第15話 七月二十六日 その2 

 譲司凪沙はお湯を入れてないカップラーメンを齧りながら、机の上に散乱した大量の敵か味方かもわからない資料と格闘していた。

 格闘技で言ったら、お互いが微動だにせずリング上で睨み合ったまま牽制しあっている体勢。もう何日もその姿勢を崩しておらず、研究室に戻ってくる他の学生が出て行った時から微動だにしていない彼女を見て『おおっ!』と驚くのが、恒例になりつつあった。

 忙しい時の飯はカップラーメンで大抵賄うが、もはやお湯を入れることすら面倒くさくなり、スナック菓子の要領で齧り付いて腹を満たしていた。

 資料と睨み合っているとは言ったが、凪沙の方は完全にリングのコーナーに追い詰められている状態であった。

 研究にはなんの進展もなく、数日、数ヶ月、いや数年が過ぎようとしていた。

 教授が凪沙に残してくれたノートを頼りに研究を引き継いだはいいが、待っていたのは広大な砂漠に一人置いてけぼりにされると言う詐欺まがいのツアーの片道チケットであった。

 考えても考えても、砂、砂、砂。当て所もなく当て所もなく、方程式を解いては牛歩の様な速度で前に進んでいく。ただ、その「前」が本当の『前』かどうかを確認する術は何もない。

 研究と対峙してから、周りから『天才』『神童』などと持て囃されていた時代の難問たちが、ただ教科書と言う檻の中で飼い慣らされていただけの猛獣だったと思い知らされた。


「ちがう」


 先ほど脳天に稲妻が走った会心の方程式は凪沙の予想に反して、正解の数値とはかけ離れた方向へと飛んでいった。

 流石に気力が無くなり、凪沙の上半身は資料で埋め尽くされた机の上に倒れ込んだ。

 相談したくても相談できる人間はいない。何故なら、この研究をしているのは世界で凪沙一人だけだから。この広大な砂漠でどれだけ大声を出しても誰も来やしない。

 一瞬でも情熱が冷めたら、その瞬間に意識から全てを闇に持っていかれる。自分の憧れた人から『託された』と言うこの上ない栄誉だけが、ずっと凪沙を支えていた。


 だが、そのなけなしの気力も、今、尽きかけていた。


「やっぱり、私じゃ無理なん……」


 コンコン。


「ぬ」


 その時、研究室のドアをノックする音がした。

 それでも凪沙は突っ伏した机から起き上がらなかった。

 どうせ、図書館から資料を持って帰って来たゼミの誰かの両手が塞がっているだけだろう。そうタカを括って寝た状態のまま「頑張って開けて下さい!」と大声で叫んだ。


 ドンドン! ドンドン!


 それでもドアをノックする音は止まなかった。むしろ、さっきよりも強くなった。

 凪沙は舌打ちをし、靴すら履かず、裸足のままドアまで歩いて行った。


「もう! ドアくらい自分で開け……て?」


 ドアを開けると、そこには学生ではなく、見覚えのないヤクザのような外見をしたイカついオジさんが、凪沙の胸元を見て、何故だか知らないが顔を赤らめて立っていた。


「……どちら様ですか?」


 凪沙は脳内にある、これまでの人生で出会った人間のアルバムの中から、目の前に立っている男を探したが、やはり、人生で一度も彼には会った覚えはない。


「ああ、あのよ……」


 男は顔を赤くしながら、何かを見ないようにしている感じでモジモジと背広の胸ポケットから、手帳を取り出した。


「俺は、一応、こう言うもんだ」


 その手帳を見た凪沙は不思議に思った。

 大体、その類の手帳を見せてくる人は、もっと居丈高な雰囲気で表向きだけは丁寧な文句を並べて、こっちを自分の都合のいい様にコントロールしようと上から押しつけてくる。だから大嫌いだ。

 だけど、目の前のオジサンからは、その嫌な雰囲気を感じなかった。何故だか知らないけど、物凄く申し訳なさそうな顔をしている。


「……捜査協力とかですか? 教授さんは今、出払ってますけど」

「いや、そうじゃなくてよ! その……譲司凪沙ってのは、お嬢ちゃんか?」

「え?」


 凪沙は頭の中で「何か、やらかしただろうか?」と自分の行動を思い返すが、何も心当たりはない。

 それもそのはず、ここ数日はこの教室から一歩も外に出ていない。強いていえば、買い出しで大学内のコンビニに出かけたくらいだ。


「何か、御用ですか?」


 凪沙は少しだけドアを閉める素振りを見せながら、『はい』とも『いいえ』とも言わず、オジサンに尋ねた。警官らしからぬ挙動不審な態度で怪しい人間だ。ここで何か尻尾を見せたら、思い切ってドアを閉める決意をしていた。


「あのよ、俺はよく分からねぇんだけどよ。これ、ちょっと見てくれるか?」


 そう言って、怪しい中年男は、二つ折りになった数枚の紙を凪沙に差し出した。「ラブレター?」と凪沙の体に一瞬、戦慄が走ったが、裏から透けて見える文字や数字の列を見て、凪沙の時間がピタッと一瞬、本当に止まった。


 かわいい……


 光に透けて見える数式だけで、その方程式がこっちにウインクしているのが分かった。

 凪沙は思わず、生唾を飲み込んだ。


「て、手前なんぞが、み、見てもいいんですか?」

「は?」


 凪沙の予想外の態度の豹変に、今度はオジサンの方が警戒するような顔を見せた。


「あ、ああ……てか、見てもらわねぇと話がはじまらねぇんだよ」


 オジサンは頭をポリポリ掻きながら、ドアから少し下がった。まるで『ちょっと変な言動が出たら、もう帰るか』と言いたげな顔だったが、凪沙にはもうどうでも良かった。


「では不肖、譲司凪沙、拝見させていただきます」

「なんだ、その物言い? つーか、やっぱお嬢ちゃんか、譲司凪沙ってのは」


 凪沙はオジサンからその紙を掻っ払うように取り上げた。まるで飢えた人間が人から食い物を奪い取るような乱暴さだった。「なんだ、こいつ」とオジサンが呟いたのが聞こえた。


 見るからに怪しい中年男が差し出した、怪しい数式が書かれた紙の束。

 しかし、中を開いた瞬間、凪沙の予想通り、脳天に雷が落ちるほどの衝撃を受けた。あまりの衝撃と三日間徹夜をしていて疲弊した体から、凪沙はクラっとその場に倒れそうになった。


「おい! 嬢ちゃん、大丈夫かよ!」


 地面に激突するギリギリのところでオジサンが凪沙の腕を掴んで引き寄せた為、激突は免れ、大事には至らなかった。


「ど、どうぞ」

「は?」

「お話なら、何でも聞きます。どうぞ、中へお入りください」

「い、いいのか?」

「ええ。むしろ、こんな汚い場所に遣わしてしまい申し訳ありません。オジサンの姿を借りたガブリエル」

「やっぱ帰っていいか、俺?」


 もはや、凪沙には目の前の謎の中年男が、変質者だろうが殺人鬼だろうがどうでも良かった。むしろ、キリストの誕生をマリアに告げに来た天使のように見えていた。

『この人がなぜ、この紙を持っているのか?』

 今、世界中のあらゆる謎や問題の中で凪沙に関心があるのはただそれだけであった。

 むしろ、帰ろうとするオジサンを凪沙の方が強く引っ張り、クラーケンのように研究室の中に引き摺り込んだ。


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