第12イヴェ ネット特典会の楽しみ方

 それは、三月中旬のとある水曜日の晩のことであった。


 冬人が下宿に戻ると、兄の秋人は、パソコンが置かれた机の上に両肘をついて、組んだ両手に顎を乗せながら、ディスプレイをじっと見つめていた。

 そんな格好をつけている兄の周囲に視線を送ってみると、パソコンの左脇には、立てかけ状態にしたタブレットが置かれていた。冬人が覗き込んでみると、パソコンとタブレットには同じ画面が映っていて、そこには、黒を背景に「このライブ イベントはもうすぐ始まります」という告知だけが白抜き文字で現われていた。ちなみに、その右脇にはスマートフォンが置かれており、その画面には、SNSのアプリが起ち上げられていた。


「シューニー、配信ライヴの待機か何か?」

 秋人が、このような視聴待機の状態でパソコンの前に座しているのは、何もこの日が初めてではない。兄は、深夜アニメの実況をする場合、パソコンの大きなモニターで映像を見ながら、タブレットやスマフォでSNSへの書き込みを同時に行なうのだが、そんな姿を冬人は頻繁に目にしていたのだ。

 時刻は十九時前であり、深夜アニメの実況をするには未だ早いので、冬人は、誰かのライヴ配信の待機をしていると予想してみたのであった。


「たしかに、配信は配信なんだけど、今日は、この前みたいな〈ミニ・ライヴ〉じゃなくて、〈ネット特典会〉なんだよ」

「??? 〈ネット特典会〉って何?」


 冬人の頭の上には幾つもの疑問符が浮かび上がっていた。

 〈ネット〉に関しても、〈特典会〉に関しても、その一つ一つの単語の意味が分からないわけではない。  

 だが、この二つの語が合わさった〈ネット特典会〉という単語は全く耳慣れないものである。

 予想はつく。

 インターネット上での特典会って意味であろう。でも、ネットで一体何をどうするというのか?


 秋人が言うに、今日この日は、二〇十八年四月から放映されているアニメの、二〇二〇年一月期のエンディング・テーマとなっているアニメ・ソングの発売日なのだそうだ。

 本来ならば、この日を皮切りに、CDのリリース週である今週は、平日も週末もリリース記念イヴェントが開催されるはずであった。

 しかし、世界的規模の感染症の影響で日本国内では三月に開催予定のイヴェント、ライヴの数多くが延期あるいは中止になってしまっていた。

 こういった状況下、アーティストの中には、ネットを利用して〈生ライヴ〉を配信する者もいて、秋人・冬人の二人兄弟は、先日それを視聴したばかりであった。

 だから、ライヴの配信は分かる。

 歌っている姿を配信し、視聴者に観てもらうものだ。

 でも、ネットで、いかにして〈特典会〉を催すというのか?


 冬人は、二月下旬に、秋人と共に、三人の演者、計五つのCD発売記念イヴェントに参加していた。そして、そこにおいて初めて〈お渡し会〉なるものに参加して、好きな演者から〈直接〉グッズを手渡してもらい、さらに、短いながらも言葉を〈直に〉交わすことに名状し難き感動を覚えていた。

 しかしである。

 ネットでは、物理的な空間の隔たりによって、演者に〈接近〉などできないではないかっ!!!


「シューニー、自分、よく分かっていないんだけど、ネットで、どうやって、〈接近ををやるのさ」

 ちなみに、〈接近〉とは、アニメ・ソング界隈における特典会の通称である。

 ネット特典会のシステムそれ自体に疑問を抱いている冬人に対して、秋人は説明した。


「いいか、フユ、まず、ネットで、特典会参加権利付きのCDを購入するんだよ。ここまではOK?」

「通販サイトでCDを購入したことがあるから、その位は分かるよ」

「で、だ。そのネットのCD購入の欄に、自分のニックネームと、メッセージを書き込む箇所があるんだよ」

「それから?」

「するとだな、ネット特典会の時に、今回の特典会の内容はジャケットサイン会なんだけど、サインと同時にCD購入者の名前を呼びながら、演者が名前を書き込んでくれるって仕組みなんだよ」

「な、なにぃぃぃ~~~。演者さんが、な、名前をぉぉぉ~~~」

 通常の特典会の多くでは、サインは書いてもらえたとしても、名前まで書いてもらえるケースは稀だ。今回、場合によっては、演者さんに名前を覚えてもらえる可能性だってある。これはなんか凄いイヴェントだぞ。


「で、でもさ、メッセージは何のために?」

「いいか、フユ、通常の〈現場〉での特典会でも、演者さんとは、一般的な意味での会話はできない。大体は、こっちが言ったことに対して、演者さんがレスポンスを返してくれる、つまり一往復がせいぜいなんだ」

「ということは?」

「メッセージを読むのが、はたして本人なのか、マネさんか、朗読係のスタッフかは分からないけれど、誰かが、俺らのメッセージを読み上げて、おそらくは、演者さんがそれに対してコメントをするって形になると思う。まあ場合によっては」

「よっては?」

「動画配信サイトには、リアルタイムでコメントを打ち込むことも可能だから、場合によっては、それを拾ってコメントを盛ってくれる可能性もワンチャンあるって分け」

「なるほどね。そうやって、直接会えなくても双方向のコミュニケーションが成立するんだね」

 秋人がシステムについて説明しているうちに、ネット特典会が始まった。

 冬人自身は、CDを購入していなかったのだが、ネットサイン会の模様それ自体は、配信サイトで視聴可能なので、自分のタブレットでサイン会の様子を見てみることにした。


 ネット特典会は、通常の特典会と同じように、一人一人を順々に応対するものであった。違いは、秋人が言っていたように、演者がニックネームを呼びながらサインをしてゆく点である。

 その時、大いに気になった事があって、ニックネームの中には、明らかに単なる呼び名ではないものが数多くあったのだ。

 たとえば、自分の名前の後に、「大好き」とか「ラヴ」、あるいは逆に、「大嫌い」っていう文言を添えたり、名前ではなく、演者に言わせたい台詞をニックネームにしているヲタクも見受けられた。

 まるで大喜利だ。


「まじかよっ! その発想はなかったわ。普通の呼び名にしちゃったよ、ワイ」

 対面に座っていた兄が悔しそうに呟いていた。

「あのさ、フユ、いつもは、話している内容に関しては、演者さんとマネさん位にしか聞かれていないんだけれど、みんなが見聞きしている状況の中で、メッセージを読まれるのって、なんか恥ずいな」


 そんな事を秋人が冬人に語っていたタイミングで、「シュージンさん」の順番が回ってきた。

 演者に「シュージン」と呼ばれた瞬間に、兄は、両頬に掌を当てて、ムンクのような感じになって、演者さんが「いつも、ありがと」と言いながら、書いたサインとニックネームをカメラのレンズに向けた時には、クネクネと身体を捻じれさせ、身悶えていた。

 うわっ、あんなになっちゃってるよ、我が兄ながら、き〇い、と冬人は秋人の様子を見ながら反射的に思ってしまった。

 そして配信開始から三時間強、ネットサイン会は終わった。

 通常の特典会に要するよりも何倍もの時間をかけてサイン会をしてくれた演者に対して、兄は大いに感謝しているようであった。

 イヴェントが開催されないこの時期に、このような催しをしてくれる事は実にありがたい。イヴェンターは〈接近〉にも飢えているのだから。


 ネット特典会それ自体は以前から存在していたそうだ。だが、こういったタイプの特典会は、アニソン界隈ではなくアイドル界隈が発祥らしい。つまり、イヴェントを行おうとしても、会場を確保できない事もあるし、遠隔地で参加できないファンもいる。こういった場合、ネット特典会は、物理的な空間を超越して参加可能なので、アイドル界隈では、直接会える特典会と共に一つの形式となっているらしい。

 アニソン界隈では、このようなネット特典会は、感染症によるイヴェント自粛という社会的状況によって生まれた産物かもしれないが、いずれにせよ、ネット特典会は、〈現場〉での特典会とはまた違った楽しさがあった。

 〈現場〉では、極論、自分の順番の時以外は無関心なことが多いのだが、ネットの場合には、自分の順番だけではなく、他の参加者、特に知り合いのヲタクの順番の時、リアルタイムでコメントを書き込んだりと、知り合い皆で、特典会に参加している感じがするからだ、と秋人は述べていた。


「とは言えども、〈おし〉に直接会える以上の至福はないんだけどな」

 CDのリリース日でもあったこの日、ネットサイン会に先立って、このアニソンシンガーは、六月にワンマン・ライヴを開催する事を発表した。

 兄・秋人は、そのライヴに参加する決意をしているらしい。

 冬人は、社会的状況が改善し、そのライヴに兄と共に参加できる事を強く祈りつつ、今回のネットサイン会の配信中に発表された次のネット特典会に参加すべく、特典会参加権利付きCDの購入ボタンを押したのであった。

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