第6話 八月四日 その2
公園の日陰に入ると暑さも少し和らぎ、森の木々の間から吹く風に、山城はスーッと気分が落ち着いた。ふと駄菓子屋の類野がいたベンチを思い出した。
山城と凪沙は日陰にあった石で出来た丸椅子に並んで腰掛けた。
「とりあえず、アッシの方から何が起きているかを説明していきますねぇ」
凪沙はボロボロのリュックから大学ノートを取り出した。それと一緒にもみくちゃに入っていたイヤホンやらメガネケースなど、幾つもの中身が雪崩のように飛び出して来た。
「あちゃー」と言いながら、渚は地面に落ちたそれらを一つ一つ拾っていく。
山城は屈んだ体制になった凪沙の胸元から目を逸らした。一緒にいると気を遣って仕方がない。
「ダラシねぇな」
「すいやせん」
山城は自分の足元に転がって来た教科書らしき本を手に取った。
「ん?」
手に取った『理論物理学 入門』と書かれたボロボロの教科書。駄菓子屋でも見たものだ。
しかし、近くで改めて見ると、付箋の数もそうだが「何度読み返したらこうなるんだ」と言うほどの迫力があるボロボロさだった。教科書などろくに読んだことがない山城からしたら、これだけでも驚くべき光景である。
「誰かのお古か、この教科書?」
「あ、それ、中学一年の誕生日プレゼントに買ってもらったんす」
「はぁ? この教科書をか!」
山城は変人を見る目で凪沙を見た。
生まれてこの方、数式を見ると虫唾が走るという奴はいたが、わざわざ誕生日プレゼントに教科書を買ってもらう程のバカな人間など見た事がない。
「はい!」
対して、凪沙は一点の曇りもないという笑顔を山城へ返した。
「その教科書を書いた教授がいる今の大学に入るために、中学生の時から、何度も読み返して勉強しましたから、もうボロボロっすね」
そう言いながら「どうも」と取り組みに勝った力士の祝儀のように教科書を受け取る凪沙。
「でも、私が大学に入って、やっと先生のゼミに配属されてスグに先生亡くなっちゃったんですけどねぇ」
凪沙は「ハハハ」と自嘲気味に笑った。
年頃の女子が中学一年生から大学の物理の教科書を何度も読み返していたと言う異常な執念を、彼女はなんて事のない当然の事だと言わんばかりに言った。
ただの変な女だと思っていたが、山城は「自分は彼女を見損なっていたのかもしれない」と緊張感が走った。
「っと、私の話はこれくらいにしておいて」
凪沙は荷物をリュックの中に仕舞い、ファスナーを閉めた。
「本題に入りましょう」
凪沙に促され、山城も本来の目的を思い出した。
長年、刑事として一癖も二癖もある犯人達と渡り合って来た自負のあった自分が、わずか数秒だが女子大生に主導権を握られていたことに気づいた。
「で、そのよ……何がどうなってるんだ?」
「それを説明するためには……えーっと」
凪沙は自分のスマホを操作して、山城に見せて来た。
「まず、この記事を見て下さい」
凪沙が見せてきたスマホの画面、相澤がよく見ているニュースサイトの記事であった。
「清和デパートで銃撃事件……二十七名が、死亡?」
山城の眉間に深い皺がよった。
「死亡者の数が増えてるじゃねぇか。確か二十一人だったはずだろ」
「そうなんです。六人、死亡者が増えているんです」
「この記事は今日のか?」
「違います」
凪沙は山城からスマホを取り返して、操作を始めた。
「この記事は事件が起きてから数時間後のネットニュースです。つまり、三日前です」
「三日前?」
山城はそんな筈はないと思った。事件が起きた直後のニュースや記事は目に入るものは全て確認した。どのニュース記事も、確かに死者は二十一名だった。
「他のニュースサイトでも、事件発生してすぐの記事、死亡者は二十一名ではなく二十七名になっています」
凪沙は改めて、山城に別のニュース記事を出して見せた。
「そんな筈は……」
それは山城も確かに確認したはずのニュース記事であった。だが、死亡者数は二十一人から二十七人に確かに増えている。
「それだけじゃ無いんです」
凪沙はまた別の記事を出した。
「これも見てください。死んだ類野紀文に関する記事です」
山城は凪沙が見せるスマホの記事に目を通す。
『パトカーで連行中、T区の管轄の警察署の前で自殺を図った模様──』
記事は類野が逮捕され、警察に連行される途中で自殺を図った記事であった。
「類野が自殺した記事か」
「わかりますか?」
凪沙が山城に何かを促したが、山城にはどこがおかしいのか分からなかった。
「おかしい所があるのか? 連行中に自殺を図ったのは間違っていないが……」
「死者二十一名の時の記事では『自殺したのはT区のデパート付近の交差点辺り』って書いてありました。それが警察署の前に移動しています」
山城は「そうだったか?」と首を傾げた。相澤の『類野が死んだ』と言う言葉のインパクトに気を取られ、死んだ場所までは詳しく覚えていなかった。
その時、山城はハッとした。
「いや、待て」
「はえ?」
「お前、なんで刑事の俺よりも詳しいんだ?」
山城は刑事であるため、こう言う事件の詳細を記憶する回路がすでに脳内に出来上がっている。
事件とは縁の無い生活を送っているはずの大学生が山城よりも事件を鮮明に記憶していると言うのは、いささか不自然だ。
しかし、凪沙は動揺するそぶりも見せず、「ああ」とニコニコしながら答えた。
「私、一回見たものは一瞬で覚えて、ずっと頭に記憶していられるんです」
「はぁ?」
山城は、返ってきた非常にシンプルな答えに納得がいかないという声を出した。
「ほほう。その声、疑っておりますな。じゃあ、証拠を見せて差し上げます」
そう言って、凪沙はノートをペラペラと捲り、
「私と刑事さんが見たはずの事件翌日の新聞記事はこうだったはずです」
山城に大学ノートを見せてきた。
そして、そこに書かれていたモノを見て山城は驚愕した。
「お、お前……これ本当に自分でカいたのか?」
「うす! 二時間かかりました」
ノートに書かれていたのは、朝の一面記事を事細かに正確に模写した手書きの新聞記事だった。写真の模写から、細かい文字に至るまで、全てが完璧に(と言っても誰も全てを把握していないが)、鉛筆での手書きで書かれていたのだ。
「てか、私が書いたとか、そんな事はどうでも良いですよ。私の記憶の『死者二十一名の時の記事』はデパートの正面を空撮したものが一面の写真でした」
山城は凪沙のノートの絵を見て、細かい部分はわからないが『確かにこんな写真だった』とシックリきた。全ては分からないが、文章も読んだ記憶のある文字列がいくつか確認できた。
「で、こっちが現在の『死者二十七名版の新聞記事』です」
そう言って、凪沙は今度は本物の新聞記事を見せてきた。
「記事の死亡者は二十七名になっています。あと、写真が警察署前に変更されています」
山城は二つの記事を見比べた。確かに凪沙が模写した方の記事が自分が見たモノの方がシックリ来た。
「どうして、過去が変わったんだ?」
「変わったと言うより、過去が上書きされたんです」
「現実にそんな事が起こるはずねぇだろ? だったら何故、俺達の記憶だけそのままなんだ?」
「それはまだ説明できません。ただ、私たち二人の頭にある記憶は上書きされる前の記憶で、今の現実世界は上書きされたこっちなんです」
凪沙はそう言って『二十七名死亡』の新聞記事を山城に突き出した。
「俺たち以外の人間が、何者かに何かされちまったって言いたいのか?」
「それは、ちょっと違うんですよねぇ」
凪沙は「うーん」と難しそうな表情で唸り出した。
「ここから先の事を一般の人に説明するのは大変難しくて、聞かされる刑事さんのことを思うと心苦しいんですけど」
「今更、何を改ってんだ? お前、何が起きているのか、わかってるんだな?」
「だって、今起きている事象こそが私の先生の研究テーマだったんです」
「あん?」
「過去も現在も未来も絶えず変化しているんです。ですから『過去が変わる』と言うのはおかしな事ではありません。
むしろ、過去、未来、それに伴って現在が絶えず変化し続けている状態こそが本来の安定した状態なんです」
凪沙の演説を聞いた山城は「何を言ってんだ」と鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。それだったら、俺達の記憶ってのは、変化のたびに絶えず上書きされてなきゃおかしいだろ」
「あ、刑事さん、その通りです!」
凪沙がビシッと山城を指さした。
「そうなんです。問題は私たち以外の人々じゃなくて、私たち二人なんです!」
凪沙は話を続けた。
「刑事さんの言うとおり、過去、未来が変化すれば、その度に『人間の記憶も変化する』はずなんです。
なのに、私たち二人の記憶だけが『二十一人の死亡』から変化していない。それが何を意味しているか、お分かりになりますか?」
「いや、全く」
「思考過程をエビの殻のように全て省き、美味しい実の部分の結論だけを言えば。
この過去の変化は自然ではなく、人為的に誰かが無理やり起こした物だと言う事です。そして、この人為的な無理やりに起こした過去改変には、私たち二人が何らかの形で関わってしまっているんです。
理由は不明ですが、私たちは、この人為的に起きた過去改変の北極星的な役割『特異点』になっている。だから記憶が上書きされないんだと思います」
山城は話が飛躍していて、ついていけなくなっていた。
「誰かがって、誰が起こしてるんだよ?」
「私と刑事さんが人生で一緒になったのは、あの日だけでしょ?」
「あの日……駄菓子屋か」
「具体的な事はわかりませんが、あの日の駄菓子屋が関わっている筈です」
そこまで説明された山城は、あまりにも荒唐無稽な凪沙の理論に吹き出しそうになった。
「真面目に話しているところ悪いんだけどよ、ジョージ。そんなS Fを急に言われても、信じられねぇよ」
正直、この短い時間の中で山城は凪沙という人間の能力に一目置くほどになっていた。しかし、そんな彼女が話した内容だとしても、信じるにはあまりにも荒唐無稽過ぎる。
「じゃあ、奥さんが死んだ事をどう説明するんですか?」
そう言われ、山城は一瞬、心臓を撃ち抜かれた様に全身の動きがピタッと止まった。
「私が記憶している『二十一人の死者』の時の記事の死亡者リストに刑事さんの奥さんの名前はありませんでした」
山城は愛美が言っていた言葉を頭の中で反芻した。
──まるでどこに誰がいるのか、わかっているように拳銃を撃っていた──
凪沙の言う通り、類野紀文が人為的に過去を改変しているとしたら、この射撃のカラクリは説明できる。
ゲームのように何度もやり直しているからだ。
そして……愛美が死んだ理由も説明が付く。
類野は愛美がどこにいるのかを『二十一人死亡』の時に確認していたからだ。
だから、足を撃たれただけだった愛美が『死亡』に変わった。
しかし、だとしたら──
山城は唇を噛み締める。
だとしたら──愛美を殺したのは『刑事である自分』と言うことになる。
山城は、離婚する時に頭の奥に押し込んだ大きな後悔が吹き出しそうなのを必死で止めるために、頭を抱えて体をなるべく小さくした。
「あの駄菓子屋のお婆ちゃんが言ってましたよね! 類野を止めろ! って」
頬を伝うそよ風ですらピリピリと痛むほどに感じる今の山城の耳元で、凪沙の大声が響いた。
「今から、あの駄菓子屋に行ってみましょう。何か分かるかもしれません。私たち二人しかいませんよ、奥さんを助けられ……」
「黙れ、クソガキ!」
山城の怒鳴り声に、前のめりになっていた凪沙の体勢は「ひっ!」と後ろになった。
「そんな夢見がちなガキの妄想を『はいはい』って信じられるかよ」
山城は立ち上がり、逃げる様にその場を後にした。
「ちょっと、刑事さん! 類野は死んでるんですよ! また、過去をやり直しますよ、きっと! 犠牲者がどんどん増えちゃいますよ!」
過去に戻れるなら、山城は愛美に出会う前に戻りたいと思った。
自分に関わらない人生を歩めば、彼女はもっと幸せになれたはずなのに。
彼女を自分が殺したなんて認めるくらいなら、頭のおかしい異常者として生きていく方がマシだ。
山城はスマホを取り出して、着信履歴の一番上の番号を押した。
「相澤」
「ちょっと、電話も出ないで!」
「悪い。愛美が死んで、頭がどうかしちまってたわ。お前、ちょっと迎えに来てくれねぇか?」
「もう行ってますから、その場を動かないでくださいね!」
相澤からの電話が切れた。
「……カリフォルニアロール」
山城は相澤の声が抜けたスマホにボソッと呟いた。
駄菓子屋で凪沙は確かに山城にそう言った。
それは山城と相澤が『緊急時にお互いに情報を送るための合言葉』だ。
その言葉を知っているのは山城と相澤だけだ。そして『その言葉が出た時の命令は厳守』と決めてある。
あの命令をしたのが未来の山城だとしたら、どうやって愛美を殺した現実を受け止めたのか?
今の山城には不思議で仕方がなかった。
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