第21話 七月二十七日 その3

 山城の寝坊疑惑は外れ、凪沙はしっかりと起きてクエストをこなすべく行動を始めていた。


「しっかし……ヤベェっすね、今年の夏は」


 記録的な猛暑とか以前に、そもそも普段、エアコンの効いた研究室から一歩も出ない凪沙からしたら、どんな夏でもヤバい。

 久しぶりの外出で浴びた真夏の容赦ない熱波に、凪沙のライフは既に底をつきそうになっていた。


 とは言っても、止めるわけにはいかない。

 あの論文を書いたのは紛れもなく未来の自分だろう。だとしたら、時間波動の研究をしている凪沙にとって、この事件と関わることがきっと何かしら研究のプラスになると踏んでいるに違いない。

 おそらく、過去を変える事で未来の凪沙が波の変化やその他の情報を受け取り、それを分析して研究に活かすのだろう。


「なんか未来の自分にパシられてるみたいで、ちょっと癪っすけど」


 凪沙は少し不満げに呟いた。


「研究のためなら我慢するしかないっすねぇ」


 それでも釈然としない気持ちは残っていた。


「同じ自分なのに、未来の方が偉いって言う立場がなんか腹が立つっす」


 コミュ障を拗らせすぎて、ついに自分自身すらも敵視してしまう凪沙であった。しかし、先生から託された研究の為、それも我慢する所存だ。


 凪沙は最初に伺う人物が住む団地の前で、昨日、クマから貰ったリストに目を落とす。

 四人の個人情報が書かれたリストの一番上には「田沼かえで」と言う女性の名前と住所が書かれていた。

 しかし、そのリストとは別の場所に書かれた、もう一人、女性の名前があった。おそらく、リストの中にこの女性が存在する事は、昨日来たクマも未来の山城武蔵も知らない様子だ。

 何故なら、その名前はリストではなく、未来の自分が解いたあの論文の最後に、方程式たちに紛れる形で書かれていたからだ。


 名前は「谷口愛美」


「誰だ、この女の人?」

 

 凪沙は論文が書かれた紙の束を見て、首を傾げた。聞いたことのない名だ。

 しかし、彼女の名前だけがリストとは別で、論文の方に紛れ込まされていたと言う事は、恐らく、クマや未来の山城武蔵には知られたくない人物なのだろう。

 谷口愛美の名前のその下には『この女性を最優先でお願いしやす。山城武蔵さんには内緒で』と注意書きがあった。


 谷口愛美という名前の下には住所と連絡先もある。


「どうやって、手に入れたんすか、この人の連絡先?」


 凪沙は首を傾げた。現時点の彼女には縁もゆかりもない女性である。この後、八月一日までの数日の間に彼女と自分が個人情報を交換するほどの仲になるのだろうか? 


「そもそも、どこで出会うんだ? 私、ずっと研究室にいるのに?」


 凪沙の頭に次々と疑問が浮かび上がってくる。


「そもそもなんでVIP待遇を受けるんだ? なんで、クマさんには内緒なんだ?」


 そして、凪沙は一つの結論に達した。

 

「貴族か?」


 しかし、実際に辿り着いた谷口愛美の自宅は平凡な公営団地であった。小学生の頃、一度だけ遊びに行った同じクラスの子が住んでいた団地によく似ていた。

 階段の手摺りのペンキはキリンの模様のように剥がれ、コンクリートの壁は狭く威圧感がある。段差の大きい階段が、子供の頃に上った時と同様、今の凪沙にとっても登山の様に感じられた。


「ついたっす」


 息を切らしながら見上げた三階の右側のドアに「頂上」の代わりに書かれた『谷口』の文字。

 このドアの向こうに谷口愛美がいる。

 そう思うと、中からどんな人が出てくるのか想像もできない状況に、凪沙の人見知りが疼き、インターホンを押そうとした指が止まった。


 しかし、研究の為、ここで帰る事は許されない。


 凪沙は勇気を振り絞り、「ままよ!」とインターホンを押した。


「押して、しまった」


 どんな声がインターホンから飛び出してくるのか想像するだけで、凪沙の心臓の鼓動は速くなり、「願わくば留守でいて」と本末転倒な事を願い始めてしまった。


『はい』


 インターホンから谷口愛美らしき女性の声がした。


「あ、あの、私、東條大学四年の譲司凪沙と言います。あの、谷口愛美さんのお宅でよろしいでしょうか?」


 緊張で声が上擦りながらも、なんとか事前に練習していたセリフを吐き出す凪沙。


『ええ……はい……そう、ですが?』


 しかし、谷口愛美らしき女性の声は明らかに警戒心を帯びたものに変わった。

 いつもの人見知りの凪沙なら「ここは逃げよう」と思うところだが、今日はそう言う訳にはいかない。

 一度引いたら、さらに警戒されて、二度と相手にされなくなる。そのせいでこの人が死んでしまう可能性だってある。研究にも取り返しがつかなくなる恐れだってある。


「あ、あの、決して怪しい者ではないんです。アンケートに協力して欲しくて伺いました。ですから、少しお時間をいただけないでしょうか?」


 今日、ここにくる途中で考えた文言を必死でインターフォンにぶつけたが、いざ口から発してみると、なんとも陳腐だ。


『……大学の研究に関する事ですか?』

「あっ、はい! そうです! か、簡単なアンケートです。本当に」

『……少々、お待ち下さい』


 インターホンは切れた。


 谷口愛美さんは良い人かもしれないが、突然のコミュ障の訪問に明らかに警戒しているご様子だ。


「こうなったら、いきなり最終奥義を使うしかないっすねぇ」


 凪沙はリュックを肩から下ろして、朝、腹に乗っていたクマの警察手帳を取り出す為にリュックのファスナーを開けたが、


「うぎゃあ!」


 ファスナーを開けた瞬間に、普段からグチャグチャに入れているリュックの中身が我先にと飛び出してきた。ペットボトル、教科書、ノート、小銭、イヤホン、そして目当ての警察手帳などが玄関のドア前に散乱した。


「もおおお! ちゃんと整理しとけよぉ!」


 凪沙が過去の自分に文句を言いながら荷物を拾い上げていると、後ろから重い金属のドアが開く音がした。


「あのぉ……」


 インターホンを同じ声にビクッと振り返ると、谷口愛美らしき女性がドアを少しだけ開いて覗いていた。

 凪沙はとりあえず「ども」と会釈をした。谷口愛美は会釈を返さず、何が起きているのかを考えている様子だ。


「すいません。その……ちょっと荷物を取ろうとしたら、中身が落ちてしまって」


 凪沙はぎこちない笑顔とともに、急いで荷物をかき集めてリュックの中にしまった。


「はぁ」


 谷口愛美は手伝わずに見ているだけで、完全に凪沙を怪しい人物だとみなしている。

 ここは起死回生に警察手帳を使うしかない。凪沙は荷物をしまったリュックのファスナーを締め、最後に落ちていた警察手帳を拾い上げ、それを谷口愛美と思わしき女性に見せた。


「あ、あの、さっきは嘘を言って、すいません。実は、アンケートで伺ったんじゃないんです」

「え?」


 人見知りアンド緊張で、しどろもどろになる。だが、少しでも無言になるとすぐにドアを閉めてしまいそうだ。


 凪沙はまず、自分の学生証を彼女に差し出した。


「で、でも、あの、東條大学の学生というのは本当です! これです」

「……はぁ」


 しかし、谷口愛美の反応は薄かった。一応日本で一番偏差値の高い大学なのだが、凪沙のコミュ障はそれを打ち消してしまっている様だ。


「実は、ある人に頼まれて、アナタにお願いがあって来たんです。少し話を聞いていただけませんか?」


 そう言って凪沙はサッと警察手帳を愛美に見せた。


「あの、これ、怪しいものじゃないって証拠です。この警官の方の使いで私、ここに来たんです。警察手帳は本物です。もし、アレでしたら、この方に連絡していただいても構いません! お願いします!」


 そう言って、凪沙は手帳を開いて、中の山城の写真を見せた。


「えっ」


 すると中の写真を見た瞬間、谷口愛美の表情が一変し、今までの無表情が嘘のように驚きに満ちた顔を見せた。


「あの、どうかしましたか?」

「あ、いえ……なんでもないです」


 なんか、急によそよそしい。

 さっきまで警戒していた谷口愛美が急に目を逸らして、弱い立場の人間の様になった。


「あっ、偽物じゃないっすよ。ちゃんと、この人から今日一日だけ借りたんです。その、アナタを説得するのに有効だと思いまして」

「ああ、なるほど……」


 谷口愛美の表情が急に柔和になった。なんだろう、この喜怒哀楽の変化の激しさは。


「やっぱり、大学生より、警察の人の関係者って方が安心すると思って、です」

「え、警察?」


 今度は突然、谷口愛美が鋭い目付きで凪沙を睨んだ。何が彼女の琴線に触れたのか、凪沙には分からなかった。


「はい。あの、警察の人なんです、この人。こんなヤクザみたいな人相してますけど。あ、そこはちゃんと私が裏をとってますので、ご安心ください」

「はぁ……そう、なんですか」


 凪沙はまた谷口愛美の態度が変わったと感じた。

 今度は凪沙をマジマジと観察している様な視線を感じる。


「とりあえず、立ち話もなんですから、中に入ってください」

「え? 良いんですか?」

「ええ……今は暇でしたから」


 しかし、警戒していると思われたが、なぜか谷口愛美は急に玄関のチェーンを外し、凪沙を「どうぞ」と家の中に招き入れた。

 突然の豹変ぶりに凪沙は呆気に取られた。いくら、警察手帳を見せたと言っても、警戒を解くのがあまりにも早すぎる。


「まぁ、いいか」


 凪沙はとりあえず第一段階を成功した事に、内心でガッツポーズをとった。クマの警察手帳が役に立った。



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