ep02,空の器

トラックの助手席に座った男は、あくびを噛み殺しながら、自分が何秒間瞬きせずにいられるか数えていた。


紫解オムニクラフトの工場から出発して三時間、車は馴染みのない寂れた旧住宅地区を走行中だった。午前二時の窓の外に人影はない。道幅の広い道路には対向車もなく、深夜営業の無人コンビニの煌々とした明かりが、時折何の面白みもなく脇を通り過ぎていくだけだ。

退屈で眠気がひどかったが、ハンドルを握るものの横で堂々と居眠りするのは何となく憚られた。サイドボードの時計を見てノー瞬き2分の大記録を更新したことにはしゃぎ、自分は何をしているのだろう、とふと我に返った。目が乾いて痛くなった。降りてどこかのコンビニで目薬と缶コーヒーを買いたかったが、車は止まる気配が一切なかった。扉には固く鍵がかけられていた。


普段工場の清掃作業員をしている彼に突然舞い込んできたこの仕事は、まさに棚から牡丹餅だった。自分が運転する必要のない車に少し座っているだけで、目の飛び出るような大金の報酬を支払うというのだ。紫解の関連企業の中でも、オムニクラフトは特にイカれた会社だという評判は知っていた。彼は勤続5年目に舞い込んできた奇妙なチャンスを喜んで受け入れた。


この国の首都はいま、あらゆる都市機能が集中する地域『セントラル』区と、郊外の『エクストラ』市、大きく分けてふたつの地域に分かれている。

セントラルの様相は混沌の二文字で表すのが相応しい。多様な熱気、活気、狂気のうねりの手綱を握るべく、男の勤める工場ではスケアクロウの量産と性能の改良が日々試みられている。


男が生まれるよりもずっと前……まだセントラルの辺りがシンジュクと呼ばれていた頃、世界の人口は突然半分になった。その原因は定かではないが、戦争とか、感染症とか、辛気臭い理由ではなかったそうだ。科学を発達させた人々がついに永久の楽園に行く方法を見つけてしまったのではないか、と言われている。


文明を担っていたものたちの半数が去ったので、人々は社会全体のモラルの低下に悩まされ始めた。そこで紫解オムニクラフトが発明したのが、省エネ低燃費、環境に優しく運用も生産も容易、その他様々に革新的な要素を搭載した製品『スケアクロウ』だ。


スケアクロウは、今はまだ車と同じ扱いで、人間の付き添いなしで動かすのを禁じられている。じきに単独で稼働させることを認められるだろう。そうなれば、全世界が望む輸出品として無数の製造ラインが必要になる。

そういうわけで、オムニクラフトは紫解関連企業の中でも今最も成長を見込まれている。気前がいいのも当然だ。



無事にセントラルまで積荷を運んだらどうやって帰ろうか。行きは一切何も問題ない。問題は帰り道だ。

セントラルとエクストラは鉄道によって繋がれているが、その運賃はすさまじく高価だ……いや、そうだ、もう金の心配はいらない。二分間ぶんの瞬きをまとめて補充し、座ったまま伸びをした後、彼は車の目の前に何か黒い塊が飛び出すのを目撃した。ひえ、と声が出た。凍える将来を悲観する若者の間では、『この世は実は仮想現実で、ひとかけらの恐れもなくトラックに撥ねられればバグが生じて楽園にワープできる』という噂がまことしやかに流れているのだそうだ。彼は弁償を恐れ、車体と備品が傷つかないことを祈った。



トラックは見えない力に抑え付けられ、急激に減速した。車の前に立ちはだかったキララは鉄塊のような腕を目一杯伸ばして、脚を地面に踏ん張り、両手を広げて顔の正面に掲げていた。両指先に車の鼻先が優しく軽く触れ、そこで速度は完全に死んだ。

彼は静止したトラックの脇に回って助手席のドアを引き剥がし、空き缶のように投げ捨てた。

初老の男が目を見開いて悲鳴を上げた。ほつれて色褪せた作業服の襟をつまみ上げ、路上へ放り出す。ちょっとした高所から投げ出され、丸まって転がったそれは弱々しい悲鳴を上げながら立ち上がって、トラックに背を向け逃げ去ろうとした。

銃声。作業服の背中を赤い飛沫が染め、布と肉の塊は動かなくなった。運転席に硝煙が漂っていた。


〈緊急回避〉


オキザリスがチャットに投稿した直後、キララは自分の意思とは関係なく、機械でできた身体が勝手に動くのを感じた。ツイスターゲームでもやらない捻れたポーズのまま、転がるように脚を運んで車から離れる。膨らました紙袋を大音量で破裂させるような音が何度もして、空気をびりびりと震わせた。被弾は逃れたが胃腸からものが出そうな気分になった。


運転席に座っていたものは弾切れのプラスチックハンドガンをサイドボードに置き、車内に備え付けられていたライフルを構えながら車を降りた。宇宙服とイルカを足して銀メッキを塗りたくった外見の、流線形で無機質な人型のなにか。第7世代と呼ばれる最新式のスケアクロウだ。


キララは腕を交差して頭部を庇った。鉛玉のポップコーンが鋼の腕や身体に弾けて轟音を立てる。そのまま撃たれながら後退して、彼は車の後部荷扉に背を付け身を隠した。視界のインターフェースには真っ赤なアラートがけたたましく明滅している。


〈あの労働者のことは残念だが、どのみち荷下ろしの際に始末されていただろう〉


オキザリスは『悲しい』の絵文字を添えた。


「人の身体をおもちゃみたいに動かすな」


〈九時の方向から接近。撃つ〉


キララの腕はコートの懐から片手でハンドガンを抜き、標的が見える前に引き鉄を引く。弾は予定調和のように、飛び出したスケアクロウの頭部を目掛けて飛んでいく。

着弾よりも速く、スケアクロウは顔の前に片手を翳す。弾は空中でぴたり、と静止し、そのまままっすぐ道路へ落ちた。相手がライフルを離した僅かな隙に、キララは自分の意志で相手の懐に飛び込んでいた。鋼の拳をねじり込む。みぞおちを下から殴り上げられ、スケアクロウは物理演算を間違えたように弧を描いて宙に浮いた。そして弾と同じように、止まる。

振り上げたままの拳を開き、地面に向かって叩きつけると、空中に静止したスケアクロウは勢いをつけて垂直にアスファルトへ墜落した。キララは何度も強く噛み締めすぎて、自分の人工の奥歯と歯茎がおかしくなってしまうのではないかと思った。PSIを使うには莫大な集中力が要る。


〈すばらしい〉


「お前には二度と銃は撃たせない」


オキザリスは『いいね』と『OKサイン』をつけた。衝撃でどこか破損したのか、スケアクロウは殺虫剤を浴びた虫のように地面で踠いている。ライフルは手を伸ばしても届かない場所に転がっていた。キララはハンドガンを構え直し、銃口を向けながら慎重に歩み寄る。彼の人工神経は、AIが引き鉄にかけた指の操作権限を要求しているのを感じた。


〈とどめを刺すべきだ。今のうちに〉


「わかってる」


スケアクロウはゆっくりと立ち上がろうとする。足がもつれてうまくいかないらしい。

キララは三時間前に見た、哀れな男が震えて叫ぶ様を不意に思い出した。


〈早く。私に任せたほうがいい。今の要求は取り消すことができる〉


AIに構わず自ら人差し指を動かそうとして、彼は首に強烈な圧力を感じた。足元のスケアクロウの手が自分に向かってかざされていた。見えない万力の間に頭を置かれて、ぎりぎりとネジを回されている。激しい頭痛と息苦しさに彼は呻いた。目の前が真っ暗になる。手からハンドガンがこぼれ落ちて、地面で重い音を立てる。スケアクロウの手がそれに向かって伸びる。


〈キララ!〉


彼は朦朧としながら、『緊急回避』のコードを打った。

AIへ一時的にすべての権限が渡された。

その瞬間彼の体は深く沈み、機械の腕は地面の相手の頭部を鷲掴みにした。締め付けから解放されて視界が明瞭になり、キララは自分がスケアクロウの顔面を握って高く持ち上げ、トラックの側面に押し付けているのを見た。自分の五本の指に、サイバネを動かす全ての電圧が集中するのを感じた。

オキザリスが何をしようとしているのか悟って、彼はやめろ、と叫んだ。よせ、やめろ、バカ、と口で喚いてもAIには命令が届かないことに気づいてチャットに文字を打った。

投稿する前に彼の手は林檎を握りつぶした。


咄嗟に目を瞑った。生暖かいものが弾けて手と彼の頭部に伝うのを、人工神経がフィードバックした。



オキザリスが身体の権限を返すなり、彼はそれの残骸を投げ捨て、激しく振り払った。今度こそ腸のなかのものを全てぶちまけたくなったが、彼にはそうするための器官がまともに備わっていなかった。


〈服を汚した。すまない〉


俺はお前が大っ嫌いだ、と彼は罵った。その言葉は届かなかったが、オキザリスはチャットで弁解を続けた。


〈だが、これ以上お前を危険に晒すわけにはいかなかった。最速の方法を取った〉


「もういい。お前の言う通りさっさと撃つべきだった」


〈スケアクロウは人間ではない。器だけだ。人間の身体を軸に機械を貼り付けた自我のないアンドロイドだ〉


そうだ。ただの道具だ。中に肉が入ってるなんて誰も思わない。

足元の真っ赤な池には壊れて歪んだ銀色の器が浸っている。赤い水溜りは見る間に透明な液体に変わっていった。スケアクロウの血は、酸素と反応すると色が抜けるように作られているのだ。雨の多いエクストラでは証拠は何も残らない。

滑らかな流線型から唐突に失われた首には、世間の人々の知らない秘密が晒されている。

誰が工場で堂々と、使い捨てられるためだけの人間が生産されてるなんて思う?


「……仕事に戻ろう。積荷の始末だ」


オキザリスは『いいね』をつけた。




ハンドガンを構えて荷台を開ける。そこには棺桶のような寸法の箱がひとつだけ、荷物を固定するためのベルトで、横倒しに床へ縛り付けられていた。壁面には用途のわからない仰々しい機械がくっついていて、箱とそれを赤白黄色のケーブルが繋いでいた。


〈その箱だ。いつも通り解体して袋に詰めろ。機材は無視していい。対象以外のものはトラックごと放置しろと指示がある〉


「ただのゴミ捨て代行だな」


トラックごと海に飛び込んで水底に固定してこい、くらいの指示に身構えていた彼は、ひそかに安堵の息を漏らした。


この街の廃棄物処理は強力な焼却炉で行われている。家電もプラスチックもおかまいなしだ。分別も何もなく、とにかく指定の袋に詰めて集積所に出せば収集車が来て持っていく。収集するのもまた紫解の息のかかった企業で、ゴミ袋の中身は誰も見ない。そのほうが誰にとっても都合がいいからだ。彼のような職業が成り立つ理由のひとつでもあった。

捨てるのは簡単なのに、人々は袋に詰めるまでの工程を一番やりたがらない。


細心の注意を払いながら、彼は箱の側へ近づいた。本物の棺桶のように、その上蓋には小さなガラスの窓があった。内側の色が薄っすらと見えてしまった。

彼は窓から引き剥がすように意識を逸らして、固定ベルトを外した。箱ごと運び出してそのまま捨てたかったが、金具を取った途端に蓋がひとりでに開いた。


〈キララ。開けないほうがいい〉


「俺じゃない」


機械のオキザリスにPSIの流れは感じ取れない。AIは彼が力を使って開けたと判断したが、そうではなかった。


中のものをまともに見てしまって、彼は息を呑んだ。


「俺じゃ……」


18歳くらいの若い男。くるくるとした巻き毛の髪は大理石の乳白色に近い白。薄くピンクに紅の差したきめ細かな肌。東洋系を思わせる起伏の浅い顔立ち。閉じた瞼の睫は長い。


彼はこれが第7世代のスケアクロウの素体であることを誰よりもよく知っていた。だが、どこにも金属がなかった。スケアクロウの生体部分は頭部と内臓だけのはずだ。スポーツウェアのような薄いぴったりとした素材の服がその身体を覆っていたが、黒い7部丈のシャツとハーフパンツから伸びているのは、どう見ても人間の生身の身体だった。


頭の中で閉じ込めていた箱の蓋が開いてしまった。失って久しい、二度と戻らないものたち。


湿気っぽく頬に吸い付く雨上がりの空気。前歯で砕くと口に広がる甘く固いビスケットの味。鼻孔をくすぐる紅茶の香り。手のひらで搔き上げるとくるくる絡む髪。柔らかくしなやかな四肢。細く、羽のように軽い肉体。


俺のだ、と思った。取り返したかった。彼は手を伸ばして、眠るそれの顔に触れようとした……



突然、その目が開いた。黄金の瞳がフルフェイスマスクの中の彼を見た。身体中の生の神経がぞく、と震える感じがした。心地良いとさえ思うような。醜い継ぎ接ぎの奥底、内臓の中まで覗かれる感覚。


〈撃て〉


腕が勝手に上がって、それにハンドガンを向けた。オキザリスには引き金が引けない。


〈撃て。殺せ!危険だ!〉


激しくアラートが明滅する。目の次に、口が開かれた。言葉を聞いたら飲み込まれてしまう気がした。彼は恐れた。




「おすしがたべたい……」



キララはとうとう自分が壊れたのかと思った。


それはオキザリスのほうも同じだった。銃を構えたままアラートを放置して、彼とAIはお互いチャットに相手が何か投稿するのを、かなり長いこと待った。


「お寿司が食べたい!」


スケアクロウ素体はもう一度そう繰り返すと、まばゆく輝くきらきらの笑顔を浮かべて彼を見た。



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