第2章 「シルバーバックよ何処へ」 その1

 シルバーバックの移送、これがすべての問題の大前提だ。シルバーバックから発生する状況が次の状況を引き起こす。解決策は考えられるが、まさにそれがシルバーバックと矛盾する。すでにかように問題A、その一その二と自縄自縛していく中で、遠い因果より生じる問題Bが徐々に頭をもたげる。

 Bはその周囲でも二次三次の波紋をひろげていくので、解決はいよいよ二律背反の度合いを増す。

 そもそもシルバーバックの習性として、メスの四頭はいてもおかしくはないのだが、盛りを過ぎようとしているからしてそこまでは無理らしい。最も古株の一頭が引退してから、現在では三つ巴となっている。

 とはいえ、メス同士はえてして敵か味方かがあいまいなものであり、結局シルバーバックの力加減とメス全体の振る舞いが拮抗する中での大家族の枠組みとして安定が保たれている。


 元来平和主義者であり、むしろ怠惰であるのに、時に咆哮し、ドラミングすることによって可能性としての危険性をしめす。権力はしかし、暴力による恐怖と抑圧だけでは長続きしない。かくして権力を長続きさせ子孫を増やしたシルバーバックの性質が必然的に大勢を占めてくる。

 内に対する優しさ、子育てといった面が、対外的な強さにプラスされねばならない。彼にしてもまとわりつく子たちが「ハハハ」と息をともなって笑うのをみると、にやっと破顔してしまう。たいていは、食事をしながらの子育てである。


 たしかに大量の葉っぱを食べるというのは、非効率的な栄養摂取の方法なのだが、その方法で成り立ってきたのはそれなりの自然のサイクルに合致したからであろう。ローランドゴリラの棲む森はそれによって適当に風通しがよくなり、小さな生物たちの生存をたやすくする。


 永遠に続くはずだった彼らの営みの方式を徐々に崩してきたのは、シルバーバックに比べるとはるかに貧弱な体をもつ種族の仲間争いであった。ギニア湾に接するカメルーン、ガボンのようなフランスの植民地だった国が、独立はしたものの結局は国の産物を先進国にむしりとられていくうちに、利益と反利益に引き裂かれるのであった。

 世界的な視点からいえば、チンパンジーたちはこの種族との接触を受け入れてきた。ボノボたちは小さな限られた区域で、ほとんど知られず平和な生存方式を発展させて生きてきた。オランウータンは絶滅に瀕している。


 この二本脚族は、自分達をホモサピエンスサピエンスなどとさも高等生物であるかのように称していたが、仲間争いに弁明をつけることに巧みであり、あるまじきことに仲間殺しを犯す。その行為にも理由付けを得意とした。他人を殺せば、その報復を受けるのも当然であることを経験しながら、それをいまだに超えることができない種族であった。

 顔はシルバーバックの仲間に似ている。筋肉の弱さを鋭い人工の歯や火の飛び出る長い棒で補って、彼らはチームごとに殺し合いをした。それならまだいい。森を焼き払い、そこをどのチームの所有にするかでまた殺しあった。彼らは勝手に森に区画を設ける。その区切りのせいで自由に食べ物を探すことが恐ろしく困難になった。そして、かれらはシルバーバックの種族の遺伝子プールをも破壊し始めた。


 ある日夕闇にまぎれて偵察に出かけたとき、そのシルバーに輝く背に、どこからともなく飛んできた火が深く入り込んだ。恐ろしい衝撃を受けてシルバーバックはもんどりうって倒れたが、大きな茂みにかろうじてもぐりこむことができた。はたして卑怯なオスたちがやってきた。シルバーバックが痛みのあまりほとんど意識を失っていたのが幸いしたらしい。彼らの去る足音を恐怖の中に悪夢のようにシルバーバックは聞いていた。



 この無毛の体を持ち、その一部を何かで覆って暮らしている連中のおかしなところは、殺しあうかと思えば、おせっかいにもまた助け合いもする点であった。このおせっかい派の連中が近年森に入り込み、シルバーバック一家の周囲でじっと視線を送ってくるようになった。何かを取ろうとするでもなく、与えようとするでもなく、ひたすら眺めている。子供達は好奇心に勝てず、手を触れたりかれらの顔を覚えてしまったりする。

 自然界にはありえない、直線で構成され妙に硬そうな、しかも丸い大きな目をひとつ持つ物体を子供達を舐めまわすように四方から向ける。シルバーバックはさりげなく、戻れ、と合図を発する。そして子らを背に乗せゆっくりと静かな森の奥に入っていく。

 背中の傷は閉じていた。強力な免疫細胞が彼らを守っているのだ。


 そんな風に時間が経つうちに、この小さくて顔を寄せ合ってはかすかな音を発しあっている連中に害のないことがわかってくると、つい油断をして居眠りをしたりするようになった。どこか、体が弱ったようでもあった。

 ある朝、ぴしっと痛みが肩に走った。思わずさわってみると、感じたこともないすべすべの長いものがそこにささっていた。それを抜き取ろうとしたが、シルバーバックの手にはその力が失われていた。闇が突然降りてきた。


 ひそひそ声のおせっかい連中が合図しあっている。

「これは参ったな、弾が血管を移動して心臓にはいりこんでる。鉛毒にもさらされてる」

「このままだと弱っていく一方ね。首都に運んで手術で取り出すしかないでしょう」

「理屈としてはそれ以外にないが、この繊細な神経の動物のことだからきっと神系的な反応が生じるだろう、特に家族なしでは」

「まあ私たちで言えば、強い対人恐怖症よね。森も役割も家族もいない、言葉がどれだけ通じるかしら、チンパンジーでは三,四歳児なみには理解してくれるけど」

「若い個体ならね。仕方ない。家族は保護区に移送っていう手もあるが、しかし何とかこのままでも生き延びる可能性は十分ある。問題はシルバーバックの心理面だな」


 しばらく沈黙があった。シルバーバックは片手だけであたりをまさぐってみた。なじみの長いメス一号らしいにおいがする。彼女はあと一頭くらいは子が産めるだろうというきわどい年齢である。芯が強く我慢強い、なによりもシルバーバックを恐れている。その一撃が死を意味することを知っている。つまり憎しみと慣れと忠誠心がまざったおずおずとこすからい知的なメスであった。

「よし、どうだろう、このメスをこのまま一緒に連れて行こう。シルバーくんもパニックを抑えられるだろう」




 かれらは子供以上に声を発して笑う。この小ささからして子供なのかもしれない。メスA号はそう感じていた。とくに無毛で小型の、メスらしい個体はその唯一の頭髪の明るい色をきらめかせながら、白い歯並をみせて敵意のないことをアピールするのだった。


「これからよろしく、あたしはジューンよ、あなたのことなんて呼ぼうかしら。ねえ、隆、日本語でA子に近い名前ってある?」

「え、なになに。メスでナンバーワンだから、Aで、子をつけるの?そうそう英子って名前の人がいたな。賢いというニュアンスがあるようだよ」

 それから自分に向けて英子ちゃんという音が発せられるのに彼女は気づいた。別にそれでいい、とメスA号は感じた。そんなことよりシルバーバックの反応が重要だった。彼女にしてももはやこのボスから逃げる自由は無いらしかったからだ。太い冷たい棒がそこら中にあった。木や葉の香りも水気もなかった。


 なにしろシルバーバックは重症で重病で神経症なのだ。それを前提に首都ヤウンデへの移送準備が始まった。おまけに巨体である。森無しで食事量を集めるのには、一日も欠かせないだけにジューンとそのグループは苦労していた。

 英子は栄養価の高いフルーツを喜んで食べたが、シルバーバックには禁じられた。血糖が高いから、と隆が用心していた。もちろん食べる量がなければ満足できない巨体の持ち主はそれでなくてもやや量不足を感じていたのだろう、いつも機嫌を損なっていた。それがまた神経質さを悪化させるのだ。両手を、手持ち無沙汰の余りこすり合わせた、顔をひっかいた。それが皮膚病を引き起こし指や爪に痛みを与え、それがいっそう彼をいらいらさせた。


 すべてがこの、小さい連中が原因であることをシルバーバックは確信した。こいつらは敵だと認識した。英子にはその親切がわかる場合でも、かれは咆哮して追い払おうとした。数日のうちに容態が悪化した。息が荒くなり、近寄ろうとすると咆哮する代わりに壁にくっついて顔を押し付けた。それでも手当てをしようとするとついには痙攣発作を起こした。

 これには英子もたまげて、跳ね回って叫んだ。

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