第1章 「猫坂」 第3節 五つ子誕生
奥さんは家にこもっていた。夫は時々帰宅した。
「お隣の奥さんね、駐車場の車の中で座ったっきり、変だったわよ。ずっと座ってるの」
と、麻子が少し暗い調子で告げに来た。
他人の不幸は何とかというが、毎年美しい庭作りに精出していたお隣の細君が庭を手入れしないのはどんなに幸いだったか。
八月初めに、ついにそのときが来た。
しかもこともあろうにニャンコが、隣家のバルコニーに子供を運んできたのだ。
しかも五匹も無事に育っていた。
しかも隣家の川口氏宅では事態が好転したらしく、もはや夜遊びは止んでいた。
庭を見回っていた川口氏は、機嫌のいい笑顔で
「可愛いですね」
と麻子に言ったという。
ボクと麻子の間柄は元々非難合戦の敵同士というべきものだったのだが、とりあえず協力してこの事態に対処する必要があった。
「そのうちどこかに運んでいくさ」
「そうかも。でもうちの責任だし」
「飼っているわけじゃないぜ。責任なんかもてないよ」
「え、そう思うの。増えたら困るし、今のうちに保健所へ」
「ごめんだ! ガス室はだめだ。安楽死なら別だけど」
「きっと高くつくよ。ニャンコも今度こそ早く手術させなきゃならないし、増えたら近所迷惑よ」
「近所が何さ、猫をそもそも捨てた奴の責任じゃないか」
「じゃ家の中で飼う?」
「とんでもない。猫は結構ひどい病気をうつすんだぜ」
すでに急坂である。
麻子はお手上げという手付きをした。ボクには意見と方針を変えるつもりは毛頭無い。
麻子はしかし迷わなかった。彼女の従順と恐怖がつよく働いたのだ。世間的な思惑。他人がどう思うかを第一に考える。それが習い性となっている。自分の原則なんかあったもんじゃない。
その日の夕刻、隣のバルコニーの所に這いつくばって忍び寄り、サササッと五匹の子猫を箱に入れて奪取したのだという。
この行為によって、実は川口家はそっと見ていたらしいのだが、この行為によって麻子は自分に責任を引き受けたのだ。そして責任の果たし方も心積もりしていたのだ。
だが、ボクがいる限り麻子の計略は阻止する。
それはただの毛のかたまりだった。五分の四強は白色だった。残りは茶色に少々黒色が見えた。
ニャンコも白が多いが、ここまで白が優勢だということは、ここいらのボス猫シロに犯されたのだろう。「じいさん」とはどうなったのか。
生物ってのは、とボクは言葉にせずに言った。麻子がそばにいなかったからだが。こんなにせっせと子孫を残すか、それ自体が自己目的化してるな。
ニャンコは、チビのときとは異なり、実家に戻ったのんきな娘みたく、ボクらが検査のためにくにゃくにゃした暖かい毛物を触ったり鳴かせたりしても意に介さない。
麻子は雄雌を確認しようとやたらに裏返したりすかしてみたりするのだが、三毛猫が雌だという意外どうもはっきりしなかった。
猫のペニスがどこにあるか見たことも無かったし、陰膿も膣も発見不能だった。
もう眼は開いていた。保護するために眼球を覆っていた細胞が、指令を受けてアポトーシスを起こしたのだ。
一文字に皮膚が割れた。青みがかった虹彩がきらめいていた。
「ああ、やっぱり。白い猫たちは遺伝的に病弱なのよね。目の周りも鼻の周りもさ、乾いたり湿ったりした分泌物が汚らしくこびりついてて」
と、麻子は勝手な解釈を加えた。
「拭いてやったら」
「ニャンコがなめてやるわよ」
なるほどそれもそうだとボクが思ったのも珍しい。子育てに関しては麻子に一目置いている。
北側のベランダには、皿洗い機の置き台が長年放ってあるのだが、その下半分は開きドアつきの物入れになっている。
バスタオルを入れてやると、ニャンコはさっさと中に入り、どっと横になった。
綿毛たちをそこに入れると我先に白い柔らかくおいしい毛の中へと鼻面をすりよせ、とりついていく。
なにひとつのとどこおりもなく進んでいった。ニャンコは満足満足とばかり、のどを鳴らし続けた。
合計十個の瞳がしっかり物を捕らえだした。
毛玉の中からそれぞれ四本の歩行器官が独立してきた。それぞれに五個の爪がついている。
それらの四肢を踏ん張って立ち、とりあえず無意識無方向に動かすと見えているものへ近づいていく。少々の高低は這うようにして、超えていくことも出来る。
「あのね、凄いよ。今日サ、はっと気づいてお皿に草花用の土を入れてね、ねぐらから一メートルのところに置いてみたら、なんと一人一人来て、二人一緒ってこともあったけど、トイレにしたのよ。凄いよね。今までどうしてたんだろ。ニャンコが食べてたのかな。みんな待ってたのかな」
麻子の興奮した報告。ボクもフーンと感心してうなる。
生き残りのレースを勝ち残ったものたちは、賢い。お行儀がよい。
ニャンコは時々外出するが、帰ってくると、チビのときも発声していたやさしくかすかな喉の音を聞かせる。
「ただいま、ママだよ」
子供達は溢れるようにママァと叫びつつすりよっていく。
ニャンコはひとりずつ額をペロリとなめる。それから気のむくままに毛玉をしっかりなめて、汚れや何かをとる作業に入る。母も子も満ち足りていく。
ある夕刻、麻子がキッチンのサッシドアを開けて様子や如何にと首を伸ばした。
ニャンコはいなかった。
子供たちはちょうど目を覚ましていたのだが、彼らの住まいから全員ダッシュして出てきた。大声で叫びたてる。全員がガラス戸のはめてある高さ十センチ近いしきいを超え始めた。
麻子が叫んだ。連中を部屋に入れたことはまだ無いのだ。
ボクも見に行った。
三毛がもう部屋に降り立っている。麻子はあわててそれをつかみ外に下ろした。
その間にシロ一号が入り込んだ。麻子はそっとそれをつかみ、外に下ろす。
その間にシロ二号と三号が同時に入り込んでいた。
この二匹を一匹ずつ出す間に、シロ四号と三毛はもう室内に十センチほど進出していた。
麻子はワアワア声を出しながら、両手で一個ずつつかんで外に出す。その攻防は果てしなく続いた。麻子は劣勢だった。二対五では勝ち目は無い。
相手は一度の経験からすばやく学ぶ。二度目はよりすばやく効果的に動くのだ。
とうとうボクも手を出し、人間二人してやっと綿毛たちを外に置き、エイヤッとドアを閉めることに成功した。
すりガラスの向こうで五つの影が可愛い鋭い音を発しながら突進し続けている。
彼らはたちまち人間の家中を走り回るだろう。恐ろしい。
そしてその姿は残念ながら可愛かった。人間がなぜ動物を可愛いと思うのか。
ついでに質問すると、何故麻子は草花を美しいと思うのか。
翌朝は、日光のさんさんと射す日曜日らしい日となった。蒸し返すような日中の暑さがやや間遠くなっていた。
麻子が段ボール箱を抱えて、かなりのスピードで居間を横ぎり、器用に足先でベランダへのガラス戸をあけた。ミーミー声がする。その箱をベランダに置いた。できるだけ手すりの近くに。
麻子は今度はすごい速さでボクの目の前から走り去った。廊下から玄関をダッシュで出て行った。
入り口のドアがバーンと尾を引いたが、もうそこら辺にはいない。
案の定南側の庭へ足音が走りこんできた。
子猫たちは一部は箱から這い出してどうしたことかと叫んでいる。ニャンコがどこからか庭に現れた。
ボクが窓辺から見ていると、麻子は気をつけて一匹ずつつかんでは手すりの桟の間から外へ引き出し、庭の雑草の中に置いた。なかには抵抗するものもいて、危うく頭を打ち付けそうになったりするのだが、そのうちにミッション完了という感じになった。
「日光浴よ、ずっと北側じゃね」
麻子は小声で言った。
初めて踏む土と草である。草の茎に鼻をつけて確かめ、時々尖った草を踏んで、前脚を上げてぶるぶるっと震わせたりしながら、みんな無闇と動いた。
全員のしっぽが見事にそろって、槍のように立って動いていく。肛門が丸見えになっていて感慨深い。
ニャンコも多分嬉しいのか、それぞれのこのおでこをいつものように一舐めずつしてやっている。子猫のほうが母親へ挨拶に行っているのかもしれない。
それにしても、ニャンコの我々への信頼はかなりのものだ。
麻子は彼女の理想の庭が完成した、というような顔をしている。
彼女の庭といっても、好きな樹木が二,三植えてはあるものの、全体は自然に任せてあるので、庭とは程遠いのだが。
隣家の庭のベルサイユ宮殿的眺めと比較するととんでもなく見劣りする。もっとも、ボクは興味ないのでどっちがどっちでもかまわない。
隣家の細君は以来今も庭をかまわないままだ。
それから面白いことが起こった。
しばらくすると、ニャンコは一匹を口にくわえて北側まで持って行った。
サ、帰ろう、みたいな感じだった。麻子は了解して手伝おうとした。庭でうろうろしていた残りを、ひとりひとりわしづかみにして、ベランダの柵の間からまずベランダ内に差し入れる。
抵抗したりすぐにまた端に出てきたりちょっとした騒ぎだ。
四匹ベランダに揃ったと見るや、麻子は猛スピードで庭と建物を周回し、激しく玄関から入ってきた。今度は2匹ずつわしづかみで北側のベランダに出した。
ボクはあれこれ注意しながら注意深く監査役をしている。全員元の住処に入った。こちらも一息つこうとする。
数分後、キイキイ叫ぶ声が南のほうから聞こえた。
ボクらはとても驚いて外を見た。ニャンコだ。くわえてきた子猫が痛いのか何かで騒ぎ出したのを困った様子で地面に下ろしたところだった。
それから気を取り直してくわえ直すと、子供をぶらぶらさせながらはしごを軽く上ってきた。
「ニャンコぉ?こっちがいいの!」
麻子はすぐに迎合する。相手の言いなりになる。ボクには抵抗するくせに。
「暑すぎるんじゃないか」
とボクは言った。が、麻子は強く言った。
「南がいいと思いなおしたの、ニャンコ」
これはもう決行しかない。ニャンコを説得することなんかできやしない。
麻子はまた手伝いだ。人間の手はやはり便利だ。くわえて持ち運ぶより効率はいい。
ベランダの隅にあった例の椅子のアパートは彼らに与えられた。
ボクはよく考え抜いてから、便利そうな砂箱を買った。尿臭さを吸収するパッドをいれ、木屑からなる砂を入れるのだ。
麻子がざーっと勢いよくこぼすと、子猫たちがぞろぞろわいわいやってきた。みな嬉しそうに尻尾を立てて代理母を声高に呼ばりつつ。
そしてなんとしゃがんでいる麻子の体の下にまず入って挨拶するらしい。礼儀正しく、利口で清潔な猫族だ。
それからひとりふたり、決して押し合ったりせずに、毛先が軽く触れるか触れないかの距離を保ち、しゃがんでおしっこをした。
うんちをすると、踏まないように気をつけ、何か足につくと、神経質にその脚を上げてぶるぶると振るのだ。
ところで、困ったことに五匹のうちメスは三匹もいた。白いのが二匹と三毛猫。三毛猫はメスと決まっているわけで。
これらがまた、完璧に美しい猫たちだった。
真っ白のひとつはベラと麻子が名づけた。イタリア語のbellaだと主張した。
もうひとつもベラと名づけてしかるべき同じ完璧さだったが、やや小さく、頭に黒い点がひとつあった。それを欠点としてペロと麻子が名づけた。
「この三毛猫の可愛い顔見て。眼の周りはアイライナーでかいたようにパッチリして。それに好奇心旺盛で、ひとなつっこくて賢いよ。なんてつけよう」
麻子は感激して浮かれてしまって、
「そうよねえ、これはウランちゃんだわ、アトムの妹の」
「えーっ!」
と横槍を入れたのは息子の啓治だ。いつもボクらの猫騒動を苦々しく無視していたのだが、ちょうど部屋から出てきていたのだ。
「そんなの変だよ。ウランちゃんなんで馬鹿と違う!」
と理由はいわずに反対した。
「そうかな、それじゃ。ええと、じゃリボンちゃんじゃどう」
「よくそんなアホなことばかり考え付くな」
と啓治はもう立ち上がっている。それでリボンちゃんに決まった。
ボクは麻子の命名力には呆れている。
ニャンコというのからして全く力が入っていない。
残りのオスの大きいほうは青い目をしていたのでブルー、もうひとつはやや小さかったのでマウスである。猫にマウスとは恐れ入る。
ブルーの眼はある日青色が消えた。
この兄弟は白猫の弱さを露呈していて、すぐ風邪を引きズーズーさせていたので麻子は間もなく死ぬと思ったらしい。
そんなことを匂わせた。
うちのペットになるとは考えていないので、単なる符号である。
チビはどうしていたか。
餓死寸前で帰って以来二度と自立しようとはしなかった。弟妹と遊んでやり、ニャンコの留守中には子守をした。
ある日麻子が珍しく目を丸くして報告した。
「猫の乳首は6つあるんだけど、それをみんなで吸ってたの。驚いたのなんのって。聞いてよ」
「みんなって、5匹がかい」
「チビよ、あの子も一緒に吸い付いてみんなでゴロゴロいいながら眠ってたのよ、信じられる? ニャンコも知らなかったのね」
「チビはもうニャンコより体大きいだろ」
「だからぁ、そのおかしいことといったら」
ボクらは大いに笑った。時には二人して笑う、そんなこともある。
しかし次にはもう衝突だ。
「そろそろニャンコに避妊手術させなきゃと思うんだけど」
「そうだね、仕方ない」
「チビにもさせなきゃ」
「チビは問題だ」
「えっ」
「去勢してもどうせ他所から別の猫が来る」
「え」
「それにチビは去勢されたら生き残れない」
麻子の計画をつぶすことが出来た。ボクの正論には本当は弱いのだ。早速実行しないと危険だった。
ニャンコは素直にキャリアに入って何回か鳴いたが、ボクらの声を聞くと黙って運ばれた。悲しいほどに信じていた。医師の手に手渡された。
人間は一週間で帰ることが出来ると知っている。それを知らないニャンコには絶望的な運命であるはずだ。
「捨てられていない、とわからせるよう毎日餌を持って病院に行こう」
「えっ」
麻子はここ数日焦ったり諦めたり沈んだりしていたが、ボクの言葉にまた眼をむいた。
「可哀想だよ、捨てられたと思うから」
アホな、と麻子は呟いた。
「そこまでする?」
「そこまでする」
ボクは毎日、仕事が済むと見舞いに麻子と行った。医院の扱いをチェックする気持ちもあった。
ニャンコはおなかを剃られ、そこに大きなテープを貼られていた。
小さな檻には尿パットと水の容器があった。出してもらうと、
「やっと来てくれたのね。会えて嬉しい」
と、体中をよせてきた。ボクらは夢中で体中を撫ぜてやった。缶詰を元気に食べた。
七日間通った時、家に連れ帰った。
玄関から居間をとおり、南側のベランダのドアを開けるとみんなが集まっていた。ニャンコはそれぞれの額をペロリと舐めた。
おでこが差し出される前に自分から順番にそうしたのは、如何にも懐かしがっているように見えた。六匹の子供達も満足しているように見えた。
ひとまず山は越えた。
夏に生まれた子供達を今後どうするかと決める間もないころ。
アメリカンブルーの花がひとわたり咲き済み、カットされた鉢の中で、再びこんもりと、緑の新芽を伸ばし始めたとき、ボクが帰宅すると、麻子がベランダに呼んだ。その鉢の中が真っ白になっていた。
白い子供達が柔らかくひんやりした丸い緑の敷物を押しつぶして、おしくらまんじゅうのように詰まって眠っていた。
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