第2章 「シルバーバックよ何処へ」 その2
まずは必要な動物病院だが、移送できる範囲では規模の小さいものばかりであったので、ある程度の大きさの建物をそばに確保する必要があった。ジューンは小さな平べったい箱の画面に向かい、両手を細かく動かして作業をしている。英子が見ていると、ときどきこちらを向いて歯を見せた。
「英子ちゃん、ちょっと待っててね。あなたたち夫婦の住まいを見つけてあげるから。条件は、と、まず広いこと、頑丈なこと、日当たりがよくしかも樹木に囲まれていること、外から観察できること、もちろん必要なときによ。やっぱり、この保護区のこんな施設かな。元気になったら動物園という手もあるけど」
英子は、グフと声を出した。あなたの気持ちを認識したという合図である。
「やっぱり森に帰るのが一番に決まってるわよね。でもあそこの人たち、少しの違いを気にして戦ってばかりいるし、両方に武器を売って儲けることしか考えない死の商人がいる。こいつらが最低なのよ。ほんとに殺してやりたいわ」
ジューンはまた人間の本性丸出しの言葉を使った。
英子はジューンの敵意を感じて、唸った。
しばらく忙しいやりとりのあと、英子は何かが解決したことを理解した。
「検索したらね、もうこれが唯一の可能性なのよ。この施設以外はありえないの。ここにいく運命だったかのように。隆、聞いてる?これ以外ないってものを私確保したからね」
「わかってる。ああ、なるほど、ちょうど文句なしだね。で、いつにするか、だ。次の決定は」
「それにどういう手段で、よね、重要な問題は」
時期はできるだけ早く、であり、手段はといえば、飛行機は速いが無理という最初の関門があった。飛行機に乗ることは気圧の変化のせいで心臓発作の危険性があり、なによりも入り口が狭すぎて檻を入れることができない。トラックではストレスがかかりすぎる。首都までの列車で運ぶには線路が今いる地域まで伸びていなかった。
「民主主義もいい加減だけど、つまり悪を完全に排除できないけど、確かに民主的な政府は必要だね。あの小さな部族間抗争をやるかわりに全員で鉄道を敷く仕事をしたらよさそうにと僕は思うね」
「そうだけど、まずは水や穀物、学校、そして協力を理解していくのでしょ。文明国からの偏りのない無償の援助が少なすぎるわ」
「そうだけどさ、余り援助すると彼らから自分たちのやる力を忘れさせてしまうから、それも考えないとね」
英子はシルバーバックを見た。少しグルーミングしてやろうかと寄っていくが、余りの機嫌の悪さに恐れをなす。瞳がぎらぎらして、低く不満げに呻いていた。どこか苦しいらしかった。檻の中の動きを観察していた隆は、あわてたように声を高くしていった。
「よし、もうこれしかない。あさって。僕らも準備して駅のある町までトラック、そこから列車という順番でちょうど手はずが決まりそうだ。もう一度ネットで確認して確定だ。手術はその二日後でとれるかな。弾の摘出は問題ないんだが」
時刻と時間、場所と手はず、人員、施設、うまくいくことを願う以外にない綱渡り的なスケジュールと予定だ。シルバーバックがうまくこの計画にのってくれるか、最も危ういのはこの点だった。トラックがすでに待機していたとき、シルバーバックは不安の余り英子を追い回していた。彼女にしても森においてくる羽目になった末っ子がたえず脳裏を横切ってしかたないのだ。ただどうしたらいいのかわからないので、黙って我慢している。
ジューンが見ていると、二頭の様子は切羽詰った離婚間際の夫婦の対話のようにも見えた。
「お前はこいつらの言うとおりにするつもりだろう」
「そんなことないさ、ただみんなしてあんたの具合をよくして」
「そんなこと信じるな、森を離れるなんて考えられないんだ」
「でもひとりで残ってどうするの、こんな弱ってるのに」
「死んでもかまわない、知ったこっちゃない」
シルバーバックの拒否反応は強固だった。そこにはもう責任感もない。このまま石のように固まってしまい動きたくない、というそれは抑鬱状態でもある。
「俺がひとりで残る、だって?お前は絶対にこいつらに運ばれていくつもりか」
英子には何か、衝動があった。彼女を突き動かす予知、森を離れてでも彼女が為すべき何かが英子を呼んでいる。誰かが泣いて英子を探している、放っておけばそれは死んでしまうのだ、確実に。かすかなかすかな、懐かしい匂いがひとすじの方向を指し示していた。
「そうよ、私は小さい者たちについていく。あんたも来たほうがいい。私たちが生き残る道はそれしかないと思う」
英子は断定した。もう迷わない、これが正しい道なのだ。
英子は泰然として自分からトラック用の檻にはいった。シルバーバックは離婚し損ねた夫のように渋々檻に入った。大揺れする檻の中でシルバーバックは英子を睨んでいた。俺をどんな目に合わせようってんだ。しかし体勢を支えるのだけで精一杯の様子だった。
もううんざり、というほどゆすられてやっと始発の駅舎に到着した。隆とジューンがそれぞれ無線電話で喋りながら、檻を見にやってくる。
そのとき隆が驚いた声を出した。ジューンも彼女の電話によって驚いたような感じである。
「英子の子供が?そちらに追いかけてきたって?弱ってる。パニック。あそう、ナタリーと面識がある。コンタクトあったんだね」
「へい、隆、こっちの話し聞いて。英子の子供が首都から程遠くない動物園に引き取られるって。認識票でわかったって。でもいつ、いったい、どこで保護されたんだろ」
二人が機械を耳に当てたり、お互いに喋ったり、そして英子をじっと見つめるのを、英子もじっと観察していた。心臓が動悸を打った。何かが起こったのだ。
シルバーバックはやっとゆれなくなったので眠っているようだ。末っ子の二歳の男の子のことがしきりに思い浮かんだ。離れていることが耐えがたかった。不完全なのだ。
しばらくして、予定通りに列車に乗せられた。ガタン、と動き出したとき、こんな初めての感覚に二頭ともトラックとは違う音声で反応した。
車中でジューンが近づいてきた。明るい頭髪と白い歯並が友好的な雰囲気を与えた。
「英子ちゃん、あなたの子のAYがね、一匹で匂いを辿って最初の施設に現れたんですって。あなたたちが収容されたとき、見つからなかったけど近くに隠れていたのでしょうね。
わかった、英子ちゃん、子供も森から出て動物園で暮らすんですって」
ジューンの白い肌にきらきら輝く瞳と歯を交互にみつめていた英子は、何を感じたのか低くのどを鳴らして、檻にこぶしを当てた。ジューンもこぶしを作り、軽くそれに触れた。同じ肉体の温かさが伝わる。
英子は眠っているけれどもシルバーバックによりそって、語りかけているかのように見えた。安心したような諦めたような、不幸中の幸いといった空気が流れた。
列車が首都ヤウンデに到着したのは昼過ぎだった。気温は少し寒いが、晴れてもいず曇ってもいないごく平穏な天気であった。二時過ぎ、ついに檻が外に出され、郊外の動物病院まで乗り換えるためのとくべつな運搬車が待っていた。何のこともなく半時間で到着し、再び檻は外に出された。たくさんの人間が大きな檻を囲んで運ぼうとした。二頭のガラス張りの新居は病院の敷地内にある。
その時、地面が激しく上下に揺すられた。
トラックや列車の比ではない。
地の底からの振動が二分近く続き、そのあとは横揺れが三分続いた。檻も車も二,三回転がった。人間達は倒れてのた打ち回っていた。病院の建物の窓ガラスが割れ、轟音と共に落ちて散乱した。
「だからイヤだと言ったんだ、こんなことに巻き込まれるなら森で死んだほうがよかったんだ。だからイヤだったんだ。お前の頑固さのせいで!」
ひとならばこんな風に妻をののしったであろう。
そしてのちに、命があったからまだよかった、と考えたであろう。その震災は信じられないような被害をその地方に及ぼしたのだった。
幸いにも、用心深かった病院では、翌日には停電も復旧され、シルバーバックの手術は比較的問題なく推移した。問題はなんと言っても手術後であるのに、幾重にも与えられたショックのために食欲がなくなり、恐ろしいほど減量してしまったことである。それとともに森に逃げ帰りたい思いが病的にまで高まっていた。
檻をゆすり続け、まるで眠らなかった。薬を与えることもできないうちにまたもや痙攣発作に襲われだした。シルバーバックの不安発作を脳が堪えきれなくなり、いわばショートしてしまったのらしい。彼はガタガタと全身を痙攣させながら瞳を開いて、英子の視線と触れたままであった。そのまま遠くまで去ってしまいそうな、別れの視線とも、助けを求めているかのような視線とも英子にわかろうはずもなかった。茶色の丸い瞳の奥に何かに出会えたような、安心すべきものに抱かれそうになったような穏やかさがあった。英子には彼が穏やかなのはわかった。
しかし、そんな発作が短時間に頻繁に起こるのを隆たちが放置しておくはずもない。心臓への負担は相当なものなのである。そこで再び、一か八かの麻酔銃が使われたのであった。
薬を定期的に摂取できるようになり、食欲もやや回復したとき、シルバーバックは英子を追い回すようになった。繁殖行動ではない。英子を疎んでいるのだ。憎んでいるのだ。
英子のほうは、恐れてはいるが慣れてもいるシルバーバックから離れることへの不安と、末っ子のAYへの気持ちとの板ばさみになっていたようだ。
そしてジューンがAYの匂いのついたタオルを与えたことから、英子にはジューンの意図も今後の予想もあまりにも明らかになったのだ。英子はしばらくシルバーバックを置いておく、ということに納得した。むかっ腹を立てているその大きな背を一度みつめてから、英子は子供に会うために檻を出た。
ジューンが付き添ってくれるので憂いもなく、二時間ほど離れたコンゴ国立動物園へと出発した英子はそのタオルを頭にかけて、自分の意思をはっきりと表していた。
「英子ちゃん、実はね、アーサーも、あ、アーサーって名前を彼はもらっているのよ。アーサー、実はやはりショック状態なのね。シルバーバックほどではないけど参ってる。でもママが来たら絶対大丈夫。子供は弱いけど強い、でもあとに響くこともよくあるから、今のうちなら英子ママが元気にしてあげられる。それにしてもあなたってしっかり者ね」
英子は、そう言うジューンの毛を触った。
アーサーと呼ばれるようになった英子の末っ子は、かなりやせ細っていた。しかし喜びのために子供らしい怪力を発揮して、飛び跳ね、抱きつき、叫びまわった。英子はすぐにグルーミングをしてやった。アーサーはすっかりリラックスし、これまでの不安を忘れてしまったかのように、寄り添ってうとうとし始めた。英子が甘い実を食べると、目を開けて自分もそれにかじりついた。バナナもついでに二人で食べた。
二日間、決して二頭は離れなかった。片時も目を離さず二度とお互いを見失わないように気をつけて過ごした。すると三日目には遊びの本能がまた湧き出てきた。遊びといってもそれが学校のようなもので、そこでは同じ種はそろっていないけれども、オランウータン、チンパンジー、テナガザルのような子供の仲間がいたのだ。アーサーの興味は次第に英子だけではなくなり、離れている時間を当たり前に過ごすことも出来るようになった。
七日目にアーサーは英子がなかなか見つからないのに気づいた。夜になると嘆き始めた。人間が英子の毛布を与えた。それで包んでやった。
英子はまた病院近くの夫婦の家に戻された。彼女の意思とは関係なく、必要に迫られて移動させられたのだ。勿論理由はシルバーバックだ。
人間のもつ医学的な知識を役に立てようとしたが、彼の回復は年齢的な弱り方が強くなったために思ったように進んでいなかったのだ。心理的な喪失感と無力感がそこに悪く働いたのは確かである。森の王者として自信を持ち堂々と静かに暮らしていたシルバーバックにとっては、余りに大きな変化であった。克服するには年をとりすぎていたともいえる。
森にいれば、まだ数年は王位にとどまり、その後は群れを追い出されて、静かに死へと独りで向かっていったことだろう。死を思い煩うことなく、死の影に知らぬ間に覆われていき、木の下の葉陰に誰にもみられることなく、土に返っていったことだろう。
人間のおせっかいで英子はあちことに押しやられた。シルバーバックが弱ったということで、アーサーをひとりにして呼び戻され、アーサーがまた泣いているというのでそちらへ呼ばれた。英子はどちらにしてもただグルーミングしてやり、そばにいるだけである。
情けをかける、という表現は人間の老夫婦の心理に当てはまることが多い。ホルモンに影響された性愛がたとえ運良く人間としての敬愛になるならば、それは最上の関係といえる。そしてそこまでお互いに尊敬に値する夫婦でなくても、情けをかけるという情緒でもって、我慢の限度を超える場合が余りに頻繁な場合は別だろうが、別れることなく夫婦でどちらかの死を見取ることになるよう導くのであろう。
隆の母親が、ときに「もういやだわ、我慢の限界」と呟いたのを思い出す。
「おふくろ、俺はもうどっちでもいいんだよ。別れて自由にしたいことをすれば」
母親はぱっと顔を輝かせた。しかしすぐ曇らせた。
「私以外に父さんをだれが我慢できると思う?どうせひとりになってまた私を探しにきてお前のせいだなんてねちねち言いに来るのよ。恐ろしい」
「怖いのかい、心配なのかい」
「情けよ、すこし美化するけどねえ。今さら愛だ恋だって探しても無駄、お互いに終わりを見つめる時期を情けをかけあうのかなあ」
「しかし親父がそれを理解するかな、そこまで達観できるかな」
隆のこんな両親はまだ存命なのだ。もし父のほうが先に亡くなれば、母は自由を感じるだろう、そして寂しさも感じるのだろう。母が先なら、父もまもなく亡くなるだろう、世間でそういわれているように。
女を敬愛するという情緒は男にはあまりないので、あるいはラヴの憧れが男には残るのかもしれない。つまり性愛だが。父が母に対し、せめて情けをもってほしいものだ、と息子としては思う。
自分の妻が敬愛に値する人物であることには満足していた。
研究というのは、絶対に性よりも面白いし、男女の間に対等な競争が可能である。確かに女性研究者との同席には、色彩的にも華やいだ雰囲気が漂う。それが嫌だとは決して思わないがあえて求めるわけでもない。ジューンのような若手とも気を散らされることなく、その声と議論したり相談したりできる。
それから、シルバーバックの容態が小康を得たとき、隆とジューンはこんな場合としては珍しい決断を下した。小国ガボンの小さな保護地域にこの一家三頭を放つことにしたのである。人々は富にとりつかれておらず、伝統的な生活を楽しんでいた。隣接した未開の森になら他のゴリラがいる可能性もあった。シルバーバックがまだ数年アーサーを守り育てることが出来れば、アーサーの未来も続くかもしれない、英子が孫のお守りをするのかもしれない、人間の場合と同じように。
人間の監視下にいて、安全な生活をすることは本性に反するであろう。彼らの能力も経験と知識も無駄になってしまう。地球の生命の豊富さがアーサーに伝わらないままになるのは余りに惜しいと、隆もジューンも話し合ったのだ。危険も死も自然に属するものは、そのように見えるからには、たとえ本当の意味はそうでなくても、それを知るすべのない今は本当の意味を誰かに信頼して三頭を任せるしかなかった。
「信託銀行」
ジューン オブライエンが呟いた。井原隆は思わず噴き出してしまった。
「何に信託するんだい」
「私たちのまだ知らない者によ、彼らを」
「君をも信託する?」
「せざるをえないわね」
彼らと別れてから一週間過ぎていた。見知らぬところでも森のほうがいいらしい。
「ジューン、今度うちに招待するよ。京都だし美しいよ」
「ええきっと。婚約者と伺うわ」
井原隆の父伊原慧が倒れたのは、アフリカからちょうど帰省していたときであった。倒れたというより、元々心筋梗塞後の慢性心不全状態であったのが、トラブルを招きがちな性格のためストレスにさらされ、睡眠が取れなくなった上に診療内科の薬を嫌がって服用しなかったせいらしく、痙攣を起こしたという。当然シルバーバックの発作が頭に浮かんだ。
駆けつけてみると元気良く喋っていた。余りに元気良く。一瞬も休まず恐ろしいスピードで喋っていた。色々な心配事や母への不満、世の中の不当、医者の言葉。
過度な言語野の亢進である。突然、父は黙った。言葉を発する機能がストップした。話そうとしているのは明らかだが言葉を失ったのだ。呆然と見守るうちに、父の瞳が絶望から驚き、そして開放、喜びへと変化するのが感じられた。
隆に見ろ、見ろ、と言っている。そして明らかに微笑んだ。安心しろ、と言うように。
了
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