第13話 八月五日 その4
今日も暑い。
日も暮れて来たのに工場街のアスファルトと壁は昼間に溜まりに溜まった熱をまだ地面に残していた。この纏わりつく嫌な熱気を感じると、駄菓子屋で類野を見た時のことを思い出す。
蒸し焼き機のような街で、類野の座っていた周りだけは涼しげな風がスーッと吹いていた。だが、類野が一瞬だけ、この蒸し暑い空気よりも不快な獣臭い匂いを発したのも見た。
どちらが類野の本性なのか。
山城の前を行く凪沙はこんな蒸し暑い中でもぐんぐんと前に進んでいく。長時間歩き慣れている山城ですら、早足でないと追いつけないほどだ。
「ムサシさん、入りますよ!」
凪沙はすでに駄菓子屋のガラス戸を開けて、中へ入ろうとしていた。男の山城に頼らず、ぐんぐん一人で前へ進んでいく凪沙の行動力に山城は少し頼もしさを感じた。しかし、それと同時に凪沙の華奢な腕を見て、危なっかしさも覚えた。
類野のあの獣臭い視線の先にいたのは凪沙と婆さん。今まで考えていなかったが、あれはどちらに向けられた視線だったのだろうか?
「いらっしゃい」
ガラス戸は締め切られていたため、店の中は蒸し暑さが充満していた。よくこんな暑さの中で座っていられるなと山城は思った。
続いて山城の視線は婆さんから、左手のもう一つのガラス戸へ向いた。今日はベンチには誰もいなかった。
類野が死んだのは紛れもない事実、最低でもこの時間にはもういない。
だが、今でも死んだ類野の気配を感じながら、その類野に動かされている事に山城はずっと気持ち悪さを感じていた。悪霊に取り憑かれるのは、こんな感じなのだろうか?
「お婆ちゃん、私たちに何か、伝言とか届いてませんか?」
凪沙の質問にお婆ちゃんは少し考えて、
「今のところは何もありませんねぇ」
凪沙はそれを聞いて、山城の方を振り返った。
「ムサシさん、どうします?」
──類野を止めろ──
あの伝言の意味、今の山城なら理解できる。そして『カリフォルニアロール』という言葉がついていた意味も……だが、あの時点では山城は類野という人間を知らなかった。
だから、その言葉の意味を知ったのは、あの事件が発生した後のことだ。それでは遅い。
今まで揃えた情報から、この婆さんが過去に伝言を届けられるのは、原理はよく分からないが……これを信じなければ、話が先へ進まない。
「この婆さん、伝言はどこまで可能なんだ?」
山城は凪沙にそれを聞かせた。
「過去になら、いくらでも伝言できます」
お婆ちゃんは変わらないニコニコした笑顔で答えた。
「未来にはできないんですか?」
「現在よりも未来の方が早く動いているから難しいんです」
婆さんは残念そうにそう言った。
言葉の意味は山城にはチンプンカンプンだった。だが、山城の前で通訳をしている少女は「なるほど」と瞬時に納得した様子だった。
「おい、ジョージ、どういう意味だ?」
山城は凪沙の肩を指で突いて、尋ねた。
「あれですよ、多分。宇宙って先端に行くほど、膨張の速度が速いじゃないですか? それと同じように時間も先端に行くほど、膨張の速度が速いんだと思います」
凪沙は小声で「時間は対称じゃないんすねぇ」と呟いた。
その説明を聞いて、山城は余計に「はぁ?」と顔を顰めた。意味がわからないから理由を聞いたのに、その理由がさらに意味不明であった。
「わかんないならいいです。そういうもんだと思って下さい。人間、わかる事とわからない事があるんすから」
「それでいいのか?」
「教授が言ってました。『賢い人ほど、そういうものだと知ってる』って。『なんか知らないけど、未来には送るのは難しい』って、ムサシさんは、それでいいんですよ」
物理とかを勉強している人間ほど、そう言う曖昧さを許さないケツの穴の小さい奴らだと思っていた山城は、凪沙のおおらか過ぎる考えに呆気にとられた。
「そもそも私達が知ってる事を未来に送るってことは未来の私達も当然知ってますからねぇ」
「確かにそうか」
「とりあえず、この前、私たちが受け取ったメッセージは送信しましょう」
「ああ」
山城もそれは納得だった。
過去の自分がそれで動く事はないが、それがなければまず『類野』という男を意識することができなくなる。
凪沙は『類野を止めろ』と言う伝言を婆さんに伝えた。
「なぜ、類野はこの婆さんをほったらかして死んだんだ? 証拠を隠滅したいんなら、この婆さんを殺してから、事件を起こして死ぬんじゃねぇか?」
「それはぁ……」
凪沙は少し考えて答えた。
「やはり、時間を行き来するのにお婆ちゃんが必要だからじゃないですか? それ以上は流石に分かりませんけど」
「そういうもんだって事だな」
「まぁ、証拠が揃ってないで考えると、間違った方向に進みますよ」
山城は凪沙の言っている事に納得した。しかし、内心では歯痒さも感じた。
『そういうものだ』
それを良しとせずに捜査して証拠を集めて立証するのが警察の仕事である。今までの山城はそういう生き方をしていた。
今、求められるのはそれとは真逆の考え方。
山城にとって今ほど、自分が警察を辞めたと実感した瞬間はなかった。
「でも、どうします? あの日の伝言では私たち二人は動けませんでしたよ。何か工夫しないと、また同じことの繰り返しです」
凪沙の声に山城も考えた。
そして、山城は一つ閃いた。
「なぁ、ジョージ。お前、この駄菓子屋に来たのは、あの日が初めてか?」
「そうですけど」
「俺は、あの日よりも三日前にここに来ていた」
「本当ですか!」
凪沙は勢いよく山城の方を振り返った。
「ムサシさん、お手柄じゃないですか!」
「なんで上から目線なんだよ」
が、そこで凪沙の思考は大きな問題に直面し、スッと気持ちが冷めて、「あ、だめだ」と呟き、空気が抜けたみたいにその場に座り込んだ。
「私たち、あの日ですら動かなかったのに、その三日前なんてもっと動かないですよ? 『類野って誰やねん!』ってムサシさんが突っ込んで終わりっすよ」
そう言う凪沙に、山城はニヤッと笑う。
「大丈夫だ。動かす方法はある」
「マジですか?」
「俺は三日前からこの近辺で焼死体事件の捜査をしていた。その時の休憩にここに立ち寄った。だから……」
「あ、ネックレス!」
凪沙は山城の説明を半分も効かないうちに手を叩いて答えた。
山城はギョッとした。この女、察しが良すぎる。頭が回らない相澤に慣れている山城は、回りすぎる彼女にペースを乱された。
「まず、『カリフォルニアロール。焼死体のネックレスの持ち主は類野紀文』この一文で、その日の俺はきっと類野という男を意識する。それに『東條大学の譲司凪沙の元を訪ねろ』か」
「でも、その日の私はムサシさんを知りません。それこそ『誰やねん!』ですよ」
「そこだな」
山城もそこで頭を抱えた。
今の山城と凪沙は『類野紀文』という男という共通点でピン留めされている。だが、その類野との接点のない、駄菓子屋で会う三日前の山城と凪沙を繋ぎ止める共通点は、その時間には存在していない。
「あっ!」
その時、凪沙が何かを思い付いて立ち止まった。
「ジョージ、どうした?」
「あります。私が『絶対に信じる』方法が」
「本当か?」
凪沙はすぐさまリュックを下ろして、中から大学ノートを取り出した。
「お婆ちゃん、このメモを過去に伝えることって可能ですか?」
凪沙はそう言って、大学ノートの中の何かをお婆ちゃんに見せ始めた。
「はい。メモに書いて送る事もできますよ」
「お願いします。それでその時間のムサシさんに『このメモを譲司凪沙に渡せ』と言って下さい」
「はい。分かりました」
「おい、そのメモはなんなんだ?」
「ムサシさんじゃ、絶対にチンプンカンプンですから、言うだけ無駄です」
振り返りもせずに凪沙にそう言われ、山城はムッとしたが、そこはスッと引いた。
「……そう言うもんって、ことか?」
「はい! 私を信じて下さい! 絶対に過去の私は信じますから!」
そう言われ、山城はカッと混み上げていた熱を必死で抑えた。相澤なら怒鳴っていたが、凪沙はいつも山城のリズムを上手に崩してくる。
「あとは、これまでに起こった事を山城さんに伝えて、それも私に伝える。そうすれば、三日前から行動を開始できますね」
山城は凪沙から大学ノートを一ページ貰い、そこに事件の概要を簡潔にまとめた。
「これを渡せば、俺ならわかる」
「顔に似合わず簡潔にまとめますね。さすが刑事さん」
凪沙が伝言を締め切ろうとした時、山城は思い出したように声を上げた。
「あと、ジョージ。もう一つメモを頼む」
「私にですか?」
「違う。別の人間にだ。もう一枚、書くもんくれ」
「はい」
山城は凪沙からもう一枚紙を受け取り、何やら書き始めた。そして、そこそこ長い文章を書き終えると、
「お婆さん。これを山城武蔵にメモで伝言してくれ」
「はい。分かりました」
「それで山城に言ってくれ、『カリフォルニアロール。このメモを見ずに相澤に渡せ』と」
「はい。分かりました」
「誰ですか、それ?」
凪沙が首を傾げながら、山城に聞いてきた。
「俺の……部下だ」
山城は申し訳なさそうに、そう言った。
「今の微妙な間は何ですか?」
「うるせぇな!」
山城は部下という言葉に『元』を付けるかどうかで一瞬迷った。だが、付ける事に不思議と体が抵抗した。
「とりあえずは、これで行くぞ」
「え?」
山城が言うと凪沙はなぜか不思議そうな顔をした。
「どうかしたのか?」
「だってムサシさん……奥さんに伝言しなくて良いんですか? 『デパートに行くな』って」
「あっ」
凪沙に指摘されるまで、山城はその選択を全く頭に入れていなかった。
「……いや、いい」
しかし、少し考えて山城はその選択肢を消した。
「え、でも」
「それをすると愛美以外の他の客が死ぬ事になる。アイツはそれを望む性格じゃない」
「……わかりました」
凪沙は納得がいかないと言う口調で言った。彼女なりに『そう言うものだ』と思ってくれたようだ。
「その代わり、愛美以外の四人に『デパートへ行くな』と知らせる」
「四人も?」
「一人は田沼かえで」
「……ああ、捜査協力して貰ったって言う。あとの三人は?」
「試着室の中で死んでいた三人だ」
山城の言葉に凪沙の表情が変わった。
「……ムサシさん、命知らずっすねぇ。こっちから類野に宣戦布告するなんて」
「不満か?」
「いえ、やりましょう」
「やったら最後、俺たちの命は本気で危なくなるぞ」
「覚悟の上ですよ」
そうだろうな。
内心で山城は思った。さっきのベンチでの凪沙の表情を見れば、断る気はない事は察していた。
凪沙はそう言って、自分のメモ書きから『田沼かえで』の情報、そして試着室で死んでいた三人の情報を山城が婆さんに伝えた。
そしてメッセージは過去に向けて、発信された。
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第一章は今回で終わりです。
次回から第二章です。
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