八月四日 事件三日後

第5話 八月四日 その1

 愛美の入院は三日間に伸びた。

 検査は翌日には終わったが、怪我で歩くのが難しく、歩けるくらいに痛みが引くまで特別に入院の許可が降りたのだ。

 その間、愛美の病室にも刑事が話を聞きにやって来たそうだが、愛美は何故かだんまりで山城に与えた情報を話そうとしなかったらしい。

 すでに犯人は死んでいて、裏付け捜査をしているだけの刑事達からしたら、話がややこしくなる情報でもあった為、愛美のその態度をいちいち指摘するのは止めたが、無言を貫く愛美の姿を想像して、山城は心が締め付けられた。


 事件の翌日、山城は追加の着替えを愛美に渡した後、一階のロビーを彷徨いた。

 昨日のあの女の姿は……何処にも見当たらない。


「結局、来てねぇのかよ」


 内心、少しだけ期待していた節もあったので、姿すら見せない事に山城は興醒めした。

「あーあ」と誰に向けているか分からないワザとらしいため息をついて、ロビーのソファから、壁の大きなテレビに目をやった。


 朝から気が狂うほどに報道されている類野紀文と言う男の情報。

 幼少期の類野、学生時代の類野、自衛隊時代の類野、辞めてからの類野。

 どれも凶悪犯罪を犯した後に聞けば「ああ、やっぱり」と納得がいってしまう事だが、そうでなければ、大したことのないエピソードばかりだ。

『そんな一面があっても、人を殺さない奴の方が大半だよ』と山城はワイドショーの司会者を睨みつけた。「人を殺すのをなめんなよ」と、類野の肩を持ってるような事を思ってしまった。

 事件翌日、現場のデパートは一週間の臨時休業となり、株価はストップ安を連日記録した。たかだか一週間程度で、あの苦い記憶が戻るとも思えず、当面は売り上げが落ちるだろう。

 経済の専門家という男が真顔で「そんなの俺でも分かる」という内容を話しているのにイラッとし、山城は立ち上がり病院を後にした。


 それから愛美が退院するまでの間に類野紀文の捜査は進展する。


 デパートの襲撃事件の翌日、警察によって類野紀文の自宅アパートの家宅捜索が行われ、家から綿密な犯行計画が書かれたノートが大量に押収され、衝動的な犯行ではなく、何度も下調べを繰り返した計画的なものだと解った。

 ノートの内容を見た刑事達の反応は「こんな細かいところまで、どうやって調べたのか分からない」と言う内容であったという。

 そんな綿密な計画を練って、大勢の人間を殺して、何があるというのか?


 デパートそのものに恨みがあったのだろうか? 


 一番の大きな疑問は──なぜ死んだ?


 進展のない焼死体事件とは裏腹に、次々と意外な事実が明らかになる類野の事件にどうしても頭が引っ張られる。


 事件から三日後。愛美の退院の日。

 山城は捜査本部を抜け出し、病院へ足を運んだ。

『退院くらい、自分でできるわよ』と愛美からは釘を刺されたが、それを押し切る形で「行く」と言った。

 夫でなくなってから、挽回するように夫らしい振る舞いをしている自分を、内心冷めた目で見ているもう一人の自分がいた。それでも誰が得をするのか分からない贖罪を山城は勝手に遂行した。


 病院の最寄りの駅から外に出ると、今日も蝉時雨と暑い空気が全身にまとわりついて来る。

 電車に乗る前に愛美に連絡を入れたが、返事がまだ帰って来ない。

 確か昨日「十時までに退院の手続きをする」と言っていた。それを頼りに山城は病院にやってきた。


 今の時間は九時半。


 愛美はまた、三日前のような顔を自分に向けるのだろうか?

 ニコッと笑って「ありがとう」と言ってくれる事はないだろうが、彼女をそういう風にしてしまったのは紛れもなく自分である。

 刑事などいなくても、裁きというのは常日頃から誰にも知られる事なく行われている。


 その時、ポケットの中のスマホが震えた。

 表示には『相澤』と出ていた。


「なんだよ?」

「山城さん、今何処にいるんすか?」


 山城は舌打ちが出た。


「『病院に行く』って言っただろ?」


 相澤には昨日のうちに退院のことは言ってあり、『一時間だけ抜ける』と伝えた。「別れてからの方がラブラブっすねぇ」と茶化していた癖に、なんだこの電話は。


「切るぞ」

「いや、病院って、山城さん、どっか悪いんすか?」

「ふざけてんのか、テメェ。愛美の退院に付き合うって言っただろ!」


 その捨て台詞で電話を切ろうとしたが、耳を離したスマホから、相澤の声がまだ聞こえた。


「いや、ちょっと何言ってんすか、マジで? 葬儀、始まりますよ」


 葬儀?

 山城はその言葉にスマホをまた耳に当てた。


「葬儀って、誰か亡くなったのか?」


 山城がそういうと、電話の向こうの相澤は余計に慌て始めた。

 何やらスマホの向こう側で誰かと話し合いをしている様子だ。


 なんだ、これ?

 山城も何かがおかしいと察知した。


「おい、相澤。何があったんだ?」

「ちょっ、とにかく、今から迎えに行きますから。何処の病院すか? 今、葬儀場、山城さんがいないって大騒ぎですよ」


 耳に当てたスマホと皮膚の間にジトーと汗が滲み出し、不快な気持ちを山城に伝えてきた。

 なんだ、この噛み合わない会話は?


「おい、相澤。誰の葬儀なんだ? 俺が居ないと大騒ぎって、」

「誰って……奥さんですよ」

「奥さん?」


 相澤が間を空けて「奥さん」と言った事で、山城の頭に思い当たる人間が一人浮かんだ。


「愛美」

「そうですよ。山城さん、九時半から葬儀始まるのに来てないから……場所言えば、俺が迎えに行くんで、動かないでください」

「愛美が死んだって、いつ? 昨日に、容態が急変したのか?」

「昨日は、お通夜だったじゃないですか!」

「お通夜」


 相澤の涙交じりのような怒鳴り声に、山城は声が止まった。


「もう良いですから、そこに居てください!」


 山城はふと自分を見下ろした。

 大きな違和感が体の中を虫のようにモソモソと動き始めた。


 履いている靴が、いつもの革靴じゃない。黒く綺麗に磨かれた、特別な日にしか履かない革靴。

 その上のズボンもいつものベージュの背広ではなく、真っ黒な折り目がハッキリと入った喪服。

 普段はノーネクタイで通す山城は首元に蛇が巻き付いているような不快な違和感を感じた。近くのガラスでそれを確認すると漆黒のネクタイ。


「愛美が、死んだって?」

「三日前にあのデパートの事件で、類野に撃たれて」


 相澤がそこまで言って、涙で言葉に詰まった。


「愛美は撃たれたが軽傷だっただろ? 今日、退院する……」

「もう、良いですから。そこに居てください! どうしちゃったんす……」


 山城の近くを救急車がサイレンを鳴らしながら、通り過ぎていく。

 そのせいで、電話の向こうで何やら叫んでいる相澤の声が聞き取れない。


 焦ったくなった山城は、サイレンに誘われるように走り出した。


 病院のロビーの受付に並んでいる人を無理やり掻き分け、ガラス窓の向こうにいるギョッとした表情の看護師に向かって怒鳴り気味に聞いた。


「ここに入院している谷口愛美はいるか! 三◯三号室だ!」

「じゅ、順番に受け付けておりますので、後ろにお並び下さい!」


 山城は「くそっ!」とカウンターを叩き、直接愛美のいる病室へと走った。電話の向こうで相澤が何か言っているがお構いなしである。


 三日前に死んだ?


 山城は確かにこの廊下で車椅子に乗せられた愛美を見たのだ。

 初めて来る病院なのに、病室までの道順がわかるのが、愛美が生きていた何よりの証拠だ。


 三〇三号室。

 入り口のネームプレートに愛美の名前はない。退院するから外されただけとも考えられる。


「愛美!」


 山城は名前を呼びながら、病室のドアを開けた。


 部屋の中には誰もおらず、洗濯された布団とシーツがベッドの上に畳んで置かれているだけであった。


「俺に会わないために、早めに退院したのか?」と山城は訝り、廊下を歩いていた見覚えのある看護師さんに声をかけた。


「すいません。この病室にいた谷口愛美って、何処に行きました?」

「は?」


 しかし、看護師は「何を言ってるの?」という表情で山城を見た。


「そこの病室でしたら、しばらくの間、誰も使っていませんが?」

「じゃあ、谷口愛美は何処にいますか?」

「谷口愛美? どちらの科を受診された患者様ですか?」


 山城は看護師の返事に唖然とした。

 あれだけ、愛美のことを世話していたはずの看護師が愛美の事を知らない。


「あの、失礼ですけど、どちら様ですか?」


 山城は警戒した表情でそういう看護師を見て、突然怒りが込み上げてきた。


「何がどうなってるんだよ、おい!」


 平静を保てなくなり、その看護師に向かって、犯人を問い詰めるような怒気で叫んだ。

 看護師は悲鳴を上げながら、その場を逃げ出した。

 それと入れ違いで医師や事務員など数名の男性が山城の方へ向かって来るのが見えた。


「どうなってるんだ?」


 山城はひとまず、非常階段に戻り、下へ逃げる事にした。

 階段を降りている間に喪服の上着とネクタイを外し、一階のロビーの人混みの中に紛れ込んだ。

 入り口付近にいる守衛が、携帯無線で何か話をしている。

 もう、この病院にはいられない。裏口を探して、直ぐにでも立ち去らないと捕まる。


「あ、いたぁぁぁ!」


 その時、山城の目の前で、弾けるような大声がし、猫騙しを食らった様に仰け反りそうになった。


「よかった。刑事さん、やっと会えた!」


 それはあの駄菓子屋の女だった。


「お前。駄菓子屋の」

「やっぱ、刑事さんは私の事を覚えてるんだ!」


 刑事さんは?

 その一言に山城は違和感を覚えた。


「刑事さん、とりあえず、ここから逃げましょ。事情はそこで説明します。三日前の約束と一緒に」


 三日前?


「おい」

「はい?」

「俺は三日前、ここの病院にいたのか? いたんだよな! だからお前が覚えてるんだろ!」


 山城がそう尋ねると、女は何故か「あー……」と言いながら、困った表情で目を逸らした。


「何がどうなってるんだ! お前以外の人間に何があったんだよ!」

「その事についても説明しますから。とにかく、早く逃げましょ。捕まっちゃいますから!」


 彼女は山城の右手を弱い力で引っ張った。

 山城はその柔らかい感触の手に、ほっと安心した気持ちがした。


 彼女が一緒にいたため、山城は堂々と正面の出入り口から外へと出た。

 守衛といっても、会社から派遣されているだけの雇われである、そこまで目を光らせているわけではない。


「とりあえず、そこの公園に行きましょ」


 病院を出ると女は山城の手を握っていない方の手で「あっつー」と自分を扇ぎ始めた。


「あ、名前、言い忘れててすいません。私は譲司凪沙と言います。ジョージでもナギサでも好きな方で呼んでください」


 病院の側の公園に向かう間、自己紹介慣れしているような口調で彼女は山城に言った。


「じゃあ、ジョージ」

「はい」

「靴下の色が左右違うぞ」

「え?」


 凪沙はそう言って、自分の足元を確認して、「あちゃー」と声を上げた。


「それに、リュックのチャックを閉め忘れてる。あと、縛った髪の毛がさっきから俺の顔に当たってる」

「あ、すんません」

「あと、そろそろ手を離して大丈夫だぞ。人が見てる」

「ああ、そうすね。奥さんのある人にいささか軽率でした」


 凪沙は男みたいな口調で山城に頭を下げた。それとは裏腹に駄菓子屋の時、同様、胸の谷間が今日はしっかりと見えている。流石にそれを指摘する勇気は山城にはなかった。

 凪沙の振る舞いを見て、男と女の体が入れ替え変わってしまった映画の女性を見ているような気分になった。







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