頂きますではなく頂戴いたします?
ご機嫌よう、読者の諸君。継月だ。
今回もご一読頂きありがとう。
さて、正直もう二ヶ月も前の事を蒸し返すようで申し訳ないが折角書いたのに投稿しないのは如何なものかと思いこれを投稿させて頂きたい。
これを読んでいるそこのあなたは
とあるマナー講師をご存知だろうか。
簡単に説明するならば、
ある日を境にテレビで取り上げられ、
今やバラエティでも引っ張り蛸のマナー講師の方だ。
私がテレビでそのお姿を拝見したのが記憶に
新しいのは、平日のお昼から放送されている
「ヒルナンデス」だったような気がする。
なんでもつい最近では、
「チコちゃんに叱られる」という、
タイトルにもあるチコちゃんなる
キャラクターが、私達の知らない身近な豆知識を紹介してくれる、という番組にも出演したそうだがそんなことはどうでもいい。
……いや、ある意味関係はあるのだが。
さて、今回の話題の中心となるマナー講師に
ついての紹介はここまでにしておこう。
今回取り上げるトピックは、タイトルにもある通り、その方の番組内での発言にもあった食事でのマナー
「外で人と食事をする時は『頂きます』ではなく『頂戴いたします』ではなくてはならない。
『頂きます』は自宅で言え」
についてである。
私がこの発言に対し
「そんなもの、別に『いただきます』で充分であろう」
と思ったが故に取り上げさせてもらった。
尚ここからはありとあらゆる場面を想定して
調べながら書いている部分があるので、
多少話が前後する場合がある事をご了承願いたい。
まずこの『頂戴』という二字熟語、
私も気になって調べてみたが。
この二字熟語を形成する、頂と戴
この2つの漢字にはそれぞれ、
『頂く』は飲食においての謙譲語であると
同時に、『貰う』の謙譲語でもあり、
そして戴という字は、
『戴冠』という言葉等に使われる通り、
『ありがたくうける』という意味を持つ。
どちらも何かを受けとるに辺り、相手からして自身を下として使う言葉だ。
そしてそれに続く『いたします』だが、
~する→~いたす(致す)→~いたします(致します)
の順で謙った言い方になる。
謙譲語の致すに丁寧語の『ます』がくっつき
より丁寧になった形だ。
これも相手からして自分を下に置いた言い回しだな。
では次に、作法云々の話になるが
先程の事も踏まえ、食において我々人類が
『貰う』事になる対象はなんだろうか?
その答えは考えるまでもなく、至極単純明快だろう。
……料理を作り、提供してくれる人に決まっているじゃないか……だと?
確かに、それも概ね間違いではない。
だがそれだけではない。
その料理が作られるに辺り、己が命を分け与えてくれた豚、鶏、牛、魚や植物等の生命全ても含まれる。
時として喰らい、そして喰らわれる食物連鎖
という行為は古来、それこそこの地球上に
生命というものが誕生した頃より行われてきた自然の摂理であり、生命が生きる為には、
明日を紡ぐには必要不可欠な行いだ。
それは我々人類も例には漏れず、
数多の命の犠牲の上に、今こうして
自らの生命を食い繋いでいる。
だからこそ、言葉を交わす知能を持つ我々人類は、食事をする時その全てに感謝の意を込め、
こう唱えるのだ。「いただきます」と。
それが、古来より人々が食という行為をするに
辺り、受け継がれてきた礼儀作法というものだ。
次に、言葉遣いや文面の視点での話になるが、
もし丁寧な言葉遣いをする為というのなら、
確かに「頂く」と「戴く」を掛け合わせることで出来る『頂戴する』を用いた方が、
より言葉使いや文面的には丁寧な物になるのだろう。
◯◯様から手作りのお菓子を頂いた、よりも
◯◯様から手作りのお菓子を頂戴した、の方が
より丁寧な物言い、聞こえであるのは間違いない。
学生時代、いくら学力が月並みか少し下くらいであった私といえどもそこは流石に理解できる。
だがそれはあくまで、『より丁寧になる』
というだけ。
『どちらかといえばその方が好ましい』と
『そうでなくてはならない』とでは、
その在り方は全くの別物なのだ。
先程述べた通り、料理を提供してくれる人や
その過程で尽力してくれた人々や犠牲となった生命に対してというなら、別にいただきますで充分である。
勿論例外はあり、
茶道の場では『頂戴いたします』が正しいのだが、あくまでそれは茶道の場でのマナー。
そもそも仮に会食だとしても、
この『頂戴いたします』という言い回し、
これは二重敬語といわれ、言葉遣いとしては
あまり宜しくなく、正しくは
『頂戴します』なのだそうだ。
これがもし人との外での食事全般であると言うなら、会食でない限りは私としてはそうである
絶対性も、必要性も全く感じられない。
それこそ寧ろ『いただきます』で充分である。
あの方は気の知れた友人や家族との外食でさえ
『頂戴いたします』と言えと言うのだろうか。
そんなもの、堅苦しくて折角の友人との食事も不味くなる一方だ。
ましてやそれが遠路遥々此方に来てくれた友人と町巡りをしている時、ふと何気なくオススメして立ちよった店だとしたら尚更だし、
楽しい旅行の時でさえもそれひとつで台無しになりかねない。そんな事はまっぴらごめんだ。
まったく甚だ馬鹿馬鹿しい……。
あの方の件の発言はまるで
『その場においてはその言い方が絶対完全完璧100%正しい』
と言わんばかりの強い物言いなのだから驚きだ。
しかも一度あちらの琴線に触れたが最後、
此方からは言葉を返す隙すら与えんとばかりに恫喝するかの如く畳み掛けるものだから、
思わず萎縮してしまい、心理的に
『彼方の言い分が正しいんだ』と、
そういった思考に陥ってしまうのも無理はない。
あんなもの、講師という立場を利用した一種のパワハラである。
そもそもの話、マナーというものの根底は、
その場にいる者達がなるべく不快にならぬようにするための配慮、思いやりの心にある。
食事の場で例を挙げるなら、
大皿に盛られた唐揚げにレモンを掛ける場合は同席の相手に一言断りを入れるか、
自分の取った分にだけ掛けるようにする、
等が最たる分かりやすい例だろう。
あれではマナー講師とは名ばかりで、
その実態は自分の考えたマイルール、自分の
正義を、
後ろ楯に押し付けているだけ、
恫喝するような言い方も自分の思い通りにならないからと癇癪を起こす童子のようなものだ
……と、そう思われても可笑しくはないだろう。
無論、これはあくまで私個人の意見である為、
押し付けるつもりは微塵もなく、
それは違うのでは、という意見があっても
私はそれを否定しない。
寧ろそれはそれでそういう考え方もあるのだと、アプローチの方法のひとつとして自らの
知識に吸収させて貰いたい。
途中、話は少し反れてしまったが、
一先ず私はこれまでの様々な観点から
「『頂戴いたします』と言わなくてはならない場面は茶道など一部を除き存在しない」
と結論付けさせてもらう。
もしそれでも言わなくてはならないというなら、
『頂戴いたしますと絶対に言わなくてはならない必要性、そして絶対性』というものを、
是非とも論理的に説いてほしいと、私は思う。
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