第27話「嘘じゃないですよ」
ファスナーを下げて、ジャージの前を開く。
「ほあっ……!?」
すぐに閉じた。
シャツが地肌にしっとりと張りついて、身体のラインが直に出ていた。
だけではない。豊かな隆起の頂に、べつの小さな隆起が見えたような気がした。
――ま、まさか、ノーブラ……?
いや、でも、そうか。床につくときは身体を締めつけるものは身につけないほうがいい。病気のときならなおさらだ。
――……。
俺は少し考えてから、羽菜さんの上半身を起こした。
「すいません」
と、謝ってから抱きあうような体勢をとる。俺の胸に顔を埋めるような形だ。こうすれば彼女の胸を直視することなく服を脱がすことができる。
ジャージを脱がし、羽菜さんの両腕を持ちあげて、俺の肩に回した。
シャツの裾に手をかける。彼女の脇腹に指先が触れた。ひんやりとしている。早く着替えさせないと。
シャツを上げる。湿ったシャツが肌にくっついてうまく脱がすことができない。それでもなんとか肩までまくり上げて、俺は顔を逸らしながらシャツの腕を抜いた。
視線をもどす。背骨が浮いた白い背中が見える。
「ふ~……」
小さく深呼吸をしてから、俺はタオルで彼女の背中を拭いた。
――小さいな……。
こんな小さな身体で、厳しい創作の世界を渡り歩いてきたのか。こんな小さな身体で、ひとり不安に耐えてきたのか。
『大人はね、未来がせまくなっただけの子供だよ』
ふと白川さんの言葉が頭をよぎった。いまならその意味を痛いほど理解できる。
腕と脇を拭き、胸に手が当たらないよう気をつけながらお腹の拭って、シャツを着させた。
身体を横たえ、肩まで布団をかける。
俺は「ほう……」と息をついた。俺も知らず知らずのうちにかなり体力を消耗していた。力の抜けた人間の身体を動かすのは大変な重労働だった。くわえて相手が女性ということもあり、精神面での疲労も濃い。
水を飲みに行こうと立ちあがりかけたとき、布団の端から手が出てきて制服のズボンをつまんだ。
なにかを訴えるような視線を俺に向ける羽菜さん。
俺はキッチンへ行くのをやめて座りなおした。そして彼女の手を握る。
「どこにも行きません。だから安心して眠ってください」
「ん……」
羽菜さんはほっとしたように表情をゆるめ、目をつむった。
やがてすうすうと寝息をたてはじめる。
俺は彼女の安らかな寝顔を、飽きることなく見つめつづけた。
「……?」
俺は顔をあげた。いつの間にか眠っていたらしい。
部屋の照明が点いている。壁掛け時計が二十時過ぎを差している。
視線を感じて羽菜さんのほうを見ると、彼女と目が合った。
「あ、起きてたんですか」
「駿太くんの寝顔を見てた」
と微笑む。一度寝てすっきりしたのか表情に生気がある。
――よかった……。
ほっと安堵の息をつく。
「ありがとうね」
「いえ。でも、つらかったらちゃんと言ってくださいね」
「JLタワーのときの仕返し?」
ふふ、と羽菜さんは笑った。
そのあと、羽菜さんはじっと天井を見つめ、なにか考えている様子だった。
やがて、口を開く。
「わたし、嘘ついてたの」
「嘘?」
一度、ごくりとつばを飲みこみ、羽菜さんは言った。
「わたし、いま、なにも書いてない」
「え?」
「休業中なの」
ぎゅっと強く手を握られる。無意識に力がこもったらしい。いまからしゃべることは、それだけ覚悟がいる内容ということだろう。
「ウニクロでデートをしたあと完全に書けなくなってしまって、つぎの仕事の依頼を断ってしまったの……。だから、嘘」
恋愛シミュレーション再開の理由を話したときの彼女は妙に早口で笑顔もぎこちなかった。それの理由がいまわかった。
俺は尋ねた。
「また仕事を再開するために、インスピレーションが必要だったんですね」
「そう、かも」
言葉を濁す。羽菜さん自身もよくわかっていないのかもしれない。
「それで、よく行くって言ってたフードコートで君を探して……。でも、最初は声をかけずに帰ろうと思ってた。迷惑になるし……」
「そんなことは」
「でも、ゲームをバカにされて本気で怒ってくれた君を見て……、気がついたら、声をかけててた。嬉しかったんだ……」
幸福な思い出を思いかえすみたいな表情で、宙に視線を漂わす。
「でも、なんでそんな急にスランプに?」
「才能がないのかな」
「そんなわけないじゃないですか!」
俺の言葉に返事はせず、「ふふ」と自嘲気味に笑って話をつづけた。
「リプレイスはね、はじめてキャラを任せてもらえた作品。大学を卒業したばかりだったし、血気盛んっていうのかな、わたしが書きたかったことをぎゅうぎゅうに詰めこんで『えいや!』って感じで書いたの。でも、それが壁になった」
「壁?」
「超えられない壁。荒削りだけど、評判はよくってね。だからその期待を裏切らないように、クオリティを下げないようにって気にするようになってから、なにを書いていいのかがわからなくなった。だからとにかくインプットしまくって、入れたものをそのまま吐きだすだけ。自分で書いてる感覚はなかった」
俺は部屋を見回した。崩れた本の山。羽菜さんがもがいた残骸。
「でも、駿太くんと出会って、久しぶりに、こう……、沸き立つような感覚があって」
それがトヨハシカメラでの出会い。
「最初のころは君と話をしているだけで、どんどんいろんなイメージが湧いたんだけど……、そのうちそれも枯れていってしまって」
白雪の恋人パークのころの話だろう。仕事の話をふったときの彼女は妙につらそうだった。
「俺が役に立ってれば……」
「違うよ! 君は悪くない。悪いのはわたし」
「羽菜さんは悪くないですよ。俺がちゃんとしてれば――」
「だから違うの。――君が、……君の存在が、大きくなりすぎた」
「俺の存在……?」
羽菜さんは恥ずかしそうに目を伏せた。
「だから、君がフードコートで友だちと遊んでるのを見かけたとき――」
――やっぱり。
飛鳥馬と梶浦さんとで遊んでいたとき見かけたのは、やはり羽菜さんだったのだ。
「そのとき、駿太くんを遠くに感じてしまって……。わたしみたいな年上の女はふさわしくないのかなって。それで逃げたの」
俺も、自分が子供すぎて、羽菜さんみたいな大人の女性とは釣りあわないと感じていた。まさか俺が羽菜さんに対して感じていた劣等感を、羽菜さん自身も持っていたなんて。
「見苦しかったよね……。ごめん」
制服デートや、俺の家でのことだとわかる。
「必死だったの」
懺悔をするように目をつむる。
「でも、そんなの俺は全然、気にしてないし。嘘のうちにも入らないですよ」
羽菜さんはゆるゆると首を振った。
「もうひとつ、嘘をついた。こっちのほうが、ひどい嘘」
声色に苦しさがにじむ。
「君が大好きだって言ってくれたセリフ……」
「リプレイスの、弥子のセリフですか?」
すべてを失った主人公に弥子が言ったセリフ――『なにもないってことは、これからなんにでもなれるってことだね』。
「それね、わたし、書いてない」
「……え?」
痛いくらい、俺の手が握られる。
「まだまだ下手くそなころだったから、うまくまとめられなくて……。あそこの流れは、全部白川さんのアドバイスどおり。だからわたしが書いたわけじゃないの……」
つっと、羽菜さんの目から涙がこぼれ落ちた。
「全部嘘なの」
「嘘じゃないですよ」
羽菜さんは驚いたような目で俺を見た。
「全然、嘘じゃないですよ。白川さんからアイデアをもらったのはそうかもしれないけど、それを伝えたいと思って弥子に語らせた羽菜さんの気持ちは本当でしょう? それを受けとって感じた俺の気持ちは本当だし、俺をがっかりさせたくないっていう羽菜さんの気持ちも本当でしょう」
俺はじっと彼女の目を見つめて言った。
「たとえきっかけが
羽菜さんは目を大きく見開いた。臭いことを言ってしまい、俺は急に恥ずかしくなって顔を逸らす。
羽菜さんはきょろきょろした。
「スマホ、スマホ……」
「え? あ……」
サイドチェストにあったスマホを手渡す。
羽菜さんはスマホを食い入るように見つめ、
「フィクション……メタ構造……構成……」
と、ぶつぶつ言いながら鬼気迫る表情で一心不乱になにかを入力しはじめた。
俺は笑った。嬉しくて笑った。
――『スイッチ』だ。
久々に羽菜さんのスイッチが入った。
真剣な横顔。おめかしした羽菜さんも、俺をからかう羽菜さんも好きだけど、やっぱり創作にのめり込む彼女が俺は一番好きだ。
いままでの鬱憤を晴らすかのように、たっぷりと二十分は入力しつづけた。
「ふ~……」
と、長らく水に潜っていたみたいに息をつく。いや、彼女はまさに潜っていたのだ。水ではなく沼だが。
はっと俺の顔を見る。
「あっ、わたし」
「入ってましたね、スイッチ」
「ご、ごめんごめんごめん!」
手を合わせて謝罪する。
「いえ、素敵でしたよ」
「……え?」
「夢中になってる羽菜さんは、やっぱりかっこいいです」
羽菜さんはかあっと顔を赤くし、がばっと布団のなかに潜ってしまった。
「ね、熱がぶり返してきた……」
子供みたいに恥ずかしがる彼女を見て、俺はひとつ思い出した。
「俺も羽菜さんに言い忘れていたことが」
「……なに?」
「ゲーセンでデートしたとき、もしも俺と羽菜さんが同い年で、共学の学校に通っていて、そこで出会ってたらどうなってただろうって話をしたじゃないですか」
「うん……」
「どうにもなってなかったと思いますよ」
羽菜さんは布団から顔の上半分だけを出した。
「女子校に行って、ギャルゲにはまって、女子大に行って、シナリオライターになった羽菜さんと、田舎から出てきたにわかギャルゲオタクで、年下の俺だから――いまのこの形だから、俺たちはこんな関係になれたんだと思います」
羽菜さんはまた布団のなかに引っこんでしまった。
「うん……」
小さな声。
「そうだね」
言葉が尽きた。もう話すことはない。でもそれは気まずい沈黙ではなくて、穏やかな静寂だった。
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