……不可解な点が多過ぎて、愛美の頭は混乱した。
「ねぇ、あの人、今何やってるの?」
「ほえっ? い、今ですか!」
愛美は「ん?」と思った。
何気なく聞いた問いに突然、相澤の口調が虚を突かれたような惚けた声に変わった。
「今って例の焼死体事件の捜査をしてるのよね?」
「ああ、いや、ああ……そう、ですねぇ」
電話の向こうでしどろもどろになっている相澤に愛美の眉間に皺が寄った。
昔は、この子の少し抜けている部分で山城が危険な目に遭わないかと心配していたが、今日はそれが良い方向に出た。
「そう言えば、随分、私と話してるけど、大丈夫なの? あの人に怒られるんじゃないの?」
「ああ、その……い、今、トイレ行ってるんです、山城さん!」
そう言って電話の向こうの相澤は笑って誤魔化す。
何か、隠してる。
もし、コンビが変わったなら、正直にそう言えばいいだけの事だ。言い訳をするという事は、何か隠したい事情があって、山城と相澤は別れている。
それが譲司凪沙と清和デパートに関わる捜査なのだろうか?
山城の警察署は清和デパートの管轄外である。だから警官ではない譲司凪沙を寄越した?
いや、別にそんな回りくどい事をしなくても、電話でも何でも、愛美に直接言えば良いだけの話だ。その方が見知らぬ大学生を使うより何倍も説得力がある。
やはり、分からない。
「何考えてるの……」
愛美は思わず、声を漏らしてしまった。
「あ、いや、何考えてるって言われても……お腹が痛いって朝から言ってて」
「あ、ごめん。独り言出ちゃったの」
「あ、そうなんすか」
電話の向こうから相澤の焦っている様子の笑い声が聞こえた。これ以上、突くと聞いてはいけないことまで暴露して来そうた。
愛美にとって今回の事は、山城という人間のイメージの崩壊でもあった。山城は絶えず警察という組織に従順であり、それでいて、あんな外見をしているが「正しい」事の為に動く人間である。
いつもなら我先にと担当の事件を解決するために捜査にのめり込む。今回なら焼死体事件だ。
なのに、そちらを蔑ろにして、譲司凪沙という捜査の素人の学生と別の事件のことで動いている。
そしてその事件と言うのが『八月一日の清和デパートの件』であると言うこと。なぜ、山城がそのことを知って、行動しているのか?
そして『デパートには行くな』と使いを出して来た。それは、愛美にとっては、敵側の人間が言って来る言葉である可能性がある。
ただ、清和デパートの事を山城が知る術は、一つだけある。だが……可能性はかなり低い。
「急に電話してごめんね。ありがとう」
「あ、は、はい! 失礼します」
愛美よりも先に相澤の方から電話は切れた。愛美には相澤のホッとした顔が目に浮かぶ様だった。
電話を終えると、愛美は一息ついて、別の人物に電話を掛け直した。例の件を山城が知る唯一の可能性だ。
「あ、茜。今、大丈夫?」
「少しなら、大丈夫だけど」
そう言った時、電話の向こうでドアが閉まる音がした。会議中か何かだったのだろうか。
「どうしたの、お母さんが電話してくるなんて」
「あのね。例の八月一日の件なんだけど」
「あ、うん」
電話の向こうの茜の声が緊張するのが分かった。
「もしかして、あなた、お父さんに話した?」
山城の話題を振った途端、電話の向こうがしばらく暗闇になった。
「話すわけないじゃん」
「そうよね」
「それだけ?」
「うん」
「忙しいんだから、変なことで電話してこないでよ」
「ごめんね」
愛美は迷った。さっきの譲司凪沙の件を茜に言うべきだろうか?
しかし、一つでも言い方を間違えたら、ただでさえ仲の悪い父と娘の関係に更に亀裂が入るかもしれない。
それでなくても、茜は今、心身ともに疲れている。憶測だけで刺激しないほうがいいかもしれない。
「じゃあ、仕事に戻るから切るね」
「ちゃんと寝なさいよ。あと、ご飯も食べるのよ」
「わかってる」
うんざりした様な声で、娘は電話を切った。
あんなにピリピリしている娘を愛美は一度も見た事がない。しかし、社会経験が乏しい愛美に今の娘を労う言葉が見当たらない。
茜で無いなら、山城は誰から知ったんだ?
「確か、あの子、東條大学の理工学部の四年生って言ってたわね」
八月一日まで、まだ時間はある。
ちょっと調べてみよう。
「あ、そうだ。チェーン、戻さないと」
ひと段落した途端、愛美は玄関のチェーンを外したままだった事に気付いた。
玄関でサンダルに足を入れ、チェーンに手を伸ばそうとした瞬間、
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
咄嗟に「はい」と返事をしようとしたが、山城から『チェーンをつけずに不用心にドアを開けるな』と新婚の頃から口を酸っぱく言われていた為、愛美は返事をせず、ドアも開けずに覗き穴からそっとドアの向こうを覗いた。
「っ!!」
覗き穴から玄関前に立った人物を見た途端、恐怖で思わず声が出そうになるのを必死で堪えた。
ピンポーン。
再びインターホンが鳴った。
心臓の鼓動がどんどん大きくなる。愛美は腰が抜けて、玄関のコンクリートの上に震えながら小さく蹲った。
次の瞬間、ドアと壁の隙間から折り曲げられた薄い紙がスッと中に入って来た。
恐怖で震えが大きくなる。
だが、少しでも物音がすれば、中に居ると勘付かれる。逃げたいけど、音を立てない為、怖くても動いてはいけない。
脳裏に山城が過ぎり、「助けて」と心の中で何度も呟く。
紙はドアの隙間からスーッと上に登っていき、ドアロックのチェーンが掛かっていないと分かるや、スッと消えた。
ドアの向こうから遠ざかって行く足音がする。階段を降りていく音。
留守だと思って帰った。
愛美は止めていた呼吸を再開し、何度も大きく空気を吸い込んだ。
留守で帰ったなら、空き巣ではない。
愛美は直感で分かった。あれは殺しに来た人間だ。
覗き穴から覗くと玄関の前に男が立っていた。
無表情のボサボサの髪と無精に伸びた髭、人形のように死んだ目をしていた。だが、体から放たれている獣臭い雰囲気に愛美は悲鳴をあげそうになるのを必死で堪えた。
明らかに人間ではない。
もし、チェーンを付けていたら居留守だとバレて、愛美は殺されていたかも知れない。
そもそも玄関ではなく居間にいたら、インターホンに返事をしてしまっていた。
そう言う意味ではあの譲司凪沙という女子大生に助けられた。
今のは誰なんだ?
愛美の頭に疑問がまた一つ増えた。
何で、自分を殺しに来た?
もしかして、あっち側の人間の誰かなのだろうか?
誰かに言った方がいいだろうか?
しかし、山城に言えば、八月一日の件も話さないといけない。
誰か協力してくれる人物はいないか?
その時、愛美の頭に一人、適当な人物が浮かんだ。
「相澤くん」
愛美はもう一度、スマホを手に取り電話をかけた。
「もしもし」
「あ、相澤君。何度もごめんね。ちょっと相談があるんだけど、聞いてもらえない?」
愛美がそういうと、相澤の声はさっきまでのしどろもどろとは違っていた。
「もしかして、山城さんの事ですか?」
「そうだけど。何で、分かったの?」
「実は俺もちょっと気になってるんです。最近の山城さんのこと」
「え?」
やはり、山城に何かあるのか?
「じゃあ、ちょっと会って話せない? こっちも少し急ぎなのよ」
「じゃあ、後で時間を決めてかけ直します」
「うん。お願い」
もし、山城があちら側の味方をしているのだとしたら、自分が止めないといけない。
愛美はそう思い、水面下で一人、決心を固めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます