幕間 八月六日 事件五日後

第24話 八月六日 その1

 ジョージの大学を後にした山城は一旦自宅に戻る事にした。


 朝起きた時には焼死体事件の解決に光明が見えたかと思っていたが、まさか一日が終わる頃に三十年近く勤めた警察を辞めているとは夢にも思わなかった。


 人生というものはつくづく何が起こるか分からない。


 外で軽く夕飯を済ませ、自宅のアパートに辿り着いた時には時計は十二時を周り、すでに八月六日になっていた。

 ジョージが言うには八月七日に二回目の過去改変の波が来る。

 次がどのような過去に変化しているのか、皆目見当も付かない。家に帰りながら、その事を何度も何度も繰り返して考えた。


 清和デパートの被害者の数は増えているだろうか?

 自分と周りの人間との関係はどうなっているか?


 デパートにいる愛美は生き延びただろうか? 


 だが、愛美のスマホが行方不明になっている。

 そこから類野以外の誰かによって愛美の情報が抜き取られ、過去に送られているとしたら、八月一日より前に愛美が殺される可能性だってある。


 愛美のスマホを奪った人間を探さないと、何度やり直しても愛美の命は危ないままだ。

 

 しかし、もし愛美が生きていたら、自分はどのようにこの事件と関わって行くのだろうか? ジョージと協力して類野を捕まえると言っている手前、「愛美が生き返ったからもういい」では済まされない。


 山城は、また悪い虫が疼きそうになったので、頭を振ってこの考えを飛ばした。

 

 最悪、自分が死んでいるパターンだってありうる。そうなった場合、自分はどうなるのか?


 どれだけ「なるようにしかならない」と自分に言い聞かせても、怖い時は怖い。

 これ以上、酷くなった世界を見せられるかもしれない事に山城は怯えていた。


 別れる前なら、こう言った話を家に帰れば愛美が聞いてくれた。


 ため息が出た。


『とりあえず風呂に入って、休もう』と山城がアパートの階段を登ろうとしたとき、自分の部屋の郵便受けから何か紙がはみ出しているのが見えた。

「また何か広告だろう」と捨てるつもりで取り出してみると、山城の手が止まった。


「相澤」


 中に入っていたのは『休職願い』のための書類だった。それと一緒に相澤の筆跡の手紙も放り投げられていた。


『明日九時に取りに来ます。ここに入れておいて下さい』


 怒っている相澤も、自分に呆れている相澤も、その文章から想像できた。ただ、まだ自分を相棒として見ている相澤も垣間見えた。

 不安と困惑しかない緊張の糸が極限にまで張り詰めた二日間を過ごした山城は、相棒の一文で柄にもなく泣きそうになった。

 少しホッとし、心に隙間ができた。

 そこで改めて考えてみると、周りの人間は『山城は愛美が亡くなった事で気が動転している』という目で見ている。ならば休職をしても、それほど色眼鏡で見られる事はない。

 よくよく考えれば、辞めるよりもそれが自然だ。そんな事も分からないほどに、自分は冷静さを失っていた事に気付いた。

 それに「刑事を辞めないで済む」と言うのは今の山城をホッとさせてくれる材料の一つであった。


 今回は相澤のお言葉に甘えさせもらう事にした。



 翌日。

 山城は早めに起きて、休職願の書類を郵便受けの中に入れた。安心した気持ちがあったが、まだ相澤に顔を合わせる勇気は出なかった。

 山城はとりあえず相棒に敬意を称する意味で、休職願いを入れた郵便受けを両手を合わせて拝んでおいた。

 今の山城には、これが精一杯だ。


 その後、昨日と同じく、山城は再び愛美の部屋に向かった。

 昨日は遺品整理をするはずが相澤からの電話で、むしろ部屋を散らかし、そのままほっぽり出してしまった。

 ジョージと会う時間まで少しある。その間にやれるだけやってしまおうと決めた。


 団地の愛美の部屋のドアに合鍵を差した。


「ん?」


 鍵を回そうとすると、すでに鍵が開いていることに気付いた。

 山城は「どうして?」と首を傾げた。昨日、相澤が部屋に向かって来た時、山城は確かに玄関の鍵を閉めた筈だ。


 中からバタバタと足音が聞こえる。


 誰かいる。


 もしかしたら、愛美のスマホを盗んだ人間かもしれない。

 少し警戒しながら山城は玄関のドアをソーっと開き、中に入った。

 部屋に入った瞬間、昨日は無かった柑橘系の匂いが山城の鼻腔を突いた。芳香剤ではない女性用の整髪料か香水のような匂いだ。

 そして、玄関に並んだ靴の中に、昨日は無かった筈の女性用のヒールが乱雑に脱ぎ捨てられていた。


 そのヒールを見て、山城は誰がいるのか大体の見当が付き、心臓が大きく鳴った。

 部屋の奥から、ヒールの持ち主の足音が近づいて来た。


「茜」


 奥から出て来た娘は、父親である山城の顔を見ても別に驚くでもなく、睨むでもなく、表情を一切変えずにいた。

 多くの人間を見てきた山城にはその態度が示す感情が手に取るようにわかった。目の前の相手に対して完全に心を閉ざした人間がする表情だ。


 しばらく、無言で山城と茜は玄関で向かい合った。

 一昨日に愛美の葬式をバックれて以来、茜には今日まで何の連絡もしてない。会場を後にする時の背中に刺さるような冷たい視線を未だに覚えている。

 愛美と離婚する前から、山城の仕事の都合で多感な時期を振り回し、母親の葬式まで至らない父親であった。


 山城は娘と対峙した事で、改めて今までして来た己の身勝手な行動を恥じた。


 さらに今回は己のせいで娘から母親を取り上げてしまった。まだ変えられる可能性がある過去だとしても、娘にそんな大きなショックを与えてしまった事を申し訳なく思った。


 山城は何を言うでもなく、玄関のコンクリートに両膝を突き、両手とおでこをコンクリートの上に押し当てた。


「すまなかった」


 返事なかった。

 顔を地面に付けている為、前は見えなかったがきっと娘の表情は、これでも無表情のままなのだろうと想像した。


 それでも、どれだけ虚しくても父親として、この惨めな行いを続けなければいけない。


「俺のせいで、愛美は……」


 込み上げて来る物のせいで、それ以上は言葉にならなかった。


「謝る必要ない」


 予想外の娘の声に、山城は「え?」と顔を上げた。

 涙を拭った先に立っている娘は無表情のままだ。ただただ、山城のことを冷めた目で見下ろしている。


「今回は、アンタのせいじゃないから」


 抑揚はない。

 だが、いつ以来だろうか、娘が自分に向けて声を発したのは?


 ただ、少し引っ掛かる言い方だった。


──今回は、アンタのせいじゃないから──


 なぜ、そのような言い回しなのか?


「私のせい」

「え?」

「お母さんが死んだのは……私のせい。ごめんなさい」


 茜はそう言って、山城に頭を下げた。山城は「綺麗なお辞儀ができるようになったのか」と娘の成長ぶりに驚いた。


「貸しとか作りたくないから、これだけは謝っておく」


 顔を上げると茜は逃げるように早足で居間の方へ向かい、引き出しを閉める音がした後、荷物を持ってまた戻って来た。


「どいて」


 茜は玄関に立ち塞がっていた山城を退かすと、急いで部屋を出て行った。


 棒立ちの山城の目の前を、泣くのを必死で我慢している娘の横顔が通り過ぎていった。

 さっきの美しいお辞儀が霞んでしまうほどに弱々しい未熟な、子供の頃の面影を残した泣き顔だった。


「茜!」


 山城は部屋を飛び出し、娘の後を追った。


 螺旋のようにグルグル回る団地の階段を飛ぶように降りていくと、真夏の日差しの中、ヒールを鳴らし、俯き加減にアスファルトを進んでいく娘の後ろ姿が見えた。


「茜!」


 その背中に山城は大声で名前を呼んだ。娘はハンカチで口元を隠しながら、振り返った。涙の粒を蓄えた瞳を夏の日差しがキラキラと照らした。


「何があったんだ、お前と愛美に!」


 息を切らしながら娘の返事を待つ。

 茜はしばらく無言で山城の方をジッと見ていた。


「それ、父親として聞いてるの?」


 娘が言葉を投げた。

 山城は罪人になったような気持ちになり、思わず目を逸らしてしまった。


「ち……父親としてだ」


『我ながら情けない声だ』と思った。蝉に掻き消されそうな力のない声しか出なかった。


 茜は「そ」とだけ言い、判決を下す為、ハンカチを口元から下ろした。あれだけ溢れていた涙はもう消えていた。


「なら、アンタに言う事は何もない」


 再び茜は山城に背を向け、歩き出した。さっきとは違い、背筋が伸び、ヒールの足音もリズミカルに進んで行く。


 遠ざかって行く娘を山城は呆然と見ているだけだった。


──お前たち二人に何があった──


 本当は離れていく娘を全力で追いかけて、力尽くで肩を引っ張ってでも聞き出したかった。

 ただ、それは父親としてじゃない……娘に全てを見透かされていた。


 本当の父親だったら、娘が泣いていたら何も言わずに抱きしめる。


 また選択を誤った。


 山城はため息を吐き、重い足取りで、飛び跳ねるように降りてきた階段を上り、愛美の部屋に戻った。

 居間は昨日、自分が蹴り飛ばしてものが散乱した、あの状態のままになっていた。


 それを見て、山城はふと疑問に思った。


──茜は何をしに、ここに来たんだ?──


 例えば、母親の祭壇が置かれたこの部屋が、こんなに散乱していたら、そのままにしておかず少しは片付けるはずだ。


 なのに、部屋には何処にも手をつけた様子はない。


「アイツ、何をしていたんだ?」


 あの時……山城に謝った後、茜は居間へ戻り、引き出しを閉める音がした。

 この居間に玄関まで聞こえる引き出しの音がする物は一つしかない。


 箪笥の引き出しだ。


 箪笥の引き出しを山城が順番に開けていくと、上の三つに分かれている小さな引き出しの一番左、そこが不自然に空っぽになっていた。


「茜が持ち出したのか?」


──お母さんが死んだのは、私のせい──


 愛美は清和デパート襲撃事件のとき、清和デパートにいた。そして類野が拳銃を乱射。そして田沼かえでの身代わりになって死んだ。


 茜が入り込む余地なんて、どこにあるんだ?


 ここに入っていたものは何だ? 


 俺に見られてはいけない物なのか?

 

 衣類が入る下の方引き出しを三等分にした小物を入れる為の引き出しだ。そんなに大きなものが入る場所じゃない。


 あの事件に茜が何かしらの形で関わっていたというのか?


「愛美があのデパートにいたのは偶然じゃないのか?」


 その時、山城のポケットのスマホが震え出した。表示を見るとジョージの名前が出ていた。

 ついでに時計を見ると九時を回っていた。相澤は今頃、山城の家の郵便受けを見ているだろうか? とふと思った。


「ジョージ起きたか?」

「ムサシさん、ちょっと気になる事があるんです」

「何だよ?」

「清和デパートの株価、昨日も下がってたんすよ」

「そりゃ、しばらくはあがらねぇだろ」


 と言うか、あれだけの大事件が起きたのだ、暫くどころかずっと上がらない可能性だってある。


「知ってますか? 少し前に清和デパートってTOBをかけられたんすよ」

「TOB?」

「株式公開買い付けっす。『株主が持ってる株をこっちが指定した値段で買いますよ』ってやつです」

「それがどうかしたのか?」

「二十一人殺害の時は八月四日に少し反発したんです。でも今回は八月五日でも下がってるんす」

「それが何なんだよ?」


 山城の頭は難しい計算ができるようには出来ていない。その為、凪沙の発言に次第にイライラし始めていた。


「TOBを仕掛けられる前の清和デパートの株価は3700円くらいでした。でも、『過大評価だ』と買収側が主張して、TOBの価格が2000円くらいに設定されたんです」

「ほとんど半額かよ」

「うっす。もちろん株主もデパート側も馬鹿げていると言ってました。でも買収側は譲りませんでした。で、八月一日の事件、二日、三日とストップ安です。二日に700円下げて、三日に500円下げました。で、前回はそこで反発。でも今回はさらに下げて……昨日の終値は2200円っす。てか、一旦、2000円を割った瞬間もあったっす」

「買収側の値段に近付いてるって事か?」

「類野がデパートを襲う可能性の一つとして、どうでしょう?」


 山城は判断に苦しんだ。

 突拍子もないアイデアに聞こえる。


 ただ、類野が何度も殺してやり直す。

 殺すたびに株価がその値に近付いていく。


 リンクしている部分があるのもの確かだ。


「日本の株を買ってるのって、日本人じゃなくて海外の投資家です。投資家が日本の株の情報を得るのは、リアルな声とかではなくメディアを通してです。で、情報で一番インパクトを与えるのは『数字』なんです」

「殺した人数って事か?」

「多分、死者が三十五人になれば『ポートアーサー事件』とリンクして報じられて、『清和デパート』の名前は悪いイメージで一生世界に残ります。そうなれば、2000円でもTOBに応じた方が得だと考える投資家は当然増える」


 山城は唸った。

 仮説としては、確かに無いとは言い切れない。筋は通っているが……何も証拠がない。


「でも、そんな紙屑になったデパート、手に入れても買収側も得しないんじゃないか?」

「買収したらぶち壊せば良いだけっす。跡地に別のものを建てれば。それにTOBがかけられたの七月三十日ですよ。私らが駄菓子屋で会った翌日っす」


 確かに状況証拠は的を外してはいないが……やっぱり素人だ。確実では無い証拠に踊らされて、それしか頭に入らなくなっている。配属されてすぐの頃の相澤が良くなっていた思考パターンだ。

 感情で動いてしまっているので、いくら山城が説得しても聞く耳を持たないだろう。


「ちょっと調べさせてください。類野とこの買収側に何か接点はないかどうかを」

「……分かった。その代わり定期的に連絡は入れろよ」

「うっす」


 そう言って電話は切れた。


 山城は「ま、いいか」とため息をついた。

 とりあえず、山城は愛美のスマホだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る