第10イヴェ サクラチルリ

 イヴェント会場の池袋から、地下鉄を使って、大学近くの下宿に戻るや否や、秋人は、うがいと手洗いを徹底的に行った。

 うがいはうがい薬を、手洗いは石鹸を用い、その後に、アルコール消毒液を手にまんべんなく塗るという念の入れようであった。


「なるほど感染症の予防ね」

「それもあるけど、全てはグッズのためさ」

 そう応えた後で、秋人は新品のマスクを掛け、さらに、外科医か骨董品屋が使うような薄手のゴム製の手袋を着けた。

「へっ? シューニー、何してんの? やりす……」

 秋人が弾いた手袋のゴムのパチンという音が、冬人の発話の後半部分を遮った。

「!? 旭川の骨好きの標本士かよっ! シューニー、いったい今から何すんの?」

「みりゃ分かるだろ、授与された聖遺物の奉納の儀だよ」

 マスク越しに小声で言いながら、秋人は、トートバックの中からA4サイズの硬質性のクリアケースを取り出した。その中には、先ほどのイヴェントにおいて、特典として演者から手渡されたミニ・サイン色紙が入っていた。秋人は、そのサイン色紙の縁の部分だけを、慎重に、標本士の手袋で覆われた手に取りながら、それをミニ色紙専用のクリアファイルへと移し替えた。

「儀式完了」 

「シューニー、ちょっと大袈裟じゃないの?」

 秋人は、人差し指一本を立て、それを口の正面にもってゆき、チッ、チッ、チッと言いながら左右に振った。

「本当は、〈現場〉で奉納したいんだけど、他の誰かがいると、やはりさすがにやり難い。だから〈現場〉では、とりあえず、折れ防止のためにクリアケースに入れておいて、帰宅後に完全奉納するのさ。そして、つばが飛ぶと嫌なのでマスクをし、さらに指紋がつくのも嫌なので手袋をするって次第。実際、かつて大切なグッズを汚染させてしまった苦い経験があるからね。だからこそ、ここまでしてるって分けさ」

「えええぇぇぇ〜〜〜、そこまですんのぉぉぉ〜〜〜」

「グッズを奉納するまでがイヴェントなのですよ。基本だよ、ワトソン君。

 お・わ・か・り?」

 秋人はちょっとホームズの口調を物真似して見せた。

 

「ところで、フユ、この連休で、三人のアニソンシンガーに出逢った分けだけど、ぶっちゃけ、誰が気になった?」

 秋人はマスクを取り、手袋を脱ぎながら冬人に尋ねてきた。

「ぅ、うん? 気になっているのは、二人かな……」

「ぉぉぉぉぉぉぉお~~~い。いきなり『DD』宣言かよっ!」

「ん? 『DD』って何?」

「『(D)誰でも(D)大好き』って事さ。まあ、フユの場合は、『二人』って言っているから、『(D)どっちも(D)大好き』って感じかな?

 ところで、誰と誰よ」


 冬人が気になったのは、この日の池袋で見たA・SYUCAと、数週間の札幌の雪まつりで見たLiONaの二人であるそうだ。


「まじかよっ! レーヴェルがプッシュしている若手じゃんかよ」

 秋人によると、冬人が気になった二人の若手シンガーは、小説原作の大人気アニメの第二期のオープニングとエンディングに、揃って抜擢された有望株で、彼女たちが所属するレコード会社が激推ししている二人なのだそうだ。

 実は、冬人も、そのアニメを見てはいたのだが、受験勉強をしながらの、〈ながら見〉であったため、アニメ放映時点では然して気になってはいなかった。今思えば、迂闊以外の何物でもないのだが、その時には、ただ単に良い雰囲気の曲だな、という印象しか抱いていなかった。でも、何かが心の片隅に残っていたのであろう。だからこそ今更かもしれないが、やはり、二人が気に入ったのだ。


「今更次郎だけれど、グ○○んとか、〇~じ〇さんとか、知り合いが、〈雪まつり〉で札幌に遠征していたから、みんなに、お前の事を紹介しとけばよかったな……」

 この数日のイヴェントに行った際にも思ったのだが、秋人は、イヴェンターとして割と顔が広く、人脈もあるらしい。


「まあ、フユも四月から東京で大学生になる分けだし、機会があったら紹介するよ。それにしても、あの二人が気になるとはね……」

 そう言いながら、秋人は机の中から、封筒より少し大きめの、あまり目にしたことがない大きさの横長のクリアファイルを取り出した。


「それ、いったい何?」

 冬人は兄に素朴な疑問を発した。

「チケット・フォルダーだよ」

 秋人は、そこから、三枚の紙片を取り出した。その一枚一枚にはミシン目が入っていて、それらは切り離して二枚にできるようになっていた。


「俺も来週、帰省するわ。一緒に戻ろうぜ」

「僕は、向こうでは卒業式に出るだけだし、別にいつ戻っても一向に構わないんだけど。でも、なんでさ?」

「来週の後半に毎日のように、札幌でアニソンのライヴがあるんだよね」


 木曜は、今やアニソン界を代表し、年末の国営放送の歌番組にも初出演した女性実力派アーティストのアコースティック・ライヴが、一日あけて土曜日には、北海道出身のアニソン・シンガーだけが出演するアニソン・フェスが、そして、日曜日には、札幌の雪まつりで、冬人の心を蕩けさせたLiONaのライヴが行われるのだ。ちなみに、秋人は金曜に、木曜日にライヴする演者のサイン会にも当選している、との事であった。


「はあああぁぁぁ~〜~」

 来週の平日の後半から週末にかけて、春のアニソン・サクラ祭りと呼んでも差し支えがないライヴが連日に渡って、札幌で催されるのは冬人も知っていた。

 しかし、いかんせん、高校卒業直前の冬人には、残念ながら先立つ物がないのだ。だから、兄・秋人の来週の予定を自慢されても溜息しかでなかった。


「おい、反応鈍いな。お前ニブチンかよ。うち一枚は全部お前の分だっての。札幌で一緒にライヴに行って、盛り上がろうぜ」

「へぇぇぇぇぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇぇ~~~~~~!!!!!」

 冬人は思わず絶叫を上げてしまった。

「しっ、落ち着け。隣に壁ドンされちゃうだろ」 

 冬人は浅い呼吸、深呼吸、浅い呼吸を繰り返し、心を落ち着かせ、兄の目を正面から見据え、小声で言った。

「お、お兄さま、否、『神』さまと呼ばせてください」

 でも、チケット神だから、むしろ「紙様」と呼ぶべきかな、と考えながら、冬人はチケット・フォルダを持っている兄の両手を、その上から包むように握り、決してその手を、否、チケットを離しはすまいと思っていた。


 そして翌日――

 二月二十六日水曜日のことである。

 その日、冬人は受験期間中に未観であったアニメをただひたすらに観て、一日を過ごした。

 一方、秋人は、大学の図書館に行った後に、アルバイトに行くという話であった。そのため、秋人が下宿に戻ってきたのは、時計が日を跨ぐ直前であった。

「ふ、フユ、ニュース見たか?」

「んにゃ、見てない。ニュースではなく、アニメをずっと観てた」

「当局から要請が入って、今日、東京で開催予定だった大規模なコンサートが突如中止になったんだそうだ」

「うわっ、この前、官主導のイヴェントが中止・延期になったって話だったけど、ついにか。大きい所は大変だね」


「えっ!」

 驚きの叫びをあげてしまった秋人は、弟にスマフォの画面を見せた。そこは、レコード会社のお知らせのページであった。

「……。当面、レーヴェル所属のアーティストのライヴ、イヴェント中止だって。来週のライヴ全部とんだ…………」

「演者、全ぜぇ員いぃん、この会ぁいぃ社ゃぁ所ぉ属ぅ、ぅぅぅ………」

 次第次第に小さくなってゆく兄の声は震えていた。

 そう言い終えると、秋人は全身から力が抜け落ちたかのように、玄関先で靴も脱がないまま、膝から落ちた。

「た、楽しみだったんだ。ほ、本当に楽しみにしてたんだっ」

 跪き目頭を押さえている兄・秋人の横顔は、蒼を通り越して真っ白になっていたのだった。

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