第1章 「猫坂」 第2節 チビ登場


二週間過ぎたころ、ニャンコはベランダに戻った。

お腹は元に戻っている。体は小さくなった感じで、単独だった。

がつがつ食べると、ちょっと寝かせて、と言って休んだ。

「子供はきっと死んだのね」

ほっとした様子で麻子が言った。

以前のように日参するようになってまた一週間過ぎた。


ベランダの前には雪柳、そして葉の広いあじさいなどが、心沸き立たせるような色合いと勢いで、しかし、自然のままに雑然と繁茂し始めていた。


宵のうちもすぎ、小雨になって、闇がしっとりと下りてきた。

ニャンコが、フニャッと声を発しながら、

「よいっしょっと」

と元気にボクらのベランダに跳びあがった。一階とはいえ高さは一メートル半近くある。

そのころは暖かくなったので再び、入り口より五十センチ以内の法則が施行されていた。

麻子は身を乗り出して、ニャンコのすべすべした茶髪の頭を撫でていた。

「はっ」

と彼女が息を呑んだ。ボクは間髪いれず

「なにっ」

と糾した。


麻子はなんとボクに返事もせず、つっかけも正しくはかずに、ベランダの柵の下をのぞきにすっ飛んで行った。

「子猫か?」

「声が!」

彼女が指差すあじさいの茂みから、か細い澄んだ音が二回聞こえた。

ニャンコはぴょんと跳び下りた。

駆け寄ってきたのは小さな猫の姿。一匹だけだ。


ボクたちは喜びを感じた。たとえば蟷螂や蜘蛛の子が増えてもあまり嬉しくないだろうが、理性を働かすまもなくすでに嬉しさに襲われてしまった。


「わ、どうしよう」

麻子は子猫救出作戦にすでに頭を働かそうとして、それが人間には無理だと思えたのだ。ニャンコが口にくわえて跳び上がるには高すぎるし、足場も悪く、子猫はもう重たすぎるかもしれなかった。

人間が近づいて抱き上げられるか、自信が無い。麻子はニャンコすら抱き上げたことはないのだ。


突然麻子が行動を起こした。頭が回転し始めたらしい。

ボクがパソコン室のために試しにあれこれ買って、結局とりあえず使わないものが、ベランダにたまっているらしいのだが、そのひとつがメタルシェルフの一枚の棚で、これを地面とベランダに立てかけると梯子のようになる。

つまり階段ではないのだが桟が並んでいる。


そしてそれは実行してみると、角度といい、茂みに隠れる具合といい、誂えたように暗闇の中に光っていた。

ニャンコは、驚いたことに梯子を登るほうが楽だということを知っていたらしく、あるいは好奇心からかもしれないが、たちまち駆け上ってきた。


「ニャンコ、ちびちゃんは?」

と言う間もあらばこそ、今度は子猫も駆け上がってきたのである。

麻子は有頂天になって、吾を忘れて夢中になって、しかし隣人をはばかってささやき声で、

「ちいさぁい、まあっかわいいっ」

と叫んだ。


ボクにもその姿は無条件に愛らしさを感じさせた。

結局一匹しか来なかった。自動的にチビと呼ばれ始めた。


仔猫は、その色も顔もきれいな尾もあのじいさんに生き写しであった。

こんなにもそっくりであることから、ボク達の推測ではニャンコの父親がチビそっくりのあの茶色さば猫であり、同時に彼女を妊娠させた張本人である。


だから、彼はチビにとって父であり祖父であるのだ。

彼の外見がどちらかといえば成熟した感じだったので敢えてじいさんと呼んで違和感が無かった。

と言っても、チビが来てからの命名である。それまではあいつとかあれとかボクは言ってた。もう姿を消して長かったので、じいさんと呼びかけたわけではない。


チビはひとりで六つの乳首を独占し、すくすくと成長した。

母親はグル、という優しい音でチビを呼び寄せおでこを軽く舐めた、空気のように軽く。

チビはより澄んだより甘い音声で応答した。


すでに遊び盛りだったので母親の長い優美なしっぽをおもちゃがわりにして、まとわりついて遊んだ。

ボクはつい、猫のおもちゃなど購入した。麻子にそんな主体性は無い。

「またぁ、やりすぎ。缶詰もそんなにぃ」

と反抗するが、まもなくボクに従っている。


釣竿のような先にぶらさがったねずみ様のものでチビは遊ばされた。チビはねずみに夢中になっているが、なかなか捕まらない。流石に猫も知恵があるもので、ねずみと棒を操っている麻子の手元を押さえにかかった。


そんな遊びの時間はしかし短いし、稀だった。母親が間に割って入ってくるのだ。

怒っているのでなく明らかに自分に注意を向けさせようとしている。

あるいは低い音で警戒する。


チビは母親の警戒音が頭に刷り込まれてしまったかのようにさっと遠ざかる。

丸い顔に丸い眼をしていた。一度も撫でさせなかった。

ニャンコがやきもちを焼いていると解釈することも出来る。

ボクが部屋の中からベランダに首を出してそう言うと、麻子はニャンコのピンクの三ミリほどの乳首を検分しながらムムと言っていた。


「どうなんだろ、わからないよ。チビの態度についてだけど、生まれてほんの数週間しか人間に馴れるチャンスはない、とか読んだけどさ」

「じゃやっぱりニャンコは飼い主が捨てたんだ。誰か無責任な奴が」

麻子は不意打ちを食らってまたムムと言った。


言い忘れたが、チビはオスだ。とりあえずは良かった、と麻子は言う。



「でも、去勢しなきゃ」

「あ、だめだめ。たとえそこら中のオスを去勢しても一匹いれば増えちゃうだろ」

「エ、しないの、常識でしょ」

「理屈を考えろよ、そんなの無駄だ」

「じゃ、ニャンコはするよね」

「それが論理的だよ。ただ、今はまだできないだろ」

「チビが母親を必要としなくなったころ?」


チビの体がニャンコとあまり変わらなくなった。

それでもしっぽをおもちゃにする。ニャンコは不快そうに

「やめなさい、うるさい」

と怒りを見せた。


少し前までは、ベランダにさっさと上がってきて

「ただいまぁ、開けてぇ」

と叫ぶニャンコに、麻子が頭を撫でてやりながら

「ニャンコ、来たの。チビは、チビチビは?」

と決まって尋ねた。

ニャンコは、あ、そうだった、みたいに、ベランダの下をのぞきに行く。


グルルと短く呼ぶ。チビが来る、と言う手順だった。

チビは人間が怖い。

ニャンコが怖がらせているともいえる。

そもそも臆病な性質もあったのだろう。

嬉しそうに尻尾を高く上げることが無かった。

いつも水平か、それより下に長く伸ばして目立たないように、茶色の影のように動いた。


次第にニャンコとチビには別々の行動が増えていった。


南に広がる竹林からこのマンションの敷地ぎりぎりまでが白猫ボスのシロのテリトリーらしかった。

北側の道路を下ったあたりにニャンコも出かけていくが、そこのボスはどんな奴か麻子も知らない。


マンション入り口近辺、北庭に面白いことが起こるようになったのは、チビが完全に乳離れしたころのことだ。


毎朝ハナミズキの下あたりの柔らかい土に、美しい富士山のようなものが三センチほどの標高で出現していた。

週末にボクがキッチンのサッシ窓から見ていると、そうとは知らなかったのだろう、庭にいた麻子がウーとかエーとか唸っていた。


ちり紙でドアを開けてボクは、

「おい、麻子」

と声を低く響かせて言った。

麻子はうろたえたのを見せまいとしたかのように、

「ほうき目、がね、つ、ついてるんだよ」

どもりながら、右手の指を引っかくような形に作った。


そしてついにある朝現場をおさえた。


毛並みに光沢のある完璧な美しい姿の猫、チビが自分の排泄物を隠していた。

左右の手を使って念入りに土をかき寄せて、盛っていた。

精密作業にそんなに没頭していては却って危険ではないかと思うほどだった。

耳を不快そうに後ろ向きに寝かせて、まじめな目つきで必死に作業していた。

ボクは少しばかり、自然の為す技に感嘆した。


一方、南の庭の、枯れ草を集めておいた場所には、堪らないような悪臭の元が出現していた。隠すどころかこれを見よ、とテリトリーを宣言していた。

シロのうんちのとぐろだ。

これだけするには余程たくさん食べねばならないだろう。


才知と体力なくては食糧確保の権利は得られない。食べられるのがボスのボスたるゆえんである。

臭い。ひどい。居たたまれない。

チビにとってもそんな居たたまれなさがあったのだろう。猫社会の掟だ。


チビはわずか月齢六ヶ月ほどで姿を消した。


母親が寄せ付けなくなったことも掟の意味だったのだろう。

ニャンコはまた、暇になり気儘にのうのうと暮らし始めた。

しかしあの鈴をふるような声ではなかった。がらがらになっていた。チビを連れてきたあたりからそうだった。


すぐに獣医に見てもらった。レントゲンや予防注射。風邪薬。

そこへ行くのも、駐車するのも、支払いも大変だった。ボクは適当なキャリーも買った。まったく問題ばかりで、腹立たしかった。ニャンコの枯れた声は二度と天使の声には戻らなかった。


猫坂はでこぼこ道だ。我慢と人道との間を走る下り道だ。


ここいらは結構野原が多い。小鳥の雛とか、小動物もいることだろう。

「猫おばさん」もいることだろう。ボクらはそう思ってチビの旅立ちを明るいものと捉えていた。


「どうしよう!」

その数日後の夜、麻子が口癖を連発していた。

ボクはビールを楽しみに一日働いているので暗い話題は避けたい。ボクが話題を持ち出す分にはいいが。


麻子は青ざめている。悪い予感にイライラが募った。

「ナニ、どうしようって!」

麻子は一語一語ボクの顔色を見ながら区切って言った。

「あのさ、今日気づいたんだけど。色々毎日あれこれ気が散ってて。心配はしてたんだけどさ。ニャンコね、もうさ、お腹が大きいみたい、なんだよ」

ボクは混乱した。



考えなかったわけではなかったが、ニャンコにも麻子にも先手を打たれて負けが決定したような気がした。これは自己防御なのだが、まずは麻子を非難するのだ。

窮鼠猫をかむ、だ。


「お前がめそめそしてるから、猫でもどうかって気になったんだよ、ボクも。お前さえしっかりしてたら猫なんかに餌やらなかったんだ。猫は苦手なんだ、ボクは。それを我慢してだよ。お前のせいだ。どうしようはこっちの科白さ」

と、ボクは勢いに任せて、いろいろな汚い言葉を混ぜて罵った。


麻子も長年の訓練でこんな罵詈雑言には、対抗して馬耳東風を決め込んで、次第に落ち着きを取り戻しつつあった。

そして平然と意見を述べた。

「ついでだから避妊手術するしかないわよね」

「それは許されないっ」

「なんでなのっ」


眼をかっと見開いたたままの麻子を見据えながら、ボクは一層眼力を入れて主張した。

「猫殺しにはならない! お前は平気なのか。責任を放棄するのか」

「どんどん増えるのよ、近所迷惑になるわ」

「断じて許さない」

ボクは正しい。いつも正しい道を選択する。


麻子は諦めたのか、あるいはボクに責任をかぶせることに決めたのか、そのあとは何時間ボクが理路整然と説得し続けても、確たる反応をしなくなった。聞き流していた。


チビが家出してから、十日ほどたっただろうか。

何とかやっているんだろう、何といっても野良猫だ、と思っていた。そういう間にチビは帰ってきた。


その姿を見てボクらはショックを受けた。骨と皮だった。

体力がなくなったせいで細菌にも負けていた。遠くに行ったのだろうか、命からがら古巣に戻らざるを得なかったのだろう。

チビなりのサヴァイヴァルの手段だ。声も濁って、

「ごめんなさい、助けて」

と言った。


ニャンコはどう思ったのかわからない。不機嫌ではあったがチビとの関係は覚えているらしく、わりとすぐに受け入れた。それも少々ボクを驚かせた。



初夏となり、夏へ向かってわれらが地球は爆走していた。

チビを人間から遠ざけようとする母猫ニャンコの関心が薄れていくと、

ボクらはチビをグルグル言わせられるようになった。


彼の怖がりが失せたわけではない。ベランダから部屋へ一平方メートルだけチビが侵入してくる。

チビだって好奇心は普通に持ち合わせているので隙さえあれば入ってくるのだ。そしてボクが隙を見せているとは知らずにいる。


すばやくドアを閉めてしまう。大慌てで戻るがすでに遅し、ガラス戸にぴったり身をはりつけて、

「怖いです、出してよう」

と騒ぐ。


ボクは優しく優しくその柔らかな毛皮の背を撫でてやる。チビは怖がりながら、例のグルグルの共鳴音を発してしまう。

ボクの愛撫から逃げるにはあまりにも心地よいと見えて、進退窮まったまま、

「じゃちょっとですよ、ああグルグル」

と伸びてしまって固まっている。眺めていた麻子も猫の変態ぶりにあきれた。


そのうち麻子自身もこの変態遊びに参加出来るようになった。ただし、チビはもっと追い込まれてしまう。

入り口の脇にある椅子の下にもぐりこんで、そこの壁にはりついて、そこが進退窮まった場所となる。麻子は腕を出来る限り伸ばしてチビにやっと触る。


人間の顔は椅子でほとんど隠れていて、腕のみが猫を撫でている。チビは逃げたいのに逃げられなくなって、困ったことだと思いつつもかなりの共鳴音を鳴り響かせた。体はちぢこまったままだ。


ニャンコなら触ってほしいところへ手が届くように自ら動く。犬のように顔をなめに来るわけではない。

しかしほとんど触れるほどに口を口に近づけたりする。

決して触りにくるわけではない。匂いを嗅いでいるのだろう。

猫族に特有と読んだが、口の周囲にある特別な匂いの器官でもって。


丸い顔、丸い眼の弱虫トラ猫とボクらが、理想的な外猫付き合いをしているころ、隣家の庭はほったらかされて冬以来枯れたままであった。

チビの格好の昼寝の場所となっていた。


その家の夫君はホステスと深い仲になったという噂だった。

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