第16話 七月二十六日 その3

「それで、アッシへのお話というのは、なんざいましょう?」


 凪沙は研究室の奥にある給湯室からソファに座らせた中年男に声をかけた。「むしろ、お前が引き込んだんだろうが」とボソッと聞こえたが、凪沙は無視した。その後、オジさんは場の空気をリセットするように、小さな咳を一回した。


「今から俺の話すことを最後まで黙って聞いて欲しい。どれだけ、荒唐無稽だろうと、それでも最後までは我慢して聞いてくれ。それでお前が信じられないなら、俺はすぐに帰る」

「潔いですね。気に入った」


 男は凪沙がお茶を淹れるのを待たずに話を始めた。チラチラと時計を見ていたので、あまり時間に余裕がないのだろう。


 オジサンの話はこれから二週間の間に世間で起こることを簡潔にまとめた物であった。

 話を聞いて、凪沙はさっきの警察手帳が偽物ではないことを確信した。何気なく話しているだけだったが、説明慣れが異常であった。

 語彙力は多くはないが、言葉が足らなくても、スラスラと凪沙の頭に整理して情報が入ってくる。


「まぁ、本物でも偽物でも、どっちでもよござんすが」


 沸かしたお湯を急須に入れながら、凪沙はそう呟いた。


「それで、このデパート襲撃事件で三十人近くの人が死ぬらしい」

「やば」

「とにかく時間がねぇんだ。俺も正直、アンタの事は知らねぇ。けど、類野ってやつをなんとかしねぇと、大変な事になるらしい。今、わかってるのはそれだけだ」

「なるへそ」


 凪沙はお盆に乗せたお茶を刑事に出し、向いのソファに座った。

 はっきり言って、刑事さんが話した事は何一つ、凪沙にはピンと来ていなかった。と言うか、大学の外で何が起ころうが基本凪沙に関係のない事と思っていた。


「私から、お尋ねしてもよろしいですか?」

「なんだ?」

「刑事さんは、そんな馬鹿げた話を本当だと信じたんですか?」


 凪沙が尋ねると刑事は罰が悪そうにお茶を一口飲んだ。苦いんだか熱いんだわからない苦悶な表情を浮かべた。


「俺だって信じたくて信じたわけじゃねぇよ。だが正直、デタラメだって言い切れない部分もある。だから、アンタのところにこう馳せ参じて、意見を聞こうと思ったんだ」

「つまり、本当かどうか、刑事さんも判断しかねている、と」


 刑事はため息を吐きながら、頭を掻きむしった。


「やっぱデタラメだよな。嬢ちゃんに話して、冷静になれたぜ。悪かったな急に押しかけて来て」


 と、刑事が立ち上がろうとした瞬間に凪沙は「いえ」と声を発した。


「多分それ、デタラメじゃないですよ」

「は?」


 その場に立ち上がった刑事はその言葉で止まり、凪沙を見下ろした。


「その襲撃事件が確実に起きるとは言い切れませんが、恐らく、その情報が未来から来たというのはデタラメじゃないと思います」

「何か、根拠はあるのか?」


 凪沙は、ソファに座り直した刑事の前に、さっきの数枚の紙を出した。


「これ、なんだか分かりますか?」

「俺がさっき持って来た紙だろ? 数式の」

「この数式がここにあることは、ぜっったいに有り得ないんです」

「どういう事だ?」

「だって、この数式は私の恩師の教授が研究していた……というか、私が今、現在考えている最中の研究です。この研究を今、現在、世界でしているのはこの研究室だけ、」

「つまり、どう言うことだ?」

「この紙に書かれている数式は、私が丁度今煮詰まって、苦悶していた最中だった問題の完璧な答えです。つまり、この数式が現在、この時間に存在しているというのは絶対にあり得ないんです。だから、この紙が未来から来たと言うのは、ムチャクチャ理に適っています」

「……だから、俺の言うことを信じるってことか?」

「そうするしかありませんね。他に可能性があるとしたら、刑事さんが私を遥かに超える頭脳の持ち主か、どっちかですね」


 凪沙はそう言た途端、「あーあ」と嫌味のような大きなため息をついて、不貞腐れたようにソファにもたれかかった。


「お前、怒ってるのか?」

「当然じゃないですか。私が今、必死に考えていたのに、その問題の答えを未来からの手紙で邪魔されたんですよ」

「でも、答えがわかったなら良いじゃねぇか」

「あああああああ、これだから、素人は。この壁にぶつかって煮詰まって煮詰まって『もう、これ以上考えてもダメだ!』ってところまで考えてもさらに煮詰まって、その挙句、ついに真理の光がピカーンと見えた時の快感が良いんじゃないですか! その快感を刑事さんは私から奪ったんですよ!」


 そう言って、凪沙は刑事との間にあるテーブルを拳で強く何度も叩いた。

 あいにく、刑事には何を言っているのかわからず、全く凪沙の熱い想いは伝わっていない様子だった。


「反省してください」

「俺が悪いのか?」

「刑事さん以外に怒りをぶつける人がいないので、そう思っていただけると幸いです。何かに当たらないと、本当に悔しくてやってられません」

「わかんねぇな」


 刑事は頭を掻きむしった。小学生の頃からすぐに計算ドリルの答えを見ていた身で有る刑事からすると、凪沙の言っている事は理解不能だった。


「とりあえず今回の事件、どうやら先生と私の研究にも少し関係があるようですので、アッシも刑事さんに協力いたします」

「お前、ポンポンと安請け合いして良いのか? 相手は殺人鬼だぞ?」

「こっちだって、この研究に命賭けてるんすよ。とりあえず、その類野と言う男を止めると言うことで宜しいんでしょうか?」

「類野は三日後の七月二十九日に駄菓子屋に来るらしいんだ」

「じゃあ、最低でもそこで会える、と」

「それとな」


 刑事はまたポケットから別の紙を出した。


「なんすか、これ?」


 凪沙がその紙に目を落とすと、人の名前と連絡先が明記されていた。


「この四名はそのデパート襲撃事件の被害者になる四名らしい。で、指令が来てる。『この四名を八月一日にデパートに行かせるな』って」

「類野を止められなくても、最低でもこの四名は救えって事ですか……どんな四名なんですかね?」

「それは、俺にも分からん。で、一つ頼みがある。その四名の説得をあんたに頼めないか?」

「はぁ! 私、人見知りなんですけど!」

「俺はこれと並行して、別の事件の捜査もしねぇといけねぇし……類野本人の捜査もある。拳銃の出所とか、お嬢ちゃんにわかるなら、変わってやれるけど……」


 そう言って、刑事は頭を掻き毟った。


「……わかりました」


 凪沙は安請け合いした事を些か後悔した。


「その代わり、お願いが一つあるんですが」

「何だ?」

「警察手帳を明日一日だけ貸してください。それで、刑事さんがこの件に関して本気だってわかるし、明日の私の身分証明にもなります」


 山城はしばらく考えた。

 少しリスクが大き過ぎる。だが、こんな女子大生が一人で赴いて、「八月一日に大事件が起きる」と言っても信じて貰えないのも事実だ。

 確かに警察手帳を見せるのは、人を説得するのには一番手っ取り早い。危ない行動だが、理には適っている。一日だけなら許せる範囲だろう。


「明日、一日だけだぞ」

「ウィッス」


 その時、刑事のポケットのスマホが震え出した。


「悪い」


 そう言って電話に出る刑事の向こう口から、若い男性の声が聞こえてきた。おそらく、捜査の相棒であろうと凪沙は判断した。


「わかった。とりあえず、すぐ行く」


 刑事はスマホを切ると、凪沙の方へ申し訳なさそうに歩み寄ってきた。


「悪い。捜査会議の時間になっちまった。とりあえず、そっちに出てくる。手帳はそれが終わったら持ってくる」

「とりあえず、私が四人をデパートに行く事を阻止と、で、刑事さんが類野って人を探して止める。で、類野は三日後に駄菓子屋に来る」

「よろしく頼むぞ」


 凪沙はため息をついて、スマホをとりだし、刑事と連絡先を交換することにした。


「クマさんで良いですか?」

「はぁ?」

「呼び方ですよ。刑事さんとは呼べないでしょ?」

「だからって、なんでクマなんだよ!」

「だって、クマっぽいじゃないですか、刑事さん。私はハチで良いですよ」

「ハチ?」


 クマさんは「落語かよ」と小声で舌打ちした。

 表示された名前は『山城 武蔵』だが、凪沙はその横に『クマ』とカッコで書き足した。


「じゃあ、俺は行く」


 クマは捜査会議があると言って、部屋を後にした。


 クマが出て行ったあと、凪沙は壮大な欠伸に突然襲われた。それもそのはず、彼女は三日寝ていなかったのだ。しかもずっと解けなかった謎の答えがクマによって与えられ、彼女は壮大に暇になり、気が抜けてしまった


 彼女はソファに座るとそのまま瞼が落ちる様に眠ってしまった。


 翌朝目を覚ますと、凪沙のお腹の上にはクマの警察手帳がまるで布団を掛けるように置かれていた。

 

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