第1章 「猫坂」 第4節 グレイやってくる

「なんだこりゃ」

とボクも思わず反応してしまった。麻子は大事な鉢の新芽を押しつぶされて、ニコニコしている。どこまで自分の無いやつなのか、とチラと思ったが。


鉢に被害はない。重石が取れるとまた水をもらって復活した。

もっとも翌日にはニャンコまで重なって乗っている始末だ。しかしそれで彼らの好奇心は満たされたらしく、アメリカンブルーは災害を逃れて、二度目の開花へと向かっていった。


母猫の仔猫遺棄行為は、ニャンコに限ってはこんな次第で遅れていたと思う。

しかし世の中の猫の仔は生死を賭けて戦い始めていた。ほとんどは病死餓死カラスの餌食という運命を辿るのだろう。


そんな時期に、あきらかに白猫たちよりも小柄な灰色の鯖猫が現れるようになった。夕方それがグループの中に紛れ込んでもわからないこともあった。


或いは誰もいないときに

「こんちはぁ、僕ですぅ」

としつこい声で呼んだ。知らん顔をしているとすりガラスの上の透明な部分から覗こうとして、網戸に跳びついた。そこで止まって、頭と耳と眼を傾げて、じっと見つめた。


網戸を心配して人間はついドアを開ける。

「何とかお願いしますぅ」

と頭をすりつけてくる。口も押し付けた。まっすぐな瞳に意思がはっきり見えているタイプだった。

勿論グレイと名づけられた。


ボクらがグレイの必死さを受容しても、同属の態度次第なので、麻子は監察官となった。どうもグレイはこの特殊なベランダの仲間になるには、ひとりひとりと対決しなければならないようだった。


体の大きい順にグレイは一騎打ちを強いられる。

ベランダから決して逃げずに、隅に追い詰められて、おなかを見せて寝る体勢となり、降参降参と叫ぶまで我慢して持ちこたえる。


その叫びは断末魔の叫びもかくやと思わせる。

それを聞くと相手はもう攻撃への興味を失うらしい。


すべての相手に対して、グレイは降参を叫ぶまでの緊張を耐えた。根性があった。

オスの養子となった。みんなと仲良く訓練をし、最も賢く利口で人格があった。


ある時ボクにねずみを持って帰った。話に聞いていたことが実際に起ころうとは! 

グレイは、さあ、というような下からの視線でボクをじっと見た。

「おみやげだよ、あげるよ、どうする?」

ボクはこれをどうすることもできないのでそのまま有難うと放って置いた。最後には目だけ残して食べつくされてあった。


人も猫も一族郎党つつがなくこうして生きていたわけではない。

グレイが押しかけてきたのは何とも是非の判断は難しい。

前足をそろえてチンと座り、三白眼で見上げてお願い、と言っている孤児の姿は哀れに思われた。


のんきな白猫兄弟がグレイを受け入れて遊び仲間としたのは、ライオン並みの進化の知恵なのかもしれない。


こうして右往左往している間にも、猫坂の下りは、実はすでに始まっていた。

一家がアパートを南側に引越しして、子猫たちがベランダにかかった梯子を自由に上り下りするようになると、麻子の好きな砂箱掃除が不要になった。


砂を変える気配を察するやいっせいにヨタヨタ出てきて、自分の尻の下で待っている子猫を感じるのは、そりゃ、かなり印象的だったと思う。


しかし今や、彼らは自由な野良猫として自然をトイレとしたのである。

まだ遠くには行けない。自宅から少々離れた、便利な便所。


お隣の庭は、夫婦仲の改善とそれに伴う細君の回復を見る間に反映してきていた。枯れ草や雑草が消えて、黒々として土が入った。


目隠しの杉の立ち木の根元をお宅の猫たちがトイレにしていると、細君がうちに言いにやってきた。

「すみません、奥様は猫が大嫌いってはなしでしたよねえ!」

と麻子が低姿勢で応対した。

「この前から奥様が庭に出ていらしたので、困ったなあと思ってたんですが」

「ええまあ。で、どうするおつもりですか」

「すぐに保健所にもって行く予定だったのですが。主人が毒ガスで殺すなんてもってのほかだって言って」

「餌をやらなかったらいいのでは?」

「どこかもらってくれるところを急遽探します」


「うんちがくさいんですよ。朝食をバルコニーで摂っているときに特に」

「毎日掃除します。バルコニーや庭に入らないように忌避剤を買って、私が置かせてもらいます」


やっと彼女にお引取りを願った後で、麻子はボクをにらんでいる。

ボクは隣の細君の要求に腹を立てているのに。

「えらそうに。自分さえよければどうでもいいんだな」

「でもこうなることはわかっていたことよ。世間の反応はこうくるわよ」

「ボクが正しい。動物を苦しめてどうする」

「でも彼女の気持ちだってわかるから」


麻子はウンチ拾いにでかけるはめになった。

運悪く夫婦で食事しているときに出くわしてしまったときなどは、バルコニーから夫君に、もっとこちらにも、などと指図された。

ボクはそんなことをしている自分の妻に憤懣やるかたなく、帰ってきた麻子に罵声を浴びせて鬱憤を晴らした。


麻子のお気に入りのリボンちゃんが戻ってこなかった。

ニャンコのサバイバル作戦の遠足から脱落したらしい。


彼らは下水排水溝の小さな穴にも潜って生き残る。そのための野良猫特訓に後れを取ったのだ。

あるいは持ち前の好奇心と怖いもの知らずから危険に近寄りすぎたのか。

あるいは可愛いくひとなつっこいので誰かに拾われたか。麻子はいつまでも残念がった。


残った白猫のうち、オスは美しいまっすぐな長い白い尻尾のマウスと、曲がり気味のブルー、兄のチビと養子のグレイ、四匹もいる。


子宮摘出手術を受けることになるメスは立派な体格のベラと小柄なベロだ。


日に日に外の生活が長くなると、ボクらを次第に怖がるようになって、閉じ込められることを嫌うようになった。それはチビ、ベロ、ブルーだ。

そのうち去ってしまう猫も出てくるのだろう。

ボクはそれも待っていた。自然に自立できれば幸いだ。

大きくなるにつれ、食べる缶詰を買うのもその缶を捨てるのも馬鹿にならなかった。

ボクは必要なものはためらわず買う。しかし捨てるのは苦手なので麻子に任せた。猫の缶詰とはわからないようにラベルをはがして収集の前の深夜に捨てに行った。

ガラガラと張り裂けるような音がしじまに響いた。


子猫の里親募集のサイトにネットで掲示したが成果はなく、近所の店に張り紙してもらったところ、若い男からもらいたい由の電話があった。


これが大変な猫坂であることを予想できただろうか。

然り、ボクはちゃんと考えていて、用心するつもりだった。

しかし、この軽薄な麻子が、昼間ボクのいないのを幸いさっさと取り決めて、プルーをわたすことにしていた。

ボクの異議は、ひとつ、ブルーがボクらにも慣れ親しまないことだ。ふたつ、相手先が若い兄弟のみで住んでいるということだ。


麻子の詮索嫌いがすべての原因だ。細かいことまで詮索して知らなければ大事な動物を渡すようなことはしてはならないのだ。



大騒動するブルーごとキャリーで、ボクもどうしてもと言い張って隣の市まで相手の車についていった。ボクは変なやつらだと、言い続けた。


麻子は口を結んだまま、キャリーの取っ手を握り、ボクを置いてきぼりにするかのように彼らの後を走った。

細い路地の二階建ての家に来て、玄関を開けて麻子が入った。

ボクもやっと追いついて戸口に立って見回した。


「しばらく馴れるまでは決して玄関とか開けないでください。気をつけてください。馴れるまでは」

麻子は興奮して言った。


そしてボクが家の玄関の中に入ってドアを閉める前に、もうキャリーを開けた。

男達はぼーっと突っ立ていた。

そしてブルーは猫族のすばやさでたくさんの人間の足元を潜り抜け、開いたドアから暗闇の中に突っ走って出ていった。

ボクと麻子は絶望の叫びを上げただろう。ブルーは死ぬのだ。


もうクリスマスだった。寒い日々に飢えて死ぬのだ。


ボクは麻子を呪った。

玄関を開けたままの状態でキャリーを開くという、あんな馬鹿な真似をどうして出来るのか理解できなかった。


ブルーをほしがった男達はもう知らん顔をしていた。どうしようもないのは明らかだった。むざむざと死なすのだ。

ボクらがそれでも、ブルーが走っていった方向へ歩いていると、案の定、というか流石にというか、暗い茂みの中から、聞き覚えのある若い声が聞こえた。


「助けて、どうしたらいいの」

「ブルーブルー、おいでよ帰るよ」

麻子がささやいたが、やってくるような関係は無くしていた。

しかしボクらであり、少なくとも呼びかける相手であるのはわかっているのだ。


麻子は両ほほを押さえて呟き続けた。

「どうしよう、どうしよう」

責任感と同情と憤りがボクを興奮させた。

ボクの怒声を無視していた麻子が静かに言った。

「ニャンコを連れて来よう、まだきっと母親の気持ちでいる。ニャンコとだったらブルーも何とか生きられる」


「そうだ、そうだな。えさはボクらで調達すればいい」

麻子は目を真ん丸くした。ニャンコともどもここにほおって置くつもりでいたらしい。そんなことはさせない。


すぐに家にとって帰り、麻子にニャンコをキャリーで運ばせる。

言っておくが、ボクはどんどん潔癖主義がひどくなっていた。猫との生活のせいだ。動物への責任とボク自身の潔癖との折り合いをつけるのは麻子だ。汚れ仕事は彼女がする。


ニャンコはひざの上に抱いて連れて行くのに何の支障も無かったろうが、それではボクが困るのだ。


そこは宮田町というところだった。坂のてっぺん近くに車を止めた。

念のためキャリーに入れたままでニャンコと歩いた。


すぐに、驚くほどすぐにブルーの声がした。

「ママ、ママ、ママ」

「どうしてここに? ブルー、おいでよ」


答えを返しているニャンコを放す。ブルーは茂みから出てきて挨拶を交わした。

凍てつく夜だった。

坂の上には星空があり、片側はなだらかな公園になっている。


片隅に缶詰を出してやった。ボクは当然紙皿を準備していた。

そして別れた。明日の夜までは生きているだろう。


どうしたらブルーを捕まえることが出来るか。思案のしどころだった。

いわゆる猫おばさん仲間ともコンタクトを取った。ボクとはまた違う理由から猫にかかわる人たちだった。

現実はしかし、彼らの案も経験も役に立たなかった。


毎晩、どうすることもできずに夜の闇に隠れるようにして、他人の住む区画を徘徊する苦痛と屈辱はたしかにきつかった。これは野良猫の苦痛でもあるのだろうか。


ボクが置いておいた紙の皿に気づいた住人の無言の非難が感じられるときも多かった。

ニャンコは毎晩、同じところで待っていた。

影のようにやや小さな、ブルーが待っていた。


麻子はすべての責任はボクにあると思いたがっている。この厄災に巻き込まれたのはボクの性格的な偏りのせいだと。

何でもいい、ボクの考えと対応には正しさと首尾一貫性がある。

寒い十日間を過ごした。


大きなケージに、ドアがうまく遠隔操作で閉まるように強い綱を結わえ付けた。

それを公園の隅に設置し、中にはおいしそうなえさを置いた。

ニャンコが入る、ブルーも入った。

麻子はふるえながら離れたところにいる。

ボクは数メートルはなれて綱を握っていた。すぐに迷わず引っ張ってドアを閉めた。



ところが尻尾が一本はさまりそうだったので力を緩めた。

カタリと音がしてブルーは逃げ出した。

麻子の、声にならない嘆息が聞こえた。


もうだめだ。ブルーがわかってしまった。

もういやだ、と思いたかった。しかしこのままで引き下がることは許されない。

ボクはしばらくじっとして様子をうかがった。


ニャンコがまだ食べているのだ。

小さな影が来た。何も変わっていないとわかったのだろう。母親のそばへ行って食べ始めた。ニャンコは出てきた。


迷わなかった。思い切りドアを閉めて綱でケージを巻いた。

一緒のほうがよかっただろうが、すでに余裕が無かった。

ブルーは悲鳴を上げ続けていた。猫は必死の時には恐ろしい声を出す。

虐待と思われても仕方ない状況だ。


車の後部座席にケージを乗せた。

ニャンコは残念ながらコーラの段ボール箱に押し込んだ。車の座席を動かれては後でボクが困る。

帰りの道は、遠かった。


ブルーの叫びを聞いて、ニャンコもかっとなったらしく、爪と歯を使って段ボール箱をバリバリにした。

家に着くやニャンコは壊した段ボール箱からひとりでに躍り出た。

ブルーは離されて闇雲に南の竹林に逃げ込んだ。


麻子はしっかりと段ボール箱を抱えていたので固まっていた。ニャンコにかまれないようにコーラの缶で裂け目のひとつから自分の手を護っていた。


みんなは勢ぞろいして出迎えた。おおみそかになっていた。


グレイはいつまでも子供のままのように見えた。ベロと同じほどの大きさだった。ニャンコについで人間好きなのでそのうち啓治までもグレイを撫でるようになった。


ニャンコのややつりあがった瞳や、チビのまん丸な瞳とは違い、パッチリした眼をして、

「お願いがあるんだけどぉ」

としつこい声で訴えた。鈴の声とはいえなかった。


その毛皮はテンか何かを思わせるほどすべすべしていた。

「あんたが死んだら絶対毛皮にして残すからね」

「いいですぅ」

麻子の残酷な面をグレイはグルグルと受け入れた。


ニャンコは避妊されていたのだが、日が経つうちに落ち着きが無くなった。


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