第09イヴェ はじめての〈接近〉
十九時、イヴェントの開始時刻となった。
司会が登場して「みんな、盛り上がる準備はできてるかぁぁぁっ!」と煽ってきたので、最前ドセンの冬人は「ふぉぉぉ~~~」と精いっぱい声を張り上げたのだが、ちょっと声が裏返ってしまった。
やがて、CDジャケットの写真と同じ、カラスのような黒い衣装を身に纏ったA・SYUCAが登場した。
彼女の衣装の腕の部分や各所がレース状の透かし模様になっていて、最前列で演者を直視するのが初めての冬人は、思わずドギマギしてしまった。
そして、歌い始める前に、演者と目が合ってニコっとされたように思えて、冬人の身体は硬直してしまった。
一曲目に歌われたのは、アルバムに収録されている、人気アニメのゲーム版のテーマ曲で、激しいアップテンポであったにもかかわらず、開始前に硬直してしまっていた冬人はノリ遅れ、周りに合わせるような形になってしまった。
次いで、二曲目にカップリングである新曲のイントロがきた。
冬人はマスクの下の鼻口で一つ深呼吸すると、声を出すタイミングを計った。
「ウォ~、ウォ~、ウォ~、イェ~、イェ~」
タイミングがぴたり合った。
たしかに付け焼刃ではあったのだが、ここで予習の成果が出た。
コールによる会場の一体感、実に気分爽快であった。
三曲目は、演者が尊敬するアーティストのカヴァー曲だったのだが、冬人はこの曲のオリジナルを聴いたことがあったので、心穏やかに、このバラード曲に浸る事ができた。
そして最後に、明日、発売となるCDの表題曲がきた。
冬人は、最前列の自分が会場を引っ張ろうと声を精一杯出したのだが、そんな必要など、まるでなかった。
右から左から、後から斜めから、ステージに向かって全方位的な圧が凄まじく、こう言ってよければ、会場が震えたのだ。
かくして、イヴェントで歌われたのは、既出曲が二曲、新曲が二曲の計四曲で、時間にして二十分ほどの僅かな時間だったのだが、身体にはしっとりと汗が滲んでいて、それが、このミニ・ライヴの熱さを物語っていた。
最前ドセンの緊張もあり、実際疲れた。
でも、それは心地よい疲労感であった。
こうして最前で声を出すのは初めての経験だし、うまくできた、という確証はないが、〈現場〉を盛り上げる、その一員には少なくともなれたように冬人には思えたのであった。
ミニ・ライヴが終わって、冬人は秋人と合流した。
それから程なくして特典会が始まった。
「フユ、〈接近〉では、俺と〈連番〉しようぜ」
秋人がそう声を掛けてきた。
特典会は演者に近付くので、通称〈接近〉、前後に連続して並ぶことを〈連番〉と言うらしい。
今回の特典会の内容は、ミニ色紙のお渡し会であった。当初はサイン会の予定だったのだが、直前に内容がお渡し会に変更になったそうだ。
そのお渡し会の様子を観察していると、ただ単に、サイン色紙を演者から直接手渡されるだけではなく、アーティストと会話をしている人が何人も見受けられた。
「しゅ、シューニー、も、もしかして話せんの! お話ししていいの?」
「勿の論だよ。演者と話せる数秒、それが〈接近〉の醍醐味だぜ」
「で、でも、な、何を話せば? ぁぁぁぁぁぁあわわわ。思い付かないよ」
「MCでネタを振ってくれたじゃん」
イヴェントのMCで、観客を見たA・SYUCAは、「札幌みたいですね」と語っていたのだ。感染症の影響を鑑み、観客は可能な限りマスクを着けるように、という要請が運営サイドから為されており、白いマスクから雪、それから、札幌という連想をしたらしい。冬人は札幌出身なのだから、この事を話のネタにすればよいのではないか、と秋人は言っているのだ。
そんな事を兄と話をしているうちに、冬人の順番が巡ってきた。
「ははははははぁぁぁあああ、はぢめ、ましてぇぇぇぇぇ。ぼくぅぅぅ、札幌から来ました。札幌の話をしてくれて、ぅぅぅうれしかったですぅぅぅう」
「そうなんだ。今日はありがとう。一番前にいたよね、また来てね」
にこり微笑みながら、A・SYUCAは色紙を手渡してくれた。
茫然とした冬人の耳に、後に並んでいた兄が、「あれ、俺のリアル弟」と自分をダシにして円滑に演者と会話している声が届いてきた。
*
帰りのメトロの中でも、冬人は、この日のイヴェントの余韻が抜けていない様子であった。
「ぁぁぁ、あ、あしゅかしゃん、しゅきぃ、しゅきぃ」
弟・冬人のマスク越しの呟きが秋人に聞こえてきた。
初めての最前ドセンと〈接近〉の効果は絶大であったらしい。
弟もこれでイヴェントにハマってくれたようだ。
イヴェントは、二人以上で参加した方が何かと都合がよいし、それより何より、楽しい。自分の〈冬人イヴェンター化計画〉は成功したようだ。
我ながらの策士ぶりだが、強要した分けではないし、弟も大学生活における楽しみを見出したわけだから、ウィンウィンだろう。
別に、俺が自己嫌悪を抱く必要もあるまい。
だがしかし――
もしかしたら、〈シュキシュキマン〉、あるいは、〈ガチ恋モンスター〉を自分は誕生させてしまったのかもしれない。
そう思いながら秋人は、心ここにあらずの弟を促して、乗り換えのために、飯田橋駅で有楽町線を下車したのであった。
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