第1章 「猫坂」 第6節 人の都合 猫の都合


冬が終わりそうな、そんなころからマウスとブルーは、若者らしく独立を試みるようになっていた。グレイさえ次第に来なくなった。

メスで一人残ったベロは時々食べに来た。どこで時を過ごしているものか、見かける回数も減っていった。


チビはもう、一度でこりて家付きになったようだ。


ボス猫のシロは、トランペットのように咆哮しながら尾っぽを高くかかげて庭を横切ってくる。とぐろを巻いたうんちをこれみよがしに置いていく。けんかを仕掛けるときは人間の介入を無視する。

ほほの盛り上がった大きな顔を斜めに構えて睨み付ける。確かにライオンを思わせる。こいつを捕まえるのは大仕事だった。


難渋の末、やっと車に積み込んだのだが、一分間目を話した隙に小さなキャリーからどうしてだか逃げ出して車の中を走り回っていた。

人間のオスとしてボクもこいつは嫌いだった。

しかし、人間の知恵と協力が勝ってこれをまた捕獲し、しかるべく追放した。


このあとのキングの座を狙っていたのが真っ黒なクロ、これも運良く排除した。


次に隣家に対して問題を起こすこと必至なのは白黒おかめのような脚の悪いメスだ。これを目標にしていたのだが、用心深いことこの上もなく手間取っているうちに、ニャンコに似たメスの捕獲に成功した。


この娘は獣医師の儲けに加担することとなった。

尤も連れて行った時に驚いたことに、医師が松葉杖をついていた。前夜階段から転げ落ちて骨折したという。両手は無事だったので手術はできるという。

それで安心したのだが、いつもは熟練の助手さんが、飼い猫と勘違いしたのか、この猫を捕まえ損ねてしまった。


その後の大騒動は眼を覆うばかりだった。

三つの診察室は上部が網で仕切ってあったのだが、天井までも駆け回り、網をくぐり抜けて次の部屋に降り立った。

そこの診察道具をひっくり返し、ついには待合室へ逃れでた。そこを二、三回縦横無尽に駆け巡る。大きな魚掬い網を助手さんがかぶせた。


その際に医師は隠れていた。ボクは眺めていた。

麻子が大網の片側を足で踏んで、やっとこれ以上の狼藉を妨げた。

そして御用となった。医師も助手の女性も静かに対応した。ボクらにも静かに対応して何も言わなかった。


手術後に電話があり、妊娠どころではなく子宮全体が膿で一杯だったという。出来る限り注意して摘出したが、感染してしまうかもしれないと。

ボクらは一週間後に受け取りに行った。元気そうに見えた。誰の遺伝子が混ざっているか知らないが、神よこの子をよろしく、と軽く念じてしかるべく追放したのだった。


冬の終わりに、ブルーが帰ってきた。病気で死ぬ手前だった。

アパートで静養し食べては眠り、薬を飲まされ、皮膚も手入れされた。次第にまた美しい猫の姿となった。そして最も手のかかったこのブルーは、今や一番の人間好きになったのだ。

ボクも初めて猫を可愛いと思うようになった。

ボクが外に出ると、しっぽをピンと立てて喜びを表した。一歩一歩、脚を出すごとにその間を通り抜けた。


しかし、シロとクロが消えて後、グレイに似た、灰色のグレイトグレイが見回りに来るようになったとき、ブルーは再び生家を後にした。

別の家を見つけたらしくもう戻っては来なかった。

マウスはとっくにいなくなっていた。

小柄なグレイも誰かを見つけたのだろう、次第に見かけなくなった。


グレイトグレイは実にグレイトだった。

初めて見たとき麻子は後ずさりした。豹ほどに見えたと言った。しかしその声はどの猫よりもか細く高い優しい音声であり、性質も温和だった。

大食いだった。ボクは大缶詰をふたつ与えた。

あるときは立て付けの悪い網戸を自分で開けていた。妙に気に入ってしまった。

次第に缶詰の始末が少なくなって喜んでいた麻子には大迷惑だったらしく、苦情しきりだったが、そんなことを意に介するボクではない。


しかしこうして新しいボスが定着しそうになったせいで、辺りが騒がしくなった。かえって猫の影が増え始めた。


春先には、子猫が鳴くのでボクが階段を追いかけていったことがあった。

五階まで登り、助けようとするボクの手を逃れようと、なんと外に飛び降りたのである。が、枯葉ほどの軽さの子猫は下の地面にたたきつけられてはいなかった。影も声も無かった。道路向かいの公園から母猫らしい呼び声がした。


ボクもこれには閉口して、グレイトグレイもしかるべく追放処分とした。

別れ際に彼はボクをチラと振り返った。

彼のこれからをボクらは全く心配しなかった。


ベロの真っ白い姿を何回か竹林のそばで見かけた。

食べには来なくなったが、生きられるらしい。


残ったのはチビ、それに白黒の脚の悪いメス。

チビが来たときだけ餌を出した。食べ終わると後が残らないようにきっかり仕舞い込んだ。

それでいいはずだった。気弱なチビの遺伝子が残るとは思われなかった。このことは隣家も納得しているはずだった。一年くらいがすぎた。



五つ子達の誕生からちょうど二年たったのだったろうか。隣家から、夫君がじきじきに出向いてきた。


これまでは浮気の罪滅ぼしに細君の猫嫌いに追従するという感じだった。しかしついに彼にも本当にボクらを攻撃するチャンスが生じたらしかった。これで細君が許してくれるとでも言うように、意気揚々と彼は始めた。


「奥さん、お宅が餌をやるという愚行を始めたせいで、またこのざまです。何年も何年も、餌をやって。いい加減にして下さい。

今さっき、うちの物置の床下から子猫の声が一声したんです。私は聞き逃さなかったからね。耳はいいんです。すぐに悟った。お宅のせいですぜ」

「でもすでに一匹しかいないのはご存知でしょう。どれにも餌を出してる訳じゃありません」


これまでは女同士で話をつけていたのだが、これではボクも玄関に出て行かざるをえなかった。そして何とか話を世間話の程度に持っていこうとした。彼は博愛主義の話になると用心しているらしく、


「私はペットというのに反対なんです、そもそもね。自然にいるなら結構。でも人工的な人間の世界のペットというのは自然とは程遠いですからな」

とボクの表情を見た。そして勝ったというように妙に強く言った。

「お願いしますよ、そろそろ。お宅の住宅契約違反をつきますぜ」


それからボクらがチビにしたことのためにボクらは隣家の人々を憎み始めた。


麻子はチビを干したのだ。

保健所の毒ガス室に送るのも、安楽死させるのもボクは反対した。第一捕獲することが無理なのだ。今更どっちの手段でも同じだ。チビが何とか別の道を見つけてくれることに賭けるほか無かった。

グレイのようにしつこく騒ぐこともなく、グレイのように近づいて拝み倒すことも出来ず、チビは理解でないままやせ細っていった。


それは死人も出たほどの異常に暑い夏だった。

殺すとか、死ぬのを待っているとかいうのではなかった。しかし、それは隣家に言われるままに、社会に適応しようとして弱いものを虐待していたこと以外のなにものでもなかった。


ボクは突然、麻子に命令することが出来なくなった。

隣家の意見を罵倒しながらそれに抵抗する気概は不思議にもボクは持ち合わさなかった。


「チビが駐車場で死んでるかも」

麻子が青い顔で言う。日曜日だった。車はほぼ出払っていた。

日がかんかん照り付けていた。

その真っ只中に黄色い布切れが落ちていた。

平べったく紙のように張り付いて動かなかった。

見に行く勇気が無かった。出たり入ったりした。

汗をいっぱいかいて、麻子は最悪というような顔をしていた。

ボクを睨みつけ一言も言わなかったし、反応しなかった。来るものが来た。

しかし何度か目にはその姿がなくなっていた。


ボクらはほっとした。最低な気分だった。



少し気候が涼しくなった頃、また事が起こった。


聞き覚えのある呼び声、網戸にハエ取グモのように跳びついて傾げた頭の影、中をのぞいている。グレイだ。チビが消えたので帰ってきたのか。

グレイは無視して干すことの出来る相手ではなかった。すぐに決定した。追放だ。


麻子は告白した。一度グレイをひざに抱いたことがあると。グレイが胸を両手でもみもみしたと。それは子猫が母猫の乳房にする動きだという。

一度チビとふたりでこっそり入り込み、寝室のベッドに機嫌よく寝そべっていたと。


さすがのボクもその時には怒る気にはなれなかった。ベッドは全部その後変えた。麻子はますます不衛生に見えた。


「可愛そうなグレイ、生きていけるかしら」

ボクらは飲み屋や小料理屋のある路地で別れた。

グレイはあの目つきでこちらをぼんやり見て、どうして? どうするの? と尋ねた。


その後に見舞われたのは猫坂ではない。その余波である人間の坂道だった。

ボクらは隣家を憎み、夫婦でお互いを憎み、訴えられ、別居し、それらは啓治に波及し、彼の進路問題を深刻なものとした。

ペット可の住まいだったらそれはそれでうまく対処できたのだろうか。

わからない。

思い出は多い。現在は最悪だ。


ところで、チビは生き延びていた。首に毛糸を巻きつけられて元気にメスを追いかけている。

それでもボクらの罪は消えない。 

        (了)

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